2004年6月12日(土) 野田訪問記


前日の雨が上がり、朝8時半、茅場町のビジネスホテルを出発。
東京メトロ日比谷線で北千住。
常磐線で柏。そして東武野田線で野田市へ。
1時間弱で東京から野田に着くんだねぇ。
4年前に訪れて以来、2度目の野田市訪問だ。
しだいに心休まる田園風景が広がる。

野田が近づくにつれてガラガラに空いた電車の中でそわそわ。
そして到着〜。
ぁぁ、ついに再訪を果たしたのだ、リベンジなのだ、うぉぉ。
何にリベンジするのかというと、話は4年前に遡る。
2000年6月20日、夏至で快晴のとびきり暑い日、
私とパウパウさんの中年二人組は野田を訪れた。
私は初めての訪問だったが、パウパウさんは月まつりに次いで二度目の訪問。
そして野田市駅から炎天下、てくてくと歩き、アタゴオル壁画へ。
次に興風図書館の食堂でカレーを食べてから、昼過ぎにホワイト餃子に。
ところが日曜日だったのでホワイト餃子はまだまだ開店には間があり、
しかたがなく写真だけ撮って店を離れたのだった。
このホワイト餃子への憧憬が4年経っても消えていないのだった。

ともあれ、まだ午前10時過ぎ。
ホワイト餃子の前にすべきことはいろいろある。
野田市駅前から右に向かって歩き出す。
今回も陽射しがきつく、暑い。
小さなキャスターのついたカバンをゴロゴロと引きながら歩く。
このカバンには何が入っているかというと、カメラである。
カメラといっても一眼レフとかデジカメとかいうよーな軽いものではなく、
カンボワイドというゴツイものなのだ。カメラの重量は3kg以上ある。
背中に背負って歩くよりは、
引いて歩く方が楽だろうと考えてこのカバンにしたのだった。
これは確かにラクチンで正解だった。
背負わないから背中に汗もかかない。
三脚も持ってきたので、三脚バッグは肩にかけて歩く。こちらは2kgほど。
キッコーマンの工場の古い煙突?を撮影し、
歩いていくと、どうも道に迷ったようで、ぐるっとまわって駅前近くに戻ってしまった。
今回は二度目で前に来たことがあるから大丈夫、と横着して道を調べていなかったのだ。
改めて方向を変えて違う道を行く。
少し広い道に出たので野生の勘でアタゴオル壁画は左だと決めて歩く。
しかし5分ほど歩いても見覚えのない道が続くので、逆戻りする。
そして10分ほど歩いてようやく壁画の前に到着〜。
あれれ?屋根がない?前に来た時には確かアーケードか何かがあったはず。
でもその分すっきりして壁画がよく見えるね。
カメラを取り出して撮影。

ここからの道順はもう大丈夫。
新しいヒデヨシ壁画を見るべく、興風図書館へ。
図書館の壁ばかり探していて壁画がないな−と思ったら、
向いの駐車場の壁に描いてあったんだねぇ。
図柄は野田市市制50周年記念ポスター。
大きなヒデヨシがかっこいい。
軽自動車が1台停まっていて邪魔だがどかすわけにもいかず、
そのままで写真を1枚。

またバッグを引きながらホワイト餃子の前を通り、大漁寿司へ。
最初に道に迷っていたので予定より20分遅れて大漁寿司到着。
ところが午前11時に開店すると思っていた大漁寿司は11時半開店だった。
5分ほど待って、開店5分前に入れてもらい長椅子で涼む。
準備ができたので席に座り、まずシメサバ。
さて食うか、と割り箸を手に持って寿司をつまもうとしたらまるで老人のように
手がぷるぷる震えて寿司が箸からこぼれ落ちてしまうではないか!
正に「なんじゃこりゃー!(ジーパンデカを真似た草ナギ風)」状態。
原因はカメラ入りのバッグをずーっと右手で引いていたせいであった。
こりゃヤバイ。ときどきは左手で引くべきだった。
それからハマチ、関サバ、大トロ、コハダ、甘エビ、えんがわ、
えーと、あと二つは何だっけ。合計9皿食べた。
やー、やっぱ大漁寿司はいいねぇ。ネタが新鮮で旨い。
プルプル手の震えは5皿目ぐらいまで続き、
プルプルを店の人に知られないように何食わぬ顔で寿司を食う。
さあ出よう、と思ったら有線放送で懐かしの70年代フォークが立て続けに流れ、
外を見ながらしばし音楽に浸る。
吉田拓郎の「結婚しようよ」を聴き終わったところで腰を上げる。
私がこの曲をリアルタイムで聴いていたのは1972年早春、中学2年の終わり頃。
ますむらさんが「霧にむせぶ夜」でデビューするのはその翌年。

