れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

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「25時」 

2002年1月27日号

  センター試験前日となる1月18日、毎年恒例の高3送り出しが夜の10時から始まった。翌日センターを受ける高3に対し後輩の高校生、彼らを3年間教えてきた講師、そして俺が”バイア・コンディオス(神々と共に征け)”とばかりにエールを送る。それを受けて高3からはセンターに対する意気込みを語る。仁志(津西3年)が「僕は本当は今ここにいないはずなんですが・・・」とやって室内爆笑。信州大学の推薦で落ちたことを揶揄している。仁志は明日からのセンターで再び信州大学出願を考えている。隆哉(津西3年)もまた「静岡大学が志望大学だったんですが昨夜変わりました。”あじへい”です」と、これまた大受け。”あじへい”とはアジア太平洋立命館大学をもじったものだ。隆哉の志望大学は急変している。どうしても古典と漢文が仕上がらない。また数U・Bも不安定。そんな状態では国語なら現代文のみ、数学は数T・Aと数U・Bの選択可能な大学を模索するしか術がなかった。それでもセンターの成績次第では他の大学に志望変更を余儀なくされる恐れが充分にあった。そんななか塾での講師生活を12月で終了、この3月の医師国家試験に向けて勉強している村田君も姿を見せてくれた。村田君のスピーチ・・・「高3のみんなには明日のセンター試験、ガンバレと言いたいけど、僕も3月に迫った国家試験の勉強で大変です。僕のほうが、いや僕こそ、みんなから激励を受けたい心境です」

 送り出し終了後、村田君と話す。「どないなん、勉強のほうは」「なんとか、やってますけど・・・そうそう、先生、僕ね、模擬試験で三重大でトップでしたよ」「トップ! すごいな。昔の連中って北野君(遠山病院)や田丸君(紀南病院)なんかも成績良かったけど、さすがにトップはなかったよな」「でも、ジンクスがあって成績優秀者が決まって禁忌問題に引っかかって落ちるって・・・これが心配なんですけどね」「心配せんかってええわ。村田君やったら横綱相撲で合格やって。今年の村田君は心配してへんけど、来年のメンバーが心配やな」と俺は高3に檄を飛ばしている黒田君と小田君(共に医学部5年)を見やる。「いやあ、小田君はしっかりしてるから・・・まあ、黒田はちょっと心配ですけど」 そう言って村田君は笑った。久しぶりに見る村田君の笑顔だった。そうなのだ・・・。この場に村田君がこの3年間教えた唯一の生徒、砂山(津高)の姿はなかった。

 砂山が塾をやめたいと言ってきたのは夏休みの終わりだった。古い塾から途切れ途切れに伝わってくる噂では、英語を勉強したくない・・・。理科系の過去の面々を思い起こせば、誰もが一度は通る一里塚。やはり理系は数学や理科が好き。ゆえに数学や理科は朝から晩まで解いていても楽しいが、英語や古典単語などの勉強になるとテンションが鈍る。砂山もご多分にもれずこのタイプかと、結局は俺の出番。砂山本人と話すことになった。古い塾で数学を教えてもらっていたんだろう、砂山は小田君といっしょに新しい塾にやってきた。俺は聞いた。「塾を辞めたいんだって?」「ええ」「志望はどこにする? お母さんと今日話したが、高校の三者懇談では横浜国立やら都立やら出してるらしいけど・・・」「いえ、東京工業大学を受けます」 その日の話し合いで最初にして最後、はっきりした口調で砂山は断言した。

 砂山と話すにあたり、ご両親とはその日の午前中に家に伺い話をしていた。ウチの塾ではセンター1年前の高2の1月、センター速報終了とともに志望大学を書かせるのが恒例。砂山は東京工業大学を第一志望に掲げた。いつしか確認を怠ってはいたが俺としては既成の事実だと思っていた。しかし、もし砂山が東京工業大学から志望を下げているのなら塾を辞めてもいいかなと。そして志望が1年前のままなら塾は辞めるべきではないと考えていた。津高内順位はともかく、まだまだ東京工業大学を攻略するには力不足の感は否めなかった。しかしご両親の話では今イチそのあたりがはっきりしない。三者懇談では横国、都立あたりを志望しているとか。俺は言った、「もし志望が横国や都立ならこのままで合格すると思います。しかし東工大ならここで塾は辞めさせたくない。俺は生徒の志望校合格を最優先したい。東工大ならば自宅学習の限界があります。その場合は引き留めるつもりです」

