れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

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2002年1月18日号

 内容的には前回の「25時」1月10日号に続く流れとなる。今年の高3、ウチの13期生に関する想い出めいた話だ。

 アキちゃんが久居高校に合格しながらも、唇を噛みしめながら3年後の捲土重来(けんどじゅうらい)を期していた同時刻、津西高では合格発表での恒例行事「コーラかけ大会」が始まっていた。10期生の岡亮太(当時津西から岡山理科大への進学決定)と11期生の剛(津西から関西大学へ。当時は津西2年)たち津西の先輩が中心となり、合格した祐臣・仁志・隆哉などがコーラを雨霰(あめあられ)とばかりに浴びていた。そして合格すると思われていた香里(高田高校から今春、日本福祉大学に進学予定)はその喧噪に背を向けて、影を一歩一歩踏みしめながら津西を後にしていた。

 隆哉は俺の中学の同級生のダチの息子である。またやっかいなことに、俺たちの学年のマドンナ的存在であった女性の息子でもある。小学生の頃、隆哉は私立中学受験を目指して大手の進学塾に通っていた。ダチとの会話のなか隆哉の話が出ると「俺はさ、あいつに野球させたかったんやけどな。カアちゃんがさ、私立中学に行かせたいらしくてな・・・」などとグチめいた話になるのが常だった。隆哉の成績はというと、これがめっぽう良くて三重県ランキングの常連だった。「まあ、いいじゃないの。私立に受かってから野球部に入れば」と慰めるのも俺の常。鈴鹿と高田という三重県屈指の私立中学も模試の成績、楽々合格圏をキープしている隆哉の受験の合否を案じるなんて光景、これっぽっちもなかった。

 そんな隆哉だったが、私立受験に失敗したことを人づてに聞いた。そして地元の中学、つまりは俺や隆哉のオヤジ、そしてマドンナが共に過ごした久居中学に進学した。

 隆哉は中学進学後、それまでいた塾から進路の速いことで有名な塾に代わっていた。しかし中2となり英語でつまずき、夏休みだけ実験的にウチの塾に密航してきた。確かに英語でつまずいていた。塾の速度が速く文法的には中3で履修する関係代名詞あたりをやっていた。しかし丹念に見ると不定詞あたり、つまりは後置修飾のあたりから分からなくなっていた。夏休みにディフェンス的に治療を施してはみたが、今イチ理解できていないようだった。俺はダチに言った。「なんとかやれるとこまではやったがな。どうも今のカリキュラムではこなしきれないうちに次に進んでいる。悪循環やな」 ダチは言った。「できればオマエんとこに世話になりたいんだがな。こればっかりは本人次第や」

 2学期からどちらの塾に通うの?と聞かれた隆哉は即座にウチの塾を選んだ。別段ウチのほうが分かりやすいからとかレベル云々とかの技術的な側面ではなかった。理由を聞かれて隆哉曰く、「れいめい塾で隣りに座ってた子がさ、『これからもいっしょに頑張ろうよ』って言ってくれたんや。僕は今まで二つの塾に通ってきたけどさ、塾の生徒からこんなこと言われたことなかったよ・・・初めてや」

 後で隆哉に頑張ろうなんてくさいセリフを吐いた奴は誰だろうと話題になった。やはり隆哉同様にネアカの小林だったそうな。

 隆哉はそこそこにはできた。確かに英語に穴はあったが、それ以外の教科はまんべんなくできた。得意の理科はともかく、社会と数学あたりを磨けば津高も充分可能性があった。しかし中3となり実力試験や一般模試が始まると同時に成績は下降し始めた。この下降、俺としては違和感があった。塾内での成績と今イチずれがある。何か変だな・・・と思うものの、夏休みの夏季講習で毎年実施する過去の全県模試や三重県統一などの成績では充分に津高を狙える成績を叩き出した。いつしか、一抹の不安も杞憂にすぎないと思い始めた。しかし夏休み明けの三進連で風化したはずの違和感、劇的に俺の喉元に匕首を突きつけることになる。

