◆ ヨネザアド漫遊記 ◆ 


自分で言うのもなんだが、濃い。これぐらい詳しく書いときゃ、一生忘れんだろう。
ヨネザアドは夢のようなところでした。
この漫遊記は、私の体験したヨネザアドのすべてです。
アタマニヤ帽子をかぶって歩いた夏の3日間。
原画も、人も、斜平山も、空気も、熱も、夜も、ラーメンも、忘れません。


2000.8.19 1日目


いざ、米沢に行かん

5:30am起床。津駅まで妻にマーチで送ってもらって、あ、マーチというのは
日産マーチとゆー車のことで、「たったらったらぁ〜」というマーチではない。
6:34発の近鉄特急で名古屋に向う。道中退屈するといけないので扶桑社文庫「銀河鉄道の夜」
を持ってきたが、読みはじめたとたん睡魔に引き込まれる。
私の銀河鉄道はヨネザアドに続く鉄路。

名古屋でのぞみに乗り換えて東京へ。薄曇り。東京駅ホームに出てみると暑い。
山形新幹線のホームに移動、つばさに乗り込む。大宮までは、6月に来たが、そこから先は
未知の風景である。宇都宮、郡山と進むうちに、東北の地形は微妙な凸凹が多いことに気付く。
福島を出ると、「次は米沢」のコールにぶるっと武者震い。あぁ、あと半時間でヨネザアド
なのよぉ〜。
つばさはまるで鈍行列車のようにスピードを落として山の中を登っていく。切り立った山、
深い緑。登り坂を終えて、下りはじめる。あと5分ちょっとで米沢に着くはずなのに、
まだ山並が切れない。米沢はいったいどんな山深いところなのだろう、といぶかる。
と、坂を下り終えて、広い盆地に出て視界が開ける。
左側の窓側の席だったので、身を乗り出して斜平山を探すが見つからない。
そしてすぐに米沢駅に着く。11:52am。新幹線がない頃に米沢を目指していたら、丸2日は
かかったであろうが、5時間半足らずで着いてしまう。ありがとう、新幹線。高いけど。
感謝はおいといて、来た、来たのだぁぁぁぁぁ・・・・ヨネザアドぉぉぉぉ



中年探偵団、再び

米沢駅はこじんまりした、でも雰囲気のある駅舎であった。荷物を肩に改札口を出ると、
そこでは「明るい執念・パウパウ」さんが舞っていた。もとい、待っていた。
「やぁ、お久しぶりー」と挨拶をかわす。6月に野田漫遊をした仲である。
バッグの中から2個の「アタマニヤ・キャップ」を取り出し、1つをパウパウさんに手渡す。
パウパウさん、そのデザインに一瞬たじろぐ。フリーサイズのベルトを調節するが、
パウパウさんはベルトをぎりぎりまで伸ばしてポッチを1つだけ穴に、ぷちっ、と入れて
かろうじてかぶることができた。
私はポッチを3つ、ぷちっぷちっぷちっ、と入れても余裕でかぶれる。
私の頭のサイズは、60cm。パウパウさんのは、62cm。合せて122cm。合計してどーする。
意を決して、2人してアタマニヤ・キャップをかぶる。
サンチョさんの腹をよじれさせた、「ビッグヘッドアブナイオッサンズ」略して「BHAOs」、
バーォズ結成の瞬間である。
自分で作っておきながら言うのもなんだが、この帽子をかぶるのは大馬鹿者である。
事情を知らない人が見たら、危険人物以外の何者でもない。しかし、
「オイラは馬鹿なのよぉ〜」と公言しながら歩いているよーなものなので、一般民間人から見れば、
真夏にルーズソックスをはいている女子高生や山姥ガングロねーちゃんと同様に、
馬鹿の選別がしやすくてよいかもしんない。

駅舎を出ると、ヒデヨシの立て看板がお出迎え。さっそくカメラでパチリ。
あぁ、本当にヨネザアドなんだなぁぁ、と実感がじわり。暑さもじわり、三重県と変わらない。
駅前にとめてあったパウパウさんの新潟ナンバーの車に乗り込む。パウパウさんは新潟の人なので、
この日は車で米沢に来たのである。新潟と米沢は意外に近く、車で2時間半ほどで来れるのだそう。

「パウパウさん、もう原画展行きました?」と聞くと、「いや、まだ」ということだが、「んじゃ、
米沢ポポロへれっつらごー」というほど原画展は気安いものではない。覚悟を決めてからでなければ
会場には入れない。そーいうわけで、まずラーメンを食いに行く。なんでやねん。



米沢ラーメンで腹ごしらえ

私はやおらバッグから米沢マップとメモ帳を取り出した。パウパウさんが「どこに行きますぅ〜」と
言うので、半米沢人の彼を差し置いて私が主導権をとり、「熊文、行きましょぉ」と決断。
しかし、私は米沢の地理には全く暗い。かたやパウパウさんは、山形大工学部出身であるから、
米沢の20年前の地理には詳しい。地図を見せて、「熊文は、んーと・・・この辺」と言うと、
「ここがポポロ、んでここがサンルート」と案内付きで運転をしてくれて、最短距離で熊文に到着。
店に入ると畳のコーナーの4人テーブルに米沢現地人のおじさん2人が並んで座っていて、その前
しか空いていなかったので、そこに相席で座る。
パウパウさんが、いきなり友達のごとくに話しかけると、おじさんたちも気安く返事をしてくれた。
そこで私が「暑いですねー。私、三重県から来たんですが、山形はもっと涼しいかと
思ってました。」と言うと、「ほー、三重県から。山形は暑いよー。なんてったって最高気温の
日本記録を持ってんだから−。」と、暑さ自慢をされてしまった。暑さ比べは完敗。
おじさんたちは、「前に喜多方にラーメンを食べに行って、『米沢から来た』と言ったら、
『どうしてここに来たの?米沢のラーメンの方がここよりおいしいでしょう』って言われたよ。」
と、米沢ラーメンの自慢をする。自信満々である。
このおじさんたちの写真を撮っておけばよかった。
私は中華そば、パウパウさんはメンマラーメン大盛りを注文し、はふはふ言いながら食べる。
熊文のラーメンはあっさり味だが、深い味わいがあった。さすがますむらさんお薦めの店だけある。
細い縮れ麺が私の好みに合う。
「ふぅ〜、食った食った、んまかった。」とボデ腹をさすりながら店を出る頃には、入口で待って
いる人が数人。さすが人気がある。
看板と店の入口をカメラにおさめ、「じゃ、次は?」というので、「んーと、次は味処・元、行き
ましょぉぉ」ということで、また車を走らせる。ここはラーメン専門店ではないようだが、事前の
リサーチでは人気が高かったので行ってみたのだ。やはり畳の上で座って世間話などする。
今度は私は味噌中華、パウパウさんはざるラーメンだったかを注文。味噌はコクがあってまずまずの
味であった。背後のテレビでは高校野球をやっていた。
食べ終えて、店の写真を撮って、「さて、そろそろ原画展、行きますか。」



かき氷しゃっこしゃっこ

車を走らせながらパウパウさんが「かき氷、食っていきますか」と言う。なんでも、大学時代によく
行ったかき氷屋さんがあるとのこと。ポポロの近くの「あらいや」という店。店に着く直前には車の
冷房を止めて、かき氷をより一層おいしくいただく準備をするあたり、パウパウさん徹底している。
道端に車をおいて、あらいやへ。その店のガラス戸には原画展のポスター(B)が。ここで初めてこの
ポスターに遭遇。このあらいやはだんご屋であった。暑い時期にはだんご屋を休業して、氷だけで
勝負している珍しい店である。
冷房のない開け放たれた店に入って、「生レモン」味のかき氷を注文する。パウパウさんは確か、
イチゴミルク味。ここの店のユニークなところは、大きなかつお節削り器みたいなのに、細長い氷を
載せて手でその氷を前後に動かして、しゃっこしゃっこ削るのである。こーいう削り方は初めて見た。
そして、その比較的粗目な氷を口の狭いジュース用みたいなガラスのコップに入れてあるのだが、
その入れ方がまた変わっていて、コップの口から上に6〜7cmぐらいまで盛り上げてあるのだ。
従って、味の付いた氷を食べるには、上に乗っている素の氷を食べ尽くすか、その氷をコップの中に
押し込むかするしかない。私は上品にスプーンを使って上に飛び出ている氷を押し込もうとしたが、
半分ぐらいが外にこぼれ落ちてしまって、テーブル上は氷だらけと言う有り様。
パウパウさんはというと、手慣れた様子で「こーやるんですよー」と、素手の手のひらで氷を
コップに押し込んでいる。さっきから手も洗っていないのでこれは不衛生であるが、きっとヒデヨシ
のような鉄腹をもっているパウパウさんは平気である。
生レモン味は実においしく、半分も食べ進むうちに汗も引いて涼しーくなってくる。パウパウさんの
ペースに合わせて急いで食べていたら、冷たさが頭のてっぺんを直撃し、しばらく、うーんと唸る。