 「今のまま塾を辞めても一人よがりの勉強になるで。確かに化学や物理の点数は上がるやろけどな、でも英語や国語が壊れたらセンター試験でこける。それに二次試験では英語があるやん」「英語は単語さえ覚えればなんとかなると聞いてますが・・・」とチラリと小田君の方を見る。なるほど・・・いかにも数学と理科が必殺技だった小田君の言いそうなことだ。「センターだけならオマエは160点は取れるだろ。なにしろ高1からセンターの勉強を教えたのは俺だ。160点は保証するよ。けどな、二次の記述や英作文はどないする?」「はあ・・・」 それに今の砂山は受験生の頃の小田君のレベルにはおぼつかないのではないか? 小田君に聞いてみた。「砂山の数学はどないやろ」「センターレベルがなんとか終わったところです」「二次力は?」「受ける大学次第ですが・・・」「東京工業大学なら?」「まだまだ無理です。センターレベルの基礎が終わった今から二次の問題を解いていってなんとか早稲田・慶応なら間に合うかなと。東工大はさらにその上のレベルですから、今のままじゃまだまだ・・・」 物理に関しても事前に村田君に聞いておいた。「物理は村田君の話ではセンターならそこそこ。しかし去年の寺田と比較すると今の段階では寺田の方が上だと言っていたけどな」 さらに砂山の化学を担当している高橋君(医学部5年)の砂山評も・・・。「高橋君は今年の夏、オマエと寺田(横浜国大1年)の二人を教えただろ。寺田に関しては高橋君、僕が教えることは何もないですって言ってたよ。しかしオマエさんはまだまだだと・・・」 砂山にとっては耳の痛い話だった。しかし今の時点での正確な事実を伝える必要があった。

 東工大は去年ウチの塾から寺田が受験した。寺田は勉強の苦手なショウちゃんの兄として中3の夏季講習からウチの塾にやって来た。ソツなく数学を解く姿が印象的だった。難問を解いても喜びを表情に出さない。誰にでもそうであるように何度も将来についての話をした。当時はゲームに凝っていたようで、ソニーの研究所勤務の俺のダチの話に反応を示した。中3の時に「東京工業大学でいこか」と水を向けた。俺は東大よりは東工大、慶応よりは早稲田だった。「その大学に入るには高校はどこがいいんでしょうか」「やっぱ津か津西になるな」 そして津西に進学。1年間のブランクの後に再び塾に密航してきた。化学は高橋君、物理は村田君が担当した。志望は東工大だった。寺田の二次試験直前に村田君が言った。「なんとか3回やって1回合格する点数を取ってくれるようにはなったんですが・・・。これが名大や阪大なら安心できるんですけどね」 結局、寺田は東工大に臨み、そして落ちた。後期で横浜国大に合格、この4月から横浜暮らしが始まってはいた。この5月、寺脇研(文部科学省)氏に会うために横浜に出向いた際に寺田に電話をかけた。その日、泊めてもらうつもりだった。しかしやんわりと拒絶された。違和感があった。夏休みとなり寺田が古い塾で勉強をしているとの噂が新しい塾に伝わってきた。やはり東工大か・・・。

 砂山の力を人一倍買っていたのは俺だった。俺は中学生の頃から砂山の東工大を夢見ていた。こと数学に関しては無駄のある解き方をした。問題集に書かれた最短距離の証明でなく、結論に至るまでジタバタする証明を書いた。俺はそのジタバタを愛した。津高進学後も崩れることなく勉強を続けた。砂山には今のウチの最強の布陣を敷いた。小田君に数学、高橋君に化学、村田君に物理。そして村田君にとっては、砂山とマンツーマンで親子鷹よろしく暮らす1年は彼がウチの塾で講師として暮らす最後の1年でもあった。いい想い出を作りたかった。俺の最も自信ある素材で村田君に勝負させたかった。そして気分良くウチの塾から医師へと巣立ってほしかった。

