タペストリー 仮に私が感情表現を持ち合わせていなかったとすれば、当然ながら表現以前に感情さえあやふやであると考えてしまうところだが、それは確かな解釈といえるのであろうか。表現にとって感情は常に不可欠でなければならないと仮定してみると、喜怒哀楽がわき起こる刹那の身振りを経て、脱皮をより肉体的なものとしながら、その実ますます肉体とは本質的に反対の方向に突き進んではいるように感じられる。 感情は硬直した体躯に揺さぶりをかけ、ときに激しく、ときにたおやかで緩慢な動作を選択し、躍動へと羽ばたきもしよう。又その指先は既成の道具を巧みに操り、あるいは操られているという錯誤に導かれ、扇情的な音色を奏でることも可能であり、悲愁に満ちた調べを漂わせるすべを心得ている。さらには絵筆や彫刻刀が見せるあまりに細やかな時間への配分と埋没を忘れるはずもなく、鋏が断ち切る用布から毛髪にいたる手際のよさは日常に即しており、取り繕うためというより様式にそった機能を量産しつづける一本の針のひかりが無数の幻影に守護されているのは言うまでもない。 表現はすでに感情から見放されている。そんな冷笑的な意想をあえて述べてみるのは歴史性やら熟成やら、進化といった能動的な良心をただちに影絵と化してしまった「ラスコーの壁画」に想い馳せてみれば十分だからで、つまり表現のひとり歩きに対してあながち、警戒を秘めたまなざしは必要ないということになる。 だが、ここで結論を言いきるつもりはないし、その理由を説明する意思も持ち合わせていない。誤解なきよう、私はなにもひとり歩きを賛美しているわけでも擁護しているのでもなく、ただ精神の発展がなされたのは現在過去未来というシステムに委ねられた結果だけに限定されるべきではなくて、いささか神秘的に聞こえるかも知れないが、自動書記の手法が時間を傷つけ、逆巻かせ、夢の彩色に促されて、肉体に宿った血や汗や涙やもろもろの体液が凝固され、感情の発露を見いだしにくくなっているという危惧にうごめいているからで、それは反面から得るところ混沌と共存する歓びでもある。ここで使われる自動書記とは濃密なめまいと呼ばれるのがふさわしい。 網次郎にとって女体デッサンに関わっている学生らは羨望であると同時に、幾度も首をかしげなくてはいけない連中に思えて仕方なかった。ふとした縁で知り合いになった男から、ちょうど積年の疑問を今にも懇切丁寧に解説してくれそうになった矢先、網次郎はどうしたことか、気後れでもあるまい、だが、明らかにその経験を口にした男に性急な問いかけで迫れなかった。 「最初はそうだ、どきどきしたもんです。なんせあの頃まだあっちの経験もなかった」 このひとことが不思議と気分を萎えさえるよう、また待望の場面に目をつむってしまう怯懦を呼び覚ました。あれこれ心理状態を自分ながら顧みたところ、胸に仕舞われていた想念の不純さに年甲斐もなく照れている事実に行き当たった。引き出しから消しゴムを探し出すより容易に得た心持ちに半ばうかれてしまったのも、羞恥の織りなす仕業にあることに感じ入ったがゆえであり、さらに脳裡の片隅はなぜか空高く、よく晴れた日の飛行機雲みたいに遠く、のどかな情景を張りつけているので、羨望は直通電話ではなく、時代遅れの呼び出し電話を想起させる間合いを獲得し、好都合に糊塗されてしまった。 男の声が近づくほどに、こそばいゆい感覚がえらくもったいぶった価値を蔵しているふうにも思え、のどかさに敬礼したくなったりもした。しかし、幾日かした折には焦燥につき動かされている実際を、鼓動と発汗を知るに及んで、網次郎は時間を弄んでいたに過ぎない強欲を認めないわけにはいかず、先送りした余裕らきしものは気後れでも怯懦でもなく、男から耳にした途端まぶたの裏に焼きつけるだろう、あまりに固定された充足を勝ち取ってしまうのでつまらなさを感じてしまっているのだった。 列車を一本見送っただけ、そう悔しまぎれに言い聞かせてみるのもまんざら嘘ではなくて、旅ゆきの気分が延長されたと想像してみれば少しは気が楽になる。意識的な操作ではないのだと、思いこむわずかな努力で平常心に帰れたのだ。 で、当時美大生であった男が語るに、 「あなたの予想は見事にはずれますな。いや、自分だけではありませんよ、まわりの奴らだって誰ひとり官能に征服されてはいませんでした。股間を押さえてる図など思い浮かべてるでしょうが、それは間違いです、はい」と、これから観葉植物の名前でも並べたてそうな取り澄ました口調で通された。 「結局ですね、若いせいもあったんでしょうけど、けっこう人目が邪魔するもんです。教授の目線だって冷ややかでして、無言の威圧っていうのですかね、その雰囲気が教室全体にゆきわたってるんですよ。冷え過ぎの空調みたいに。モデルの女性はやはりそれなりに奇麗なからだつきですけど、決して卑猥な感じはまといっていない、ポーズにしたって椅子に沈鬱な表情で腰かけてみたり、どこかしら技巧的なんです。あの人らだって仕事でしょうし、場慣れもあります、乙女の恥じらいがにじみ出しているモデルに出会った試しはないですね。