夏休み6日の平和学習の続き!! (通信より)


H・Mさん
 おかあさんのおじいちゃんは、昔 満州で陸軍で、何十台もつらなっているトラックに、のっているときに ひこうきに7はつ うたれて、
死んだそうです。
そのとき7才だったおばあちゃんは、きんじょのぼうくうごうに入ってかくれました。夜になると、バゾクのせめてくる音がしてくるとにげる
用意をしました。
きょうだいが6人いたのがたいへんだったそうです。
 目の前でたくさんの人が外人にうたれてころされたそうです。
    <バゾク(馬賊)馬に乗って襲ってきた>
               <満州から逃げる時大変だったそうです>
K・K君
 ぼくのひいじいちゃんと多くのせんゆう(戦友)たちは、ロシアにつれてかれていっぱい働いた。そこでは、きおんがひじょうにひくくて、
食べ物があまりなく、多くのせんゆうが亡くなった。おしっこがこおってしまっていた。
 矢口の方では、食べ物や服はくじ引きだった。せんそうの時、男の人が戦争に行ってて、いなかってその時、矢口では、じしんつなみが
おきたそうでとてもたいへんだったそうです。    <東南海地震・大きな津波もありました> <戦争に負けてから、満州あたりにいた
兵隊は、ソ連につれていかれひどい扱いにうけた。>

H・Mさん
 Bの29ひこうきがとんでくると、おばあちゃんたちは家のうらに、あなをほってぼうくうごうににげておりました。また、夜になると電気が
いっぱいあるけど少しにして2こにして、カーテンを黒で光がもれないようにしてありました。また、そのときに、くうしゅうけいほうがはいり、
B29がとんできて、おばあちゃんが生きたここちがしませんでした。それに紀伊長島えきまえにしょういだんがおちてたくさんの家がやけて
こわかったです。
 紀伊長島ゆうびんきょくにつとめていました。それとじしんのあとに、つなみがよせてきて、こうかんだいをすててにげました。空にはB29が
とんできたときにはじめてのくうしゅうけいほうがはつれいしてなんどもゆうけどほんとうにこわかったです。
 毎日がこわくてあまいねむれませんでした。せんそうはにどとしたくありませんでした。また、おばあちゃんたちがはたけにおったときに
かんさいきがとんできてはっぽうしたけどあたらなかったです。   
 あと、長島えきからおわせにいくとちゅうまどにすわっている人がかんさいきにうたれて死んだ人がいました。ほんとうにかわいそうでした。
 かたがみにばくだん(しょういだん)がおちました。おばあちゃんはこわかったのでにげるとちゅうで頭をうって血がでました、少し。
 <B29爆撃機・・・爆弾攻撃用。かんさいき(艦載機)空母に乗せられた飛行機>
                       

