れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

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「25時」 

2002年2月6日号

 3日、俺は今年に入って2度目の風呂に入った。今日の高田高校でのウチの中3の無事息災を願っての苦行。しかしあまりご利益(りやく)はなかったようだ。女の子が二人、塾のそこかしこで泣いていた。冷たいようだがまだまだ旅の途中、泣いている暇はないのだ。

 この日、4月からウチの塾に入りたいという女の子が塾を訪れた。伊勢の倉田山中学の3年生。高校は皇學館、翌4日に推薦入試を受けることになっていた。この日の突然の襲来は数学が不安だからと急遽やって来た次第。しかし伊勢からウチの塾に通うとなると先が思いやられる。さてこの嬢チャン、三進連6回で250点中180点を叩いたにもかかわらず担任は皇學館の推薦を薦めたという。南勢地区の塾の先生の話では、最近の皇學館は三進連80点クラスも推薦で合格させているという。それなのにこの嬢チャン、180点あって皇學館てか? 伊勢高もあれば宇治山田もあるはず。校外模試が信憑性に欠けるというなら、こんなんどう? なんと1月下旬の学年末試験でこの嬢チャン、学年1位となったとか。倉田山って確か人数多かったよな。それでなんで皇學館推薦なん? 担任の先生、最後の説得の切り札?次のようにまくしたてたとか。「皇學館もね、最近は大学進学実績すごいのよ。今年もね、皇學館の進学から立命館大学に合格者を出したの! すごいわよ、立命館よ。それも進学から。6年制があってあなたが出願する特進があって、そして進学。そんな進学から立命館に合格者を出したのよ! じゃあ特進ならもっと可能性が広がるんじゃないかしら」 何のことはない。田上ニーチェの件だ。確かに田上が立命館に合格を決めた翌日、近鉄電車のなかではその噂で持ちきりだったことは大森(皇學館大学2年)から聞いていた。また清水(宇治山田高校3年)から皇學館、それも進学から立命館に通ったとクラスで噂になっているとも聞いた。そして今度は推薦の最後のひと押しに使われている。普通の中学の教諭ではそんな情報は入らない。たぶん皇學館が意図的に各中学に流したのだろう・・・。俺は大西君に言った、「やっぱ私立高校や。プロパガンダ(広告)はうまいや。クソッ!」「先生、立命館といっしょや。これからは皇學館のこと、皇學館株式会社と呼ぼ」

 森下がポツンとつぶやいた。「アキちゃんの一文(第一文学部)、なんとかなるかもしれんね」 森下は連日アキちゃんにへばり付いている。アキちゃんの第一志望、そして早稲田大学で政経と並んで最難関の第一文学部の英語を教えていた。「ボーダー越えたか」と俺。「いや、まだまだやけど・・・英文内容は理解できてる。でも設問に慣れてないようで英文は読めてるけど設問に答える段階でこける。今から2週間あったら・・・。でも僕は明日からアメリカ・・・」

 5日、中3は三重高の受験。4日は深夜から大西君と明け方まで話しこんでしまった。この日は大西君、ウチの塾に泊まるという。翌日の昼から隆哉と中井と仁志の国語の授業がある。ともに受験直前、こ奴らが塾で過ごす最後の一日。「出来る限りあいつらといっしょにいたいんです」と大西君が言う。切れ目のない話、京都五山の序列が時の権門、権力者の力関係によって変遷したという興味深いネタだ。受験バカの俺には向こう側の世界。「でもこんな話をおもしろがって聞く授業があったらいいな」と俺。「さすがにそれは無茶やわ、先生。やっても聞きに来る奴は前田やアキくらいでしょ」 なんとか5時頃には話を切り上げ二人とも寝ることに。大西君は緊急病棟のベッド、俺はスラム街のベッドだ。もう少しすれば中3が姿を見せるはず・・・寝るまいと思考をめぐらす。大西君とはこの4月からの授業展開についても話した。今もって完璧な形にはできてないが、俺の究極の理想の塾は異種格闘技のような塾。たとえば新高1に俺が哲学の内容の英文読解の授業をする。続いて大西君がギリシア哲学を、倫理の教科書のような硬質な表現ではなく、身近な題材を例にとって授業する。そして基礎知識を習得した後で現代文の論理的文章にぶつける。当然、世界史が介入することだって考えられる。つまり異なる教科をあるテーマで結び付け一元化するような授業形態。これは古典から日本史、そして現代文という流れも考えられる。こんな形態、以前に一度やってはみた。英文の論説文読解の授業と現代文論説文読解をリンクして授業を進めてみた。そこそこ効果はあったと思うがいつしか俺の多忙さゆえにうやむやになっちまった。今年こそは!と考えた。大西君をテコに再びやってみようと考えた。気分は高揚していたはずだった。睡魔に打ち勝つ狙いでもあった。もうすぐ中3がドアを開けるはず・・・それなのに・・・眠っていた。