遂に原画展へ

ようやく、サンルート米沢にチェックイン。パウパウさんは、車に透明プラスチック衣装ケース(大)に
マンガ少年とか箱入り愛蔵版とかをどっさり入れて持ってきていた。およそ30kgほどのそのケースを
2人で運んでフロントへ。私は1か月も前にインターネットの「旅の窓口」というところを通じて
予約をしてあった。一方、パウパウさんはそれとは別に直前に新潟から予約をした。
ところが、ホテルのフロントで渡されたルームキーを見ると、私が810、パウパウさんが812。
「やー、なんと奇遇だねぇ、間に部屋を1つはさんでるだけだから、近いねー。」と言いつつ
エレベーターで昇っていって部屋に行ってみたらば、811は向いの部屋で810と812は隣どおしだった。
そのとき、ふっと、不覚にも私たち中年探偵団が赤い糸で結ばれている図が頭に浮かんでしまったので
慌てて心の中のその図を消した。間違っても、我々は赤い糸では結ばれたくはない。せめて、水色とか
もうちょっと違う色にしなければならん。い、いや、色の問題ではなくて。
パウパウさんが昨年の、「1st.収集地獄ミーティング in 津」(参加者 : 私、パウパウさん、たーきーさん、
てらりんまさん) でたーきーさんからもらった2枚の「毘」のTシャツを持参してきて、「これを
一緒に着よう」と言うので、また赤い糸の図を想像してしまい、打ち消すのに苦労した。

そのTシャツを着込み、アタマニヤ・キャップをかぶり、ホテルを出て、横断歩道を渡り、ポポロの
南口に行く。原画展の案内看板を写真におさめ、エスカレーターで4階へ。
「あぁ、きっと今頃はサイン会の真っ最中だろうなー」と思うとどんな顔をしてますむらさんの前に
現れればよいのかと緊張感が高まる。エスカレーターを昇り切ったところでイキナリ若い女性2人から
声をかけられた。ゆかりさんと、わたしさんだった。おー、生ゆかりさんと生わたしさんだーと、
バーチャルなお友達が急に実体化したよーな錯覚を覚える。2人はそこで、まるでスタッフのように、
サイン会の行列の整理をしてくれていた。
そして、その行列の先を辿って歩いてゆくと・・・・・・ますむらさんがサインをしていらっしゃる!!

23年前のマンガ少年創刊号以来昨年までは、全く別の世界に住んでいる人だと思っていた、
ますむらさんが、5mと離れていないところでサインをしてみえて、それを私は肉眼で見ている・・・。
月並みだけれど、これこそが「感無量」というにふさわしい瞬間だった。
ますむらさんは、数秒後に異様な気配を感じたのか顔を上げて、私たちと視線が合った。
『わわっっ、来ちゃったぜ、ホントに変な帽子をかぶってよォォ』という表情をされたますむらさんに、
私はぺこりと頭を下げて、にーっと笑った。
あー、とうとう来たのだ。頭にささった水色の矢が、それを放った人のところに吸い寄せられて
戻って来たのだ。
米沢に向う前々日、私は自分の掲示板に次のように書いたのだった。

  《矢はそれを放った弓を覚えている》

   『私の頭を貫いている矢は、すでに先生が20年以上も前に放たれた矢です。
   「青猫島コスモス紀」「アタゴオルは猫の森」「永遠なる瞳の群」と、
   「ぱふ」の特集記事から放たれた、ヨネザアド発、アタゴオル経由の水色の矢は
   私の頭に突き刺さったまま、抜けないのです。この矢を放った弓に出会う旅が
   あと2日後に始まります。
   ・・・不覚にも私、これを書きながら涙ぐんでしまいました。』

三重県から800km離れた米沢の地で、私の頭の矢はそれを放った弓に出会うことができた。
アタマニヤ・キャップは、ま、正直なところ、「アタゴオルマニア」→「アタマニヤ」→「頭に矢」
という、単なる駄洒落から始まった、酷寒のオヤジギャグではあるのだが、
製作していくうちに私の中ではだんだんと真剣な、神聖なしるしとなっていったのであった。
20日のお酒会では、自己紹介のところでドラマーのタカシさんからも「なんだそれー」って感じで
あきれられましたよ、えぇ。21日のお茶会でも、ますむらさんから「皆に、頭に矢の由来を説明せよ」
との御命令により説明したところ、まじめなファンが多かったのか、実にまじめにその説明を聞いて
いただいたので、ますむらさんから「ホラ、全然受けないじゃん」とか突っ込まれるなど、見事に寒い
オヤジギャグではあったのだが、頭に矢は、けっして、受け狙いのスタンドプレーがはずれたんじゃ
なかったのよぅぅぅぅぅぅ。しくしくしくしくしくしく・・・・。



原画との対面

ますむらさんは、まだまだ続くサイン待ちの列にていねいに応対されていた。
たーきーさん(瀧口さん)が見えたのでおめでとうの挨拶をする。
しばらくしてホシノミナトさんが現れたので、パウパウさんとで、収集マニアの中年が3人そろった
のであった。
ここで誤解のないように書いておくと、一口に収集マニアと言っても、ホシノミナトさんだけは別格
である。私とホシノミナトさんが同じなのは、中年である、ということぐらいのものだ。
ま、原画展の会場でガラスケースの中に入っているホシノミナトさんの収集品を御覧になった方は
よーくお分かりであろうが、彼の収集は尋常なレベルではない。あのガラスケースからは、何か、
すごみさえただようのであった。

さて、その他何人かの、ハンドルネームを存じ上げている方々と挨拶を交わし、いよいよゲートを
くぐって、原画との対面に臨む。
入ってすぐ左の壁に原画展実行委員長・瀧口宏さんの言葉があったので、そこから右に見始めた。
いきなり米沢市市制100周年ポスター、野田市市制50周年ポスター、今回の原画展ポスター
と続き、カラーの原画の緻密さに圧倒される。
それから白黒の原画に対面。順路と逆だと気付き、改めて入口に戻って右側の壁に取り付き一枚一枚
なめるようにして見ていく。
ぐぐっと画面に近づいていくと、かぶっている頭に矢キャップの影が画面に映って自分の姿を再認識
する。原画は私の身長(173cm)には少し低すぎる位置にかけてあるので、少し腰をかがめながらアゴを
突き出して見ていく。あまりにゆっくり見ているので、後ろから来た地元の方や子どもたちが
しょっちゅう私を追い抜いていく。
彼ら、彼女らはけったいな帽子をかぶっている私を見て、いったい何を感じたであろうか。
追い抜くのはいいのだが、私が見ている絵を飛び越して行ってしまう人たちが多い。
『あぁぁーっ、待って待って、どきますからこの絵も見ていってよぉぉ・・・』と思うが、さっさと
追い抜いていってしまうのが淋しい。
せっかく原画を見に来たのなら、全ての原画をちゃんと見ていった方がいいのになー、と願う。

私は原画のあまりの素晴しさ、すごさに、声も出ない。
カラー作品は、一枚一枚が芸術作品だった。「マンガ」とか「イラスト」という範疇にくくっては
いけないほどそれらの絵は、一枚一枚全部、宝物であった。
かたや白黒の原画には、マンガ家と出版社との凄絶な共同作業の一端が垣間見えたように思う。
これは私の勝手な想像かもしれないが、原稿を描く側は自分の満足のいく最高の水準を目指して
〆切りのぎりぎりまでねばって描くであろうし、出版社側はそれを期日までに印刷して本に
しなければならないのだから、ぎりぎりに仕上がってきた原稿に素早く写植を貼らねばならないし、
印刷に出ない鉛筆の線なども消している暇はないしその必要もない。
そういう修羅場をくぐってきたのがあの原稿たちだったのではないだろうか。
最終的に、印刷物として読者の目に触れることを想定して描かれる原画は、印刷の現場では版下の
原稿に過ぎない。いや、過ぎない、というよりも、それ以下でもそれ以上でもない存在、と言うべき
かもしれない。だから、私は白黒の原稿のセリフの写植の大胆な貼り方や、そのまま残っている鉛筆
書きのセリフ、そしてホワイトの修正のあとなどに、プロの仕事の迫力を感じる。
ますむらさんが、「原画展はもう2度とやりません」とおっしゃられるのは、ひとつにはそういう
原画の性格を理解してもらえない観覧者には、原画は印刷された完成品としての本よりも綺麗でない
という印象だけしか与えないのではないか、という危惧を感じておられるのかもしれないと私は
思った。

私は写植の文字は無視して、ペンで描かれた線の1本1本を目で追っていった。
   地面の草でさえ神経の行き届いた極細線で描かれている。
   ヒデヨシの毛、1本1本の繊細さ。
   「青猫島コスモス紀」の小指の先より小さいヒデヨシの表情。
また、ベタのムラの向う側に塗り込められて印刷には決して表れない模様も見た。
   「影切り森の銀ハープ」で欠けたヒデヨシの影の中の花。
そしてホワイトで塗られて消された線。
   「ブドウの森」で消された5人目のシルエットはフーコちゃんだったろうか・・・
「銀河鉄道の夜」(初期形)の切り取られて貼り直されたジョバンニの顔は、
元はどんなだったんだろう・・・

たとえ現代の印刷技術がハイレベルだとしても、原画の持っている線の表情までは再現し切れない。
原画には、B5やB6に縮小される過程の中でかき消えてしまった、作者がペンを持って描いたという
生々しい記憶が残っている。



大人数のお茶会、でもって全種類制覇!!

