夜間飛行


窓の外に雨音の気配を感じる。はっきりではなく、遠い野に深々と垂れこめる景色が少しづつ、こちらに向かっているような淡い記憶をともない、散りばめられた光の粒を体内に含んだ雲翳が枕頭に広がっていた。瞬きを覚えないまま、残像が緩やかに浸透してゆく。蕭然とした気分に支配されている感覚を小高い丘から見おろしているふうな、甘く、懐かしい、安らぎがあった。幽かな笛の音に流されている優しさを身近にした。
真夜中であることは雨が教えてくれた。彷徨いだした意識は時計の針を認めず、代わりに見知らぬ男のすがたをぼおっと白く浮き上がらせ、僕の顔をのぞきながら話しかけてきた。独り言ではない、それなりの挨拶と笑みを忘れず、つまり僕の存在を十分理解したうえで説明を始めたからだ。静寂を破るような雰囲気ではなかったのと、自然現象に近い現われ方のお陰で、驚きも焦りもないまま薄目を保って、相手の言葉に一通り耳を傾けたところ、すんなり事態がのみこめたのだった。
「いかがなものでしょう」
男は僕に旅行を勧めているわけであり、ネクタイを絞めた身なりと律儀な口ぶりは有能な手腕を匂わせたが、その要求に応じてみるだけのしなやさはすでに了解済みだったので、不審の念は起こるべきもなく、証拠にと如何にもゆったりした動作で寝具から身を離し、内心は共犯者みたいな感情を湧き立たせていた。
男は聡明な笑顔を絶やさず「では支度が出来次第」と、僕の胸中をなぞる声色で柔らかな催促をした。そして案の定返ってくるであろう遅疑すら猶予のなかにひそませ、不思議な旅立ちにふさわしい台詞を用意していた。
「暖かな冬空と肌寒い春先によく似合う服装で」
僕は当たりまえだが夜空に最適の格好を問い、男はもっともな意見を述べたまでのことである。何せこれから窓を飛び出して行こうというのだから。
翼も羽も必要ではなく、特別な仕掛けなどはなし、ただ一緒に飛行しようと言っている。いや、実際には魔法をかけられ真夜中を駆けめぐるだけかも知れない。しかしことの当否は問題にはならず、大事なのは今この意識を占領しながらすぐ先に惹起されるであろう魅惑の結晶体にあった。その輝きにあった。
目覚めてから二度目の時計に視線を送る。真っ暗な部屋なのにそこだけが、まるで懐中電灯で照らされように識別でき、それは男のすがたも同様であり、あらためて胸のときめきを知れば、耳鳴りにも似た音楽が心地よく、外は雨、言葉の響きのうちに、転倒した想念の狭間に、愉悦の調べを聞き取る。秒針を、そうチクタクチクタク、黒炭の内包した白味が夜にこぼれだす。男の応答は闇を背景とし、封印された所作がまぶたに重なり合った。
「代金はあなたの寿命です。ご心配なく、ほんの三十分ですので」
もし男が悪魔や死神の類いだとしても、神や仏の言い分だったとしてみても、僕には合点がいった。それからこう尋ねるのが義務であるみたいな口吻をした。
「すると飛行時間も三十分になるわけでしょうか」
予期していた柔婉な笑顔は、演じられる妖婦と少女の面影を行き来しこう応える。
「脳内時計と、感覚の持続に一任されます。この秒針に忠実である必要はないでしょう、時間は歪み、あなたは広がるのですから。ほら、窓を開ければ、この通り」
杓子定規な質問は一蹴され、認識すべき状況がいち早く開示されたので小躍りしたくなった。雨上がりの夜景が待ち受けている。艶やかに濡れた隣家の外壁はわずかの灯りに媚態を示し、夜の空気を抱きしめたく願っている。眠れる子供らと闇の住人、どちらにも平等によだれを垂らしながら、本能の赴くさき、あたりをぐるりと見渡しては夜露に震える花へと想い馳せる。うかがい知れぬ領域に首をのばす為、恋心の芽生えをしたたり落としては、拾い上げる為。
男は魔術師だった。そう思わなければ仕方ない、この身はもう宙に放り出されており、男のネクタイはパラシュートに等しい開花で漆黒のマントに豹変し、顔つきは無論のこと、それまで穏やかだった身振りが心憎いまでに悪魔じみてきて、喋り方も素晴らしく高圧的に一転している。夜空に踊り出した唐突より、その眼が持つ気高い嫌らしさに心身が吸い取られそうだった。爛々としたまなざしの奥へ奥へ、惹きつけられる感じが飛翔に優先していたのだから、間違いなく僕は魂を投げ売りしたのだろう。だが、後悔する汚点は現在進行形で拭われ、暗雲の彼方に流星らしき光芒を見いだしたとき、気分は無重力空間に遊び、右隣に翻るマントのあおりこそが、僕を浮遊させているのだと感銘した。