 目覚めたのは昼過ぎ。二日酔いでフラフラしながらトイレへ。ラッキー!血便が出ていない。緊急病棟で嬌声がする。この耳をつんざく不協和音は・・・とドアを開けると、やはり紀平(南山大学4年)。こ奴がいつものように机の上に脚を投げ出し座っている。聞けば教授から卒論の内容をつっこまれたとかで再び辞書と首っ丈でドイツ語と格闘しているとのこと。大西君がパンを焼いてくれ、コーヒーとヨーグルトと野菜ジュースを俺の前に並べてくれる。「病院食みたいでしょ,先生」と、自分こそが近畿大学付属病院に検査入院中の病人。そんな大西君、ニヤッと笑う。「授業は?」「隆哉のアホがまだ来てへん」と憮然とした表情に一変。横で慌てて中井がケータイで隆哉を呼び出す。紀平が言う。「久しぶりに森下さんに電話したんさ。”今どこ?”って聞いたら”成田”、”ええ?”って聞いたらまた”成田”。何言うてるねん!と思たら今からアメリカに行くとこやって。笑ろたわ。”いつ日本に戻るん?”って聞いたら”24日”やってさ。びっくりしたわ!」 

 森下は4日、アメリカへ飛んだ。部屋は9月に解約したが、家具が残っており貸倉庫につっ込んであるとのこと。その処分方法、倉庫の前の道沿いにシートを敷いて即席のフリーマーケットを開店するとか。果たして売れるんかいな? それ以外にも5年間の留学生活で世話になった人や友人達との惜別の意味合いもあるんだろう。「問題なのは強制送環ですね」と森下、旅立つ前日に言っていたっけ。「どういう意味や?」と聞く俺に「テロ以来ね、学生に対して風当たりがきつい。テロ実行犯のなか、留学生として入国したメンバーがかなりの数いたらしくって。アメリカの世論も、留学生の入国受け入れ、特に再入国に対してもっと審査を厳しくしろとの声が強くなってるみたい」「強制送環ってすぐに戻らなアカンの?」「ええ、飛行場からトンボ帰り」「それじゃ明後日あたりにまた会えるな」「ハハッ」と森下、こ奴特有のくぐもった笑い。森下としてはセンター試験でこけた村瀬が後期試験で横浜国大を受ける展開を予想しての日程。横浜国大後期試験は英語1教科、これが英文を英文で要約し英文で自分の意見を書かせるという曲者。24日に帰国し25日で前期二次試験終了の村瀬の英語担当となる。しかしこの時期に塾を空けるとアキちゃんの早稲田や古西の慶応のフォローが手薄になる。古西はどうのこうの言ってもかなりの完成度。これがアキちゃんの早稲田一文ともなると森下、気もそぞろ。ゆえにアメリカ行の前日までアキちゃんに密着していた次第。

 1時間遅刻で隆哉登場、「オマエは最後の最後まで遅刻か!」と俺。「やるぞ! 1階や」と大西君が叫んだ。

 付属中の真歩と佑樹が姿を見せ勉強している。「えらい早いやん」「今日は1限でおしまいやったから」と真歩。「付属って三重高どれくらい受けるねん」「クラスの半分くらいかな」

 三重高を受けた中3の塾への一番乗りは直矢。紀平が目ざとく見つけて「こら、直矢!どやった。受かったか!」 直矢はいつものようにニコニコ笑っているだけだ。直矢は紀平が今年の学年で唯一認めるウチの生徒だ。「心配するな、オマエやったら三重高C受かる」 しかし直矢が受けたのはB。激怒する紀平、「オマエは何を考えてるんや!」

