まんだら 第一篇〜記憶の町へ22


特急列車の走行音と振動は懐かしさをひかえめに哀願しているようにも思えた。
所用に手間取ってしまい駆け込みに近い勢いで乗車してから指定の席を見つけ、このまま乗り換えなしで到着する町までしばらくのくつろぎが約束されている気がして、目を閉じあたまのなかを空白にしてうたた寝におちてくれればよいと安逸をきめこんだのだったが、さきほど窓側の先客に自分の鞄を網棚に上げるために会釈した際、まだ少女の面影を残しているその横顔へ目線がたどっていった軌跡を思い出したように数回反芻したのは、そして疑問符として脳裏をよぎったのは、やはりその女性の年格好が日頃から接している生徒を連想させたのかも知れないなどと他愛もない所感に帰着して、居住まいをくずしながら無心に戻ろうと肩のちからを抜いてみても、不快さをともなわない強迫めいた好奇心みたいなものが、泡のように現れては消えるのはどこかむずかゆくて、ついには思いたったとふうにして両目を開いてかぶりを隣に向けたのだった。
見れば、髪の毛をうしろに束ねたちいさな顔全体はまだいたいけなさを物語るのだが、その主役であるつぶらな瞳は遠くまで澄んでいて、伏し目で本読みをしている視線をはつらつと見送っている睫毛も初々しく、頬には軽い火照りがあるようにも思え、それが上気によるものなのか、それともこうして見つめられていることを察知しての恥じらいのせいかもなのかと、我ながら飛躍しすぎた思いも小気味よいほどに、少女の色香はすみれの如く鮮やかにして凛とした表情を形作ろうとしていた。
まだ成熟しきらない、つぼみがほころびる寸前のやわらかな肌触りの連鎖は優しく結ばれた口もとへも色染めされるように配色され、けっして化粧に頼ることなく乳白色にたたえられる素肌のはりは水をはじいてしまいそうで、ただうっすらと朱をはいたかの火照りがみせるためらいに似た憂いのなかにひそむ情熱が、来るべき開花への健気な恐れであったとするなら、おそらく色艶はこころの裡に宿されているのだろう。
磯野孝博はまなざしの向うに、真横に座る少女の面を透き通して、日々教鞭をとる己のすがたとその目に映る生徒らのすがたを表出させた。学問を説く立場には前提としてきわめて厳粛な空間が要求されるものだが、彼の授業は幾分か脱力したなまぬるさを意識的に醸しだしており、それは緊迫した空気を打ち破るというほどに明確なものでなく、結局のところ孝博自身の性分によるところであった。
中国語専門と云うこともあり、学生らそれぞれは後々に社会に出て実践として活用する意義を十分に認めていて、授業内容に関しては常に貪欲な姿勢で臨んでいる。つまり生徒にとって語学を習得することは確信的な研鑽なのであって、ひとりひとりが真剣にとりこんでいるのは当然向学心の発露だった。
すると教授としての位置からのアプローチは気楽であると同時に手抜きのない熱情を保ち続けなければならないのだが、火花散るような緊張した場面を孝博は好まなかった、いや、ほとばしる熱意があらかじめ先にある以上、それは荒馬を乗りこなすと云った手腕とは違った様相、荒波から距離をおいて見遣る傍観者であることを許される特権が与えられることにより、学徒の間に緩和した空気を送りこむ資格を得た。
単身赴任の身であるため、生徒と夕食をともにする機会が自然な流れとして運ばれていったのも孝博の欲するままであったに違いない、しかし、教壇から酒席へと場が移ろうが自分が受け持つ学生であることは変わりなく、異相はまるで風車のように軽やかにまわって見せるだけであって、それは酔いが手伝ったとしてみたところで根本的には延長線の上に流れていった。
「あの、どうかしましたか?」まのあたりにした少女をすり抜け、彷彿の彼方まで意識がめぐってしまってしまい、対象の実在をも一瞬忘れてしまったのか、ちいさな声でそう問われてようやく孝博は我にかえった。
「あ、いえ、どうもしません、、、」あわてている様子が自分でもひとごとみたいに思われたのだが、少女のこわばりながらゆっくりとまばたきするうちの黒目にはじめて生々しい接近を覚えると、苦笑してみせるしかないのだった。
「すいません、ちょっと物思いしてたようです、失礼しました」
すると少女の双眸に宿っていた不審が、こともなく氷解したのか、それとも拍子抜けしたのか、みるみるうちに表情が明るくなって上気を取り戻したようで、それは不本意な恥じらいにも思われたが、しかし相手の失態や逸脱にこちらがかえって萎縮しまうことが時折あったことも思い出して、羞恥のいじらしさで香る面貌に対し慈しみに似た感情が生まれたのであった。