れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

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「25時」 

2002年 5月 3日号

 4期生の上野征希がひょこっと塾に姿を見せたのは俺が退院して数日後のこと。前に塾に来た時はOA機器のセールス、その前はマルチ系の勧誘、その前はミナミの雇われマスター、その前は・・・。斉藤(北海道大学3年)や紀平(今春からヤマハに就職)を相手にターゲット1900の試験で勝負していたのは何年前の夏だったんだろう。さてさてこ奴、これがまたやたら威勢がいい。機関銃のようにまくし立てる。久しぶりの邂逅(かいこう)ということが気分をハイにさせたのか?と思いきや、そうでないことが後になって分かる。こ奴、カイロプラクティクスの資格を取り「人様」の身体をさわる生業を始めたという。資格と言っても国家試験ではなく群雄割拠する無数といっていい団体が見とめた資格とのこと。つまりは俺の頭での理解、幾多のプロレス団体が認定しているタイトルみたいなもんかと・・・征希自身も口にしたが、この資格や組織、医師の国家試験に比べれば「キワモノというか、うさん臭いというか」と自嘲的につぶやく、しかしね・・・と続ける。「レーザー治療でも治らなかった僕のヘルニアを見事に治してくれたんです。ほかの誰が信じなくても僕だけは信じますよ」

 征希が腰をいわせている・・・椎間板ヘルニアということは知っていた。しかし保険が利かないレーザー治療の果てに60万ほどいかれてしまうほどに切迫感があるとは思わなかった。60万也の手術、去年の秋頃のことで、決してキワモノでなく厳然としたその筋では有名な名古屋の医院での出来事。しかし失敗、一向に良くならない征希にドクター「ワンスモア!」の掛け声。しぶしぶ乗りかけた征希だったが昔のダチのダチから嬉野にあるとある医院の事を聞いた。「とにかくこの痛み、この苦しみを治してくれるのなら何にだってすがる」思いで訪ねた征希。なんとこれがたった3回の治療で治った。「これがね、本当に治ったんですよ。だからよくしゃべるでしょ? なんてたって体調万全! でも口の悪いダチに言わせりゃ、今度はどんな宗教にかぶれたんだ?ってね」 つまりは征希、わが身に起こった奇跡を目の当たりにして改宗? さっそくこの医師、H先生の団体が認可する講習を受けて資格を取った次第。4月からはこのH先生のもとで助手を務めているとのこと。そして修行に勤しむ征希の当面の課題・・・毎日数人の人様の身体に触れること。今までの人脈からかつてのバイト先の学生連中を相手にしていたようだが、今夜は強敵を求めて俺の身体を狙っての来襲となったらしい。

 左肩の調子が悪い。車を運転していて後部座席に手を伸ばせない。やっかいだったのが左手首の手術の折。手術台に乗せられ手を伸ばすものの、ある角度からは真っ直ぐに伸びない。手術とは関係ないところで叫び声を上げる始末。局部麻酔であることを呪っちまう。そうそう、前回の「25時」に書き忘れたネタを一つ。

 俺のオペは担当医とあと一人、でも俺の目からは顔はわからない。聞き覚えのある担当医が言う。「225mmかな?」この段階で切開が終わっているのは気配で分かる。スーッとひんやりした糸が親指の甲あたりをなぞったのは今しがた。メスが入ったに違いない。つまりは225cm、折れた骨に生め込むボルトのサイズだろう。担当医とは違った声が「それでいいでしょ」 それに対し担当医、「250でもいけるかな?」 それに対し「それでもいいですね」 再び担当医、「どちらがいいかな?」 間髪入れずに「どちらでもいいんじゃないですか」 しばし沈黙。険しい担当医の声が沈黙を破る。「君、もしかしたら手術を早く終わりたいんか!」 ちょっと間を置いて「いえ! そんな気はまったくないですよ」 このやり取りには思わず笑っちまった。再び担当医、「聞こえましたか?」 「ええ」と、これは俺。