3分の1も見終わらないうちに、サイン会は終了したようで、ホシノミナトさんからお茶会への
案内があった。喫茶コーナーに行ってみると、Rock君がお世話をしてくれて、コーヒーや紅茶の
オーダーをとっていてくれた。ますむらさんからまず、「遠いところからよくいらっしゃいました」
とご挨拶していただき、続いて1人1人が順に立って自己紹介。名前とHNとその他言いたいことを
あれこれと。私は自己紹介で頭に矢の説明などしたが、自分で考えても変なおじさんである。
パウパウさんが、「矢の先がとれた」と言う。汗がしみて、水性のボンドが溶けてしまった。

私は記憶力がないので、ファンの方たちの名前を全部は憶え切れなかった。顔と名前が一致するのは、
ぶうにゃんさん、いとやんさん、わたしさん、そらねこさん、ゆかりさん、ゆっきんさん、NowhereMan
さん、リロコトヒさん、みどりむし姉妹、にごりさん、にしだの大介さん、猫の目時計さん、サンチョ
さん、赤木さん、だいちゃん、岩手大農学部の学生の、うおさん (宮沢賢治の後輩)。
あ、もちろんパウパウさんもいた。それから、山形大の卒業生さんの名前を失念。
まだあと8人ほどいたはず・・・
周りにいる人たちにアタマニヤ・キャップに銀色のペンでサインをしてもらう。

お茶会が終わって、ロビーに出たら、紅マグロ大王さんを発見。二言三言話をするが、うまく感謝の
気持ちが言葉にならず、もどかしい思いをする。私がインターネットを始めて、いろいろなファンの人
を知ることができたのは「粉雪亭」があったからだ。
それから、つばささんからTシャツを3枚購入。(一番のお気に入りはアタゴオル・スケッチ
の酔いどれ鉄。その次は、あむちゃん。その次は耳の見えてるヒデヨシ。)
絵葉書も買う。9種類のうち、既に2種類は売り切れ。つい最近まで、つばささんがますむらさんの
妹さんであることを知らずにいたが、「ヨネザアドにようこそ」を読み進むうちに気付いたのだった。
ますむらさんが野田に住むきっかけを作られたのがこのつばささんであることは有名な話。
そして、新装版・銀河鉄道の夜(光) 、雪渡り + 十力の金剛石(虹) 、猫の事務所 + どんぐりと山猫(森)
とジャリアを購入。これで、ますむら作品の単行本132種類を全部制覇!!
私の収集人生にとっては、ひとつの歴史的瞬間である。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。(拍手の音)
しみじみと、過ぎこし日々を顧みる。あぁ、この1年半は思い返せば壮絶な古本屋巡りの日々であった。
んな、大仰なもんかい。
単行本完全制覇とは言え「土が歌ってるよ」がないのが、画竜点睛を欠く。だが、これは非売品だから、
と自らを納得させる。
・・・しかし、ぅぅぅ。ショーケースの中にこの「土が歌ってるよ」が飾ってあるのを見て、
ショックを受ける。ホシノミナトさん、これもゲットしていたのかぁぁぁ。アナタはやっぱり凄すぎる。
  
それからロビーでますむらさんと並んで写真を撮ってもらう。私の左から、頭に向って
弓を射るポーズまでしてくださって、ニコニコ顔の裏では感激していた私。
矢が左から右に突き抜けるように作ったのは全く偶然だったのだけれど、あとで考えれば、
左利きのますむらさんが自然に弓矢を構えたときにぴったりくる矢の向きであった。
ますむらさんは、私のアタマニヤ・キャップを猫の目時計フレームの中に置いて、写真をパチリ。
私は、そのようすを横からパチリ。
そしてまた、原画の海に潜っていく。



猫の目時計の鳴き声を聴く

その頃、にせまるさん登場。豪傑の酒豪を想像していたので、その可憐さに驚く。
午後6時が近づいてきたので、会場から外に出て、皆で猫の目時計の
前に集合。そしてファンの真打ち、えのぽんさんとあださんとSENRIさんの主婦連到着!!
記念冊子「ねっちょ いん よねざぁど」をいただく。50ページ、ねっちょな記事で埋め尽くされ
ている。
今か今かと時報を待つが、目盛りがないのでいつ鳴き始めるかわからない。
私は持参したカセットテープレコーダーを5分ぐらい前から回しはじめていた。
と、突如、「みゃっ、みゃっ、みゃっ、みゃろろろろろろろ〜」とかなりデカイ音で5秒ほど鳴いて
静かになる。「おー、なんだこりゃー」とアッケにとられた。もっと長く鳴いてもいいのになぁ・・・
でも満足したので写真撮影などして広場のそばのベンチに座る。パウパウさんがコンビニでボンドを
買ってきたので、それを塗り直して再度固定しながら涼しくなりかけた風に吹かれる。



「魚民」でのお酒会

7時ごろ、ポポロの東側に移動して2階に上がる。10人ずつぐらいに分かれて、3つのテーブルを占領
する。ますむらさんのテーブルは若い女性または主婦ばかりで華やいでいた。
ふっと、ゾウアザラシのハーレムを想像する。
いかんいかん、赤い糸といい、最近の想像はどーもいかん。
私が座ったテーブルには、「ヨネザアドにようこそ」のつばささんもいらっしゃった。
生ビールもたくさん飲んで、そのうち冷酒に切りかえて更に飲みながら話す。
パウパウさん、ホシノミナトさん、いとやんさん、ゆっきんさん、コノハさん、ゆかりさん、などと
話したはずだが、日本酒のせいでその大半の記憶は忘却の彼方に飛び去ってしまった・・・・・・
おぉ、そうじゃった、うおさん (岩手大農学部生) と、山形大工学部卒さんと、理系な話もしたっけ。
パウパウさんも山形大工学部、で私が名古屋大理学部。そのテーブルは理系比率が高かった。
「アタゴオル好きには理系が多いんじゃないの?」と言うと、女性軍の多いテーブルを見て、
「そーでもないのでは?」という意見もあり。

そのとき、うおさんが私(右)とパウパウさん(左)の写真を撮ってくださって、後日送ってくれました。
白黒写真なんですよ−。いい写真です。気に入ってます。ありがとぉぉぉ。

   

途中で、白布温泉の音楽祭出演を終えた、たーきーさんが魚民に到着。
店の人が飲み物のメニューを見せて「何にいたしますか?」と聞くと、たーきーさんは
「ママレモンサワーください。」と言う。横で聞いていた私は耳を疑い、「え?ママレモン?あの
手に優しいという?」と言うと、よく聞いたら「生レモンサワー」であった。
してみると米沢では生のレモンを入れていないレモンサワーと、生のレモンの輪切りの入っている
レモンサワーがあるわけだ。
席を変えて、ますむらさんのテーブルに行き、反対側に座って米沢びとと話をする。
聞けば、「東光」の社長さんとその近所の方。「斜平山の絵は、一目でわかるんですよ」との話に
不思議な感じがする。
斜平山の稜線には際立った特徴があるわけではないのに、どーして分かるのだろう・・・
それにしても、米沢の人たちはみんな親しみ深い。話を聞いていて実に楽しい。

そーこーするうち、ますむらさんと目と目が合った。私を手招きされるので、冷酒を持ってフラフラ
近寄って行って、となりに座る。
腕には、福島からやってきたさかなへんさんによって落書きされた金色の唐草模様がうねうねと
描かれている。ふっふっふっふ、その金色のフェルトペンは私が持ってきたものなのじゃよぉぉ。
「インターネットではなんでHNなんだろーねー。本名ではダメなの?なんか、本名では困ることある?」
とのお言葉に、私は「いいえ、私は全然平気です。最初にチャットに入った時には本名だったんです
けど、他の人がそうではなかったから、そういうものなのかと思ってHNにしました。」とか答えた。
「じゃ、これからは本名で行こうよ。本音は本名で言わなきゃ。それから、『先生』という呼び方も
やめようよ。私はあなたの先生かい?」

内心では「ますむらさん」と呼ぶことには抵抗感があって、やっぱり「ますむら先生」と呼ぶ方が
落ち着くし、実際のところますむらさんは私にとっては人生の師であることもまた事実なのだが、
私は、ますむら先生の、もとい、ますむらさんの意見に従い、今後は私のHPでも
「ますむらさん」または「ますむら氏」と書くことを、このとき決心した。
「さん」付けの呼び名は、場合によってはやや不遜な感じになることもあるので、尊敬の気持ちを
忘れないようにして、使っていきたいと思う。
そう言えば、昔、大学生だった頃は、教授たちのことを「さん」付けで呼んでいたことを思い出した。

・・・その後いろいろ考えた末HNは「た〜け」のままでいくことにした。

さて、宴も進み、皆さんそーとーヨッパライである。私も滅多に飲まない日本酒がかなり効いてきて
前後左右と上下の感覚がおぼつかない。
そろそろお開きに、ということで3500円だったかを払って外に出る。
私は時計を持たない主義なので時間が分からないが、ま、11時半ぐらいだろうと思っていたら、
午前1時であった。ホントに楽しい時間は、あっという間に過ぎる。
さかなへんさんが持ってきた法螺貝を吹いてみた。法螺を吹くのは得意だが、法螺貝はちょっと
難しい。でも、昔トランペットを吹いていたので、音は出た。
今日はもうこれで終わり、ということで、解散する。半分無意識にホテルに戻り、シャワーを浴びる
気力もなく、浴衣に着替える気力さえなく、しかし、買ってきたジャリアは読まなきゃ、と20ページ
ほど読むが意識がなくなり、ダウン。
こうして嵐のような1日目は終わった。
・・・・しかし、これが単なる序章であることをそのとき私は知る由もなかった、あぁぁ。