東に向かって歩き、愛宕駅から電車に乗り、某所へ向かう。
某駅に到着し、改札口を出たところでやおら携帯電話を取り出し、
ますむらさんに電話をする。
「お久しぶりです。いま駅前にいるのですが、
これからお邪魔してよろしいですか?」
了解を得て、また歩き出す。
当初、野田訪問を計画した時には、
ますむら邸の改造計画の進捗状況を秘密裏に公道上から視察する予定であったが、
その旨をメールでお知らせしたところ、お返事をいただいて、
それによると、なんと仕事場のお部屋を見せていただけるというのだ。
本当ですか?!それでは是非是非よろしくお願いしますっ!
ということになったのであった。

駅前から少し右に歩き、それから左に折れてしばらく歩き、また右に。
そして道なりに進んでいくと左手に青いお家が現れる。
午後1時少し前に到着。
4年前にこの青い壁を見つけた時の感動を思い出す。
その時と同じように玄関の白いドアには、
幅60cmほどの深緑のアクリルプレートに太いゴシック体で真っ白い「ATAGOWL」の文字。
これこそがアタゴオルへの扉なのだ!

ところで、私のサイトが「viva! ATAGOWL」というタイトルなのは、
このプレートに由来する。
決して「ATAGOUL」を書き間違っているのではないのである。
「アタゴオル」のアルファベットによる表記がはじめて作品に登場したのは、
私の調べによると1975年の「ヨネザアド物語」第4回「フランドウル嵐牙党」である。
(最近出版されたMF文庫の「アタゴオル外伝」のヨネザアド物語では「嵐牙堂」、
しかもルビは「らんがどう」となっているが、これは誤植で読みは「らんげとう」が正しい。)
この作品に出てくるヨネザアド大陸の地図には「ATAGORL」という綴り字が見える。
その後、1981年の「アタゴオル・スケッチ」では「ATAGOUL」となっており現在に至るのだが、
実はATAGORLとATAGOULの間にはもう一つの表記があって、
それが「ATAGOWL」なのである。
この「ATAGOWL」という綴り字はたぶんアタゴオルの作品には登場していない。
ところが、ますむらさんの音楽の方のデビューアルバムであるLP「風の気分」(1979年)の
ライナーノーツには「ATAGOWL」の文字があるのだ。
ということは、この「ATAGOWL」の綴りは1975年から1979年のどこかの時期に、
使われ始めて短期間使われたと考えられる。
しまったなー、この綴り字の変遷の歴史についてもご本人からお聴きすればよかったぁ。

ともあれ、私がアタゴオルのファンサイトである「viva! ATAGOWL」を作ったのは、
この玄関の「ATAGOWL」のプレートを目撃してから興奮覚めやらぬわずか半月後。
そのときどんなタイトルにするかしばらく考えて、
ますむらさんの大好きなスペインにちなんで「viva」を使って、
アタゴオルの綴り字はやっぱり御自宅の玄関を飾っている「ATAGOWL」で行こう!と決めたのだった。
そしてプレートを真似て、タイトル文字はゴシック体で、文字色は白にしたのだ。

前回来た時にはドキドキしながら誰にも知られないように、
こっそり玄関のドアと
郵便受けの写真を撮っただけで帰ったのだが、
今回は意を決して、チャイムを鳴らす。
するとすぐに、ますむらさんが出てこられて玄関の中に招き入れられ、2階へ通される。
仕事をされている部屋は南東の角。
部屋の東寄りに机があって、南向きに座るように椅子が置いてある。
ますむらさんはその大きな椅子に座り、
私は机の西側に置いてある低めの黒いソファに座らせてもらい、
氷を浮かべたウーロン茶をいただきながら、
いろんなお話をうかがった。

