引 本 の 徴 用 船 ( ちょうようせん)

三重県きたむろぐん海山町(みやまちょう)
引本小学校1992年度六年生がしらべたこと

アジア・太平洋戦争に引本浦(うら)のかつお船もつかわれました。

引本小学校の6年生が夏休みの勉強で、九せきの船のことが戦争で,

太平洋のいろいろな所へ行っていることがわかりました。

下の文は調査の一部です。


雑誌(ざっし)で見つけた徴用船(ちょうようせん)、武器を船につけているのがわかる。

第三正丸(まさまる・八十四トン)
昭和十六年末ごろ、紀伊防備隊(いきぼうびたい)という部隊で監視(かんし)をするやくわりで、紀伊水道[地図でしらべてください]のどこを通ったら良いのか教えていた。七・七ミリ機銃、十三ミリ機銃、二十ミリ機銃と爆雷(ばくらい)四発を武器として船につけた。乗組員は十二人。戦争の後期、紀伊防備隊から横須賀(神奈川県)にかわり、黒潮特攻隊[この部隊には,特別なやくわりがあった。]として千葉の野島沖約八百海里(かいり)のあたりで,なんせきもかつお船がならんで,アメリカ軍の空母を見はった。
その後,昭和二十年五月に横須賀から大阪港湾警備隊にかわった。
大阪大空襲(六月一日)にあった。燃料の節約から、いかりを降ろしたまま警備についた。ただ一隻(せき)、引本に帰ってきた船といわれている。

第五大盛丸(たいせいまる・九十九トン)
十七年一月〜十八年三月まで、軍属(へいたいではないが,軍隊のしごとをする人)が乗組、横須賀所属で、乗組員は十三人。千葉の野島沖で潜水艦の監視の任務につく。[正丸と同じやくめ]。沖で十五日見張り、港で十五日過ごす。潜水艦監視の船には、武器が何も装備されていなかった。後に、第五大盛丸は奄美大島[地図でしらべてください]のあたりで沈没(ちんぼつ)した。


第一甚幸丸(じんこうまる・六十六トン)
十六年六月 海軍に徴用され、舞鶴防備隊特設監視艇に、配備された。十一月舞鶴出港、仏印カムラン湾で そのあたりの海上の見回りをしていた。ベトナムのサイゴン(今のホーチミン市)を基地にしていた。
軽機関銃と爆雷を装備していた。初めは、木で作った大砲が置いてあり、飛行機に本物の大砲が装備してあるように見せかけていた。あとで 軽機関銃がブリッジの上につけられた。
爆雷は、木で作った台の上に置いて、足で押して海に落とす仕組みであった。爆雷を投下するとき、船のスピードは六・七ノット(ノットとは船の走るスピード)しか出ないので、操舵室(そうだしつ)の舵(かじ)をしばりつけてから部屋を出ていた。ばくらいが爆発するとすごいしょうげきがくるので,船の中にはいられなかったそうです。監視と敵の機雷のしまつが任務。軍属四人、兵隊十人が乗り組む。南方では、船が腐りやすいので使い物にならなくなり、現地に置いてきた。
(注意・・・ベトナムのホーチミン市とはどこにあるか)

 

第五進宝丸(しんぽうまる・九十九トン・二百馬力・十ノット)
広島の陸軍の暁(あかつき)部隊所属。戦車砲1門と軽機関銃、爆雷二発を装備(そうび)。軍属九人、兵隊十五人が乗り組む。防毒マスクが全員に配られていた。船のスピードが遅いので爆雷の爆発に巻き込まれないように、爆雷に水中落下傘(らっかさん)をつけていた。十八年、ニューギニアへ、三十隻の船団で1ヶ月かかって兵隊と食糧をはこんだ。仕事は、食糧・弾薬・兵隊・薬・たばこなどを、ニューギニア島のソロンからマノクワリあたりの小さな港へはこぶことであった。
(注意・・・ニューギニア島とはどこにあるか)
二十年三月(十九年?)、ソロンからマノクワリへ、兵隊八十人を運んでいるとき、ロッキードP38(?)の機銃で攻撃を受けた。攻撃は五回行われた。第五進宝丸は、わざと浜にのり上げた。第五進宝丸は爆雷を積んだままだったので、飛行機の機銃攻撃で爆雷が爆発し、火柱が百mほど上がった。
船にのっていた人は,ジャングルの逃げた。マノクワリから八百人でジャングルへ入り、4日後ソロンへ十人が着いただけであった。


