ちび六の恋 きょうもちび六はげんきにあちこち動きまわっています。あちこちといってもこのいえの中だけですから、けっこうおなじところをいったりきたりの、かくれてみたり飛びでてみたり、ふわりとちゅうになげだされたように感じたりしているだけなのですが、あさとよるのつなぎめをいしきすることなく、よふかしのおねえさんのへやからもれてくる明かりにはげまされるよう、すみずみまでたんけんしているのでした。 ただ以前とかわったのはてれびにうつしだされるこうけいにみいってしまうことで、べんじょさまやくも男爵からのちゅうこくを思いしりながらも、ついついみしらぬせかいをのぞきこんでいるのですね。こまったものだとひそひそばなしが聞こえてきそうなくらいに、しかしじっさいにはだれもちび六のことなどゆうりょしているわけでなかったのですけども。 そんな感じがしてくるのはみょうだったのでしょうが、ちいさなこころとからだをしはいしているもののしょうたいがつかめない限り、ちび六はみょうなかんかくと横ならびになってかべをのぼっては、ゆかやつくえのうえをはうしかなかったのです。くらがりばかり好むしゅうせいをせおってはいませんでしたから。 よくよくおもいおこせば、しんせきの子とよばれているぼうやがたびたびこのいえにやってきて、いつもの静かなふんいきがみだされるとかんじたのがことのはじまりでした。 ちび六はすこしばかりせいちょうしたせいだと言われたことがありまして、そうですね、くも男爵から「ほらみてごらん、ここの家族とは種類がちがうだろう、子供っていうのはああしたものなのさ」と、いかにもにんげんをけんぶんしつくしたふうなくちぶりでさとされたので、たしかに手あたりしだい、なんのもくてきもなく反対にけいかいもしないようすは、ちび六のかんさつでもじゅうぶんりかいできうるものでしたし、りかいとともにじぶんの行動もがらすどにへばりついているときのはっとするいしきをめばえさせて、なるほど似たようなふるまいですけど、ぼうやよりはすこしばかりしんちょうなところもあるとかんがえるのでした。 ぼうやはおもちゃといっしょにちゃわんやすぷーんも投げつけたりするので、よくしかられています。ちび六からながめてさえあぶなかっしく、むちゃにみえるのですから、そんなばめんを演じていないじぶんがいくらかましに思えたのでしょう。ほんとうはせいちょうなんて言葉をくも男爵はくちにしていませんでした。ただそうにんしきしたほうがときおりおとずれるこの暴君をいさめているようで、またむじゃきなうちにどこかまとまりのある方向がのぞけそうなきがし、かってにほめられたことにしてしまったのです。 そしておしとどめようにもしかたのない情にむねをこがしたのが、最大のげんいんであるのをちび六はよくこころえておりました。 きれいなおねえさんに恋してしまったのですね。つかみどころのないものなのですね。くもはにんげんに恋してはいけないのです。そうしますと、ぼうやのそんざいはちび六にとってとてもきちょうな現象になりだしました。なぜかしらあんしんできるのです。ぼうやをみていれば、、、 それよりさきはあまりかんがえないようにしました。かんがえてなやんでもどうにもなるものでなし、やるせなさはぼうやが引きうけてくれています。 ここまではまるでおとぎばなしのせかいでした。まほうのくにですね。じかんがとまっています。けれども非情なじかんをしることになってしまいました。 そわそわどきどき、あちらこちら、いまなんどき、ときめきをぼうやのやわらかいかみの毛にかぶしてみれば、そんなおちつきのなさは、てんかふんの甘いかおいといっしょにふわり空にうかびあがり、そっとしずみこみます。ちび六はおとなが覚えるせつなさをまねていたのでしょう。 そう気づいたのはあんなにやんちゃなぼうやでしたが、てれびのまえにすわると飼育がかりのせわをうけてるみたいにおとなしくなってしまうので、どうしたことかといぶかっておりますと、ふだんからここのいえはてれびをつけっぱなしにはしなのですけど、えらくしんみょうな顔つきででんぱとやらとにらめっこしはじめるのでおどろいてしまいました。こどもらしくあにめやひょっこりひょうたんじまで喜んでいるのなく、かといって、みとこうもんやらやけいじころんぼにかっこよさを感じているそぶりもありません。