 さて手術台で叫び声を上げた俺のことを覚えていたんだろう。翌日回診に訪れた担当医に尋ねてみた。「手術した場所はそんなに辛くないんですが、左の肩が・・・」「ああ、そういえば手術の時、痛そうでしたね」 そして担当医、俺の左肩を掴んではいろんな角度に曲げようとする。その度に再び叫び声が4人部屋に響くことになる。「なるほど」「どこか悪いですか」「ああ・・・これは五十肩ですよ」「・・・五十肩。四十肩じゃなくて・・・」「・・・ええ、五十肩」「どうすりゃ治りますか」「動かすことでしょう」「それだけ・・・」「ええ」

 つまり征希の今夜の対戦相手は五十肩のオッサンという州チャンピオン並のタイトルホルダー? さて、挑戦者・征希の動きはなかなかスムーズである。「痛くないですか」と何度もささやきながら足首から大腿部へ。そして難関の左肩を目指す。違和感のある動きを何度も繰り返しながら左肩へ迫る。そして俺は肩がきしみ声を上げそうになるのをかろうじてこらえる。30分くらいで終了。「先生、立って・・・そして左腕を上げてくれますか。上げれるとこまででいいっすから」 今までより幾ばくかは上がったような気がするが左腕、肩以上には上がらない。「やっぱりなあ」「ひどいか?」「ええ、なにしろ先生の場合、肩甲骨が掴めないんですよ」「ふ〜ん、まあ難しいこと分からんけどオマエの今の動き、かなりしんどいだろ? 息が切れてたよ」「先生、そりゃ僕のキャリア不足です。ウチのH先生ときたら一日に33人を診たことがあるそうですが、滅多なことじゃ息が乱れない」「すげえな。33人ともなりゃメシを食う時間もねえよな」「ウチの塾もそうでしょうが、バリバリの現場ですよ。立ち食いですわ! 食べる時間の早いこと早いこと」「そうだろな、それがまた楽しい」「H先生もね、退職金で悠々自適な生活を送れるはずなのに何故こんな生活になったのかしらって・・・」「現場の楽しさ知ったら引退なんてクソ食らえだろ」

 緒戦の敗戦をものともせず、征希は毎週月曜日を治療日に決めた。しかし翌週の2R目も翌々週の3R目も状況に変化なく日々は過ぎていった。「やっぱりまだまだキャリア不足。でも先生の身体を1週間に一度触れることで自分の成長の証として眺めてみたい。だから先生も僕が手を抜いているなと思ったら言ってくださいよ」

 4月25日、俺は鈴鹿にある塾専用教材会社に出向き遅まきながら今年度の教材の間をほふく前進。なにしろ今年から教科書は大改定、いろんな生徒の顔を浮かべながら「こいつにはこの教材、あいつにはこの教材」なんぞとやっていた。塾に戻ると電話が鳴っている。一瞬、静謐感が場を支配する。・・・村田君! 「もしもし、れいめい塾」「先生、村田です」「やっぱり!どやった!」「おかげさまで受かりました」「良かった!」「今日は発表直後から何度も電話したんですが」「ごめんごめん、鈴鹿まで行ってた。それに加えて携帯はお蔵入りだ」「え?」「洗濯機の藻屑となって消えちまったよ」「ハハハ、奥様がまた・・・」「ご名答!」「とにかくまずは先生にご報告しようと」「ありがとう・・・本当に良かった。おめでとう!」「ありがとうございます。できれば先生といっしょにお酒を飲みたいと・・・」「大歓迎さ。それに俺のほうも村田君に紹介したい人がいるしな」「どなたですか」「長沼先生さ、村田君が入局する第一外科の・・・」「存じています。松阪済生会病院の外科部長の・・・」「ああ、村田君が晴れて国家試験に合格したら紹介したかった。俺にできる最後のプレゼントだ」

 長沼先生にはぶしつけな俺の願いを快諾していただいた。そして29日の月曜日に村田君に高橋君(三重大学医学部6回生)を交え、飲みながらドクターの心得なり、第一外科のこれからなりを話していただくことに決まった。4月の最終月曜日、つまりは上野征希を迎えての第5Rの日でもあった。