第一幸盛丸(こうせいまる・七十四トン)
昭和十七年二月十七日、横須賀海軍に徴用(ちょうよう)された。五月、マーシャル群島クエゼリン島(ビキニ島の南)に向かいキョー水道対潜哨戒(潜水艦が来ていないかしらべるやくめ)。七月、ウエーキ島(ウエーク島)においてハワイ、ミッドウェー方向七十海里(かいり・海でのきょりをあらわす単位)で,敵の船がきてないか見回っていた。装備は、横須賀で木で作った機関銃だけであった。ウエーキ島についてから、アメリカ軍から取り上げた水冷の十三ミリ機関銃[今度は本物のきかんじゅう]が装備された。乗組員は十二人。
十八年十月、艦載機(空母につまれている飛行機)グラマンの攻撃。アメリカ軍の上陸をおそれ,海軍部隊がアメリカ人捕虜約百人を銃殺(じゅうさつ)。しかし,上陸はなかった。十九年三月、大型爆撃機(コンソリデーテットB24)七・八機による爆撃で船尾大破(たいは)。十九年五月ごろから食糧不足で,死者の三千二百十九人そのほとんどが栄養失調で死んだ。
八月十五日 敗戦。米軍捕虜(ほりょ)射殺のことが書いてある書類を焼き、全員の証言を合わせることにした。十一月一日、病院船氷川丸が入港。生き残った五百人が乗り込む。
(注意・・・ウエーキ島とはどこにあるか)

第三盛進丸(せいしんまる・九十トン木船)
十七年四月五日 徴用、横須賀へ。第七艦隊第22戦隊第一監視艇隊[第三正丸と同じやくめ]
十八年ごろ、横浜の山下桟橋(さんばし)を基地にしていた。装備は、七・七ミリ機銃 一丁、十三ミリ機銃 二丁。野島沖の北太平洋でアメリカ艦隊の監視、B29の本土空襲の監視で、無線で知らせる任務に着いていた。グラマンに攻撃された。第三盛進丸は機関[エンジン]が悪いので、ドックに入り修理を何度も受けた。修理のため、ドックにいる期間が多くなり、米軍にやられなくてすんだということであった。

第三大盛丸(海幸丸)(たいせつまる・かいこうまる・五十六トン)
所属は横須賀から佐世保それから奄美大島(あまみおおしま)へ行った。武器は三十八ミリ機銃、十三ミリ機銃。潜水艦監視で沖縄へ。沖縄の米軍上陸作戦(二十年四月)の前に、奄美大島へ回された。爆撃機の攻撃でやられてしまった。引本から乗り合わせた軍属3人戦死。


第5福寿丸(ふくじゅうまる・八十四・一五トン)
昭和十六年十一月 海軍の徴用船、十二月中旬に和歌山県由良港で紀伊防備隊所属の特設監視艇となる。任務は、紀伊水道の航路指示(日本の船はどこを通ったら安全に行き来できるか教えるやくめ)。十九年八月をすぎてから、横須賀へ転属になった。二十年の六月〜八月に、敵艦載機の攻撃を受けて九十九里浜へ座礁したと伝えられている。
(福寿社史より八十三頁)

春成丸(しゅんせいまる・約九十トン)
十五年か十六年に、海軍に徴用された。新しく造った船であった。機関銃をふねの上につけた。任務は四国沖で敵の船がきていないか見張るやくめをしていた。
十七年五月、潜水艦の魚雷攻撃で沈没。引本軍属1人戦死。

千鶴丸(ちづるまる)
ニューギニア島マノクワリ方面へ二十年五月没
引本軍属14人戦死。最年少16歳

寿丸(ことぶきまる)
南ボルネオ方面へ 引本軍属1人戦死

勘成丸〔じんせいまる・恵甚丸〕
西部ニューギニア島へ 引本軍属6人戦死。最年少18歳

勇喜丸(ゆうきまる)
どこへ行っていたかわからない。

他に第一隼丸(はやぶさまる)引本軍属3人戦死



白 浦 の 徴 用 船

第二進栄丸(しんえいまる・五十四トン)
十九年一月、海軍に徴用され横須賀へ。横須賀で爆雷四個装備(そうび)し,佐世保に配属(はいぞく)された。
佐世保でも、機関銃を一丁装備した。そのあと奄美大島(あまみおおしま)の名瀬を基地に、沖縄から南大東島当たりで輸送船の護衛(ごえい)をした。
乗組員の多くは十七〜十八才で白浦の人が乗っていた。
二十年六月二十日奄美大島方面で行動中、港の中で攻撃を受け沈没。

白浦の大進丸(だいしんまる)
十九年に伊豆の近くで漁をしていて、行方不明になっている。アメリカ軍の船にやられたらしいです。


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