 夏休み明けの三進連、隆哉は前日に塾でやった前年度の三進連186点(250点満点)から当日の本番で116点という悲惨な点数へと急降下。

 俺は隆哉と二人、長時間にわたって話し合った。手がかりもつかめず暗中模索の会話のなかで、自暴自棄気味に言い放った。「こんな安定感のない成績では津東あたりを想定しといたほうがいいな」 いつもの穏和な隆哉が血相を変えて反論した。「絶対に津か津西を受ける」 短い反論だった。しかし見事に手応えのある反論でもあった。俺は私立中学受験の話にネタを振ってみた。合格発表の日のことをだ。隆哉はその日のことを克明に覚えていた。言葉はとぎれとぎれではあったがゆうに1時間ほどをかけて一日の出来事を話してくれた。

 後に俺は隆哉の両親一人一人にその日のことを覚えているままに話してほしいと頼んだ。しかし二人ともその日の出来事話、10分すらもたなかった。そういうもんなんだろう。親は子供のためを思って良かれと私立中学入試に踏み込む。しかし落ちたところで、腕試し程度のノリだったと自分たちを納得させる。しかし子供にしてみれば・・・。

 隆哉との話は佳境となった。俺は言った。「合格発表の掲示板に自分の受験番号がなかったとき、どんな気がした?」 「べつに・・・ああ、落ちたんやって。ただ・・・」 「ただ、なんや?」 「横を見るとお母さんが泣いていたんや。それでやっと自分は大変なことをしたんやなって・・・お母さんを泣かせるようなことをしたんやなって・・・」 「オヤジは?」 「お父さんは静かやったな。泣いているお母さんを慰めるように静かに言ったよ。『まあ、ええやんか。高校受験がある。3年後の高校入試で頑張ったらいいやんか』って・・・」 「なるほど・・・だから津東に志望を下げるんは嫌なんや?」 「うん」

 隆哉が中2の夏にウチに密航してきた頃、私立中学受験に落ちたダメージについて何度か質問をした。もちろん両親にだ。その時の話では、確かに中学進学当初は少々悩んでいたようだが、パソコン部に入ってそれなりに元気を取り戻したようだと言ってたっけ。しかし隆哉の心の奥底に傷跡はしっかりと残っていた。合格発表当日のことを詳細に覚えている。そして両親の期待に添えなかった自分を恥じている。なんとか両親を喜ばせたいとの思いだけで隆哉は高校入試を目指していた。けなげだった。しかし私立中学に失敗した生徒にはよくあるパターンでもあった。

 もう一つ、隆哉に対して俺は懸念を抱いていた。それを確認するために実験をしてみた。過去の問題を始める前に前口上を述べるのが俺の常である。たとえばこんな調子だ。「この年の試験は齋藤先輩(北海道大学)が中3の時の奴や。齋藤先輩は250点中176点。この年のトップは怖い怖い村瀬の姉ちゃん、223点。次いでパチ屋に就職するて言うて親とトラブッてる克典が220点。でもな、なぜか齋藤が津高に受かって克典が落ちた。やっぱ試験は何が起こるか分からんな。少なくとも試験会場でウオークマンを聴くのはやめましょう」 こんな口上、これを少しばかり辛辣(しんらつ)にアレンジしてみた。「この試験は10期生の時の作品や。これはピシッと行けよ。この試験で180点取った連中は皆津高に合格してる。つまりは津高とそれ以外の高校との識別にはピッタシの一品や。とにかくどんなことしても180点以上叩け!」 こんな激辛調の口上を言うと生徒間に緊張が走る。この口上、全くのデタラメなんだが、こんな刺激的なセリフに過剰な反応を示す奴が例年、決まって出てくる。その年、てきめんに過剰に反応したのは懸念通りに隆哉。点数は前日の177点から136点へと見事に急降下。隆哉のアキレス腱が露見した。

 試験をする場所も変えてみた。やはり想像通りの結果。隆哉の点数は再び急降下した。つまり、試験に対する過去の積み重ねめいたものが隆哉を萎縮させている。やっかいだった。毎年、このタイプいるにはいるが、隆哉ほど点数を落とす生徒は皆無だった。それから俺は時間があれば隆哉と話すように努めた。いろんな話をした。オヤジと俺が中学生だった頃の思い出話。避けてはならじと私立中学受験の話にもアプローチした。しかし受験を無理強いした両親を悪役しする展開となった。隆哉の心の中にある、両親を悲しませたという加害者意識を少しでも払拭したかったのだ。中3の冬休みあたりから英語を除く4教科は場所を変えても、言葉の暴力を労してもダメージは多少の沈み程度に留まるようにはなった。しかし関係代名詞から分詞の後置修飾にかけての流れは克服できなかった。2月に入った。三者懇談で隆哉は毅然と言ったという。「僕は絶対に津か津西を受けます」