 29日は昼にもう一つのイベント・・・祐輔の引退試合があった。場所は伊勢市体育館、卓球の全国総体の三重県予選。東京工業大学から突如として三重大学医学部に志望変更した祐輔、こ奴の高校生活最後のクラブの試合だった。

 クラブをこよなく愛する俺は塾を抜け出して生徒たちの試合を見に行くのが最高の楽しみのひとつとなっている。しかし祐輔の卓球の試合を見たことは今までに一度もなく、最後の試合こそはと心に決めていた。しかし休日でもあったこの日、午前中から小学生が姿を見せる。やっと落ち着いたのが昼。祐輔ならなんとか午後まで残っているだろと思いつつエスティマを走らせる。しかし体育館に着き、体育館の壁に貼ってあったトーナメント表を見ると2回戦で敗れていた。相手は日生第二、後から聞くと卓球の留学選手、栃木と静岡出身の選手だったとか・・・。最後の試合を見ることができなかった。申し訳ない思い・・・そんな時に祐輔がそばを通る。「よお、祐輔」「あれっ、・・・先生」 ただそれだけだった。劇的なシナリオなんてなく、期待もしなかった。淡々と俺達は塾の廊下ですれ違うように別れた。

 長沼先生との飲み会の場所は昔よく行った「よしかわ」。しかし今では経営者が代わり「柳生」となっていた。座席は奥座敷、俺と長沼先生が並んで座り、対面に緊張した面持ちで村田君と高橋君が座った。「今日は奥さんから、黙ってるのよ!って言われててね」と長沼先生。「いやいや、是非これから医師を目指す二人に先生から話しておきたいこと、なんなりとお話ください。ぼくも今日を楽しみにしてきましたから。今まで村田君には塾の生徒を患者として看るようにとか、他者に対して愛を持ち続けることができるような人間、いいドクターになれと口では言ってきましたが、抽象的なネタはともかく医学的な専門知識に全く無知なんで、ここは説得力のある先生にご出馬願うことが、僕が村田君にできる最後のプレゼントやなと・・・」「いやいや、村田君にすれば本当にありがたい。先生の親心やな」

 「まあ、僕が第一外科に入った頃はね、先輩の技術を見て盗めってね、そんな時代だったんですよ。でもね、今はね、時代が変わったよね。僕なんか1年目は糸結びばっかりでさ、今なんて5年生の研修で皆やらせてもらってるもんね。かなり変わってきてる。でもそんな反面、やはり昔と同様な理不尽ていうかな、無理難題を吹きかけられることなんかあってさ、村田君も入局しても辛いことや厳しいことあると思うよ」「でも先生、それは医師の世界だけじゃなくどこだって表と裏めいたことはあるんじゃないですか」と俺。「うん、社会だもんね。でもね、やっぱりそれまでの人生、そこそこ優等生でやってきた打たれ弱いタイプがそんな目に会うとショックですよ。やっぱり昔気質の先生もいらっしゃるしね。でもね、それでもね、なんとか学生諸君がね、夢を持って第一外科に入局してほしい。今年は何人だっけ?」「4人です」と村田君。「4人か、ありがたいね。その4人の皆さんに仕事をする充実感を味わってもらいたいなあ、僕は。正直言って外科はしんどいですよ。身体きついしね、家に帰っている暇ないしね。指導も厳しいよね」 ここで村田君も高橋君も苦笑。三重大学第一外科のキツサは鳴り物入りの評判。自衛隊以上、軍隊以下と揶揄されている。「なんで橋本君は辞めたのかな?」と、意外なボディブローが俺に炸裂する。

