まんだら第三篇〜異名14
あの日のことはよく憶えているつもりだったけれど、後年山下の家の光景を振りかえってみると、以外に一度しか足を踏み入れてない一室の調度類を瞬時に思い起こせたり、当時の自分よりそれほど大きな歳の開きがないのに同級生の望美の弟がずいぶんと幼稚で、いかにも傍若無人なふるまいで好都合の遊び相手だとばかりに駄々をこねては泣きわめいてみたり、機嫌がなおったかと思えばおもちゃのライフル銃両手に真面目な顔つきをして撃つ仕草を演じて、ある日にはいきなり玉が込めてある状態で実際に銃撃してきたりもし、堅い玉ではなかったけれども望美ともども顔や首筋に命中したときの痛感さえ甦ってきて、ふたりして怒鳴りつけながら弟の昇からライフル銃を奪いとろうとした、あの瞬時に部屋の空気を切る身の動きとちいさな風をも忘れてはいなかったわりには、肝心な出来事の隅々まで記憶の毛細血管は伸びていないのか、それとも通わぬのは微細な領域にまで流れゆかない滞った血のほうなのか、萎びれてしまった感情のなせるわざであるなら、文字どうり昇の銃弾を受けてあたまに血がのぼったことが鮮明に残っている事実が可笑しく思えてしまうのだった。
「こらっ、ひとに向けて撃ったりしちゃだめじゃない、あんた大きくなったら殺人鬼とかになっちゃうよ」
と怒気をふくみながらも茶化すふうに望美がたしなめると、
「でもさあ、コンバットのサンダース軍曹はドイツ兵をやっつけてるから、ぼくもドイツ兵になって撃ちかえしたんだ。みんな死んだらどうなってしまうの」
「なにわけのわかんないこと言ってるの、とにかく絶対にひとを撃ったりしたらいけないの、あと野良猫とか裏の家にいるペスにもよ、わかった」
美代は昇の滑稽な返答で気分が高揚したのか、とは云え叱りつける語調はひかえめに、「すずめとかもね」と言いかけて内心では、「もっとも動きのある的は全然無理だろうけどさ」と思いながら目を細めてしまい、すでに泣きべそをかこうとしだした弟を気遣った望美もおのずと美代と似たような表情になって、同時してふたりの顔にすごまれることを予想していた昇は、姉らの目から怒りが消えかけていることにとまどってしまったのか、幼児の気まぐれは情況をつかみそこねてしまった挙げ句にやはり当然のようにして大声で泣きだした。
「あらあら、ちゃんとわかったんならもう泣かないの、あんたが泣くとわたしがお母さんやお姉ちゃんから叱れるんだからもう」
それでも一度声をあげ出すと蝉などと一緒ですぐには泣きやまないのが定則、ほんとう段々と大声になって虫みたい、と妙に感心しながら、最近はわたしもあんなふうに泣いたことないけどこの子くらいのときはなどと感慨深くなり、弟を懸命になだめている望美のことばもうわのそらでただ呆然として瞳を彼らに投げかけているのだった。
ほんの束の間であっただろうし、まだ涙と洟でくしゃくしゃになった顔が背を向けて部屋から離れようとした姿を憶えているのだから、確かにそれほどの間を置くほどふたりのやりとりを見過ごしていたわけでもない、けれども踵を返す昇を凝視できなかった事情が逆襲にも似た振る舞いが突発的であったと云うよりも、ほとんど過失だったのだとその後もずっと反芻するしかなかったは、よもや再び銃をこちら側に発射させることが起こるはずがないと確信とも呼べるくらい予知していなかった為でもあり、運悪くまたもや至近距離からただ一発だけ放たれた玉が美代の右目の下にかなりの衝撃をあたえてから、はじめてことの情況を把握したのである。
「わざとじゃないよ、バイバイって言おうとして手をあげかけたら勝手に玉が飛びだしちゃったんだ」
「勝手に飛んでくるような玉なんてあるわけ、あれだけ反省した顔してたくせにさ、まだ懲りないらいわね」
「そんなでも、、、ぼく、撃つつもりなかった」
「ごめんね美代ちゃん、痛たそう。目のした腫れてるよ、うっすら赤くなってるけどだいじょうぶかなあ」
「何が起ったか、わたしわかんなかった。はっと気づいたら昇ちゃんに撃たれてしまった」
「撃ったんじゃないってば、ドイツ軍は日本人を殺さないんだ」
「また馬鹿みたいなこと言って、とにかく美代ちゃんにあやまりなさいって。あんたの玉があたったのは確かなんだから」
望美の表情はきびしい目と口もとで強く固められ、自分より美代に命中させてしまった昇に相当いきどおりを感じていた。
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