春、歳時のギャラリー



入園式


入園おめでとう。でも、ちょっぴり怖いような、淋しいような、なんたって初めてお母さんから離れるんだもの、「うちの子は内弁慶で困ります」ってお母さんの声を後ろに、もうみんなわいわいがやがや、そんな子もいれば、仲間になじめず一人ぽつんの子もいるし、まぁちょっとした人の世の縮図ですな。まずは、たくましく、そして人思いの生活習慣の成長を期待したいものです。


春の全国交通安全運動

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・右は別府警察署、左は大分県警のスローガンです。一向に無くならない飲酒運転、一向に無くならない政治と金、いずれも人間の弱さから生まれて来る様ですが、この書にあるように、今後一切「やめちょくれ」と叫びたいですね。


May Day メーデー



・労働者の日です。長時間労働、低賃金、不衛生な労働環境等、過酷な労働を強いられていた労働者が,正当な労働条件を資本家・経営者に要求するために集会を開き、声をあげて民衆に訴えました。
・1886.5.1 アメリカのシカゴの労働者36万人が集まってストライキ(職場放棄)とデモ(示威運動)を行い、これが発端となりましたが、これに警官が発砲するなど、流血と弾圧をともないながら、全世界的な規模に発展。
・日本では1920年東京上野公園で1万人が集まって第一回メーデー、8時間労働、失業防止などを訴えました。以来「血のメーデー」事件がしばしばでした。最近では労働者の国際的祭典として、2006年で第77回を迎えました。
・写真は2005年76回北海道全道メーデーのときのものです。


母の日、合わせて父の日も

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・ アメリカ、ウェストバージニア州で教師をしていたアンナ・ジャービスさんは、自分の教会学校の教師であった亡き母親の3回忌にあたる5月8日に、友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案しました。翌1908年の5月10日、彼女が勤めていた学校に470人の生徒と母親達が集まり、最初の「母の日」を祝ったのです。彼女は参加者全員に、彼女の母親が好きだった赤いカーネーションを贈りました。
1914年に、『母を尊敬し、称え祝う日』はアメリカの祝日になり、5月の第2日曜日と定められたのです。
・ 一方 ワシントン州に住むジョン・ブルース・ドット夫人は、1909年「父の日もつくって下さい」と、「牧師協会」へ嘆願しました。ドット夫人のお父さんは北軍の軍人でした。南北戦争(1861〜1865)で出征し、お母さんは、夫が戦争で留守の間、女手一つで働きながら一家を支えてきました。その為、お母さんはすっかり体をこわしてしまい、お父さんの復員後、間もなく死んでしまいました。そこからお父さんの苦闘が始まったのです。残された子供達は、男の子5人と女の子が1人でした。6人の子供達を男手一つで育てるのですから、さぞ大変だったことでしょう。お父さんは再婚もせず、生涯独身で働き通したそうです。今日のような豊かなアメリカではなく、悲劇の時代と言われていた頃のアメリカでしたから、その苦労は大変だったでしょう。6人兄弟の末っ子の女の子がドット夫人なのです。嘆願してから7年後、1916年に「父の日」が認知されるようになりました。
・ そして、1972年(昭和47年)に、国民の祝日となったのです。『父を尊敬し、称え祝う日』それが「父の日」なのです。母の日にならって6月の第3日曜を父の日に制定しました。
日本で一般的な行事になったのは昭和28年(1953年)からです。母の日の赤いカーネーションに対して父の日のシンボルは白いバラとされています。でも特に決まりはありません。日頃一生懸命働いてくれているお父さんに感謝して、プレゼントを贈ったり家族で食卓を囲んで過ごしてみてはどうでしょうか。


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