 今、砂山が塾をやめても後の展開は読めた。とにかく必死で勉強するだろう。それだけは保証できた。しかし勉強する教科が問題だった。そのなかには英語や国語、社会などは眼中にないはずだった。根っからの理系、とにかく全ての時間を数学と物理と化学につぎ込むのは目に見えていた。志望が東工大から変えていないのはうれしかった。しかしだからこそ今塾を辞めるげきでない。英語の手抜きが致命傷になるはずなのだ。センターレベルなら高1から俺が教えてきている。200点中160点は見込めた。怖いのは国語と社会という脇の教科だが、そこそこ器用な砂山のこと、センターの東工大ボーダーの少し下あたりを取る可能性もあった。東工大はセンター得点に対して二次試験の割合が高い。つまり理系教科を磨き抜いた小田君タイプの受験生なら一発逆転が可能になる。寺田が横浜の下宿で虎視眈々と東工大を睨むこの1年、寺田は数学と理科2教科を磨いて暮らすことになる。しかし二次で挽回できるといっても、それは今の寺田のような実力ある生徒にとっての話。確かに砂山は力がある。しかしそれは津高内での話、あるいは現役受験生としての話だ。浪人がひしめき合う東工大受験生のなかでは単なる普通の受験生にすぎない。

 「自宅で一人で勉強するとしてどんな計画でやってくんや」「Z会をやろうと思っているんですが」「Z会か・・・時期的には遅いけどな。別にかまへんけど・・・」「村田先輩が昔にZ会をやって物理に効果があったと言ってまして・・・」「そりゃきっちりやったら何でも効果はあるで。でも後の教科は?国語とか社会とか、それに二次試験の英語は」「英語は単語をやるつもりです」「英作文はどないする」「いや・・・」「じゃあ、国語は」「・・・」「社会は」「・・・」「センター試験でこけるの目に見えてるやん」「センターでこけても東工大なら二次で逆転が・・・」「そりゃ、磨き抜いた二次力があるならな」 小田君が口をはさんだ。「砂山、今のオマエの力では東工大のレベルにはまだまだや。もう一度塾を辞めるのは考えなおせ」 俺も続けて言った。「俺もそう思うよ。ホンマに東工大が本命なら今の時期からZ会だけでは無理や。もう一度、考えてみたら」 砂山はコクリとうなずき言った。「わかりました」

 小田の車に乗り込む砂山の後ろ姿を眺めながら「なんとかしのいだかな」と一人ごちた。そして9月に入っても古い塾で勉強しているという噂が流れてきた。正直ホッとした。

 突然、村田君が血相を変えて新しい塾にやって来たのは9月中旬である。とにかく表情がただごとではなかった。「先生、砂山が塾を辞めると言ってるんですが!」「えっ!」 てっきり塾を続けるんだとタカをくくっていた俺にとっても青天の霹靂(へきれき)。「砂山は先生にはもう言ってあるからと・・・」「確かに夏休みに塾を辞めたいと言って来たけどな。その時は小田君と説得して考え直せと。一応、分かりましたと言ってその時は別れたんや」「じゃあ、それっきり挨拶はないんですか」「ああ・・・9月に入っても塾で勉強してるようやから、俺はてっきり考え直したんだと・・・」「・・・そうですか。突然のことだったんで・・・思い留まれと言いたかったんですが、砂山が塾の先生にはもう伝えてあるからと言い張るんで・・・」「一旦は”考え直せ”と言った俺に”分かりました”と言って別れた。それ以降は何も言ってきていない。なにしろ夏の一件以来会ってへんよ」「なんとか塾を辞めた後の勉強の計画について話そうかと思ったんですが・・・Z会をやるって言うんです」「Z会については夏休みの時にも言ってたよ」「いや、実は僕が昔にZ会をやってそれまで分からなかった物理が分かるようになったと言った覚えがあるんです。どうもそれに影響されたようで・・・僕の場合は高校の授業で物理が分からなかったわけで、僕としては自分が分かるようになったプロセスで砂山には今まで教えてきたつもりです。今更Z会やっても・・・」「この時期からZ会やってもな・・・。Z会の酸いも甘いも知り尽くしている村田君の授業のほうが遥かに効果はあるけどな」「・・・Z会の話をした僕が悪かったんでしょうか。先生、先生の期待の生徒を辞めさせてしまいました。本当にすいません」「そんなことはないさ・・・生徒に裏切られるのがこの商売の辛いとこや。今まで村田君に相談しなかった砂山にも責任があると思うしな。夏休みに”考え直しや”と言って別れてから今になるまで俺にも報告なしや。このまま正式な挨拶なく辞めたとしたら確信犯やな・・・で突然、村田君にZ会ネタで最後通牒を突きつけた」「僕としては最後の生徒だったんで・・・」「すまんな、辛い思いさせて」「いえ、僕が国家試験の勉強なんかで週に一度しか塾に来れなかったのが・・・」「気にしなくていい。最低な生徒を持ったと思おうや・・・ついてないんだ」