 橋本君はウチの塾の救世主とも言えた。彼が5期生の菊山(松下電器勤務)に化学を教えたことがきっかけとなって以後、幾多の医学部生が講師としてウチの塾に密航することになる。自分の口ききで連れてきた講師には生徒に対する心構えめいた話を何度もした。村田君がウチで講師を始めた頃、欠点だらけの学生だった。挨拶をしない。挨拶をしても暗い。無愛想な性格は悪気はないものの生徒たちには不評だったし、先輩講師たちからも眉をひそめられていた。そんな村田君を頻繁に誘い出しては俺はいろんな話をした。「生徒は患者さんでさ、仲間の講師は看護婦さんと違うか? やっぱ皆から好かれるなかで仕事したいやん」 橋本君も根気良く付き合ってくれた。同期の講師、北野君(第二内科入局・現在遠山病院勤務)や田丸君(第二内科入局、現在紀南病院勤務)もいた。「村田、まず塾のドアを開けたらみんなに挨拶しろ!」「もっと明るい声で!」「笑顔で、笑顔で!笑顔を絶やすな!」 厳しい道場師範代、れいめい塾の山本小鉄と俺は評した。そんな薫陶が功を奏したのだろう、村田君の表情は柔和な笑顔が代名詞とまでなっていった。その師範代、第一外科に入局。忙しいのだろう、滅多に塾に姿を見せることはなかったが現れると決まって村田君を誘い出しては飲んでいた。村田君の今回の第一外科入局、最初にネタを振ったのは橋本君。「村田は第一外科やな。俺がしごいたる!」 それに笑顔で応える村田君。つまりは橋本君に対するあこがれめいた感情がきっかけだったと思う。ところが4年目の春、故郷の広島大学の皮膚科に転部。第一外科を辞める原因は時間の束縛にあったように思う。「先生と飲みたいですよね。でも同じ三重県内にいるのに自由に飲めない。どうしても病院周辺でしか飲めない。これがね、僕がかりに広島大学にいたとして、そして外科じゃなかったら、翌日は無理でも週末なら必ず会えますよ。先生と酒が飲めますよ」 こんな象徴的な会話を電話越しにしたのは第一外科を辞める決意を固めた頃だったと思う。

 「橋本君は時間の束縛にまいっていたんじゃないかと・・・」「そうですよね、なかなか病院を離れられないですから・・・。それと橋本君は賢すぎたのかもしれないな・・・」 俺は山田日赤の正式ホームページを楽しそうに作成していた橋本君の姿を思い出していた。「橋本君とは今も連絡があるんですか」と長沼先生。「ええ、ちょくちょくメールくれますし、広島に帰省してから一度だけ三重県にやって来て飲みました」「そりゃすごい。塾出身の社会人が盆や正月には塾に戻ってくるのは知ってましたが、講師までもが会いに来るなんて、やっぱり魅力があるんでしょうな」 長沼先生は村田君に尋ねる。「村田君、6回生の時も塾で教えてたの?」「ええ」「橋本君はセンター試験まで居座ってたけどな」と俺。「いやあ、僕にはあんなマネ、絶対にできませんよ」「センターって、国家試験直前のセンター?」「ええ」「そりゃすごい! そこまで生徒を見ていたい、先生といっしょにいたい。やっぱり魅力があるんですよ」

 「これからの医師はね、教育者の視点を持つべきだと思うんですよ」「どういう意味でしょうか」と俺。「今まではね、俺に任せて着いてこい!みたいなドクターが普通だった。でもね、そんな時代じゃない。自分の技術を配下のドクターたちにね、意識的に伝えていく。技術を見せてやるから盗めじゃなく、いろいろさせてみる。今の入院患者にしてもね、やっぱり僕に担当してほしい患者さんはいるの。でもね、お願いして若いドクターの担当になってもらう。なんとか若い連中に経験を積んでもらいたい。当然、大切な局面では僕が執刀するけどね。いつも僕が担当してたら若いドクターの出番がない。もっともっと勉強してほしい。チャンスを与えてあげたい。これがね、看護婦の世界じゃ当たり前なんですよ。新入の看護婦は2年目の看護婦が指導にあたる。そしてその2年目には3年目の看護婦が、そして3年目には4年目がと・・・順々に自分の1年後輩を指導していく。そりゃ見事なもんです。しかしそれが医師の世界ではまだまだできていない」「ウチの塾のスタイルですよ、それって。中1を中2が教えて、その中2を中3が教える・・・」「中山先生、本当にそれってスゴイことなんですよ。たとえばね、アメリカでは大人になった奴が医者になるって言われてるんです。これが日本ではね、子供が子供のまま医者になって、それから大人になっていくと・・・国家試験に受かったところで子供のままなんです。社会人という意識がないままドクターの世界に組み込まれちゃう。僕たちはそんなドクターを教育する義務があると思うんですよ。これはね、村田君が今は考えることじゃないと思うけどね。今はただひたすら一人前の医師になるべく技術を磨くべきだと思う。しかし、いつか村田君は一人前となる。そして、自分はこれからどのように医療に、患者さんに対して接していくべきなのか・・・そんなことを考え始める時が来たら、今日のことを思い出してほしいな」