 中3は今日の三重高入試終了後、朝型から夜型に移行。内容もマーク中心から記述中心の公立対策へと急展開。この時期はウチの塾の定番、日本全国ツアーが始まる。ツアーといっても公立入試の社会と理科を北海道から沖縄まで全ての都道府県の問題を解きまくるだけ。最近買ったデジタル式のコピー機(1枚1.8円とか)がうなり続ける。               

 3時間ほどで大西君の1コマ目の授業が終了。「先生、中井が暖かい言葉を僕に投げかけてくれるねん」「なんやって」「大西先生、連日の授業大変ですね。身体に気をつけてくださいって。でね、僕が言うたんさ、先生のほうが遥かにハードやって。そしたら中井の奴、言うねん。”先生は特別ですよ。ありゃ人間じゃないから”って」「いつだって俺は化け物扱いだからな。今日は血便が出なかったから、やっぱ昨日大西君と話しながら飲んだ焼酎が効いたんかなと思ってたら、さっきトイレに走りこんだらやっぱし血便出よった」「先生、それってアカンやん!」

 明日の6日から高3は一挙に戦闘モードに突入する。仁志が関西大学入試に臨む。そして隆哉と中井が上京、翌7日に隆哉は東海大学、中井は立教大学。隆哉は8日に武蔵大学を終えたら三重に戻るが中井のロードは続く。立教大学2学部と明治大学1学部で17日まで東京暮らし。午後6時から大西君の2コマ目の授業、作品は立命館2001年J日程国語。これには高3に加え高2の文系が混ざる展開。この授業が隆哉と中井、特に本命・立教社会学部に臨む中井にとっては大西君の最後の授業となる。

 思えば去年、中井は志望大学を立教大学社会学部に設定した。あれから1年、中井の約束の地は方向を違(たが)えることなく、その姿を眼前に現したわけだ。

 そして午前1時から最後の最後、大西君の隆哉に対するマンツーマンの授業が始まった。作品は武蔵大学2000年度・現代文。

 俺は恵の日本史のプリントを打ち続けている。わざわざ”恵の”とのことわり、漢字に関しては”とろけるチーズ”なみの頭である恵バージョンの歴史用語のルビをふるプリント。なにしろ鎌倉新仏教、恵に読めない漢字が途方もなく多い。親鸞先生の高田高校やから専修を”せんしゅう”て読むやろけど、日本史では”せんじゅ”なんや。

 隆哉への最後の授業が終わるや大西君、すかさず高3といっしょにさせた高2の採点を始める。採点しながら唸り声が続く。「先生、またまたやってくれたわ。恵がトップや! 何%だと思います、なんとなんと64%ですよ」 俺は口笛を吹こうとするものの吹けない。少しばかり神様を恨みたい気がする。「立命館って手もあるけどな。日本史がネックやな」 3日と4日、連荘で立命館を受けてきた中井の第一声、「やっぱ立命館の日本史は難しい!」 あの中井にして難問がと泣きが入る問題。恵にあと1年残された時間があるといっても、歯が立つかどうかが問題。「先生、同志社ならどうです」と大西君。「同志社やったら日本史に関しては立命館より易しいな」「じゃあ、恵は同志社で行きましょう。同志社と同志社女子の両天秤で勝負や・・・」 恵の約束の地がおぼろげながらではあるが、地平線上遥か彼方に姿を現した。

 午前2時、隆哉が支度を整えてやってきた。「じゃあ帰ります」「隆哉、オマエ英語は何を持った?」「ええっと、桐原(即戦3)とシステム英単語」「文法1000は?」「いや」「アホ!持ってけ」「はい!」 再び隆哉はコンピュータの部屋へ。中井も帰る準備、すなわち明日からの東京遠征の準備に忙しい。なにしろ10日のツアーだ、夜逃げほどに荷物はある。仁志が気負いもなく、いつものように帰ろうとする。背中へ大西君が叫ぶ。「仁志、明日は頑張れよ!」「はい」 仁志の初陣である。隆哉が戻ってくる。「あった」と言いつつよく見れば解説だけ。「オマエ、問題は!」 再び取って返す。「ったく、もう! 小学生の遠足前夜だ」 中井はまだまだ準備に時間がかかるようだ。「中井! 明日オマエが上京したら俺はその席きれいに掃除しておくよ。今度帰ってきたら席ないよ」「待ってくださいよ。俺は17日に立命館あるんですから」「ええやん、立命館なんて。オマエの本命は立教の社会学部や。それで決めりゃいいだろ!」 「そ、そ、それは・・・」「とにかく席はないよ。今夜にでも小西(三重6年制5年)と二人で掃除したるわい」 隆哉が戻ってきた。呆然と・・・「問題ない」「そこに森下が夏休みに使った問題プリントの白紙あるやろ。それを持ってけ」