2000.8.20 2日目


斜平山の風景を求めて

7時起床。私は連泊だが、8時前にパウパウさんはチェックアウトし、昨夜は結局みんなに
披露する暇もなかった衣装ケースの本を部屋から下ろしてきて車に積み込む。
広場に出て、昨夜意気投合した赤木さんを待っていると、
「起きたら7時50分でしたぁ。あせって着替えて出てきましたぁ。」と言いながら彼女が登場。
3人で斜平山を目指す。よく考えたら、私はまだ昨日から一度も斜平山を見ていなかった。
しかし、あの「再会」の作品の中に出てくる、あのヒデヨシがレロレロ降りてきた道がどこなのか、
ということは調べがついていた。
米沢への出発の2日ほど前、インターネットの地図のサイトで斜平山 (御存知のように、「なでらやま」
というのは通称で、正式名称は「笹野山」である。) と愛宕山、及び近辺の道路と線路の関係を調べて
みたところ、あの山並を正面に見る位置にある踏み切りは、1カ所しかないっ!!
それは愛宕小の南南東、米沢二中の南西、山形大工学部の西。林泉寺2丁目と3丁目の境目の道である。
パウパウさんも、「二中の南西に細い道があるはずだが、たぶんそこだ。」と分かっていた。

車を走らせ、パウパウさんお薦めのパン屋さん (ホームベーカリー・中村屋・丸の内店) で私は
トマトサンドとカレーパンと丸っこいチーズ味の小さなパン (ポンデチ−ズ) と牛乳を買う。
運転しながらパウパウさんは米沢の見どころの解説もしてくれる。
「ここが上杉神社」「ここが山形大」「やまとや。このラーメン屋はうまいけど、ボリュームがすごい」
そうこうするうち、斜平山が見えてきた!! あぁぁ。あれが斜平山だぁぁ。
晴れていて、しかも朝なので空気が澄んでいて山並がくっきり見える。
山形大学を過ぎて、細い道を左に折れて、すぐ右に折れると・・・・
あったっっ!! 踏み切りだ!! おおぉぉ、道が上下にうねって、あの絵の通りだっっっ・・・・
路肩に車を止めてもらい、いそいそとカメラを持って降りる。
パウパウさんは、衣装ケースから、ガロの「再会」の号 (1973年11月号) を取り出し、あのヒデヨシが
やってくるページを開いて、その風景がどこから見たものかを特定しはじめた。
「道の右側にある電柱が、踏み切りから4つ目まで見えるところ・・・。この辺だ!!」
電柱はおそらく昔は木の電柱であったろうが、今はコンクリート製に変わっている。今の電柱はきっと
昔よりは背が高いであろうが、電柱の位置はそんなに変わってはいないだろうと考えて、
「ここだっっっ!!」というところを断定。
恍惚となりながら、道のど真ん中に立ち尽くし、斜平山と愛宕山を眺める。
山の稜線もほとんど絵と同じであることを見て、ぞくぞくっ、と来る。
ぼーっとしていると車に轢かれるので、ときどき後ろを振り向きながら、カメラを構え、シャッターを
押す。ヒデヨシと同じよーに写りたいので、パウパウさんと私と、交互に道のまん中に立ち、写真の
撮りっこをする。当然、アタマニヤ・キャップをかぶったままである。
頭が線路よりも下に来るように撮ろうとすると、中腰でポーズをとらねばならないことに気付く。
写真を撮りながら、私は線路手前に何軒も建ってしまった家をとっぱらって、昔のよーに何もない風景
を見てみたいなぁと思った。

せめてもの救いは、線路の向うの風景。
今も青々とした水田が広がり、「再会」のページとほとんど変わらない。
十分満足した後で、踏み切りを渡り、電線が写らない場所まで山に近づき、斜平山をパノラマで写す。
特徴的な断層の露出した山肌をじぃーっと見つめる。フラッパー9月号の氷の斜平山の山肌と同じ
である。「ヒデヨシ君の記憶の郷里は すべての者の郷里へ通じるのだす」という美茶さんの言葉を
反芻する。ヒデヨシの記憶の底に残っている風景が斜平山であるのと同様に、私にも、そしてまた、
他の誰にでも、故郷の原風景はある。
私たちは、ヒデヨシに導かれて、その自分自身の記憶の奥底を呼び醒ます必要がある。



再び、猫の目時計

赤木さんが「猫の目時計が鳴くのを聞いていない。」と言うので、あわてて車に乗り込み、ポポロに
戻る。9時に間に合わせるべく、パウパウさんは信号の少ない裏道をばく進する。
車の中の時計は非情に進んでいく。絶対無理だと思っていたが、なんと1分前に到着。赤木さんは
携帯電話を取り出し、誰かに電話をかけている。「今から鳴くから電話を切らないで聞いててねー」
と言う。電話の相手は彼氏であった。
と、猫の目時計が例によって、「みゃっ、みゃっ、みゃっ、みゃろろろろろろろろ〜」と鳴いた。
今回の鳴き声を聞いたのは私たち3人と、その電話の彼氏だけであった。
「聞こえたぁ?んじゃ、切るね〜」と赤木さん。アナタ、いい味出してるよ−、うん。
電話で鳴き声を聞かされた彼氏はどんな気持ちであったろうか。
彼が平凡な一般人でなく、ますむらファンであることを願わずにはおれない。
猫の目時計が鳴き終わってしばらくして、コノハさんが現れた。



米沢城跡で朝食

赤木さんとはここで別れ、我々中年探偵団とコノハさんは原画展が始まる前にと、米沢城跡に向う。
上杉神社はこの城跡の中にある。ちょうど蓮が見頃で、かなり大きな緑色の葉っぱとピンク色の花が
外堀の池を埋め尽くしていた。
パウパウさんが、「これは『自動販売機』の場面みたいだねぇ」と言う。
確かにあの、水没してしまった東京の風景を彷佛とさせる風景であった。
私たち頭に矢中年探偵団はその帽子のままベンチに座って、むっちゃらむっちゃらパンを食う。
そして、原画展会場へと戻るのであった。



お宝ビデオに感動

10時直前にポポロに到着。4階に上ってみると、既にホシノミナトさんがいる。
「米沢で働きたいなあ」のあむちゃんのポスターが欲しいので、パウパウさんは「新幹線ポスター
プレゼント」の投票用紙を書いている。私は、既に昨日、書いてしまっていた。
そこでまずは、原画を見る。
足はどうしても初期の作品のところに向ってしまう。あぁ、ヒデヨシは架空の存在ではなく、生きている
のだと感じる。どこかの次元にきっと生きている。

11時ごろから、ビデオの上映が始まるというので、地元の子どもたちよりも早く座席取りをしてまん中の
1番前に座る。実にオトナ気ない。上映の係がいないとかで、ホシノミナトさんがビデオ係をする。
上映に先立ち、適確な解説までしてくれる。上映時間は55分。内容は、
「NHK600こちら情報部(20年前のもの)」「セキスイ、ニッサン、ハウスのCM」
「オリジナルアニメ・星街編」「NHKインタビュー(14年ぐらい前のもの)」であった。

私は600こちら情報部は、20年前にオンエアされたときに見ていたのであるが、記憶はいい加減であった。
チェックのボタンダウンシャツで歌っておられたと思ったが、実際は白のヒデヨシトレーナーであった。
チェックのシャツは自宅での様子を映した時に着ていらっしゃった。
「魚つりのサンバ」は、LP「風の気分」のものとは少し違う歌い方になっている部分があったが、
映像付きで聴く歌は楽しい。
CMはテレビではちゃんと見ていなかったので、どれも新鮮だった。中でも、セキスイのCMは抜群に
よかった。ヒデヨシが活き活きしている。
オリジナル・アニメも楽しい。しかし、やはりヒデヨシの声はイメージに合わない。
ヒデヨシは1万年以上生きているのではあるが、その声はあまりおじさんっぽくてはいけない。
無垢でふてぶてしい子どもでなければいけない。と私は思う。
14年前のインタビューはまだ白かった御自宅で行なわれていた。真摯に語るその言葉は、胸にしみた。
録音しとくべきだった。すぐ忘れてしまうアルツハイマー前駆症状な私。



2度目の「再会」の風景

ビデオの上映が終わって、ロビーで相談し、またもやラーメンを食べに行くことにする。今日は、パウパウ
さんと、コノハさんと、私と、えのぽんさんと、せんりさんと、ゆっきんさんの6人である。
私とパウパウさん以外はまだ斜平山のあの道を見ていないので、まず「再会」の風景を見に行く。
朝よりはもやがかかって斜平山はくっきりとは見えなかったが、逆に今度は道が太陽の照り返しで光って
よく見える。えのぽんさんはビデオ撮影。私とコノハさんは写真撮影。
踏み切りの名前は、「第3古志田踏切」(4K352M)である。白地に窓の周りが青い2両編成のJRの列車が
北から南へ走り去った。