 俺は高橋君を見ながら言った。「長沼先生、彼は来年の入局予定ですが、今日の話でかなり第一外科に魅力を感じたことと思いますよ」「ええ、かなり・・・」と微笑む高橋君。外科志望、これは以前から高橋君に聞いていたこと。しかし外科のなかには第一外科・第二外科・脳外科・胸部外科とある。「ぼくは高橋君に胸部外科に入局してもらって多分肺がんを患うはずの僕の最後を看取ってほしいなと・・・」 俺は冗談めかして言った。「胸部外科なの、高橋君の志望は?」「それもあるなと・・・」「胸部外科はね、極端に言えば10年に一人、手術のできる天才を作ればいいんだ」「どういう意味ですか?」と、すかさず俺。高橋君の顔色も一変。「なんて言うかな、やはり手術は難しいんですよ。症例も少ないしね。だから手術のスペシャリストが必要となるんです」「じゃあその他のドクターはどうするんです」「他のドクターは裏方です」「裏方!」「でも誤解してほしくないけど裏方って重要なんですよ。腕のいい裏方がいるから安心して病気に対応できるんです」「それとよく似た話なんですが・・・」と俺は切り出した。「朝日新聞に天声人語ってありますよね。あれを書くライターも同じなんですよ。10年、あるいは20年に一人いればいいって言うんですよ。つまり20歳代の段階で決まってるらしいんです。そしてこれと決めた記者には記事なんか書かせない。記事を書くよりも海外に出して世界中のいろんな所を旅をさせ、いろんな体験や経験を積ませる。そして50歳前後になってやっと天声人語を書くことになるんです」「それは似てますね」「ええ、じゃあ先生、第一外科の場合は一人の天才と裏方という構図は当てはまらないんですか?」「第一外科は違いますね。皆がコンスタントに得点を叩けるプレイヤーでないといけないんです。たとえば10割の第一外科志望者がいるとして、2割は自分で自分の問題点を摘出して自分で判断し、自分で問題点を克服していくタイプです。これは塾でも同じでしょ? ほっといたらいいんですよ、ちゃんと自分で勉強していきますよ。そして残りの8割のうち6割が教えないと分からないタイプ。つまり我々が伸ばす必要があるのがこの6割なんです。このタイプのレベルアップを図ることがプライオリティ(最優先)なんです」「じゃあ、残る2割は?」「残る2割は・・・切りますね」「え!」「厳しいかもしれませんが、企業でもリストラってありますよね。あれに比べればまだ医者はいいですよ。少なくとも移る科はあるんです。やはり外科に向かない者には違う方向でこれからの人生を考えてほしい。外科だけでなく我々医師は患者の皆さんに貢献することが使命なんです。患者を治癒するうえで不適格者は切るしかないんです」 さすがにこの発言には村田君も高橋君も顔面蒼白、そして分かっている・・・たぶん俺もだ。

