2005年度 相賀小学校 4年生 平和教育
今年度の平和教育は、春の遠足に行った三野瀬駅に関わってやることを4月にきめました。
それで、遠足で児童にヒントを与えておきました。
以下が、今年の取り組みです。
おぼえていますか。どこですか。 三野瀬駅(みのせえき)です。 春の遠足に行きましたね。
思い出しましたか。
では、これは何でしょうか 何か あります。
弾(たま)です。何の弾?
この弾は、アメリカ軍の 飛行機がうった弾だそうです。
なにがあったのでしょうか。
まず、思い出しましょう。はじまりは、 1941年のできごとです。
1年生からの夏休みの勉強1年生は「青い目の人形」 2年生は「戦争と子ども」
3年生は「いのちのねだん」
をしたね。
1941年からはじまった
アジア太平洋戦争も
<相賀駅からの出征の写真>
日本がどんどん負けていました。
1945年3月10日、
東京大空襲(くうしゅう)
B29 334機10万人焼死。
3月12日、
名古屋大空襲、
B29 130機死者3000人。
(名古屋の空襲は9回目)
3月13日、大阪大空襲、B29 274機 20万発の焼夷弾。
4月から、三重県の津、明野、松阪、山田の空襲が続いた。
1945年5月14日午前8時ごろ、紀伊長島駅を目標に空襲。焼夷弾数十発投下。
国民学校(今の小学校)、病院、お寺など36,7件火事になった。
7月25日 アメリカ軍の飛行機が三野瀬駅にちょうどとまっていた上・下2列車に機銃掃射(きじゅうそうしゃ)をした。
その列車に乗っていた山本さんの話. 尾鷲中学校の4年生で15歳でした。松阪の工場で働いていて、月1回の休みで尾鷲に帰ってきて、また松阪の工場へ行くとちゅうの列車に同級生の今井君とのっていました。三野瀬駅にとまっているときに、機銃掃射の音がした。座席の下にかくれようとしたが、人がいた。
その場にしゃがみこんだらとなりの人は尻をうたれ血みどろだった。右肩がピリッとした。弾がかすめた。今井君の前の人がうたれた。 窓から飛び降り2mほどの横穴にかくれた。10人ほどいた。白いシャツの人が足をうたれて入ってきた。「国防色の服はよそへ行け!」とその人と交代させられた。山へ逃げた。友達の西島君に会った。
三野瀬駅の東側の山
三野瀬駅の西側の山
山の中で顔中血だらけのおばさんが赤ちゃんを抱いて片足みぞにはまったまま立っていた。「助けて、助けて。」とさけんでいた。赤ちゃんは泣いていた。おばさんは,脳天とひたいに穴があいていた。たまがつきぬけていた。
おばさんは「子どもがやられた。子どもを先に見て。」と言ったので見ると子どもは無事だった。おばさんは「ああ、良かった。良かった。」と言った。西島君は赤ちゃんをだき、私(山本さん)はおばさんと背負って運んだ。おばさんは大阪の人でした。
おばさんたちは、その後尾鷲の病院に運ばれたが、おばさんはなくなった。 この空襲でなくなったり、けがをした人の数は13人(紀伊長島町の記録)(尾鷲市に残っている記録 60人)
7月28日尾鷲湾襲撃(しゅうげき) アメリカ軍のグラマンがおそってきました。
潜水母艦「駒橋」セギ山の前で、ざしょう大破。
第45海防艦、天満浦にざしょう
須賀利浦港の第18播州丸沈没 引本湾の第10昭和丸(?)攻撃を受ける。 海軍 死者147名 負傷者200名以上 尾鷲小学校に運ばれる。
三野瀬駅の空襲と 尾鷲湾の空襲では、 大きな違いがあります。 なんでしょうか?
尾鷲湾で攻撃を受けたのは、 軍隊の船です。兵隊は戦う武器を持っていました。
三野瀬駅の列車に乗っていた人は、戦う武器を持っていましたか?
「武器を持っていない、兵隊でもない人を攻撃してはいけない。」
国際的な約束ルールがありますが、いつの戦争でも守られていません。
日本の軍隊も武器を持っていない人々を攻撃してきました。
この画像を知っていますか?
2005年、パレスチナの女性は、イスラエルの病院へやけどの治療に通っていた。
6月20日、門のところで持ち物を調べられ、ズボンの下の爆弾がばれて、自爆しようとポケットの中のスイッチを入れたが爆発しなかった。
彼女は、通っていた病院を ばくはしようとしていたのである。
と発表された。
彼女の爆弾で、病院にいる子どもが死ぬこともわかっていたといってます。
パレスチナとイスラエルは戦っています。世界では、戦闘中の国はたくさんあるのです。
日本の自衛隊も外国に行っています。
大丈夫でしょうか?
アメリカ軍の三野瀬駅の列車しゅうげき おわり
備考------今年度の取り組みは紀北の教師の聞き取りを参考に作りました。
加筆
義父の軍隊のことを、叔父に聞いた時にちょうどその場に居合わせた同じ集落の人が「父親が三野瀬駅の米軍機襲撃で死んだ。」と教えてくれた。1945年7月25日のアメリカ軍機による列車襲撃のことである。
「父親は41歳で、列車に乗っていて、太ももに機銃を受けて、尾鷲の紀勢病院に運ばれたがだめだった。」
「その日のことは今でもはっきり覚えている。10歳のときである。長浜の桟橋から船で尾鷲に急いで行くことになっていたが、死亡の連絡が来たので、船はいったん引きかえってきた。病院で新聞紙につつまれたものを渡され、開けてみると父親の足であった。」
「後日、同じ列車に乗っていて座席の下に隠れて助かった人は墓参りにきてくれた。」 と話してくれました。