「どうだい、命が縮む思いがするだろう。俺のそばから離れるな、ダメだ、近寄りすぎてる、そう、その間合いを忘れないことだな、さもないと落下するぞ」
男の眼から威厳と侮蔑が交互に放たれていたが、僕は解放と抑止と受け取り、縮む命の形式に収めてみた。そこから先は自在を得たといっても過言ではない、自分自身の眼もどうやら煌々と妖しい色に染まりつつあるのを実感し、真下に展開する光景に狂喜しながら、小さく点在する民家の灯りや、隠れていた月光が水辺に反照する様を眺め、上昇気流に乗って相当な高さまで駆け上がった体感を取得して、夜風を切る感触にすべてが結合していることを悟るのだった。
眼前の圧迫している闇をかき分けていく行為はなおざりにされた下半身に対する儀礼となる。夜間飛行の意義は、そして男の手招きと急降下は、狩人の先蹤であり、渇きを称揚する夜露への欲情である。小雨が懐かしい。
「おまえ、吸血鬼になりたいのだろう。だったらほら、あの上流にちょうどいいのがいるじゃないか」
男は僕の心中を斟酌し悪魔的な誘惑に導こうとした。
「なるほど、こんな山間でキャンプをする物好きもいるもんだ。あの薪は獣よけらしいが、こっちからは何よりの獲物だ」
ためらいの陰りもなく直情が整列し、探りはすぐさま目的に同化すれば、頬の火照りが風に熱意を吹きこみ、もはや自分の意志が率先してマントのはためきを買って出ていると薄ら笑いをつくった。複数のなかにめぼしい女人を見つけ、山稜から山稜へ、やがては歓喜と高まる恋情に胸を焦がして、暗黒の空は狭まった旋回を許容しはじめる。今度テントから出た刹那へ狙いは定められ、狂熱の限りを捧げた。
魔界への導入に促された服装、この水色が灰色に褪せたパジャマの月並みさ、、、申しぶんない、吸血鬼に向けた憧憬は闇にさらわれ、宙づりになったことで却って白々しい日常を軽蔑するどころか、陰陽の連鎖を思い知り太陽の残滓を、月影の誘いを、ひたすら身に宿す。
「ところで、おまえ、どうやって血を吸うつもりなんだ」
「それは、、、やはり、首すじに噛みつくんでしょ」
天空を周回し、脳内にきらびやかな、そして凡庸な発露を飛び散らしていただけのほうが幸せだったかも知れない。
確かに男の問いかけは至極まっとうであり、目的を目指し突き進むのなら、血と肉に関する料理の心得が求められる。だが、犬歯など生えていないこの口で果たして首にかじりつけるのだろうか。想像してみただけで美の狂乱は静まりかえってしまい、どうしてそんな水を差すような意見をと、ちょっとした怒りがもたげてきたが、落ち着いて考えてみれば、犬歯を持っていようがいまいが、僕は生身の人間に食いついたり出来ない。
「何というくだらない葛藤に苛まれているのだ、、、」叱責を含んだ男の視線を感じる。そのときだった。おそらく小用だろう、そう踏んだ意に間違いはない。一人テントから歩きだす様子が分かり、夜光虫が飛び回っているくらいの高さにまで接近し、いや、これはもう高さではなく低さが強調される地表をうろついているに等しくて、それでも情熱の片鱗はうごめいていたから、僕は自分でも情けなくなるくらい哀願の表情を夜気に投げかけていたと思う。
実際には魔術師の法力に、それから汚れも罪もない、何も知らない、ましてや夜の空から邪悪な恋が降り注いでくるなんて空想したこともない、顔も名も不明の女性に対し一途に祈り念じていた。
テントから距離はあるといっても、小用を足すのだから彷徨うほど遠のいたりしないに決まっている。案じると同時に女性は草むらにしゃがみこんだ。凝視する心許なさに従って判断もつかず、どうすることも不可能な立場を歯ぎしりしているしかない自分が悔しかった。
「神隠しの術を使うか」
男の苦々しい口さきに光明を見いだしたのは言うまでもないだろう。こんな反応だけは悲嘆にくれていようが鋭敏であり、調子がいい。魔術師の眼には僕の会心の微笑が映っている。すぐ下の草影からのぞかせている白桃のような尻に眼をやるより、こうして金縛りにあった意識へ沈んでいくほうが望ましかったから。
「さあ、駆け上がるぞ、寿命をいただくのだからな、おまえの想いは叶えてやるよ」
