『戦争体験者からの聞き取り』 

 
             白浦小学校1995年度3・4・5・6年生の調査

戦没者の調査と共に

戦争体験者からの聞き取りを行いました。

戦没者の調べと合わせて、白浦で報告会をしました。

 


K・Tさん  昭和18年 21才 入隊
 所属 朝鮮風第18918部隊 
 20才で兵隊検査を受け18年4月赤紙が来て「兵隊へ行かなんだら恥だ、男でない、恥だ」という教育を受けていたので、喜んでいた。飛行兵(整備)として入隊したが、鈴鹿の通信学校へ入れられ、モールス信号を3ヵ月で仕込まれた。8月に下関から朝鮮風第18918部隊へ、暗号の係で乱数表を使うので、1月教育を受けた。通信の内容は「平壌へ飛行機が何機下りるから油をいれよとか、けが人を知らせてくる」暗号は1週間に1回変わるので、東京まで飛行機で取りに行った。4回ほど特攻機を見送った。隼の機体や日の丸をコールタールで真っ黒に塗った。初年飛行兵(134部隊)が特攻に行った。三重県からも3人(四日市・島勝・鈴鹿)来ていた。飛行兵は、3ヵ月で軍曹に昇進する。特攻へ行く者は、20日から1ヵ月前から自由行動が許された。そのため次に行くのは誰か他の者にもわかった。
 8月15日、飛行場の真ん中に集合。ラジオを置いて放送を聞いた。内容はわからなかったが、後で負けたことを聞いた。2日ほどして、山へ集結した。暴動が起こり、物資を取られた。1週間ほどして、ダグラスで兵隊が来て、兵器を取られ、捕虜になった。ソ連の軍隊に興南の港で鉄道の資材の船積みをさせられた。
 12月,ウラジボストクへその次にナホトカで武装解除された。貨車に乗せられた。1両に70〜80人乗せられ、浮きの様なものが1個置かれそれで大便・小便をさせられた。1週間ほどで沿海地方のスーチャンについた。スーチャンに1年ほどいた。捕虜は炭鉱の仕事・伐採の仕事・鉄道を敷設する仕事などをさせられた。仕事の辛さでパンの量が決まった。−25度ほどなので寒かった。防寒がいとうと防寒手袋(2枚重ね)を着ていた。家は2重造りなので中は温かかった。風呂は水の風呂であった。みんなは日本の話や食べ物の話ばかりをしていた。ジャガイモの蒸したものをソ連の女の人はくれたりした。捕虜は「こじき袋」と言っていた袋を持ち、野草を採ってきてたり、ソ連の人の家の残飯のキャベツの葉を取ってきて食べた。ネズミ以外はほとんど食べた。ヘビはごちそうであった。春になったら、松葉・タンポポ・ヨモギを採って食べた人はかっけが治った。牛や羊の骨からスープを作った後の骨を取ってきて、またスープを作った。酒「マッカリー」はどぶろくのような白いもので温まった。馬のえさの豆かすを水に入れ、カビをとってそれを炊いて食べたりもした。ジャガイモの積んである所へ盗みに行く者もいた。見張りが4すみにいて、威嚇射撃をしてきたが、とってきた人は自慢していた。
 列車の連結器に右手の4本の指をはさまれ、その指が凍傷になり、病院でペンチのような物で切られた。傷口はぬってもらえなかった。怪我をした人は、早く帰してもらえることになった。抑留生活は2年8ヵ月であった。ポーセットから船に乗った。船では、みかん10個とたばこのバットが支給され、みかんは皮ごし食べた。22年1月12日、佐世保に上陸し、奈良をへて、相賀駅まで来た。
 K・Tさんから子供たちに『戦争はするない。』と言われた。