ラーメン求めて米沢一周。またもや、かき氷

たーきーさんがお薦めの「ひらま」を探そう、ということで出発。私のリサーチでは、地図のだいたいの
ところしかわからず、とりあえず走ってみることにする。このあたりではないか、という野生の勘は
今回は通用せず、ぐるぐる回ってもそれらしい店がない。しかたがないので、「沢田食堂」を探してみるが
これも見つからない。「浜長食堂」にも行ってみるが、あるべき場所に店がない。
あぁ、今日はフラレっぱなしだ。米沢は我々を見放した〜、ぅぅぅぅぅ。
そうこうするうち、ポポロの近くまで戻ってきてしまったので、上杉城跡のすぐ近くの「上花輪」に入る。
結局、市内をぐるっとひと回りしてきただけであった。
しかし、ここのラーメンもなかなかイケた。んまかった。
コノハさんはスープまで全部平らげたが、お腹の出っ張りと塩分取り過ぎが気になる私はスープは残した。
せんりさんは冷やしラーメンを食べていたので、あれも食べたかった、と後悔する。

汗がだーだー流れるので、やっぱりかき氷が6人を呼んでいた。
昨日の「あらいや」に行く。私は昨日の味が忘れられず、またもや生レモン味を注文。
「ひき茶」という正体不明の味にも挑戦すべきだったと、これもまたあとで後悔したが、そのときは
とにかくラーメンで吹き出た汗を気持ちよく鎮めたかったので、生レモンにすがってしまった。
「生レモン」は言いにくいので、つい「ママレモン」と言ってしまいそうになる。
私とパウパウさんとコノハさんが1つのテーブル、もう1つのテーブルにえのぽんさんとせんりさんと
ゆっきんさん。パウパウさんは昨日と同じように、ヒデヨシのように微笑みながら、うず高く積った氷を
手のひらで押し込んでいる。私も真似をして手のひらで押し込むが、コノハさんは悪戦苦闘している。
私はきつく押し込み過ぎて、かき氷がくっついてまたかたまりの氷に戻ってしまった。
スプーンを突き刺そうとしてもはね返されてアセる。
半分以上食べたあたりで、パウパウさんが「くーーっ、来たぁぁっっ」と言って、後頭部をたたいている。
氷の冷たさが脳天を直撃したのである。今日は大丈夫はっはっはっ、と笑っていた私も直後に、
「来たぁぁぁ・・・」。そしたらコノハさんまで、「来たぁぁぁぁ・・・」。
男3人で脳天直撃を食らってしばしスプーンを持ったまま後頭部を押さえる。
侮りがたし、あらいやの氷。

ゆっきんさんはまだ猫の目時計を聞いていないという。時間を見ればもうすぐ3時。
またもや車をとばすが、今度はタッチの差で鳴いたあとに到着。うぅ、残念。
原画展会場に戻る。



サインのおねだり

相変わらずアタマニヤ・キャップをかぶって会場に入ると、会場係のおばちゃんが「また来ましたね。
昨日もいらっしゃいましたよね。」と声をかけてくれる。名前を聞くと、「ホシ」さんだという。
どんな字なのか聞き逃してしまったので「星」さんなのか「保志」さんなのか漢字は分からないが、
とーっても気さくで暖かな人柄のおばちゃんである。頭に矢の説明をしたら、笑ってくれた。
原画展ポスターの(A)を2枚と(B)を1枚買い、買うか買うまいか悩んでいたTシャツの残り2種類も
買う。結局5種類とも買ってしまった。散財である。
お茶会が始まるので、常連みたいな顔をして喫茶コーナーに行く。Rock君、いつもご苦労さん。
この日のお茶会はぐっと人数が減って、それでも20人近くはいたであろうか。
みなさん静かな方が多いが、きっとますむらさんを前にして緊張していたのであろう。
ところで私は今回はサインを書いていただくつもりはなかった。連日1時間から2時間もサインを
書き続けていらっしゃるますむらさんは、お疲れだろうからわざわざ私のためにお手間をおかけするのは
申し訳ない、と。しかし、はるばる米沢の地までやってきたのだし、初めて直接お会いするのだから、
やはりその記念にサインをねだるのもファンとしてはまっとうな考え方であると思い直し、
お茶会の席で原画展ポスターを持ち出して、サインを書いていただくようにお願いした。
すると、ますむらさんはポスターとペンを持って、会場の事務室に入って行かれて、受付の机にポスター
を広げてサインをされた。そのようすを見ていた他のファンの人も何人かポスターなどを持って事務所の
外から受付の窓越しにサインをおねだりする。



何度見ても原画はスバラシイ!

お茶会のあとはまたもや原画ウォッチング。
「銀河鉄道の夜」の澄み切った空気が水のように流れる場面、白鳥の停車場近くの銀河の水、
牛乳を持って家に向って走るジョバンニのラストページなどを、じぃぃーっと凝視する。
アタゴオルに戻って、豆猫族のページになごむ。私は、「夏のお出かけ」でヒデヨシが浮きま花を
つけられて上空に上っていって、雲の上で月に向って思わず「酢だこちゃん」とつぶやくシーンが大好き
なのである。私も時々、意味無く「酢だこちゃん」とつぶやくことがあるが、ペジナ様の強力な催眠術に
かかっているのかもしれない。
「キナコ石の粉」のカラーページの色の氾濫にも驚いた。私はMOEはまだ「カリン島見聞記」を中心に
しか集めていないので、このMOEへの連載第1回の号は持っていない。この号は要チェックだっっ。
・・・あ、いつもの収集地獄の会話が思わず出てしまった。
とにかく、キナコ石の粉のページは暖かな色に満ちあふれていた。見ているだけで幸せな気分に
なってくる。
「オーロラ放送局」の原画は少なかったけど、私はペンギンたちも大好きである。アタゴオルの猫たち
よりもストレートに行動するペンギンたちは読んでいて爽快感がある。涼しいところが舞台であることも
原因かもしれないが。
それと私は、キャラクターとしては、トド娘・美優ちゃんが好きだったりする。なんたって、
たった1人でプクトのところにやって来たんですよ。スバラシイ行動力じゃありませんか。



パウパウさんありがとー

夕刻、パウパウさんの車に乗せてもらって、お薦めの漬け物屋さんに行ってもらうが、すでに閉っていた。
場所だけチェックして、明日1人で行くことにする。
パウパウさんは翌日は仕事なので、サンルートの前で別れる。ありがとー、パウパウさん。
米沢を満喫できたのはあなたのおかげですっ。MOEの1991年1月号までいただいて、どおもー感謝感謝。
赤い糸はつながってないけど、我々中年探偵団は不滅です。
また、今度は野田でお会いしましょ−ーー。



そして米沢の夜

一旦部屋に戻ろうと、ホテルのフロントに行くと、ソファでますむらさんとネクタイ姿の方 (コミック・
フラッパーの編集長の松岡さん) が話し合っておられた。
部屋で荷物の整理などしているうちに、午後7時になってしまった。
今夜はポポロから北に歩いて5分ぐらいのところにある「ウッドハウス」でお酒会である。
慌てて部屋を出て、エレベーターで降りていって4階にあるフロントにキーを預け、下に行くために
再度エレベーターの前に行く。ドアが開いたら、その中にますむらさんが乗っていらっしゃって、
鉢合わせ。ドキリとする。
「先に行きます」と言って、入れ代わりにエレベーターに乗り、降りて外に出て、お酒会の会場に向う。

会場ではたーきーさん、峠の釜猫さん、白木@頭カラコルムさん、ニャランゴさん、マーチンギターの
長手夫妻、NowhereManさん、サンチョさん、いとやんさん、にしだの大介さん、ゆかりさん、
えのぽんさん、せんりさん、途中で登場のあださん、野田からの豪宙太さん(タカシさん)、野田のマント
さんの弟子の若いミュージシャン、その友達(?)のミュージシャン(?)、愛知県西尾市の愛知淑徳大4年の
人、京都の人などなど、いっぱいで、あと何人いたか、忘れてしまった。
私の書いた「39べりまっち」をせんりさんとえのぽんさんとあださんとNowhereManさんとたーきーさん
に進呈する。
しばらくして、ますむらさんが松岡さんを伴って登場。
ますむらさんの高校時代の美術部の先輩である綿貫さん、東光の小島さん夫妻もいらっしゃった。
途中で、時象さんの角煮まで出てきて、いただく。
ここでのトピックは、何と言ってもパワー全開の白木さんの、ネイティブ米沢弁によるトークライブ!!
米沢弁、炸裂!!! ときどき通訳をしてもらわないと理解できない。
「おがたー」(私には「おかだー」と聞こえた) が奥さんのことだったり、若い女性を指して
「ばっちゃ」と呼んだり、「あっあーい」も聞けたし、おもしろかったのは、
ますむらさんがジョンレノンの曲を歌った直後に、白木さんが「いやぁぁ、じょんだな」と言われたので、
誰もが「お、白木さん、わかってらっしゃる」と思いきや、
「じょん」は「上手」という意味だったりして、もー爆笑に次ぐ爆笑。
白木さん持参の実においしい枝豆までいただく。
私はお酒を飲むのも忘れて、話と歌に聞き惚れていた。50万円以上するというマーチンギターと
ますむらさんのギブソンのギターで、ビートルズの曲、日本の60〜70年代のフォークソング、演歌、
TV主題歌、米沢の小・中・高の校歌・応援歌、そしてますむらさんの、魚釣りのサンバ、ハサミの唄、
ウサギのダンス。
私にとっては初めて聴く、ますむらさんの生歌である。あぁ、野田でも聴きたい。
11時まで騒いで、外に出る。涼しい風が吹いていた。