ますむらさんの表現をお借りして表現すると、
こんなふうにますむらさんと一対一でお話をしているようすを、
19歳の私に見せてやりたい、と思った。
大学1年、名古屋の4畳半の下宿でマンガ少年を読んでいたやせっぽちな私に。

最近4年間の収集によって、
ますむら作品を収録した本で
私がまだ所有していない単行本や挿し絵本はあと
3冊しかないという話もした。
そのうち「ひなたが丘ものがたり」は自費出版に近いような本だそうで、
かなりレアな本らしい。どうりでオークションにも出てこないはずである。
「土が歌ってるよ」も更にレア。これは世田谷区役所が作った非売品。
「短歌集・二人三脚」はそもそもますむらさんの御親戚の方の本で限定100部の
非売品だからこれはもー別格で、入手はどー考えても不可能。

話が一段落して、お部屋の写真撮影をさせてもらう。
カメラを取り出し、三脚を伸ばして撮影の準備をする。
この仕事部屋は多くの作品が生み出された由緒正しい場所なのだが、
新しい家が完成した後には今の家は壊してしまうそうだ。
だからこそ、しっかり、きっちりと写真に収めたいのだ。
そう思って総重量5kg以上のカメラと三脚を持ってきたのである。
私のカメラは全手動なので、まず単体露出計で明るさを測り、
ピント合わせは目測。
被写界深度を深くする(つまりピントの合う範囲を広くする)ために、
レンズの絞りをF16にして、しかもストロボは使わずに
窓からの自然光と蛍光灯の明かりで撮影するので、三脚は欠かせない。
撮影に時間をかけ過ぎては申し訳ない、とあせっていたので、
露光時間は本当は8秒なのに、勘違いして1/8秒で撮影していまい、
フィルムを1本以上(といってもブローニーフィルムなので8枚ぐらい)無駄にして、
時間も余計にかかってしまった。
やはり何事も落ち着いてやらなくっちゃね。
急いては事を為損じる、ってやつね。
テーブルの上にはフラッパーの今年の3月号に掲載された「プルウ・パッセン」
がホッチキスで綴じてあった。印刷チェック用のものだろうか。

仕事部屋の撮影が終わったので、
外に出て玄関の「ATAGOWL」のアクリルプレートの写真を撮り、再度2階に戻る。
するとますむらさんは一冊の薄い本が入っている封筒を持ってこられた。
「これは前にオークションでお世話になったお礼として」
言われるので中を見てみると、・・・ぅぉぉ「土が歌ってるよ」ではないかー!!
私は突然、書籍収集マニアの素(す)に戻ってしまって、
「おぉぉ、これどうしたんですか?どうしてここにあるんですかー?」
と頓狂なことを訊ねると、
「作者だから持っているのは当たり前でしょぉ」
と返されてしまった。
確かに作者なら自分の本を何冊か持っていて当然である。
そんなわけで、
最終的には世田谷区の家を訪問して探すしかないか、
などと半ば真剣に考えていた本が思いがけず手に入ることとなったのであった。
あぁ、なんて私は幸せものなんだ−。

「短歌集」も探せば家の中にあるかもしれない。」とのお言葉に、
一瞬心の中で「探して〜、お願い〜」と思ってしまったが、
この本はプライベートな本なのでもともと収集の範囲外である。
ただ、挿し絵は見てみたいのだ。やっぱヒデヨシが登場するんだろか?

結局、様々なアタゴオルにまつわるお話や、
新しい家へどうやって膨大な荷物を運び入れるかという悩みや、
庭に作ってみたいという「飲み小屋」製作のアイデアなどをおうかがいしているうちに、
時刻は午後4時を過ぎ、ホワイト餃子集合の時間が近づいてきた。
なんと3時間以上もお話をさせていただいたことになる。
実に至福の午後であった。

はじめの予定では、このあと私はますむらさんとお別れして、
一人でホワイト餃子に戻るつもりであったが、
プフさんの提案でますむらさんも餃子組に参加されることになったので、
エクシブに乗せてもらい一緒にホワイト餃子に向かうことになった。
車中、翌週には新車が来るということで、
「今度はどんな車にされるのですか?」と訊ねてみた。
私の予想では、1BOXカーということはないだろうけど、荷物を入れるのに便利だから
トヨタあたりのステーションワゴンのようなタイプかなーと思っていたのだが、
なななんと、国産車ではなく、ゲルマン民族のメーカーのセダンタイプだとのこと。
エクシブとの落差が大きすぎるですー。
おしいことをした。あと1週間後に訪問していれば、
猫の蚤などいない、ピカピカの新車に乗せてもらえたかもしれなかったのにぃぃ。