I・Mさん   昭和15年 20才 入隊
 所属 歩兵第51連隊通信隊(祭7370部隊)
 久居で入隊、16年1月広島県宇品港出航。中国南京上陸、警備と作戦任務につく。
18年10月ビルマ派遣進駐作戦のため上海呉淞(ウースン)港出航。印仏サイゴン港へ サイゴンではバナナやパイナップルがたくさん売っていてた。バンコクは道がとても広かった。
 インドのインパール(イギリス極東軍司令部)進行作戦。インド・ビルマ国境のチンドウイ河まで3個師団集結のため、印仏・タイ・ビルマの3ヵ国をほとんど徒歩で強行軍、3ヵ月あまり日夜歩き通し。19年3月15日深夜、チンドウイ河(向こう岸まで1qほどあった)の敵前渡河を敢行、インパール作戦・戦闘に入る。渡河の飛行機・野砲の援護があるといっていたが、何もなかった。アラカン山脈を東側から攻めるが、山と谷の連続であった。集結のための強行軍、長期にわたる炎熱、夜間北部ビルマ等での虎の出現マラリア・テング熱等の病気
 インパール作戦開始時には、20日間の個人装備(米20日分、小銃、鉄砲の弾120発分と予備60発、手榴弾2個(1個は敵をやっつけるための物・もう1個は自爆・自殺用の物)50kg。それに無線機を運ぶ。馬についでいた荷物をかついで、馬の尻をおして、1500〜1800mのアラカン山脈山脈を越えた。夜になると英軍の飛行機が兵隊と弾薬・食糧を日本軍の後ろ側に下ろしていった。あと3日ほどでインパールというところまで来た。しかし、戦車(M4)が出てきて、アラカン山脈へ逃げた。昼に、飛行機で偵察しておいて、夜砲撃して来る。かくれている山がはげ山になるほど砲撃してきた。食糧が不足してきて、川に下り「セリ」を剣で切り、水で炊いて20日間そればかり食べた。青いうんこがでた。塩が不足して歩けなくなった。烈部隊(第31師団)が岩塩を発見して、塩をもらえたので、歩けるようになった。住民の食糧「モミ」を3〜5時間かけて探して、鉄兜で脱穀して食べた。鉄兜はそんなことを続けていたので割れてしまった。補給の皆無・敵との戦力の相違・死と栄養失調・病気のため玉砕の寸前。
 7月8日転進命令。烈部隊(第31師団)が食糧の確保のため撤退。祭部隊(第15師団)に烈部隊と対峙していた敵軍が攻撃してきたので、祭部隊も撤退。3ヵ月で雨期に入ってしまったので、帰りは泥の中の行進であった。「部隊をばらき、5・6人の小部隊でチンドウィン川を渡り、ビルマへ退却せよ。」の命令。夜行動、ジャングルで星がわからなかったが。死者が出たら、サソリ・虫がでてすぐに白骨になる。そのため白骨がならび「白骨街道」と言われた。チンドウィン川を泳いで渡った。「マンダレーに集結せよ。」の命令。マンダレーで合流。食糧や弾薬があった。「マンダレーに残れ。」の命令で、マンダレーにいたら、戦車隊に包囲され、戦車に肉迫攻撃で戦車を爆破して夜脱出した(マンダレー会戦)。普通は4q行軍(50分で4q歩いて、10分休む)だが、8q行軍で逃げた。イラワジ河会戦では、水陸両用の戦車(M5)が出てきた。飯盒のふたで壕を掘った。自分の体をねて隠すだけのものを掘った。ジャングルに隠れていて、敵の戦車に追いぬかされてしまったこともあった。「死ぬことばかり考えていた。」安部隊(53師団)は祭部隊の撤退援護のためジャングルに進攻して行って、多数の戦死者を出した。白浦の人もいた。8月16日、タイのカンチャナブリ県ワンポウで無線を傍受した。兵隊は「敗戦」を信じなかった。英軍に武装解除された。バンコクの郊外ホイロンで収容された。第51連隊5000人のうち生き残ったのは119人であった。
最後に「戦争ほど悲惨なものはない。兵隊だけでない。山の部族の人も食糧をとられ、せっかく下の川からくんできた水もとられ、悲惨な目にあった。私は戦争に参加して戦う者も女も子供も病人もこの世の中の生き地獄であることを深く見て感じて、戦争は永久に絶対にあってはならないと強く言いたい。」とつけくわれた。
 

