書き割り


「そういやあ、最近コタツに当たったことがないね、いや、去年の今頃だったかな、知り合いの家でほんの申しわけ程度に足の先を入れたっていうのはあったけど、ほら、ぬくぬくと胸元までもぐりこむようなのは何十年もまえの記憶だよ。第一背丈が違うだろう、子供の時分はそれこそ頭まですっぽりで、赤外線らしき温熱を全身に浴びてたもんだ。目が悪くなるから首を出しなさいなんて親に叱られたけど、懲りずに赤く閉ざされた身を慈しんでいた。
なに、大した趣向なんかじゃない、どちらかと言えば馬鹿のひとつおぼえみたいに、とどまることを知らない満ちあふれた時間にどっぷり浸っているような、無邪気なのやら、想いを馳せないがゆえ透明感にのまれていたんだろう、外の景色が移ろうのと同じで家の中だってこたつの中だって、決して昨日も今日も一緒であるはずもなく、それは寒さをしのいでいるばかりじゃないからであり、退屈を覚える間があたえられてない縮こまった空気のよどみがただ新鮮だったのさ。
で、こないだ夏日の夢を見たんだがね、家中の戸が開けっぱなしにされていたから、今じゃなく、やはり小さな頃だ。自分の家なのかどうかも分からなかった。似ているとろこはそうだろうし、まったく記憶に跳ね返ってこない部屋や家具に取り囲まれていたんで、どっちでもなかろう、そう思っていたんだよ。ああ、これは目覚めの意識だけど。が、そんなことは問題ではないね、大事なのは真夏らしく、風鈴なんぞ、ちりりんと涼しげに鳴っているのに、汗ばむどころか、暑さを感じてなかったという事実だよ、そうだとも、うたた寝だろうが、疲労困憊だろうが、酔いどれの眠りのだろうが、意識とおさらばしたわけじゃないだろう、逆に普段見かけない隣人みたいな自分を見届けたり、その気になりきってみたりするんだから安閑なものさ、たとえ落武者が突然あらわれて槍で胸を突かれても、、、まあ、痛みはあるね、あれは凄まじい衝撃だった、、、でね、痛感にしろ温感にしろ、やはりやって来ない場合が多いな、風鈴の音もいつしか消え去り、書き割りの家に相応しいざわめきやら、反対にひっそりしたものやらが耳を通過していくんだ。
聞き覚えがあるからそれなりに納得していると思う、蝉らしき怪鳥であっても、花火をまねた鬼火であっても、金魚売りに化けた殺し屋であろうが一向にかまわないよ、風情に埋没している余裕がないのはこっちでも同じだろう、なら団子状になったつみれ汁を味わうときの気分さ、コタツの中でまるまっていた洟垂れ小僧は夏を夢見ていたのかも知れない。
そこでだよ、夕飯の時間がやってきた。むろん夏の陽は長いから夕刻でもまだ浮き浮きするくらい明るみにほだされていて、早く飯を食らって外に飛び出したい勢いなんだね。ああ、気分がだよ。
さて間違いなくあの金網のざるは見覚えがあった、銀色で新品のときはピカピカ輝いていたんだろうけど、水垢とかで鈍い色合いになっていたざる、それにそうめんがたんまり盛られているんだ。一家四人、水切りを兼ねたざるに箸をのばすって寸法で、こう言うとおおげさなようだが、あの光景こそ夏の夕暮れに現れ出た白い幻影で、しかも、そうめんだけだといけないからご飯も食べときなさいって言いつけまで、そっくりそのまま立ち戻ってきた。今からふり返れば炭水化物ばかりなんだけどね、ラーメンライスとか、お好み焼きに飯とかよりシンプルで、そうでしょうが、ラーメンには具あるしスープとして単品なりの味わいがあり、お好み焼きにいたっては肉に卵に野菜だから、断然比べてはならない、それに色合いや香りだって別ものだよね。
白い夏が幻影たる所以は、そうめんライスによる涼感で刹那に流れ去った味気なさにあるような気がする。誰かが言ってよ、一束に数本だけ色つきの麺がまるでご褒美のごとくあって、兄弟で取り合いしたんだとさ、まったくしみじみくる話しだ。どぎつい色ではなかったかな、そう感じただけか、淡い桃色に黄色、淡くもなかったか、しばらく色つきそうめん食べてないからね。今度確認しておくよ。
冬より夏がカラフルなのは太陽や海や草花のせいとは限らない、蒸し暑くてまさしくそうめんまみれでもよかろうはずなのに、色鮮やかなんだよな、ああ、そうだとも、色気も盛んだった、女は肌の露出が高まるし、男は下着でその辺をうろつきまわり、落とし物を拾うような心持ちで目をぎらつかせていたからね、あんな視線が日本中に飛び交い、増々肌はあらわになって小麦色に染まるし、悪意も敵意も混ぜこぜにしてしまい仕方なくなんて、不埒な思惑を隠しきる野暮は言いっこなしで、派手なパンツなんかちらりと見えたりすると、大喜びしてたんだから、やはりカラフルなんだろうね。ビー玉だって透ける色を無造作に見せてくれていたじゃないか。
白いパンツにこだわる輩もいることはいる、そうめんライスで食を満たしてからでも遅くないよ。いいや、これは皮肉なんかでなく、反作用としてなおさら白い幻影を追い求められ幸せだってことさ。とすれば、さしづめコタツは赤い幻影だ。よくぞ寒空のした、すきま風を遮断する心意気でちいさな太陽を演じてくれた、あっぱれだなあ。
曇り空からは白い粉雪、正月には餅つき、白髪のばあさんが梅干しをひとつまみ。隣の子供が窓の外に幽霊を見たと騒いでいた。で、夢はその後かき氷に向かうんだ。あの頼りなさそうで、その癖みずみずしい空色をしたプラスチックのスプーン、奮発したのか、パインやらマンゴーやらイチゴやらが乗っかったのをうれしそうに口に運んでいる。しかし、ちっとも冷たくない、さっき言い忘れたけど、そうめんもこれといった舌触りがなかった。いつかライスカレーをもぐもぐ食べながら、まったく異質の味覚に驚いたことがあってね、あれくらいだな、夢の味わいなんて。そもそも向こうに食感を求めるじたい間違っているし、強欲だ。
ところで強欲ついでにコタツのなかで耽っていたのは事実だから、去年あまり深々と足をのばせなかったなんて言うと、またぞろ深読みしすぎなんてそしりを受けそうで萎縮してしまうけど、乏しい想像力を赤く光らせたのは、コタツそのものより、これも思い出の彼方にあるのだがね、どこかの若夫婦の家の冬、生まれた赤子に頬ずりしながらコタツ布団に倒れこむように愛おしむ若妻の様子、その仕草、自然にわき起こったイノセントな情感を引きづりながらも、見つめている側には暗雲となって押し寄せてくる色欲をごまかせないんだ。どうしても夏の夕立のような趣を覚え、同時に乱れた姿態と思いなしている自分を責めては解放させようと気分がそわそわしてくるから、一気に洗い流されるふうに清められたい、そう願ったものさ。
コタツで寝ると風邪ひくというのは布団が短いからだと思っていた。だからベッドから上掛けと毛布を引っぱがしてみたんだ。予想してたより暑苦しくてね、あのときも夏の情景が夢にひろがったんじゃないだろうか。


2013.1.29