ポポロの西側の広場に移動する。ますむらさんが、ギターとケースを別々に持っておられたので、
「ケースの方をお持ちしましょうか」と声をかけ、ケースだけでも高そうなギブソンのギターケースを
持って歩く。
広場では、米沢人の若いあんちゃんたちがスケボーの練習をしていた。それから、昼のお茶会にも出て
いた金髪のかわいらしーいおねぇちゃん (門限が12時半のストリートミュージシャン) もギターを持って
きていた。広場の北東角にある、木で作られた低いステージに荷物を置いて座り、ギターを抱えた
ますむらさんと長手さんがいろいろ歌う。相変わらず白木さん、絶好調。
その後、白木さんと綿貫さんは、帰ると宣言してから半時間ぐらいしゃべって、帰って行かれた。
あの広場の雰囲気には、途中で去り難いものがあった。
本職はドラムのタカシさんがマーチンを借りて、「あかとんぼ」(童謡じゃないよ,タカシさんの
作られた歌です。) を「自分の歌はテレるなぁ」と言いながら歌う。それから他にも、2曲ほどを
歌う。NowhereManさんが感激している。私はまだ音楽方面に疎いので、早く、野田を体験せねばと
焦る。タカシさんの歌声は素晴しかった。あ、もちろん、ますむらさんの歌も素晴しいことは
言うまでもないということを、言わねばなるまい。
ますむらさんは、「夜汽車になりたい」なども歌ってくださった。

みんなステージの上にどでっと座り込んで、ますむらさんとタカシさんの野田の話を聴く。
タカシさんの演奏に対する心構えの言葉、「詞(ことば)に向って、弾け」。
ずしんと胸に突き刺さる。
この一言で、私は彼のファンになってしまった。
高校2年のときから、野田の月まつりに参加していたというタカシさんと、ますむらさんの
20年前の思い出話は、露天風呂造成騒動をはじめとして、
それが本当にあったことであるというのが信じられないほど、奇想天外、抱腹絶倒。
これ、本にならないんだろーか。
特に、「かわづくん」の話は、もう、サンチョさんではないが、ヨジレバラ。
ここには書けないよーな、下ネタのオンパレード。
でも、「かわづくん」が結婚のお祝に書いた言葉、「水平線のように、幸せになってください」は
心が濯われる名言だ。

下弦にあと2日ほどの月がポポロのビルの向うから昇ってきた。時間は午前3時をとうに過ぎた。
近くに光っているのはおうし座にいる木星。
ますむらさんとタカシさんは、700mlほど入る日本酒のビンを持って、ときどきラッパ飲みしながら、
しゃべっている。私は話が面白すぎて、お酒を飲むのも忘れていた。
そのうち、湿気を含んだ涼しすぎる風が吹いてきた。短パンにTシャツという私は震えが
止まらない。酒を飲んでいたら寒さも感じなかったであろうが、あとで聞いた話では、飲んだ酒が
タバコ臭かったとかいうことなので、まだ入っている酒ビンをタバコの灰皿代わりに使ったのかも
しれない。飲まなくてヨカッタ。
NowhereManさんは持参のウクレレで練習の成果を見せた。ますむらさんが「もしへたくそだったら、
そのウクレレはもらう」と言われたので、NowhereManさん、かなりキンチョーして弾く。
ますむらさんとタカシさんは「ウクレレってぇのは、無敵だねー。何をやってもハワイアンに
なっちゃうんだねー」と演奏を聞きながら、ハワイアンダンスのポーズをする。
・・・・合格。よかったねー、とられなくて。

このとき広場のステージにいたのは、10人ちょっと。
ますむらさんが、ボソッとつぶやく。「今日は午前中仕事をする予定だったけど、できないな」
4時前になって、えのぽんさんとせんりさんがタクシーを呼び、あださんの実家へ帰ることにする。
野田から来た若いミュージシャン二人は、ますむらさんとタカシさんの昔話を聞き終えて、
かなりショックを受けたらしい。「オレたちゃ、まだまだ甘かった」って感じだったよーだ。
その後、先輩たちを超えるためには、どーいったパフォーマンスをすればいいか、ということについて
話し合っていたそうだ。な、なにも無理して越えようなどと思わないほうがよいのでわ?
私ももう寒さの限界になってきたので、えのぽんさんとせんりさんとでホテルの1階の寒さを
しのげるところに移動し、タクシーを待つ間、えのぽんさんと話をした。
私が、「野田の人たちってのは、普通じゃないですよねー。私は自分の事をけっこう変わり者だと
思ってたけど、ごく普通ですねー。」と言うと、えのぽんさんは、「そう、普通普通、全然普通。」
と言ってくれた。あのとき、「いやー、た〜けさんも、変」とか言われたらどーしよーと思った。
せんりさんは、立ったまま眠っている。器用だ。
そーこーするうち、タクシーが来た。私は2人を見送ってから、さすがにまた広場に戻る元気も
なく、部屋に帰った。8階の北向きの窓から広場を見下ろすと、まだ何人かがステージに
座り込んでいたが、もー、堪能した、堪能した。もー、今日はいい。もー、寝なきゃ。
今日は浴衣に着替えるだけは着替えてベッドに横たわる。シャワーどころではない。
午前4時半。
アラームを8時半にセットして昏睡。
得難い経験をした濃〜い米沢の1日であった。



2000.8.21 3日目


あぁ、ポスター・・・

あとで聞いた話では、ますむらさんたちは5時半まで広場にいたそうであるが、私にはまだまだ
米沢でしなければならないことが残っていたので、広場で完全燃焼してしまうわけにはいかなかった
のである。
そのせいか、7時半に自然と目が覚める。
毎晩ダウンしていてシャワーも浴びていなかったので、朝からシャワー。
荷物の整理をしながら、何気なく、丸めてあった原画展ポスターをベッドの上に置き、立ち上がって
何かをした拍子にふらっ、とヨロケて、ポスターの上に尻餅をついてしまった。
・・・あぁ、なんてこったい。おそるおそる広げてみると、案の定、まん中に何カ所か折れ目がついて
しまっている。しばし呆然としベッドに座り込んで落ち込む。
せっかくますむらさんにサインを書いていただいたのに、キレイなままで持って帰りたかったのに。
あぁぁ、バカバカバカバカ。
と、嘆いていても仕方がないので、また会場に行って買うことにする。
サインをもう一度ねだるのはおこがましいので、サイン入りはもうこのままで持って帰るしかない。



松川橋

9時前にチェックアウト。きっとまだますむらさんは819で眠っておられるはず。
荷物をフロントに預けて、米沢の街を歩く。
昨日のパン屋さんにもう一度行ってみるが、今日は定休日。「ばっこぱん、ばっこぱん・・・」という
言葉が無意識に頭の中でリフレインし、しばらくしてその意味を思い出して、ぶぶっ、となる。
方向を変え、松川橋方面に向けて、頭に矢キャップで歩く。こんなんでも、かぶっていないと
日射病になりそうだからしかたなくかぶる。あぁ、1人では淋しい中年探偵団。
米沢女子高の趣きある木造校舎を右に見て、歩く。大町通りから柳町下通りへ進み、桜木町に出る。

松川橋まで100mほどのところにコンビニがあったので何気なく入って、ポカリスエット500mlと
サンドウィッチを買い、松川橋のたもとの富田屋を過ぎて、橋に出る。
橋の北側からぐるっと回って、河川敷に下りる。最上川の水量はさほど多くはない。
「ここがますむらさんの遊び場だったのか・・・」
河川敷はきれいになっているが、松川橋の橋脚は昔のままなのだろう。
立ってサンドウィッチを食べながら、富田屋と松川橋の風景を見る。
富田屋の土手から少し離れて立ち、ぐるっと一周、10枚に分けて写真を撮る。
あとでこれをつなげれば360°のパノラマ写真になる。
原画展の会場が開く時間が近づいてきたので、河川敷をあとにしようと芝生の上を歩いていると、
黄色い花が、葉っぱのないひょろっとした茎の上についている植物を発見する。
私は植物系の分類学は苦手なので、黄色い花で知っているのはたんぽぽとかひまわりとかぐらい
しかない。だから、この植物が何なのかは分からないが、雰囲気が、蛇腹沼に生えているすんごく
背の高い花に似ている。この背丈が30〜40cmぐらいの黄色い花が、あたり一面にたくさん生えて
いた。「おぉ〜、アタゴオルじゃ・・・」と思った私は、カメラを地上10cmに下げて、その花の
写真を撮った。できあがってきた写真を見ると、黄色い花が空高く伸びているように写っていた。
下が芝生でなく、沼だったら、まさに蛇腹沼の雰囲気だった。

松川橋をあとにし、パウパウさんに教えてもらった漬け物屋さん (晩菊本舗・三奥屋) に寄り、
おばちゃんに試食をさせてもらい、5種類ほどを3袋ずつ買う。
どの漬け物もなかなかに味わい深い。
ずしりと重いが、冷蔵庫でよく冷えていたので、リュックに入れて背負うと背中が冷やっこくて
キモチいい。