Y・Mさん     昭和14年 21才 入隊
 所属 第15師団歩兵第51連隊 
 久居で入隊し、20日後、支那(中国)の南京を通り、江蘚省金壇(チンタン・南京から南西に約80q)で3か月間、日夜戦闘教練。討伐に明け暮れていた。
18年10月移動、仏印のサイゴンに2週間いて、メコン河を船でカンボジアのプノンペンへそこで1週間、汽車でタイのバンコクへ、第15師団の主力部隊は歩いてチェンマイへ移動、19年3月15日インドのインパール攻撃に向かった。第2大隊はバンコクに1ヵ月残り、泰麺(タイメン)鉄道で夜マンダレーへ移動、第51連隊を離れ弓部隊(第33師団)に入る。英軍のパレル飛行場(インパールの南約40q)を攻撃。命令がとどかなくなり、攻撃の度に死者が続出した。撤退。アラカン山脈越えでくろうして、イラワジ河越えで水陸両用の戦車の攻撃を受けた。ライマトルヒルの攻撃で5158高地のトーチカ攻撃で壕を堀り、最後の攻撃で黄色火薬を投げ込もうとして銃で頭を撃たれた。谷に落ちたとき、ちょうど軍医がいて残り少ない注射を打ってくれたので、命を取り留めることができた。8月14日ニーケ付近ワンポーに直接知らせが来て終戦を知った。その後でも安部隊は突撃をしたと聞いた。武装解除が行われ、武器が焼かれた。バンコクに集結して、駆逐艦「神風」(甲板にセメントで修理しているほど古かった)で、21年5月21日浦賀港に帰った。同年兵は81人いたなかで、終戦時には9人になっていた。


Y・Uさん   昭和14年 24才 入隊
 所属 各務原航空隊通信隊
 学校に行っていたので、兵役延期が入隊が24才になった。各務原航空隊で通信・モールスの教育が半年あり、中国の漢口(武漢の隣)へ、隼部隊に配属され、対空通信・地上通信をした。南京に本部があり、中国全体の情報が集められ、漢口と日本との通信も行われていた。通信は乱数表による暗号であった。隼隊は中国の飛行機が少なかったので、基地の爆撃が多かった。
 16年12月、広島の第5師団と共に、マレー作戦に参加し、マレー北部のタイ国境近くのコタバルに上陸。クアラルンプールへ、マレーにはイギリス軍が残していってブルトーザーがあり、これを使うと1日で飛行場が作れてしまう。日本と機械力の違いを感じた。 「援蒋(えんしょう)ルート」の攻略で雲南へ進攻。通信機材とともにトラックで移動した。鉄道があるときには列車で、道もないときには、重爆撃機で機材とともに移動した。重慶の近くまで行ったが、物資の輸送が途絶え苦しい思いをした。その後、中国が手薄になったので、隼隊は中国に戻り、南京・北京にいた。その後、現役満期で日本に帰り東京に1ヵ月ほどいた。
 再招集で宮崎県の新田原の陸軍基地に配属になった。新兵が1〜2ヵ月の訓練で特攻として沖縄方面に出撃していった。18〜20才は使いやすいので、若い者に特攻をさせた。練習機は、燃料タンクが小さいので、燃料タンクとしてドラム缶を積んで特攻にいったこともあった。
 広島へ分隊15人ほどで配属になった。広島は軽飛行機ばかりであった。8月5日夜「明日の朝8時ごろ偉いさんが広島を通過するので、対空通信で誘導せよ」という電報があった。6日からっとはれた日であった。山陰の方から「B」がきたと見習いが言ったが、気にしなかった。その直後、稲光とピカーで、通信兵舎が落ち、腰を強打した。雨が降った。「B」が来たので、吹き流しを取り込みにいった警備係の兵隊が全身やけどで水膨れになっていた。飛行場に避難民が多数来て、「水を下さい。兵隊さん」と頼まれたが、水を飲ませると死んでしまうのでやらなかった。暁部隊がけが人を運んできた。死体でいっぱいになった。

 

白浦小学校では,聞き取りを1冊にまとめ,『白浦と戦争』調査の報告会を95年11月4日(土)に開きました。
報告会には,白浦の人約70人・海山町・紀伊長島町・尾鷲市の教員約40人に集まってもらいました。

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