鏡面


「もう気がすんだでしょ」
開き直りに見えるが内心許しを乞うているふうな女の目つきに憐れみは生ずるどころか、憎しみを募らせるばかりであった。民在公吉は自分でも信じられない眼光が不敵な笑みをつくりだしているような気がし、
「冗談じゃない、夢のからくりなんて頼んだ覚えもなければ、操作されてたなんて戯言に耳をかすほどもうろくしてないよ。とにかく子供のせいにして、なんだかんだ逃げ口上ばかりで、散々な思いをしたのはもっともだと半ば了解していたけど、それすら欺瞞であったとは、、、結局おまえが望んだのは高見の見物だったにすぎないんだろう」
そう叩きつけるように言い放った。だが声色はどこか冷めた汁粉みたいな後味の悪い甘さを含んでいて、一瞬おんなの曇った表情がぱっと華やいだのだから、公吉のほうでも戸惑いを隠せず、それきり押し黙ってしまった。
沈黙を防壁に活かした女の態度は時宜にかなっていた。公吉の叱責をかわしただけでなく、言い分自体がまるで反射板ではね返えされたようで、みじめで見苦しい結末を認めてしまい、すべり落ちてしまっている。
女ははっきりそう口にしていたではないか、おれはつまり判決文を読み上げてみただけなんだ。公吉の憤懣はすでに吐き出すところを見失い、鏡面に向き合っている自虐的な冷たいひかりを浴びるばかりであった。
が、その月光を想わせるひかりは公吉に冷酷な意識を芽生えさせ、沈黙が長引くほどに血の気が引いていくようで、戦慄とは異なる、以外な感覚に支配され、冷静な面に立ち返ったかに見えた。

鏡の向こうにきらめく、決してまぶしくはないけれど、一点を凝固させるみたいな、鮮血のあの鋭くも甘美なひかりは畏友のごとくそばに居る。冷ややかさは意識という器から気体になって、そう地べたを怪しげに這うように白い狼煙を鎮め続けた。たかぶる感情なんて必要ない、あたかもフィルムノワールの主人公に成りすましたふうな面持ちでネオンライトと夜霧のなかに佇んでいたのだ。
急転劇とも見受けられる気分の変換を公吉は愛した。紅に染まる夕暮れどきをかけがえのないものとして慈しみ、過剰な陶酔を捧げつつ、見返りに不実をいただくという細やかそうではあるが、適度な心算を反映させた。
公吉は若さを願った。幼少期から育まれているに違いなかろうが、かなうことなら思春期の波にのみこまれては、反対に専制的なほど周囲に風を吹きつけたあの頃に立ち戻りたかった。が、おそらく年少の時分を義理立て程度にでものぞいておかなければ、すべては汚れでしかなくどんな修辞も成り立たない。
女体をめぐる思惑が若返りに不可分であると信じ込んでいたのは、おおむね誤っていないけれど、颯爽とした青年が薫らせる、華奢でありながらも背筋の伸びた華やかな笑みこそが、邪心を遠ざけあこがれへと誘うのだった。その憧憬こそが異性の魅惑、つまり対象としての欲情を解放してくれる。
公吉は女の微笑の裏に、日差しと濃霧を感じとり、曖昧な意思を供することで緊張がほどけてゆくのが分かった。
押し黙るのも媚態に通じているつもりなんだろうか、そんな意地の悪い勘ぐりさえ軽やかに押し返されるのを願いこう切り出す。
「おれはニャンコ先生を尊敬していたんだよ」
女は一瞬たじろいだ表情を見せたが、すぐに威厳をただし、
「別に悪いなんて言った覚えないわよ」と、半分くらい真摯な口調で答える。公吉は筋書きをおさらいする手間が省けたとにやり顔で思いこう言った。
「ならいいんだ、お互い様だからな、生真面目であるばかりが能じゃない、直線的でぶれがないのはいいことだけど、潔さの彼方は遥かでなく、刹那的なエンドレスを背負いこんでいると思う。つまりそれはだね、長く苦しい時間を指し示すよりも、案外ポキリと折れてしまいやすいという実際に向きあってるってことなんだ。ところが惹かれるんだよな、直情を体現しているすがたに。だからおれには物差しが必要なのさ。目盛りを計るばかりじゃない、時計のようにもうこんな時間か、あと少しだなとか、大体のめどがついた、思ったより長かったんだなとかって、振り返りつつ寝転がる頃合いをうかがう道具が」
すると女は、「それでわたしもおつきあいってわけなのね」と相変わらず見下すふうな、しかし幾ばくかの憐憫を相互に振り分けているかの目つきをし、回想の奥地に新たな追憶の茂みをのぞき見るまなざしへ移ろいでいった。
公吉は舞い上がったほこりのなかに粒子を発見するような心持ちを得て、女を引き寄せ抱きしめた。
明らかにこわばらせた女のからだを更に強く巻きつける勢いで両腕がまわり、雌猫のしなやかさは優雅をまとった肉欲なんだと言いかけたが、ふと無粋すぎると代わりにこんな言葉がついて出た。
「雄猫のすばしっこさは素晴らしい」
「ニャンコ先生」
「いや、すべての雄猫だよ。奴らは雌猫の色気も兼ね備えているじゃないか、特に若いうちは」
女は再び黙った。だが、さきほどの防壁とは異なってまるで落とし穴に足をとられたみたいな迷いであり、夜の鳥の羽ばたきにも似た暗い夢想だった。
柔肌のうえから骨組みが感じられそうな気がした公吉は、力加減を緩めてからだを放し、もっとも的確だと思われる間合いまで引き下がって女の目を見つめた。親和と憎悪がこの小さく歪んだ空間に溶け合う奇跡を信じて。
そして独語に埋没していった。女を落とし穴から引きだすのではなく、自らの沈黙を守護せんがために、ひかりを欲するがゆえに。語りかけはその後でもよいと考えられたからである。公吉の物差しは運まかせというより、鏡に映る世界を愛でる敬虔な気持ちで満たされていた。