 森下が急転直下、立命館の編入試験を受けたいと言い出したのは夏休みの終わり頃だった。試験日時は9月26日、試験までひと月切っていた。試験教科は英語と小論文、小論文は大西君が担当、英語は俺が担当・・・5年間留学してた森下に俺が教えることはない。俺がやったことは試験内容の傾向と、それに対する戦略&対策だけである。立命館の編入試験はたぶん大学入試の試験製作者が作っている。単語の難易度は上がってはいるが傾向は大学入試と似通っていた。森下が解いた過去問を採点し、こ奴の弱点が文法にあるのが分かった。このあたりがややこしい。つまりは現在のアメリカでは使われない文法表現が日本で今でもなお試験に採用されている。大学受験で有名なフレーズもアメリカ人にすれば古色蒼然とした言いまわしであるのは無数にある。中学レベルであっても on foot (徒歩で)なんて表現、滅多に使わない。ありゃアメリカ人にすりゃ古典、日本の日常会話で源氏物語の古語が出てくるようなもの。日本の中年以上には超有名な What's the matter with you ? にしても、「どうかしたの?」なんて意味じゃない。母親が包丁を自分の方に向けて近づいてきた時に「母さん!どうしたん!」てな感じや。しかし文句は言えない、試験なのだ。そして俺が選んだ問題集が桐原のスーパーゼミ英文法1000。森下はその日から慣れぬ異国の英語表現を暗記し始めた。「こんな表現ないけどな」 毎日のように森下はつぶやいていた。

 ちなみに森下が立命館編入試験に合格して最初にやったことが、ウチの塾のクーラーの清掃である。緊急病棟に最近買いこんだベッドも森下が組み立てた。立派な作業ケースから次々によく手入れされた工具が出てくる。クーラーを清掃した後は、桐原スーパーゼミ英文法1000のプリントを丁寧に保存してくれた。近い将来にこれを使う奴が出るのを見越してのことだろう。今、隆哉は森下が整理してくれたプリントを一枚ずつ丁寧に折りたたんでいく。中井の夜逃げの準備もまだ完了しない。中井に言う。「ホテルでアダルトビデオ見たらアカンで」「そんなん、見ませんよ」「いや、分からん。オマエのことや、テレビの前でじっと悩むやろ」「そんな・・・紀平先輩じゃあるまいし」「紀平?」「紀平先輩、朝までかかって3本見たらしいっすよ」「そんなん俺、聞いてへんだぞ! あの野郎」

 午前3時、隆哉は自転車で帰っていった。中井は伊勢に帰る大西君が送っていった。残されたのは俺とアキちゃん。中井は明日の午前8時30分過ぎの電車、隆哉もまたそれくらいだと言う。午前4時から再びこの「25時」を打ち始めた。午前7時、緊急病棟の教室を覗くとアキちゃんがベッドに寝ていた。俺は睡魔と戦いながら8時に塾を出た。

 久居駅プラットホームで白い息を吐きながら中井と隆哉を待っていた。8時30分、中井が夜逃げ同然、バッグを重そうに抱えながら階段を降りてきた。しかし俺に気づいた風はない。壁にもたれると腰がへたりこんだ。ベジタリアンならぬジベタリアン・・・バンコックの屋台の前でなら見るからに似合っていることだろう。俺は手を振った。やっと気づいたようだ。別段、何も話すことはなかった。8時40分、普通電車がやって来た。別れの挨拶もなかった。さも見知らぬ他人のように中井と俺はドアをはさんで向かい合った。ドアが閉まった一瞬、それまで視線をはずしていた中井が俺と視線を合わせた。それだけだった。俺達は男だ、それだけで充分だろうが。電車が動き出した。見送りの余韻に浸ることなく、俺は階段を駆け上った。隆哉を待つ気にはなれなかった。塾に戻ればやることは無数にあった。駐車場を歩きながら空中に向かって言葉を吐き捨てた。「隆哉のバカ野郎! 最後の最後の最後まで遅刻しやがって!」 

   

           

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