2010年度は、1年生に話をするつもりで考えてきました。耐震工事の関係で2・3年も同じ日に体育館で登校日をすることなり、3学年で取り組むことになりました。1・2年生には4月に撮った三重県の「青い目の人形」の写真を見せてあり、6日の登校日には自分の大切な人形も持ってきてと頼んでおきました。
1年生の心に届けるには写真だけでは弱いので、自分の大切な人形ということから、「青い目の人形」を当時の子どもらが初め大切にしていた思いに迫らせようと考えました。



2010年度東小学校1・2・3年生の平和集会での取り組み 8月6日 (08・09年度の取り組みを1年生用に改修したものです。)

「青い目の人形」
<内容>
1、野口雨情の「青い目の人形」の歌から入りました。今から90年ほど前に日本でヒットした歌です。アメリカの人形で当時の子どもは喜んで大切にしたでしょう。
2、そうして7月に見せた9枚の写真の人形はいまどこにあるのか、説明しました。

     

どうして贈られたのか。
その前に当時の様子を簡単に話しました。

「130〜140年ほど前の日本は あまり ゆたかな 国では ありませんでした。仕事がなくて 外国へ家族で働きに
出ていく人が たくさん いました。 がんばって 働いたのですが その国の人から 仕事をうばってしまい、きらわれました。
また、日本は、朝鮮・中国へ、軍隊を送り、支配 しようとして いました。
中国やロシアと戦争もしました。
 アメリカでは、日本がなまいきだという声が高まり、 日本人を アメリカから追い出す法律まで できました。

日本に住んだことのあるキリスト きょう せんきょうし シドニー・ギューリック さんは、アメリカの 人たちに日本のことを
わかってもらおうと、 日本に、友情の 人形を おくる運動を 1926年にはじめました。

ギューリックさんの 呼びかけに  2,600,000人の人たちが  お金を出しあって12,739体の 人形を買いました。
そして、人形1体ごとに 名前を つけ、服を作り着せました。
本物そっくりのパスポートを  持たせ、日本におくりました。

「青い目の人形」は、1927年 (昭和2年)3月3日に日本で かんげい会を 受けました。 そのときの 歌です。
そして、日本中に配られました。 東京には 568体 大阪には 429体 愛知県には 349体。
 そして 三重県には、194体きました。

<東小学校の百年誌に載せられていた「青い目の人形}歓迎式展>の写真(08年度掲載)
子どもらは「たくさん人がいること、前に並んでいる人形に気づきました。
ひな壇を拡大しました。どんな人形が並んでいますか。(日本人形とアメリカ人形が並んでいます。)
ひな壇の真ん中の人形の名前は
「マリアン」と教えました。名前がわかることでずっと気持ちが近づきました。
他の学校の人形も教えました。



 二郷村立尋常高等小学校は今の東長島公民館のところにあったこともふれました。


紀北町では、引本小学校で4月4日アメリカ人形かんげい会をしたきろくが 残っています。かなり、にぎやかなかんげい会
だったと言っていました。 尾鷲小学校にも、来たと 聞きました。
 引本小学校におくられた人形は、 ガラスのケースにいれられ 大切にかざられたと聞きました。
東小学校の青い目の人形もきっと大切に されたと思います。

日本からも おれいに58体の 高級な人形を おくりました。 三重県の人形は「三重子」です


1941年、日本は  アメリカを はじめ たくさんの 国々を 相手に 戦争を  始めました。

軍隊は、国民が戦争に協力するように ヨーロッパの音楽や 英語を禁止しました。
「敵国の青い目の人形を こわせ」という命令も出ました。 新聞にも「たたきこわせ 青い目の人形」の記事が でました。
当時の新聞記事{叩き壊せ「青い目の人形」も見せました。

日本の各地で、人形がこわされたり、やかれたりしました。  
でも、先生たちのなかに「人形がわるくない」とこっそり、人形をかくした先生がいました。
職員室の 天井裏、理科室、資料室、 自分の家などにかくしました。
引本小学校では、 2階のさいほう室の天井裏に かくされました。

菰野のウォーレンがどうしてのこることができたのか

ウォーレン   1943年、校長先生がウォーレンの服や髪の毛をひきちぎりごみ箱にすてました。
さいほうの先生はその日おそくまで学校にのこり暗くなってからウォーレンをひらって、
みつからないように家に持ち帰りかみの毛をくっつけて、服もつくり押入れに隠したこと。

また、
グレース  当時の校長先生が「可愛らしい人形を焼却できない」と、
女の先生に保管を頼みました。その先生は、母親と相談をして蔵にかくし、子どもたちには燃やしたと報告したことなどを
話しました。

戦争がはげしくなり、戦死する兵隊さんがたくさんでてきました。
長島から戦争に出て行った人も戦死する人が多くなりました。
その人たちのお墓が東長島の墓地にありましたね。」


1945年8月15日 日本は負けを認めました。
  天皇が直接国民にラジオで知らせました。

しかし 引本小学校の青い目の人形は  戦争がはげしくなってきたときに とうとう見つかってしまい、 こわされてしまいました。
東小学校の青い目の人形は、どうなったかわかっていません。こわされたのか、空襲の火事で燃えてしまったのかわかりません。

戦争が終わり、人々は生きることに必死で、青い目の人形のことを忘れていました。 だいぶたちました。
学校を建て変えたり、すみずみまでの大そうじのときに人形が出てきました。 新聞やラジオ・テレビが報道しました。

今までに見つかった「青い目の人形」は、全国で280体ほどです。
三重県では9体が 見つかっています。

現在、見つかった青い目の人形は それぞれの学校で 大切に保管されています。
なお、アメリカへいった58体の 日本人形のうち44体はきちんと保管されていました。もちろん三重子も大切に保管されています。

1987年〜1988年に ギューリック3世(ギューリック博士の孫)により、「新青い目の人形」が
「青い目の人形」のある学校などにおくられた。 ギューリック博士の 「平和への願い」を 受けつぐために おくられた ものである。
三重県にも1体贈られました。
そして、歓迎式までして、大切にしていた人形を壊した人の心、壊すのに反対でかくした人の心
せんそうになれば自分の意見が言いにくくなるから、それまでにきちんと自分の思いを持って言える人になってください。
と結びました。



現代の戦争は、低学年用なので入れませんでした。その代わりに
呼崎の供養碑の写真を添えました。






もどる