そうこうするうち、エクシブは大漁寿司の前を通り、ホワイト餃子に到着。
店で、ゆかりさんとタチバナくんと蜘蛛爺さんとJIMAさんに出会う。
店は5時開店なので、暑い1階の店内で並んで待つ。ほどなくしてプフさん登場。
結構長い行列ができていて、受付の机までとぐろを巻くように並び、
受付が始まると牛歩して回る。
「こりゃぁイス○ム教の聖地巡礼みたいだなぁ」「はははは」
などと言いながら2周ほど回って受付に。
私はホワイト餃子の餃子1人前が何個ぐらいなのかわからないので、
プフさんたちにおまかせ。結局一人10個ってことにして、
看板おばちゃんの派手な衣装におののきつつ、
2階へ。

妖し気な赤いランプがドアの上に輝く部屋で、
餃子を食べ、ビールを飲みつつ談笑。
遂にホワイト餃子で餃子を食べることができ、私は満足。
餃子は油で揚げているはずなのに油っぽくないのが不思議。
いやー、んまい、んまい。来てよかったー。
ますむらさんによると、一人10個というのはかなり少なめらしい。
私も死ぬ気で食べれば30個ぐらいはいけると思うが、そこまでする男気はない。
ほどほどの量で満足である。これが大人の余裕ってヤツかなぁ。ふっ。
餃子には酢だけ、というこだわりの人がいたので、
酢を大量消費して酢の瓶だけがからっぽになっていたら店の人も不思議がるだろうと考え、
また酢とビールがよく似た色をしていたので、混ぜてもわからないかも、ってんで
酢:ビール=1:3ぐらいにブレンドして飲んでみる。(酔っ払いの論理)
さすがに酸っぱいが、気の抜けた梅酒サワーと言われればそう思えるかも、
という感じの味。
さまざまな話題であっという間に時間が過ぎた。
あ、タチバナくん、ギターの弦をどうもでしたー。去年の夏に伊豆で切れたのは
長いこと張りっぱなしの弦だったからで、タチバナくんのせいではないんだよー。
かえって申し訳ないことをしました。ども、ありがとー。

外に出て、車に分乗し「VERY」へ向かう。
この日まで知らなかったのだが、偶然にもちょうどこの日には、
マーマーバンドやそいんじゃやハーツクラブバンドのドラマーとして活躍されている、
タカシさんの結婚披露パーティーが行われるのだ。
ますむらさんは当然そのパーティーに出席されるので、
現場まで残り6人もついていってみることにした。
会場に着くと、空はまだ明るいがお店の看板にはライトがともり、
中ではテーブルのセッティングやギターの準備の真っ最中。
タカシさんご本人が出てみえたので、御挨拶をする。
「え?みんな、なんでここにいるの?」と聞かれたので、ますむらさんが
「東京からホワイト餃子を食べに来たんだよ。」とお答えになる。
東京どころか私なんぞは辺境の地、三重県からである。
「えぇ?餃子を食べるためだけに野田まで?」とタカシさん呆れる。
チャオさんも現れ同じく「餃子のために野田へ?」と呆れる。
このお二人に呆れられるということは、
ますむらさんと地元プフさんを除く5人は相当におめでたい人々と言えるであろう。
というわけで、おめでたい奴らが、めでたいパーティーに華を添えることができて
何よりであった。

このまま終わって東京に戻るというのもあっさりし過ぎているので
6人はプフさんにお世話になって「くろしお」に向かう。
餃子だけではまだまだ足りないとみえて、デカイおにぎりを頼んだかと思うと、
まずデザートから入ったりと、よくわからない展開。
私はろくに料理は食べずにまたビール。
そしてソルティードッグ、それから何だか忘れたけど次々に違う種類のお酒を飲み続けた。
隣の若いグループの騒音にもめげないで、
楽しい話は尽きず続く。
それでももうそろそろ帰らないと東京まで帰りつけない時間。