H・Tさん
 昭和20年8月15日にせんそうが終わった。空しゅうけいほうはサイレンを3回ぐらいならしてひなんするようにというサイレンが出た。
 おじいちゃんの家は 庭に10人ぐらい入れる防空ごうをほってあった。
ひこうきから家のあかりが見えないように電球にきれをかぶせてぼうくうごうの中にかくれていた。(けいほうがかいじょされるまで)
 アメリカのひこうきは、しょういだんという落ちた後に火事になるばくだんをたくさん落としていった。でもその中には ばくはつしなかった
ばくだんもいくつかあって、せんそうが終った後に 村の人がしょぶんしたが、しょぶんしているとちゅうにばくはつしてけがをしたりしんだ
意図がいた。
 東京では空しゅうがはげしので おじいちゃんのおじさんの家族5・6人が おじいちゃんの家にそかいに来ていた。せんそうが終ってから
東京へ帰っていった。
 せんそうの時は食べる物がなかったので 学校の運動場でさつまいもなどを作って畑にしていた。
 せんそうが終ってから アメリカのひこうきが空をグルグル回転しながらふなつ駅のうらについらくしたが のっていたアメリカ人は、
パラシュートでだっしゅつしてぶじだった。そのじこをしらべに来た別のアメリカ人をおじいちゃんが見に行ったらガムをくれた。おじいちゃんは、
アメリカ人を初めて見て、生まれて初めてガムをいう食べ物を食べてびっくりしたと言っていた。    昭和14年11月16日生まれ
       <しょういだん(焼夷弾)油をしみ込ませた爆弾、火事を起こす>
H・H君
 しょういだんというばくだんが かたがみ池におちた。そのかけらがとんできて二ごう神社の石がきをこわした。
                    <初めて聞いた話ですね>
k・wさん
 わたしは、おじいちゃんとおばあちゃんに、せんそうの事について聞いてみました。
じいちゃんが小学1年生のときに 、くうしゅうけいほうがなって ぼうくうごうにひなんしているときに、ひこうきがみやまのほうに
山ぎりぎりにとんでいったと思ったら、みうらの駅にきしゃがとまっていたのでそのきしゃに向かって、てっぽうをうちました。
そのきしゃにじいちゃんのきょうだいと、しっているおじちゃんがのっていて、じいちゃんのきょうだいはちかくのりょかんのおしいれに、
にげたのでたすかりました。しりあいのおじちゃんは、耳がわるかったのでてっぽうの音が聞こえなくて頭をうたれて死んだという話を
じいちゃんが教えてくれました。
                <三野瀬駅の列車が攻撃された事件です>

S・Aさん
 ばあちゃんは子どものころお父さんが作ったぼうくうごうの中に、ひなんしていた。ひなんするところがなかったら、みんな家の庭に
ぼうくうごうを作っていた。いつサイレンがなってもいいように、ぼうくうごうの中に、にもつとか食べ物が置いてあった。
            <ぼうくうごう(防空壕)・・避難するためにほった壕>
H・M君
 宮川村のおばあちゃんにぼうくうごうの作りをききました。最初は、かべにふかさはだいたい4〜5mほり土がくずれないようにいたを
くっつけます。そのあと ひじょう食おおいていたそうです。ぼうくうごうは近所の人も入れるようにゆるやかな坂になっていて、横のかべや
てんじょうは、丸太や木の板で土がくずれないようにしきつめていたそうです。下は、みんながすわれるように、木の板をしきその上に、
むしろをしいていました。
            <ぼうくうごうが、かなり掘られていたようですね>
S・R君
 ぼくのかぞくの中には、せんそうの時の事を知っている人はだれもいません。そこで、浜島のおじいちゃんに電話して聞いてみました。
 せんそうがあったのは、ぼくのおじいちゃんが小学生のころだったそうです。大きなばくだんをたくさん落とされて、畑や田んぼや学校に
十メートルぐらいの大きなあなができて、黒板もつきやぶられたそうです。その夜、「ぼうこうごうにひなんしなさい。」と言われひなんする
とちゅう、おじいちゃんは電柱の上に登ってまわりを見ていたそうです。ぼくは、おじいちゃんの話をきいてせんそうは本当にこわいなあと
思いました。
         <アメリカ軍が上陸すると言って大騒ぎになったようです>
N・Hさん
 山本地区にぼうくうごうがほってあった。せんそうでばくだんがおちる前東小学校は、東こうみん館のところにあった。田山へいく山道に、
昔ぼうくうごうがあった。
秋葉山のちょう上にあるかざりは、ばくだんだ。
今、保健の先生の家の所が井戸と田んぼだった。井戸は、空井戸でそこにばあちゃんの家が近かったのでその空井戸ににげていた。
          <今でも、山のがけにはぼうくうごうの後が残っていますね>
K・S君
 ぼくが生まれるずっとまえにせんそうがあって、たくさんの人がなくなりました。こわい原ばくがアメリカ軍におとされて その時のこわい
写真もありました。写真もみました。食べる物もなくて、とてもかわいそうでした。
     <原ばく(原子爆弾)広島と長崎に落とされた大量の無差別に殺す爆弾>