まんだら第二篇〜月と少年10


翌朝には初々しい陽光がこのまちすべてに降りそそいだ。
もっとも晃一は昨夜は寝つけないまま、いつの間にか眠りおちたのかと思えば、うつらうつらと意識が彷徨して夢見なのか、こちら側での感情のこわばりなのかよく分からないうちに夜明けを迎えた。
あれから、比呂美は盆に乗せた麦茶のポットとサッポロポテトバーベQあじ一袋を置いて、別段会話もなく「おやすみ」と言って晃一の視界から消えていった。
内部に暴発した原液はいつになく大量放出されたようで、と云ってもこんな醜態は初めてのことであり(一般にいう夢精の経験もかつてなく)どれくらい噴射したのか比べようもないのだが、とにもかくにも比呂美をまえにしてよだれを垂らすように、いや、それの何倍も羞恥が塗りかさなる痴態は、晃一を未知なる複雑な領域へ連れこんだのである。
日中には当然比呂美と顔を合わせもし、来客の段取りで用件を伝えられることも何らいつもと変りないのだったが、しかしその日常の微動だにしない有様が却って晃一の胸中を煩雑なものに生成した。
台風一過の青空のもと、忘れものを探しているのかようにときおり地を駆ける突風となって、、、
やがては追い風にあおられる宿命を信じたいが為に、姑息な避難場所に身をひそめてしまう惰弱を知るが故に。

晃一が願ったのは夕立ではなかった。これからの季節に長雨は降らない。あの夜のことがもう数週間も数ヶ月もまえの想い出となって胸をひりひりと焦げつかせる。
「たった三日した経ってないのに、、、」
その夜、三好から明日は泊まり客が少なくなるから休みをとるように言われたこともあって、休日には恒例となっている自転車の町中巡りを考えていたのだけれども、この三ヶ月のあいだ方々を走りまわったことだし、かねてより誘われていた夜のまちへ探訪してみるのも一興だと、早速その連絡をとってみた。
「もしもし、磯野です、はい、三好荘の。ええ、お酒は飲めないわけでもないのですけど、僕まだ未成年ですから、いやあ、食べるだけでけっこうです。はい、それでは、あと一時間してから、駅前の公園のところですね。わかりました、それでは」
このまちに来てすぐ三好から、
「この人はむかしうちに食品を納めてくれてた森田商店の息子さん、もう随分まえにここの親父さんは廃業したんだけど。息子さんはいまは会社勤めしてるんだがね、釣りが趣味なもので、うちのお客さんと釣り場の情報交換をしてくれてるんだよ」
と言って初日にたまたま顔を出した青年を紹介された。
年の頃は二十代なかほど、眉目のつくりが明確で派手な風貌なのだが、その割にはどことなく落ちついた雰囲気が全身を嫌味なく透過しているのは、その茶色がった虹彩の澄み具合によるもの、ちょうど抑制される感情が自他ともに静けさをもたらすことに似ている。
「どうも、しげさんから聞いてたけど、今日着いたんだね。よろしく」
と言ってさりげなく名刺を取り出した。

それからから所用でまちへ出ることがあると、森田のバイク姿を見かけて軽く会釈すると、「やあ」と云った笑顔を返してくれ、また三好のところにも頻繁に訪れる度に色々話しかけられて、晃一はきっと近いうちに懇意になるかも知れないと内心期待もし、それはいくら孤独癖を深めようにも実際は隔絶した情況に居るわけでもなく、多様な関係にとらわれるまでは行かないにしろ、ある程度は世間の風を受けてみるのも自分の軽やかさを育むような気がしたからであった。
三好からも比呂美の帰省話しの流れから森田のことを聞かされ、
「梅男くんはうちの娘と同い年でな、結婚も早かったんだが去年の秋に別れてしまって、子供が欲しいと言ってたけど出来ないままでなあ。家庭を大事にする気性のよい子だったんだけど、やっぱりむこうとの性格があわなかったんだろう、おんな遊びをするわけでもないし、、、」
などと近々出戻ってくる自分の娘の心情をくんだ侘しさを、そこに重ねあわせるよう語るのが晃一にとってもどこかしら胸に染み、ちょうど雲間からかいま見える青空に却って哀愁を覚えるような、先行きの懸念が物語のごとく培われるのだった。