 俺は何か辛いことがあると、ついてない・・・と思うことにしている。こと生徒が塾を辞めていく時など、結局はついてないんだと思う。しかし今回の件だけは、ついてないで済ます気分になれなかった。心の奥底に怒りがあった。

 突然にして砂山が村田君に塾を辞めることを告げた場所は、古い塾の1階の教室である。ここには本箱で隠すように2つの机がある。その当時、その机で勉強していたのは松原と香里。しかしその日は香里は欠席、代わりに紀平(南山大学4年)が卒論を書いていた。砂山と村田君のただごとでない様子に耳をそばだてた紀平と松原。後になって紀平が言う。「あん時はまいったな。砂山もさ、もう少し言い方もあるのにて感じやった。普段は無口な奴やん。それがさ、村田君に”Z会やったら絶対に上がりますよね”なんてセリフを何度もしつこく言うてるんさ。なんや流れ的には村田君がそんな内容の自分の体験談を砂山に話したことがあったんかな。村田君は砂山にそのことをしつこく言われるんが、ホンマ辛そうやったな」「そりゃそうだろ。村田君のZ会云々の話は高校の授業が分からなかった時の話やろ。Z会で理解を深め、三重大医学部に合格、さらにウチの塾で過去5年間、去年よりも今年、今年よりも来年と、なんとか生徒達により分かりやすい授業を心がけてきたのが村田君の授業。そしてそれを受けてる幸運な生徒が砂山なんや。そんな村田君に”Z会やったら分かりますよね”なんていう砂山の性格、俺は一生理解する気はねえよ」「なにしろ村田君、寝耳に水って感じやったから。ショックやったやろな」「ああ・・・あんな村田君の顔色、初めて見たよ。砂山は自分が言ったことが相手をどれだけ傷つけてるって意識、ないんやろな」「俺もさ、エッちゃんとさ、息を殺しながら塾を辞めるんやったら辞めるでええけど、もっといい別れ方もあるやろなってね。なんや、砂山がZ会の件、えらくしつこいんや」「村田君にすりゃ、自分の過去の体験、良かれと思って話したネタを塾を辞める根拠にされちゃ立つ瀬ない。砂山の話はもういいや。とにかく村田君がウチで教えてくれた6年、最後にマンツーマンで仕込んだ教え子を志望大学に合格させ、気分良く送り出したかったけどな。最悪のエンディングや・・・ホンマに申し訳ないわ」

 結局、砂山は正式な挨拶もないまま、ウチの塾から姿を消した。夏の日、小田君の車に乗り込む後ろ姿が俺が砂山を見た最後のショットとなった。後に残ったのは村田君と俺の心の奥底に宿った深い傷跡・・・。「塾の先生なんてのは生徒から裏切られるのが人生さ」 これは俺が人から「オマエの人生ってうらやましいよな」なんてたわけたセリフを言われた時に必ず返すセリフだ。俺はいい、所詮は商売。少々のことは辛抱する。でも、それまで世話になったはずの講師に無神経な態度を取る奴は許せへん。これで一生許せへん奴が一人増えたわけだ。 