男はすべて見通しているのだろうか、そんな小骨が刺さったみたいな、だが偉大な思惑を乗せ、マントが大鷲のように羽ばたけば、これにはさすがに度肝を抜かれてしまって、絵にでも浮かべて欲しい、あの女人が尻を出したまま大地から飛び立ち、驚愕と動揺に不安定を強いられているのだろう、気流にもまれる勢いで、しかし確実に僕らの方に向かって宙を舞っているではないか。その顔色を見極める間もないうちに上体は夜空に治まったのだが、突風より激しくあおられたせいで下半身に残されているのは、冷気を再確認してしまいそうな真っ白なぱんてぃだけで、本人もそれに気づいたのか、もしくは気丈な性格なのか、こんな情況にもかかわらず、左横に並んだ僕を睨みつけながら怒気を込めこう言い放った。
「あんた気違いなの、なによ、あたしをどうするつもり、その隣は誰、バカじゃないの」
「気違いではないよ、奇麗なお嬢さん、意識を変革しているだけに過ぎない。それよりその格好は君にふさわしくありません」
魔術師は街角でふと些細な粗相をしでかしたふうな、慇懃でなおかつ即席の愛情がこもったもの言いをし、マントを手刀で切る仕草をしたところ、夜目にも鮮やかで美しい純白のドレスが出現した。もちろんすでに女人の身をまとっている。定めし間違いはないだろう、空中に拉致された局面よりも、ただ白いだけでなく、眼にもまばゆかったぱんてぃとは次元の異なる光輝な衣装に陶然としている、つまりそちらの方に彼女の意識は泳ぎだしていたのだ。
何故なら、花々が惑星を取り囲んでいるような、壮大な景観は重力の魅惑によって形成されただろうし、気が遠くなるほどの年月が今この一瞬に凝固され、移ろいゆく森羅万象から編み出された羽衣、いわゆる天女の召し物と化してその身体を包みこんでいたからで、更には胸許に輝く異様な宝石の魔力から逃れることは無理であった。
そんな女人の驚きをともなった放心を魔術師は決して見落としはしない。花の奇跡に例えるならまるでお嬢さんの美しさは、、、といった歯の浮いた、けれども耳あたりは悪くない甘い言葉から続け様に繰り出される品定めは、事実と不可分であることの保証となり、神秘とみやびの世界に転送しながら、これまでの経緯を最大限に優麗に磨きあげ、僕らの邪心は等閑にふされたまま、非礼を詫びている様子がいつの間にやら、誘惑の証しである恋文を読みあげているような情勢へと変じてしまっている。
今宵僕を尋ねた場面なども目立った脚色は施されていないのだが、自分の出来事だったとは俄に信じ難い、遥か彼方の物語のようであり、これから降り立つ美しい星での見聞と思えてきた。
これが神隠しなんだろう、可哀想だけどこの女性は永遠の契りによって僕より寿命を短くしてしまうかも知れない。彼女の表情に奇怪な既視感を覚えた頃、おまえの想いを叶えてやる、、、と言ったことが胸にこだまし、まだまだ愛撫の最中であるような甘言がいつまで続けられるのか気を揉んでいたら、それは明快に白状すると、僕との契約が反故にされているみたいな、この期に及んでいやに生臭い焦燥に駆られたのであって、妄想が準備した吸血行為も、弓矢に目した欲情も、魔術師のマントから離脱してしまい、霧散する予感にとらわれるのだった。
もう地表から明滅するものは得られない高度まで昇りつめていた。その間、僕はここに来てはじめて時を数えてみた。指折りながら、寝室の時計の針を思い返し、時間を売ったことを、それ以上ではなく、そのことだけをとりとめもなく、、、
女人が僕に向かって話しかけてきたのはどれくらい指折り数えてからだろう。とにかく、僕は魔術師の啓示通り、大きく利発そうな眼をしたに見つめられ、なめらかで肉づきのよい唇からこぼれだしている陽気な息づかいを間近にした。そして、その艶めいた赤みがこれより迫り来れない実感に恍惚となった。
礼節を重んじたわけでもないけど、夜空の恋人を抱くまえに魔術師の面に目線を流した。暗雲が最高に、とてつもなく雄大に、占拠しているのが分かり厳然たる世界にひれ伏すより妙案はありそうもなかった。
朝陽に応じる壁掛け鏡はいつになく機嫌がよさそうだったので、僕もその気で青ざめたいつもの顔を映し出してみると、左の耳たぶに異変を見つけた。すると何とも婉曲なかゆみがやってきた。赤い果実を想起したあたりで滑り台を降りて来るような無性なかゆみに変わった。たっぷり蚊に刺されたらしく、まるで福耳の有り様だった。


2012.5.22