 長沼先生の発言は刺激的だった。リベラル・・・そのフレーズが思わず口をついて出た。「でも先生、そんな風にリベラルな思考、考えを持っていらっしゃるドクターが、たとえば桑名市民や鈴鹿中央など、先生と同世代のドクターの方々も考えてみえるんでしょうか」「いますよ、絶対に。みんなが程度の差こそあれ、必ず考えています。それにね、今年は教授も代わったしね。その意味では村田君たち4人はラッキーかな? なにしろ教授にとれば記念すべき1期生だよ。かわいがってくれるよ。本当にね、今度の教授はスマートな人ですよ。まあキャリアも日本有数で有名なんだけど、考え方もフレキシブルなんです。別に前の教授がどうのこうのじゃなくて、僕は前の教授には本当にお世話になった。現在の僕があるのは前の教授のおかげ、恩人ですよ。その恩人から教わった技術をね、今度は僕が若いドクターたちに伝えなくっちゃと思ってるんです。今度の教授もね、体質を変えていきたいと・・・今年は4人も入ってくれて感謝してるけど、これからもね、夢を持ってもっとたくさんの学生が第一外科を志してくれるような、そんなやりがいのある科、ともに将来の夢を語れるような科にしていきたいよね」 最後は長沼先生の視線は村田君と高橋君に注がれていた。「じゃあ、10年たったら第一外科の風景は変わるでしょうか」「うん、変わる。やはり古い体質は厳然としてあるけどね。これもまた裏を返せば、みんなが第一外科のドクターであることに誇りを持ってるとも言える」「じゃあ長沼先生、第一外科という過酷な職場でモチベーションを低めることなく仕事をする秘訣めいたものはあるんでしょうか?」 この俺の質問に長沼先生、いともあっさりと答えた。「プライドですよ。他の科に比べて確かに過酷です。そして思っているほど儲かるもんじゃない。仕事が終わるのも遅いし、患者さんのそばについている必要から家にもなかなか帰れない。指導面でもぬきんでて厳しい。それでも20年間を第一外科で過ごしてきた。これだけは自信を持って言えますね・・・仕事に対するプライドです」

 11時過ぎ、俺は長沼先生を車に乗せて家まで送った。村田君も高橋君も、そして俺も、皆しばらく無言だった。「すごかったよな」と俺。「ええ・・・」と村田君。「まいりましたよね」と高橋君。つまりは俺達3人ともどもサンドバッグよろしくボコボコに打ち負かされたボクサー。しかし打ち負かされたものの、誰の目にも充実感に溢れた光が宿っていた。つまりは、いい汗をかいた。こよなくいい試合だった。

 塾にもどると征希が待っていた。征希に治療を受けている話は2人には伝えてあった。折りたたみのベッドを広げ俺はいつものように横になった。村田君と高橋君が興味深げに眺めていた。征希が言った、「村田君、国家試験の合格おめでとう」 征希からすれば村田君は2歳年下。「ありがとうございます」「で、国家試験の倍率はどれくらい?」「80%くらいが合格します」「でも、医学部に合格する倍率は天文学的倍率でしょ」「そんなことは・・・」 征希はやりにくそうだった。気分は分かる。それも狙いだった。征希のローテーションがいつもの流れと違っていた。「プロに見られてるってね・・・」 背中越しに聞こえてきた征希のつぶやき。その中に感じられた困惑。「村田君や高橋君は国家試験、そこへいくとおいらは類似医療行為・・・エセ医療ってか」 場を沈黙が支配した。居づらくなったのか、いつしか二人は姿を消した。「今日の動き、いつもと違うな」「やっぱ、プロの目を意識したかな」「そんなの、気にしなくっていいのに・・・」 痛めた左手首を征希の指が何度もつつく、鍵盤を叩くようにだ。「良くなりさえすれば誰にだって、何にだって拝みたくなるって言ったのオマエさんやで」「え!先生、何か言いました?」 聞こえなかったようだ。熱く感じる何か、電流のような体感が左手首から左肩へ走る。征希の表情が変化する。ほてった感じが左肩にまとわりつく。「はい,先生。立ってみてください」 俺は身体を起こし、ベッドから這い出す。「はい、左手を挙げてください」「うん・・・あれ?」 俺の視線の先にはここ数ヶ月、肩以上には上がらなかった左手がケチャップにまみれた天井を指差していた。「おい!征希・・・」「先生、治った!」「うわ!すげえや・・・あれ、曲がるよ、おい! どうしたんやろ?」「先生、治った!治った!」 俺は恥ずかしげもなく征希と抱き合った。