原画見納め

会場に入ると、「ホシおばちゃん」がにこやかに話しかけてくれる。おばちゃんと話をしていたら、
えのぽんさんがやってきて、そろそろ帰路につかれるという。おばちゃんが、「アナタ、広島から
いらっしゃってる方でしたよね」とえのぽんさんに言った時、すぐそばにいた女性が、「広島と
言うと、えのぽんさんですか?私、蓮華丸ですー」と言う。おー、蓮華丸さん!
実は言ってなかったけど、私がこの「viva! ATAGOWL」を作ろうと決意したのは、蓮華丸さんの
「ATAGOUL倶楽部」に触発されたからだったのだ。
私も横から「蓮華丸さんですか−。私、た〜けです」と挨拶。
名刺をもらったら、福岡の人だったので驚く。今回お会いした方々の中で、一番遠くからの
ファンであった。
えのぽんさん、せんりさん、コノハさんは中国地方なので、早めに帰られた。もっと話をしたかった
のだが、今回は原画を見たり、ますむらさんの話や歌を聞いたりすることで精一杯で、みなさんと
話をする余裕がなかったのが残念だった。

「再会」のヒデヨシが下りてくる場面の前で地元のおばちゃんたち2人が原画を見るなり、
「あー、これ斜平山だねぇ」と口々に言う。
やはりあの場面には、私のようなファンだけでなく、米沢の人たちもを揺さぶる何かがあるようだ。
全作品をもう一度、端から見ていく。もう2度とこの原画たちを見ることはできないのだと思うと
しっかり見なければと心を新たにする。
霧にむせぶ夜の猫たち、ギンドリ博士の視線、水晶散歩のテンプラの白昼夢的視線、
アタゴオル・スケッチの神経旋律の隙間なく描かれた衣装の白と黒、グラウス首領、酔いどれ鉄、
大ダコやイカの幻想に足を踏み外す直前のヒデヨシ、夏の終りにやって来た春の研究所の森の深さ。
・・・・印刷では見なれた場面も、原画で見ると迫力が違う。

収集地獄に陥る以前は、私はスコラの文庫版など相手にしていなかった。
それは、文庫版の画面があまりに小さかったからである。マンガ少年を読んでいたときのアタゴオルの
風景は、暗い森には吸い込まれそうになり、暑い場面ではミンミンゼミの声が聞こえてきそうだった。
つまり臨場感やリアリティーがあったのだ。
けれども、文庫版のあの小さい画面からは、何も聞こえてこないし、
影切り森にも入って行けないのである。
私は無理なことは承知だが、常々、アタゴオルを原画サイズで出版してほしいなぁ、と思っている。
縮小された雑誌サイズでは味わえない臨場感が、
B4サイズ原寸大のコミックスなら味わえるのではないか、と。
マンガ雑誌ではたぶん、幾分か画面が緻密になりこぎれいに見えるという理由で、原稿は大きめに
描くという習慣があるのだろうが、ますむら作品にはそんな配慮は全く必要無い。
原画サイズのままで充分勝負できる。いや、拡大したって大丈夫だ。



羽黒川橋、上郷農協

昨日、「ぜひ一番うまい米沢ラーメンの店に連れてってぇ〜」とたーきーさんにお願いしてあったので、
昼時に会場を抜け出し、たーきーさんの車に乗せてもらう。誘いたい人はいっぱいいたのだが、車が
4人乗りなので、ゆかりさんと蓮華丸さんだけ誘ってしまった。他の皆さん、実に、まったくもって、
申し訳ない。
で、たーきーさんお薦めの「ひらま」に向う。

途中、たーきーさんが「ここが羽黒川橋。この橋の左側の草むらがサミット会場。いや、会場は
もうちょっと行ったところの右の林の中かも」と説明してくれる。
言うまでもなく、羽黒川橋はますむらさんのデビュー作である「霧にむせぶ夜」が始まる場所であり、
そのサミット会場とは猫たちが集まって人類を滅ぼす作戦を練る場所のことである。
「こっ、ここかぁ!!」と感慨に耽る私と蓮華丸さんとゆかりさん。
「あー、あのサミットには上郷 (かみさと) 農協から机を借りてきたんですよねぇ。」と私が言うと、
たーきーさんが、「かみさとじゃなくて、上郷は、『かみごう』が正しいんですよ。かみさとは誤植。
で、朝日ソノラマの、ますむらひろし作品集七『ヨネザアド物語』ではその誤植が直っています。」
という事実が明かされた!!

あとで原画展会場に戻って、今回新しく増刷された『ヨネザアド物語』を開いてみてそのページを
チェックしたら、確かに小さなルビは、「かみごう」になっていた。
更にあとで家に帰って、私の持っている作品集七(2版)を見てみたら、ここでも既にルビは「かみごう」
である。
じゃ、どーして私が「かみさと」と読むのだと思っていたのかということを追求しようと他の本を
調べてみたらば、「ぱふ1979-2,3」にはまったくルビがない。
次に、朝日ソノラマ・サンコミックスの「永遠なる瞳の群」を見てみたら、ルビは「かみさと」となって
いた!! 私はこのサンコミックス版に親しんでいたので「かみさと」と思っていたんだねー。
疑問が1つ解決。

ところでこれも後日、ついに念願の少年ジャンプ1973-33を手に入れたとき、わくわくしながらページを
繰ってみると、こちらには、ほとんどの漢字にルビがふってあり、よく見ると、写植の文字がそれ以降の
「ぱふ」や作品集とは明らかに違う。そして、上郷には「かみごう」というルビがあるではないか!

してみると、「霧にむせぶ夜」は少年ジャンプに初出した時のルビ付き写植を、のちに何らかの理由で
全面的に作り直し、ルビなしにしてしまい、その後、再度ルビをふる段階で「かみさと」と間違って
しまって、それをまた修正したようです。

さて、車はサミット会場からまっすぐ東の方面に細い道を行く。1kmほど行くと、道の南側に農協が
あった。「たぶんこれが上郷農協ですね」とたーきーさん。
ここから借りた机をサミット会場まで1kmも運ぶのは猫の手には大変であったろうと、猫たちの苦労を
偲んだ私であった。



「ひらま」の中華そば、じゅぅるじゅぅる

そうこうしているうち、「ひらま」に着く。おぉぉ、略図で想像していたよりもずっと遠いところに
あったんだなぁ。パウパウさんをはじめとする昨日のメンバーには申し訳ないことしたなぁ。
事前に場所をもっとちゃんとたーきーさんに聞いておくべきじゃった。ゴメンナサイ〜。
「ひらま」はそーやって、ぺこぺこあやまらなければならないぐらい、
ほんっっ・・・・・・・・・・・・・とーーーーーぉに、んまかったっっ!!
米沢ラーメン4軒目にして、究極、至高の味!! たーきーさん、アリガトー。
たーきーさんが当然のように大盛りを注文したので私も大盛り。
ひとくち食べた瞬間、思った。
「私の米沢はこれで完結した」、と。
極細の縮れ麺に、あっさり味だが深〜いコクと風味を備えたスープが絡む。ぅぅ〜ム。
いくらホメすぎてもホメ足りない。そんな中華そばであった。あぁ、今思い出してもじゅるじゅる。
もう一杯いけたかも・・・・じゅるじゅる。

たーきーさんはネクタイを締めたHRCの水色のシャツ姿で、大粒の汗を流しながら食べている。
私もかなり汗っかきだが、たーきーさんはその上を行く。
それにしても、と私は今、三重の地から北東の方角に遠く離れた米沢を思ってヨダレをたらす。
たーきーさんは「あ、食いたい」と思ったら、スグに「ひらま」に行けるんだなぁ。
うらまやしーなぁー。



あやしいスポット、油掛大黒

たーきーさんご推薦の「油掛大黒尊天」に連れていってもらう。なんでも、ますむらさんも絶賛の
スポットだという。「米沢にもこんなところがあったのくわぁぁ」っていうところらしい。
わけも分からぬまま、連れていかれて、道の端に車を止めて歩いていくと、小さな社があって、
そこに石造りの小ぶりな大黒様が置かれていて、その周りには水たまりならぬ、油だまりがあり、
そこから柄杓でサラダ油をすくって大黒様の頭のてっぺんから、だらだらとぶっかけるのである。
なかなかに珍しい大黒さんである。
そして・・・!! 大黒さんの左側に、直径30cm、長さは1mはあろーかという「秘仏珍宝大明神」が
鎮座ましましているのである。予備知識がなかっただけに、これにはたまげた。笑った。
ゆかりさんも、蓮華丸さんも妙齢のレディーなのに、こんなもん見せていーのか?
たーきーさん。

私は、こーゆーところでバカやると人格を疑われかねないので、自重してたーきーさんのやることを
見ていた。すると、「ホントはやっちゃいけないんですけどねぇ」と言いながら、たーきーさんは
大黒さんのとこからすくってきた油を、参拝者たちになでなでされて黒光りしているその大明神に
たらぁりたらぁりとたらす。しかも柄杓にたっぷり2杯も。
これで商売繁昌間違いなし。・・・か?うーむむ。
水屋の梁に、この大黒に寄進した会社や商店の木札が打ち付けてあったが、「商売繁昌の大黒さん
だけど、この会社の中に、ツブレたとこがあったら笑えるねぇ」と私が言うと、たーきーさんは、
「みんな大丈夫ですよぉ。・・・・ん−?いや、あそことあそこはつぶれたかも」。
がんばれ、大黒さん。って、がんばらなきゃいけないのは会社のほーだっ。

と、突然重大な事実を思い出した。そうじゃ!! まだ窪田のナスをひとっぱち食っていないっ!!
たーきーさんにそれを言うと、「じゃ、私の家で漬けてあるのを持ってきましょうか」と言って
くださる。おぉ、ありがたや、たーきーさん。



松川橋経由、饅頭

やー、珍しいものを見せてもろーた、ということで、また車に乗り込み、白木@頭カラコルム局長さん
が手掛けたというアルカディア計画の土地を見に行く。米沢は盆地であるとは言え、まだまだ開発
できる土地が残っている。広大な盆地である。
そして市街地に戻ってきて、ゆかりさんや蓮華丸さんがまだ行っていなかった松川橋を通る。
橋の中ほどに、自転車にまたがったまま西の方角の写真を撮っているヨネザアドマニヤを発見。
それは「なが〜いおさんぽ」をしていたサムデイさんだった。
橋を渡り終えて、信号で止まった時、たーきーさんが「この右にあるコンビニのあたりが、昔
ますむらさんの住んでみえた生家のあったところです。」と言う。
おぉぉぉ、このコンビニは私が今朝、ポカリスエットとサンドイッチを買った場所ではないか!!
と、反射的にコンビニの写真を撮る。こんなの撮ってどーするってんだ。
「で、この左側の『滝口製麩所』がウチの本家」とたーきーさん。
おぉぉ、パチリ。これもカメラに収める。これも撮ってどーする?