かいきだいさくせんやうるとらせぶんでもないようです。ようかいやかいじゅうではなさそうなのです。ちび六はちゅうい深くみつめていましたからまちがいありません。 「あらら、この子ったら」 「わかってなんかいないわよ」 「教育的にはどうなんだろうね」 「うちでもこうなよ」 おかあさん、おねえさん、おとうさん、それからぼうやをいつもつれてくるおばさんらははしゃぎたそうなのに、むかんしんなたいどで口々にそういいあって、あとはほったらかしです。なんでもほかのちゃんねるにかえたら、ないふとふぉーくをいっぺんにぶつけてきたそうで、どうせなら、おとなしくしてくれるのなら、べつにかまわないのでは、そんなことをもらしておりました。 それはれんあいどらまのいちばめんで、しかもいちばんいいしゅんかんなのでした。だんじょがだきあってきすをしながらよこになっています。ささやきはでんぱにのったわりにはよく聞こえ、ためいきはがさつなおとなを嘆いているようにも、ただたんにぼうやのねいきが未来におくられたようにもつたわってきます。 みいっているのはだだっこでしたけど、それをかんしょうしているちび六はからだのふるえがとまらず、生まれてはじめてかんどうしたのでした。てれびのばめんにではありません、といえばうそになります、しかしながら、それだけではなかったのはじじつで、つまり、だんじょのいとなみにくいいるよう目をこらしているぼうやにへいふくしてしまったのですね。ぼうやの目をとおしてちび六はせかいのふしぎをさらにかきわけたということになります。このひからちび六にとってぼうやはくも男爵よりとえらく、べんじょさまよりとおとい位へとおさまったのです。 またぼうやのいないとき、ひそかにがくしゅうをしました。とても偉大ながくしゅうでした。あのだんじょのどらまをいくどか目にしたせいもあって、いえのきれいなおねえさんをわすれかけたり、あいてのおとこにあこがれがつのりだしたやさき、そのふたりがまったくちがうばんぐみにしゅつえんしていたので、おおいにためらいましたけれど、なんでもばらえてぃとかいうおもしろ半分のほとんどえんぎのいらない、とりつかれたようなひょうじょうをもちいない、こころのなかを乱さない、かろやかなふんいきでしたから、こちらもあおられたちりのようにいっぺんに舞いあがり、ついでにがてんもいったのでした。 はいゆうじょゆう、に、な、れ、ば、いい。だきあってきすするだけでなく、ときにはこわいけしょうでおばけにだってなれるし、かいじゅうのきぐるみだってまとえる。せいぎのみかたにもあくのしゅりょうにもふんすることができる。 おわかりでしょう。こどもがせいちょうしていくすがたに意志をなげかけたのです。あわてものにふさわしいおこないですね。こうなるとちび六はじぶんのすがたかたちがすっかり人間になっているとおもいこんでしまいました。がらすどのくもりはひざしの意向だけにかぎりません。まえまえからしぜんのいじのわるさだと皮肉まじりでしかみあげてこなかったおおぞらにうかぶもの、ひるよるのさかいにまたをかけ明暗をつかさどるえたいのしれないふわふわしたとおいせかい、おなじ発音でよばれる、そらのくもをひとかけもちかえりたい、そうつよくねんじたのです。 しかしちび六のやくしゃせいかつはそうながくつづきませんでした。くもを手にいれることがふかのうであるより、よぎりへまぎれこんでいるじぶんのこころがなににもまして人間になりきっているとしってしまったからでした。 どの春だったのでしょう、いつの夏だったのでしょうか、ぼうやはいつしかききわけというえんぎを身につけ、てれびのちゃんねるをしきりにかえてはおとなじみた笑みをみせていました。それは陽光がよくにあうしろい歯とやくそくをかわしたふうにおもえ、ちび六はそっとてんじょうのかたすみへとすがたをよせてしまったのです。 いいえ、ひくつになったからではありませんよ。ここはどこよりながめがよいからです。きれいなおねえさんはあいかわらずよなかに起きだしてはめんるいをすすっています。 2013.5.28 |
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