名残惜しいけどプフさんとはお別れし、残りの5人は話しながら愛宕駅を目指して西に歩く。
駅のホームには「atago」の文字。
うーむ、やはりどうしても「wl」の文字を書き加えたくなる。
次に来る時には絶対、黒い紙で「wl」と「ul」を作って、
両面テープで貼付けるのだ。大人気ないけど、これはやりとげねばならんのだ。
極秘のミッションなのだ。うむ。

電車は暗い田園の中を進み、途中でJIMAさんと別れ、
そして次には私が他の人たちと別れ、朝来た経路を逆に辿り茅場町。
あぁ、楽しい一日だった。ますむらさん、ありがとうございました。
プフさん、JIMAさん、蜘蛛爺さん、ゆかりさん、タチバナくん、ありがとー。
やはり野田はアタゴオルの聖地ですね。
念願の餃子も食べられたし。
平熱に戻っていた微熱中年はまた微熱を取り戻すことができました。

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 付録 写真展を見に行く

おまけの一日。翌13日、日曜日。
朝から一人、タクシーで東京駅八重洲口。
荷物の一部をコインロッカーに預け、山手線外回りで渋谷駅。
東急田園都市線に乗り換えて用賀駅。

目指すは世田谷美術館。
そこでは「宮本隆司 写真展」が開催されているのだ。
用賀駅からはご丁寧に道の要所要所に美術館までの順路が示されているので
それに従って歩く。
道のまわりの風景は見事に人工的に整えられたプロムナード。
田舎人としては決して住みたいとは思えない街。
10分ほどで砧公園(きぬたこうえん)に入る。
この公園も広大で緑は多いのだが落ち着かない。
蝉時雨のように東名高速道路の騒音が途切れることなく降り注ぐ公園。

美術館に着き、館内に入ると客は少なく、しんと静まり返っている。
写真展のタイトルは「壊れゆくもの・生まれいずるもの」。
宮本氏は1980年代後半に「建築の黙示録」という写真集を出版し、
建築物の取り壊し現場を写真に収めてきた写真家である。
その後、香港の九龍城砦を撮り、段ボールの家を撮り、
阪神淡路大震災の現場を撮り、最近では巨大なピンホールカメラで
風景の写真を撮ったりしている。
「建築の黙示録」で主に撮影に使用しているカメラは業界用語で言うところのシノゴ。
縦4インチ、横5インチの白黒フィルムを使っている。
ちなみに、一般的な一眼レフやコンパクトカメラで使われているフィルムは
135フィルムと言い、撮影サイズは縦24mm、横36mm。
135フィルムと比べるとシノゴのフィルムは面積比で1:15、つまり15倍もの大きさ。
そこには微細な壁のシミや微妙な陰影のグラデーションまでが写り込む。
人間の視力を凌駕するその描写力で、壊れゆく建築を冷静に記録している。

私の使っている全手動大判カメラも建築や風景の写真向きで、
宮本氏も使っているゲルマン民族の作ったレンズは素晴らしい描写力を持つ。
しかし私はこの先どんな写真を撮っていけばよいのだろう。
花や夕焼けや紅葉といった被写体を綺麗に撮って愛でるというのは趣味ではない。
そーいう悩み(というには大袈裟かもしれないが)に何かヒントが見つかれば、
と思ったのが宮本氏の写真展を見てみたかった理由だった。
また、プロの写真家の
本物の白黒写真のプリントを見るのも楽しみだった。

大判カメラを使った写真は画像の粒子が細かいので、
中間調の部分は白と黒の粒のブレンドではなくグレーで表現される。
そのためか会場に並んだ白黒写真はやや軟調(コントラストが低い)に見える。
建築の解体現場の写真もよかったが、
九龍城砦の写真が印象深かった。
有機的とも言えるような複雑怪奇な建物群には圧倒された。

また、コンパネで作られた巨大な針穴写真機と、それによるプリントも興味深かった。
針穴は1mmほどの径で、けっこう大きいので細部までは写らないだろうと思うのに、
135フィルムで撮影したのかと思えるほど微細な部分まで写っている。
これまで針穴写真機の能力を侮っていた。