第一、多数のまえで真っ裸になるわけですから、同じ職業でもストリップとは大違いで、あちらは情欲をあおるのが目的でしょう、そりゃ素朴なものですよ。中には不埒な念を隠してる奴もいたそうですけどね、当人は公言なんかしません成績に響くとか、評判が悪くなるとか、あの頃は不真面目は罪ですし、あくまでうわさに過ぎません」 網次郎はほぼ了解したつもりではあったが、自分がその場に臨んでない以上、反論する意欲なんかあるはずもないのだったけれど、間延びした羨望のゆくえを最後まで確認したい変な律儀さが顔をのぞかせ、と同時にその相貌へ薄皮一枚でへばりついている頼みの綱、よこしまな願望をついでに洗い落としてもらいたくなった。 「裸体におおむね興奮はしない、そういうことですか」 「そうです」 「わかりました。裸にはですね。じゃあ、顔のつくりはどうでしょう。さっき沈鬱と言われましたけど、そんな暗い顔つきばかりなんですか。まあそうだとしても、あなたの好みだったらどうします」 男はおもむろに腕組みをしながら、 「ほう、なかなか突っ込みますねえ。ではこう考えてみて下さい。普通あれのとき以外は女体を拝む機会なんてありません。街角だって店屋のなかだって電車に乗っていても、人の集う場所に裸体は登場しないものです。そうあればいいと願っているひとはいるかも知れませんよ、人前において女性はきちんと服を着て過ごしているものです。けれど顔はある意味で裸の一部ですな。まあ化粧でごまかしたり、華やいだりしてますがね。肉体が隠されているから顔かたちが美しくみえたりするのではないでしょうか。唯一の裸だからです。ヌードモデルの場合は、全身がむきだしなんですよ。顔だけに集中するっていうのは難しい、いえ、これは全体像をデッサン、つまり描ききらなくていけない作業なんです。なかには半身とかもありましたが、せっかく素っ裸でいるわけでしょう、目に映る限りをなぞるだけなんです、淡々と」 そう応えると、少々蔑みをはらんだ眉根が網次郎の思惑に挑んだふうにみえたが、すぐに口角をあげてこう話しをつなげた。 「男子ばかりじゃない、教室には女子学生も数人はいまして、そのひとりとちょっとばかし懇意になりましたんでね、ある日、尋ねてみたことがありました。女性から眺めて同性のヌードってどう映るのかって。まともな返答だったから今まで忘れてたくらいですよ。いやあ、どうしてるかな、急に懐かしくなってきた」 「恐縮です」 「いやいや、いいんです。あとでゆっくり物思いに耽りますから。で、彼女が言うには、ああしたモデルのひとって意識屋さんね、男はもちろん女のわたしにだって性的なものを薫らすどころか、彫像になりきっているみたいな冷静さを崩したりしないわ。裸である恥じらいより、どう描かれるか、どう見つめられ、絵のなかにいかに収まるのか、素描が色づけをまだ欲しないように、ほんのわずかばかり肉感に目配りされた形骸だけを見せつけているんだわ。肉体をさらしているつもりなんかじゃなく、曖昧な意識を切り売りしているのよ。だからモデルは意識屋なの、そう思うわね、といさぎよい口ぶりでした」 「そうですか」 「女性はわたしらとは別の角度からものごとを判断しているんでしょう、ヌードに限らず。こんなもんでよかったでしょうか」 「ええ、ありがとうございました。以前にお話しましたように若い頃からどうも気がかりだったんです。でも分かっていたのかも知れません。興味は学生たちの色欲が立ち上る幻影に終始していたと思います。彼らの心境はあらかじめ官能に支配されていて、理性らしきものと傍目への気配りが拮抗している。そうあってもらいたい、しかし、おそらく現実はもっと素っ気ない空気を生み出しているのでしょう。あなたの吐く息とわたしの吸う息が時間の隙間に紛れこんで決して立ち会うはずのなかった場所にたどり着きました。呼吸は感情をさまたげているのでしょうか。薄々感じていながら念押しみたいに現場の様子をうかがいたかったのは、失望を先取りしている自分に居場所を提供するためだったようです。あふれる光景はつかみ取りつらいですけど、すでに終決した画面はどうにでも切り貼りできます。やけっぱちだろうが、奇抜な発想だろうが、そうですね、下手な料理と似てますよ、限られた食材にこれでもかって味つけを施して、創作料理なんて納得している。狭い食卓とこじんまりした冷蔵庫が割と性に合っているのでしょう。手狭が居心地のよさを醸していることってあるんです。発露より閉塞、例えば金魚鉢のなかを窮屈そうに泳いでいる景色ってわたしが考えこむより、当の金魚はさほど嘆いていないかも知れません」 「随分と内向的ですね。しかしヌードデッサンはそうかも知れない。彩色が加われば変幻すると期待してますけど」 「さっきの懐かしい懇意な方ですか」 「これはまいったな、それは別問題でしょう。あなただってそうでしょうが」 「失礼しました」 網次郎はそれより先へ話題を深めることなく、とりとめのない会話に流れゆくこころ模様を眠たげに紡いでいた。 2013.7.1 |
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