 思えば一日で新日本プロレスと大阪プロレスをハシゴしたような気分。長沼先生のこれから第一線に立つ無数のドクターたちに対する真摯な愛情、それと同時に患者に対する献身的姿勢には俺だけじゃなく村田君も高橋君も圧倒された。二人にとって2002年4月29日は記念すべき日となるに違いない。長沼先生を長州力とすれば上野征希はスペル・デルフィン? トリッキーなファイトに幻惑されいつの間にかタップしてた。

 長沼先生、本当にありがとうございました。俺は三重大学医学部の学生たちを教育という現場で鍛えてきた自負があります。一期一会、限られた年月、最大にして6年間を俺と縁あって付き合う以上は、今の俺にできることを全て伝えたかった。彼らに、医療に携わるプライドと真摯なファイティングポーズを武器として持たせてあげたいとずっと願ってきました。しかしこのトレーナー、頼りないこと甚だしい。これからもまた同じような狙いからぶしつけなお願いをすることになると思います。今回のことに懲りずにお付き合いの程、お願いします。

 村田君、この夜に授かったドクターとしてのプライドを胸に刻み込み、これからの過酷な日々を駈け抜けていってほしいと切に願う。村田君、君が選んだ職場は立ちメシを食らうのが当たり前のベタベタの現場や。ともに頑張ろや。健闘を祈る。バイヤ・コンディオス!

 広島の橋本君、今の村田君があるのは、これまた君の献身的な努力の賜物だと俺は思ってる。今度、三重県にやってきたら長沼先生に無理を言っても出てきてもらおう。村田君は当然、有無を言わさず連れ出していっしょに飲もや。

 そして征希へ。自分の信じる道を歩んで行けばいい。国家試験であろうと、類似医療行為であろうと関係ねえや。対峙するのいつだって、期待と不安が入り混じったすがりつくような目・・・土俵は同じだ。重要なことはただ一つだけ・・・他者への愛だ。

 

 5月2日となり、突如北野君から電話。「先生、ひまができたんでちょっとおじゃまします」「何かあった?」「いえね、村田君の入局祝いと松原さん(関西学院1年)の合格祝いを手渡そうかと・・・」「え!」

 すかさず村田君の携帯に連絡。自宅にいた村田君、さっそく姿を見せる。「村田君、長沼先生の話でさ、一番心に残った一言って何や」「全てがこれから入局する僕にすれば心温まる話で、信頼できる上司に恵まれたなと・・・でも」「でも、なんや」「やっぱり第一外科の2割は切られるって話にはショックでしたね」「ハハハ! やっぱり? 俺もそんなんじゃないかと思ってたよ。でも心配しなさんなって、村田君なら、ウチの塾での学生に対する視線さえ忘れなかったら大丈夫さ」 そんなところに北野君、どっしりした体躯を現す。「村田、良かったな。おめでとう」「ありがとうございます」「これ祝いや」と北野君、高そうな酒を差し出す。「今のうちに心ゆくまで飲んどけよ。第一外科に入局したら当分、ゆっくりとは飲めへんぞ」 

 胸のなかを何かが突き上げてきた。村田君がウチで教え始めた時,北野君は5回生だった。どうしようもない新人講師を皆で連れ出しては飲んでいた。いつしか北野君はドクターとなり、村田君がドクターへの道を歩み出す一瞬に駈け付けてくれた。いつの日か、医学部を目指し古い塾で勉強している卓や祐輔が入局する春が来る。その時は村田君が駈け付けてくれそうな気がする。

 北野君が言う。「すまんな村田、いっしょに飲みに行ってやりたいんやけどな。今、奥さんな」 北野君、俺の方を見る。「実は先生、ウチの奥さん、3ヶ月なんですわ」「え! 二人目」「ええ・・・でな、村田。やっぱ最近つわりがひどくてな。夜は帰ってやらんと心配なんや。落ち着いたら絶対に行こや」 俺は何かが溢れそうになるのを感じた。「写真撮ろや! あ、ない・・・北野君、忙しいとこゴメンや。ちょっとカメラ買ってくるわ。待っとってや!」 俺は車のキーを握って教室を後にした。 

     

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