 「本当に世話になった。そして砂山のこと・・・本当にすまなかった」 俺は深々と頭を下げた。「そんな、先生・・・」「俺は恥ずかしい。あんな・・・人の感情を考えへん生徒を育ててしもた。俺の責任や」「先生・・・」 横では橋本(高田U類2年)が怪訝そうな顔で眺めていた。教室の中は翌日のセンター試験を受ける高3への叱咤や激励が至るところで飛び交っていた。小田君が古西(上智大1年)と村瀬(津高3年)に辛辣な激励を飛ばす。黒田君は中井・功樹(以上津東3年)・仁志を相手に明日の一発目である英語の話、高橋君は隆哉(津西3年)に説教・・・たぶん隆哉は今日も授業に遅刻したんだろう。そんな風景を就職が決まった生物担当の岡田さん(三重大学生物資源4年)が微笑みながら眺めている。4年前にウチの古い塾で過ごした受験生の頃の自分をだぶらせているのかもしれない。「先生、僕は来年の今日、ここへ戻って来ます」 村田君が言った。「そして橋本にエールを送ります。橋本のセンターも事情が許せば是非見に行きたい」

 砂山が辞めたことで村田君が教える生徒はいなくなった。俺は急遽、橋本と卓を村田君にぶつけた。ともに高田U類、典型的な理系。英語に難があるのも同じ、つまりは磨き抜いた物理で勝負に行くしかない。10月からそれまでと同じように週に一度、金曜日の夜に村田君は塾に姿を見せた。お互い砂山の話題は意識的に避けていた。言っても気分が滅入るだけだった。予定していた二人の生徒のうち、高田高校の剣道部の要の卓は当時、東海大会で5位に入賞。三重県勢では一番の成績だった。ゆえにクラブのほうに比重がかかり、必然的に村田君の生徒は橋本ひとり・・・再び親子鷹の授業が始まった。橋本は獣医学科の志望を口にしていた。これまたレベルが高い。センターで80%以上は必至。村田君はそんな橋本の切り札を磨くことで、ウチの塾で過ごす最後の時を刻んでいた。

 11月3日、かつてウチの塾で暮らした悠(三重高B)が一宮女子短期大学への合格通知を手に姿を見せた。推薦入試にあたっては田上ニーチェ(皇学館)と同様に志望動機など、大学提出用の作文の添削をさせられていた。悠は開口一番心底不思議そうに言った。「先生、砂山君塾辞めたんやろ」「ああ」「わたし、隆哉ならともかく、砂山君だけはウチの塾を辞めるとは思わへんだわ」「俺もさ、・・・ついてないんだ」 今もってそのセリフ、滑らかには出てこなかった。

 12月が近づき村田君が本格的に国家試験の勉強に突入する時期となった。前々から11月いっぱいで講師を辞めるつもりだと聞いていた。村田君が自分の後がまにと紹介してくれたのが、サッカー部の後輩である1年生の中塚君。とにかく経歴が異色だ。名古屋大学から院に進学したものの一念発起、医者を志して勉強を開始。そして晴れてこの年の4月に三重大医学部に合格した26歳の大学1年生だった。

  12月6日、村田君の最後の授業。生徒は今日も橋本ただ一人。その授業が終わった後で、中塚君共々前の飲み屋『大将』で杯を傾けた。村田君と飲むのも久しぶりだった。「僕には橋本さんのようなマネはできません」 村田君が言う橋本とは、かつてウチの塾で講師を努めてくれた橋本君。今は広島大学の皮膚科でドクターをしている。「橋本さんはセンターの送り出しの時も塾にいましたよね。今でもそれだけは鮮明に覚えているんですよ。いつだって古い塾にいて直前に迫った国試の勉強をしながらも、当時の高3に勉強を教えてた。僕には到底できない。橋本さんのような度胸はありませんよ」「ありゃ、心臓に毛が生えてる。あの頃、橋本君の模試の成績、偏差値40を切ってたはずやで。それでも悠然と構えてた」 試験勉強の疲れからか、昔の酒の強さは影を潜めていた。横では中塚君、26歳といっても新入生には変わりない。年齢では年下でも学年では先輩となる高橋君と村田君のお酌やら料理の注文やらにいそしむ。しかしまだまだフットワークが鈍い。酒がないのに気付かない中塚君に業を煮やして高橋君が酒を注文する場面が目立つ。少々酔いがまわってきたのか村田君、それまでの先輩口調とは打って変わり弱々しい口調で中塚君に話しかけた。「中塚、橋本を頼む・・・頼むぞ!」