股間に目が釘付けになるんじゃない、目が股間を描写するのだ。去勢の意味も知らなかったけど、おれはウルトラマンのあのすべすべした股に切ないものを感じたし、テレビで見たサーカス団の女人が身につけているぴったりした金銀のパンツに胸の高鳴りを覚えた。鍛えられたであろう、肉付きのいい太ももが先んじていたのではなく、なめらかな箇所がはじめにあったのだ。しかもそこは長年隠し通され、ものごころついた頃には純粋省察が形無しになってしまった。まさか、魅惑の球形に連なる秘所に亀裂が生じており、海の生き物のような形状であろうとは夢にも思わなかった。自分の軟体と軟骨を合わせ持つ現実は放擲されていながらも。
この無知が少年の好奇を鋭くさせ、触れ合いの場にと夢の障子紙を破り、近所の子供同士という好都合のなか、眼前より切迫した肉感へと至らせた。おれの顔のうえに座ってくれ、もっと体重をかけ、息が止まるくらいに、出来るだけ長く、物差しは学校に忘れて来た、異性なんか知らない、おれはそのつるりとした箇所がたまらなく好きなんだ、意味はない、腹も減ってない、玩具もいらない、頼むから強く尻で鼻先をつぶしてくれ、少々昆布臭かったり、土臭かったけど、それさえ癖になってゆく、ただそうしてくれれば人生は永遠なんだ、おれは子供のまま大人なんかにならず、真っ昼間、雨戸を締め切り酔いしれたいがためにこうして祈り続けていたかった。
つまらない大人になってしまったもんだ。せめてもの救いはあの頃、見るからに美しい中高生の男子とすれ違った際、鼻孔をつく甘酸っぱい匂いにあこがれたことだったが、ある日それがわきがであると知らされ、幻滅しなくてもいいのに、まるで罠にかかった小動物のように萎縮し、身震いし、絶望したという極めて良識を付与されたことであった。
そうしてこの良識が女体の神秘への船出となったのだから、増々気がすまなくなってしまった。


2013.4.30