まんだら第三篇〜異名16
その後どれくらい山下の家を訪ねたのか、実のところ美代には判然と思い出せない。
有理に淡いあこがれを持ってはいたものの毎回彼女が家に居るわけでもなく、あくまで同級生の望美を慕い放課後、ときには自宅に帰る途中ほんの小一時間くらい立ち寄る場合もあったけれど、主に家屋内でトランプや月刊雑誌の付録だった紙のゲームなどをしながら他愛もないおしゃべりに時間を費やしていた。
もっとも暇つぶしと云った感覚などではなく、特に熱中する遊戯がその都度あったのではないが、散漫さとは似てながら限られた範疇を惜しみつつあるこころ持ちは、夕方前には帰宅しなければいけないことや、大概は母親と一緒にテレビの前にかじりついていた昇が時々ぬり絵や絵本を片手に仲間入りしてくることや、小遣いのやりくりにも制限ある悲しさなどを含んで、半時も過ぎる頃になれば決まってせわしいわけでもないのにすでに名残惜しさを到来させてしまっていた。
「このミラーマンの顔はどの色がいいの、怪獣もこうかな」
とか、ぬり絵の案配をしきりに問いかけてくる昇にも、それほど鬱陶しさは感じなくて適当にあしらうのでもなく、まともに相手をするのでもなく、ただのどかな日和のなかで空気がまったりとしている滞りに余計な圧迫が加わってしまい、無論それが解放感の裏返しであるとはあの時分は知るよしもなく、意識するほどでもない苛立ちが自由気ままを侵蝕している微かな響きを聞きとっていたにすぎない。
子供も領分と云うものもそんな微妙な空気圧のなかで、成人してから覚える虚ろさと同種の静謐に包まれている。今度は絵本を読んでくれるよう願う昇に対し、いかにもうわの空と云った表情と声色でただ字面を追うように接している望美を横目に見ている美代の気持ちは、感興をまったく得ない曇り空の模様によく似ていた。
午後の日差しを満面に受けた有理の笑みが、かねてより密やかにこころ待ちしていたあの成果を告げられたのもこの家で送ったどの日であったのか。薄曇りを迎え入れた一室で行われた内緒の出来事からしばらくたっていたには違いないけれど、それから有理を交えて話す機会も一二度あったようにも思われもし、ただし望美や昇を排する格好で彼女と面と向かったことはあり得なかった。と云うのも、
「あら、美代ちゃんちょうどよかった。二階にいらっしゃいよ、望美は自転車の修理に今出かけていったばかりなの。あの写真仕上がってきたから見せてあげるわ」
そう玄関口で声を落とし気味に誘われた期待の瞬間は、幾度か入ったことのある有理の部屋へと上る階段際から、奥の間にいる気配がする昇と母に挨拶してから一段一段踏みしめながら彼女のうしろ姿を追って異様に胸が高まり出すのを永遠に焼きつけてしまったからである。
「わたしは忘れはしない、気おくれも流されてしまった、あの吸い込まれてしまいそうな緊迫した欲望を、、、」
階段途上で有理がふと振り返って見下ろしたときのまなざしに美代は完全に我をなくしてしまった。
前髪が振り乱された後でもとに整えはしたものの、幾条かの毛がひたい真ん中から鼻筋に沿いふくよかなくちびるにへばりつくみたいにして垂れ下がっている。その両脇に位置する瞳には憐れみと懇願に滲んだどことなく眠た気な黒目が宿っており、凝視するちからこそ半減してしまっているのだけれど、上下の睫毛をも潤わしてぼんやりとした光を放っている様子には、やはり憂いを最前に醸し出すことをためらっている加減が如実にうかがわれるようで仕方なく、それは有理が今まで見せたことのなかった感情を示しているとも思われて、更には凄みと云うよりも魔性にでも魅入られたときに反応する姿を見つめ返している危うさも付け足され冷ややかな感触を与えはしたが、陰にこもり勝ちとなるべき印象は視線の内奥に棲まうであろう常軌を決して逸しはしなであろうと云う、冷徹な信憑に守られ培われ不穏な形相へ堕してゆくことなくぎりぎりにところで均衡を保ち、さきほどの微笑がとっさに甦ることによって、邪念は涼風にあおられるごとく払拭され、冷水がもたらすここち良さのなかに優しさを見出す意想へと落ち着くのだった。
無言のうちに再び背を向けた有理の気持ちに応えなくては、、、
息をのんだ後、美代はかつて家族旅行で都市に出かけた折、乗り継ぎ駅の構内で迷子になってしまい散々泣きわめいて困惑するしか方がなかったこと、ようやく親たちに見つけられてもなお泣きやむことが出来なかったのは安堵だけではなく、底知れない不安を経て間もないにも関わらず、まるで兄が語る怪談に聞き入ってしまったのちもその戦慄すべきこころ持ちを反芻し続けていた情況に酷似していること、そして脱し得た恐怖のさなかがどこか懐かしいと思える辻褄の合わない心境を不思議がったのであった。
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