 1月24日、深夜1時30分。センター速報がオンエアされた。ウチの塾のテレビはこの番組のためだけ、1年に一度だけセンター速報を見るためだけにある。テレビのある新しい塾3階の中学生の教室に姿を見せたのは渦中の高3に加え、講師の高橋・小田・黒田・大西、そして立命館編入を決めた森下。さらには1年後のプロミスドランド(約束の地)を目指す佑輔・大輔・健太(以上津高)・佳子・あすか(以上津西)・卓・橋本・恵(以上高田)・小西(三重6年制)の面々。まだ残っていた中3の直矢・優里・純菜を隣の教室へと追い立て、熱気沸き立つ教室内を見やりながら俺は高2に言った。「今夜のセンター速報で自分の志望大学のセンター試験ボーダー得点を書いて提出するように!」 センター速報終了後、橋本が提出した表には以下のように書かれてあった。

 『帯広畜産大学獣医学科・センター試験ボーダー84%・二次試験は数学&物理&化学 偏差値67.5〜70.0』

 村田君の最後の生徒であった橋本は、新しくウチの塾に入った中塚君の初めての生徒として、これからのラスト1年を過ごす。

 1年後のセンター試験当日、試験会場となる三重大キャンパスで俺と村田君と橋本、そして中塚君、このむくつけき野郎共4人で記念のスナップを撮るのが俺の当座の夢となった。そのスナップのなか、橋本はどんな表情を浮かべているのだろうか。

 追伸

 秋田真歩(中3)が三進連で全県順位1位、また全県模試でも全県順位1位を取った。ついている・・・。直矢もまた白山中順位で1位になったそうな、これまたついている。そんな華やかな話にテーマを絞って「25時」を書こうとは思ったが、結局は喉の奥に刺さったままの砂山ネタとなった。俺は二日酔いがひどいのと同様、やたらダメージに弱い。無視するのが賢明なのだろうが、やはり吐き出してみたかった。しかし読後感がよくない。反省している。

 追伸 ドクター橋本殿

 ウチのHP(ホームページ)のBBS(掲示板)にさっそく村田君の国家試験を気遣うメッセージを入れてくれたね。ありがとう。思えば三重大医学部の初めての講師が君だった。村田君が大学1年の頃、酒でトラぶった時も大学内を奔走。火消しに努めてくれたのも君だった。ウチの塾に新しい医学部の講師が入ると恫喝方々「ウチの塾には指導マニュアルもないし、自分に好きなようにできる。だからといって”おいしいバイトや”と手を抜いたら承知せん。全てを任されるということが一番大変なんじゃ。志望大学に合格させたかどうか?全ては結果なんじゃ」と広島弁でスゴんだ君を懐かしく思い出す。住む場所は広島と三重と離れていても、依然変わらぬ後輩たるウチの講師への愛情に感謝する。ところで村田君の進路だが、どうも外科系らしい。第一外科、胸部外科、脳外科・・・そのあたりだろう。本人に尋ねてもまだ決めかねているようだ。村田君が連絡するようなら、また相談にのってやってほしい。話は変わるが、少し前に田丸君が来てくれた。頭之宮(こうべのみや)の御守り15札持ってね。ウチの中3への御守りだ。頭之宮で「15札ください」って言ったら「何のために使うんですか」と言われたそうな。紀南病院内科医の田丸先生、「僕は久居のれいめい塾という進学塾で講師をしている者ですが・・・」なんてやったらしい。笑ってしまった。今年の高3のセンターの出来? その話は後ほど「25時」で書くつもりだ。最後に、俺は君と出会えたことを僥倖だと感じている。俺は・・・ついていた。

  

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