「おいしーい饅頭を食べに行きましょう。」とたーきーさんが言う。
女性軍はよろこんでいる。私は甘いものにはゼンゼン興味がないので、何という店だったかも
忘れてしまったが、同じ名前の饅頭屋さんが道をはさんで北側と南側にあった。
どっちかに「元祖」という冠詞がついていたが、そんなことは私にとっちゃ、どーでもよいのじゃ。
しかしたーきーさんには、深甚なこだわりがあるようで、「北側の店でなきゃいけません」と言い、
北側の店の駐車場に車を突っ込んで、勢い込んで店に入って行った。
私たち残された3人は、車の中でアッケにとられてたーきーさんの行動を目で追っていた。
すると、いかにも残念そうに店から出てきたたーきーさんは、「売り切れでした」
と言って、仕方なさ気に南側の店に入っていく。そしてひと袋の饅頭 (あんまん?)を買ってきた。
「でも、ここのじゃ、ダメなんです」とまだ残念がっているたーきーさん。
ポポロに戻って、裏口に車を止め、関係者しか入れない鉄の扉から入り、守衛室の前を通って
エレベーターで4階へ。
ポスター(A)を2枚買い増しして、イスに座って、私も饅頭を1ついただくが、
お茶を買ってくるのを失念していたので飲み込むのに四苦八苦する。
その後、お茶会でアイスコーヒーを飲むまで、口の中は甘いあんこで汚染されてしまって、キモチ悪い。
これは饅頭が悪いのではなく、私の趣味に合わないだけなのである。
ゆかりさんも口の中の汚染を除去したいので、コンビニに行くNowhereManさんとサンチョさんに
お茶を所望したが、この2人なかなか帰って来ない。
私は「彼等に素早い行動を期待しちゃ、イカンよ、ゆかりさん」。
ゆかりさんが「学校で言えば、行動?・・・えーと、なんて言ったっけ・・・」。
私「基本的生活習慣?」。ゆかりさん「そー、それそれ。基本的生活習慣」。
私「彼等の基本的生活習慣の評価を私がつけるとしたらBだろーなー。Aはあげられないなー。にゃはは」
などと失礼な会話をしながら待つ。そしたら、2人が帰ってきた。
あぁぁ、ゴメンよ〜。口の中がキモチ悪いから、そんなこと言って気を紛らしてたんだよぅ〜。
人ってぇモノは、そこにいない人のことは平気でコキ下ろしたりするんですねー。いけませんねー。
けど、愛すべき人たちのことは、さんざコキ倒しても、最後に「でも、なんだかんだ言ってもアイツ
はいいヤツなんだよー」って言葉で終わるもんですよ。

話が脱線してしまったが、のうさんもサンチョさんも、カッコいいよ、うん。
あ?え?えーと、何の話をしていたのだっけ・・・そうそう、饅頭。
原画を見ながら私もお茶か何かがほしーな−、と思っていたところでお茶会が始まった。



お茶会、窪田のナス

最後のお茶会。ますむらさんは、サイン会を終えて、やったー、終わったぜぇぇ−、ってカンジで
喫茶コーナーにいらっしゃった。原画展終了まではまだあと2時間あまりあるが、ちょっと感慨深気に
座ってタバコをふかしていらっしゃる。
例によってお茶会は自己紹介で始まった。私は壁の時計を見ながら、4時ごろには帰らにゃなー、
と思いながらみんなの話を聞く。
私の番になって、お酒会も含めて5回目となる頭に矢キャップの説明をした。
その頃、たーきーさんが大きなひとっぱちの窪田のナスを持って登場!!
初めて目にする小ぶりで丸っこいナス。2つほどいただくが、噛み切る時の歯触りが絶妙で、
ほんのり苦味がいける。
いいのよぅ〜、コレ、ウマイのよぅ〜。

4時を過ぎたので、そろそろ私は帰らねばならない。名残惜しいが、お茶会の途中で、ますむらさんと
みなさんに手を振って会場をあとにする。
ますむらさん、原画展開催を許可してくださって、200点以上の原画を見せてくださって、
いろいろお話ししてくださって、どうもありがとうございました。
感激の連続の3日間でした。
人生観、ちょっと揺さぶられました。

エレベーターに乗って、1階に下りて扉が開いたら、バッタリ、たーきーさんと出会う。
とっさには気の利いた言葉が見つからないのだが、今回のすべてにお礼を言って、別れる。
また来年の夏は鈴鹿サーキットあたりでお会いできるかもしれない。
本当に、本当に、たーきーさん、ありがとうございました。
たーきーさんが猫の目時計を作ろうと思い立たなかったら、この原画展もなかったはずで、
それでは、その猫の目時計を作るきっかけが何であったかというと、それは知らないのだけれど、
とにかく、米沢に瀧口さんがいなかったら、今回のすべてのことは何一つ始まらなかったのだ。
それを思うと、1人の人間の「よし、やろう!!」という決断がこんなにも大きなことをなし得るのだ
と、改めて胸がじぃんとするのであった。
今の世の中、若いのも大人も情けない輩ばっかりが目につくけど、
やっぱり人間って、捨てたもんじゃない。



米沢駅からつばさに乗って

サンルートに荷物を取りに戻り、タクシーで米沢駅に向う。辻タクシーの菅原純子さんの車であった。
なんで名前まで知っているかというと、B4の裏表にびっしり書かれた菅原さん自筆の似顔絵付き
米沢案内のパンフレットをいただいたからなのである。そして、1.6kmの道中、いろいろと米沢について
話をしてくださる。これが全部、米沢弁。頭カラコルムさんの米沢弁でかなり耳はよくなっては
いたが、やはりまったく理解できない言葉がいくつもある。
米沢は奥が深い。今回はラーメンもたった4軒しか回れなかったし、日本そばにいたっては、一口も
食べていないし、米沢牛も味わっていない。りんごも鯉もまだだ。
出会った米沢の人たちはみんないい人であったし、またいつか米沢を訪れたいものだと思った。

タクシーからの降り際に、「おしょうしなー」と言ってくださったのがうれしかった。
駅について、みどりの窓口で名古屋までの新幹線の座席指定特急券を買おうとすると、次の列車の指定
席は空いていない。自由席はたぶんいっぱいだろうというので、その次の列車の切符を買う。
おかげで1時間も余裕ができてしまい、重い荷物を肩にかけて歩きながら、娘たちへのおみやげを買い、
たーきーさんから教えてもらった、おいしい窪田のナスも買った。

駅の改札口の近辺をうろうろしていたら、にしだの大介さんがやって来た。
「あれ?た〜けさん、まだいたんですか?」「そぉーなんですよー、席が空いてなくてね」
ホームのベンチに座って、インターネットのことや野田のミュージシャンとゆーのはスゴイねぇぇ、
などという話をしていると、つばさがホームにすべりこんできた。
若い彼は自由席の車両に移動。おじさんは指定席。列車に乗ってイスに座ってペットボトルの
緑茶をガブ飲みする。あぁ、咽が乾く。饅頭のせいかも。
つばさは米沢を離れ、南東へ進む。



旅の終わりに

福島を過ぎてから、米沢駅ホームで買ってあった米沢牛のべんとうを食べる。
しだいに暗くなっていく空が、旅の終わりを告げる。

東京経由名古屋,新幹線は速い。そして近鉄に乗り換え11:10pm、津に到着。
妻がマーチで迎えてくれる。ズンチャ、ズンチャ、ズンチャカチャッチャッって、違うってば!!

帰宅したら、野田市市制50周年ポスターが届いていた。
原画展というお祭りは終わってしまったけれど、私の中では、何かが始まる予感がする。

今、玄関には6年間壁を占領していたエッシャーの版画ポスターに代わって、
ちょっと折り目の入った,サイン入り「YONEZARD」のポスターが掛かっている。
ヒデヨシは27年前、斜平山から下りて来て、まず原画の上に現れ、そして印刷物を経て、
私のところにもやって来た。
ヒデヨシはこれからも、毎日、ポスターに描かれた、あの道を辿って私のところへ訪れてくれるだろう。
そしてヨネザアドやアタゴオルのことを語ってくれるだろう。
私の方からもまた、ときどきはヒデヨシに会いに行きたいと思う。
 

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