被写体が何であろうと、写真は記録であることに違いはない。
しかし一枚一枚の記録が集合し、大きな群となってくると、
その写真に写った光景の前に佇む作者の内面世界が朧げに現れてくるのである。
なぜ作者はその光景を記録にとどめたかったのか、いちいち理由を説明しなくても、
写真はそれを記録している。
写真は光景の記録であるとともに、作者の視線の記録でもあるのだ。

私が宮本氏の写真に見たものは、ピンホール写真を除いては、
「壊れゆくもの専門家」の視線だった。
この視線は写真を生業とする宮本氏の専売特許だと言えるだろう。
プロフェッショナルらしい冷静な醒めたものを感じる。
つまり、あくまでも専門家の視線であって、壊れゆくものマニアの視線ではないのだ。

カタログ写真集を2300円で買い、美術館を出てもと来た道を引き返す。
用賀駅から渋谷駅に戻り、JRで恵比須駅へ。
動く歩道を歩き、恵比須ガーデンプレイスにある東京都写真美術館へ向かう。

ここでは「奈良原一高 [時空の壁:シンクロニシティ]展」が開催されていた。
奈良原氏の写真で思い出すのは、二つのスチール製ゴミ缶が木にくくりつけられて
宙吊りになっている写真。アメリカの田舎町で撮られたその写真は、
明らかに日本的ではない光景が印象的で、大学の時に雑誌で見て以来忘れられない。
会場に来てみると、世田谷美術館よりたくさんのお客さんが入り、盛況。

世田谷でも恵比須でも写真の解説に「ゼラチン・シルバープリント」と書かれていて、
いったいこれはどういうものなのだろう?特別のプロセスで印画したものなのか?
と疑問に思ってあとで調べてみたら、何のことはない、いわゆる銀塩写真のことだった。
つまりは普通の印画紙を使って引き伸し機でプリントしたもののことなのだ。
なんでこんな表現をするのか考えてみると最近の写真はインクジェットプリンタで
出力したものが増えてきたので、それと区別するためなのだろう。

奈良原氏の白黒写真は宮本氏の写真よりも黒がしまっていて、硬調(コントラストが高い)。
例のゴミ缶の写真もあって、はじめて実物を見ることができた。
雑誌や写真集で見るものと、印画紙へのプリントでは印象が違う。
印刷物はやはり複製でしかない。
135フィルムで撮影した写真はどうしても粒子が荒くなるけれど、
そのおかげで白黒がはっきりし、気持ちのよい画面になっている。
プロ写真家のプリントは素人写真より際立って美しいのかもと思っていたが、
見てみたらたいして違うものではないことがわかった。
やはりアンセル・アダムスのような物凄いプリントは別格なのだ。
奈良原氏はデジタル写真も駆使して、実験的な作品を作っている。
私としては、昔ながらの銀塩写真が好みであるが。

結局のところ、今回の二つの写真展からは、
私自身の写真についてのヒントは直接には得られなかった。
写真家はそれぞれに自分自身の世界を持っていて、生き方もまるで違う。
そのときそのときの衝動に突き動かされて、撮る写真の質も変わる。
ただよくわかったのは、プロの写真家の強みであると同時に弱味でもあるのは、
写真によって身を立てていかねばならない、ということ。
プロ写真家は、私のような一介のアマチュア写真家にはない徹底的な執着心とか
面白いものを探し出す嗅覚をそなえている。
けれども彼等の発表する写真はいつも多くの賛同者を獲得せねばならない、
という制約に縛られているのである。
ひとりよがりではいけないし、コンセプトがなければならない。
簡単に言えば、お金になる写真でなければならない。
対して、アマチュア写真家には放任された自由がある。
これを生かせるか生かせないかが、わかれ道だ。

奈良原氏の写真集は買わず、外に出て、白金の蕎麦屋まで歩く。
せいろを2枚食べて満足。
暑い中、JR田町駅まで歩こうかと思って歩き出したがバスが走っているので
軟弱にバスを使って田町駅へ。
東京駅へ着いて、八重洲ブックセンターにも行ってみるが買いたくなる本はなし。
地下街のイタリア料理の店でペペロンチーノを食べ、
大丸の地下で土産物など買い、夕食用に四川風麻婆豆腐丼を買い、
新幹線で帰路につく。

             付録 完