 やはり津高を受けるには荷が重かった。そこそこの内申もあったことから津西という流れに傾いた。しかし合格させる自信、正直言って俺にはなかった。同じ中学の香里ちゃんのほうが遥かに可能性があった。俺は隆哉の両親が俺と中学の同級生という気安さも手伝って、2月一杯は中学に行かさずに勉強をみることを決めた。学校側から苦情が出ることは明らかだった。しかし3年前に私立中学受験に失敗し、今度も落ちるとなると隆哉へのダメージはどれほどのものになるか計り知れなかった。後3年後には大学受験もある。確かに後で考えれば勉強ができるできないなんて些細な事やもしれぬ。しかしそれは大人の達観した意見でしかない。私立中受験の失敗で両親を悲しませたという意識にさいなまれている隆哉にとって今回の受験で失敗したら一生自分に対する自信を失ったしまうのではないか・・・この恐れが俺に、塾の評判を落とす行動を取らせた。次の日から隆哉は中学へ行くことなく、ずっと塾で勉強を始めた。かつての4期生の森下、内申46(90満点)から津高を目指して以来の試みだった。

 なんとかして通したいと切に願った。しかし合格した後の不安も同時に抱いていた。俺はかつてのマドンナに言った。「合格させてやりたいけどさ。でも合格したらしたで、またヤッカイごとが待ってるで」 「何なん」 「あいつはもし合格したら、それこそ鬼の首を取ったかの騒ぎやろ。しかしさ、絶対に勉強せんわ。保証する」 「本来の性格は社交的で明るい子やから、喜び勇んで遊びまくるやろな」 マドンナも分かってる。さすがお母さんやで。「でもさ、遊ぶと分かっててもやはりここは合格させたい。自信を無くした隆哉なんて見たくもねえよ。ここはやっぱり合格させるべきやろ」 「高校の3年間も中山君に頼むわ」 もとマドンナが笑った。彼女もまた隆哉を私立中学に誘ったことを十二分に懲りていた。とにかく高校生活は視野になく、ただひたすら津西に合格することを熱望していた。どうのこうの言っても、ここは合格させるしかなかった。この奇妙な倒錯感、去年の田上ニーチェの立命館受験で再び蘇ることになる。

 隆哉が合格発表の掲示板を食い入るように眺める姿は翌日の新聞の地方版をトップで飾った。この写真、今の隆哉を知る者にとっては充分に笑える。不安という十字架を背中満面に背負った自信のひとかけらもない隆哉がそこにいる・・・。この写真は今も塾の壁に貼ってある。それが自信のない隆哉の最後のスナップとなった。

 高校進学後、当初は野球部に入るなど、始めこそ真摯なスタートを切ったかに見えたが野球部をすぐに辞めてからは予想通りの展開。いろんな友人関係が生活の全てを支配していった。ちなみに津西野球部にウチの塾からは祐臣と仁志も入った。祐臣は後にキャプテンとなって津西野球部を県大会準決勝まで導く原動力になる。また仁志は野球漬けの毎日を嫌い、野球部を辞めソフトボール部に移籍。こ奴もまたキャプテンとなって三重県大会で優勝、全国大会へ出場することに・・・。一方、隆哉といえば担任から「他校の生徒とは付き合わないように」との異例のお達し。成績も1年の3学期には最下位10人に入るという突出ぶりを披露する。遅刻を繰り返しては両親を手こずらせた。この時期はマージャン狂いが高じて、明け方まで友人の家で過ごすという生活。塾には姿を見せるものの、塾から去った後の行動はようとして掴めず・・・といった日々が続く。講師の面々からは叱咤の嵐、しかし糠に釘(ぬかにくぎ)・・・平身低頭謝るわりには翌日にも授業をすっぽかす有様。マドンナから頼まれた俺にしても役不足?隆哉は正真正銘の「糸の切れた凧」を地で行っていた。無数の友人関係、居場所は定かではなかった。友人が運転するバイクの後に乗ってトンズラするのは日常茶飯事。朝になって突如、家の階段を友人とおぼしき高校生、チャ髪バリバリが降りてくるのにマドンナが遭遇して絶叫!そんなタッチで隆哉の高校生活は続いた。しかし不思議なことに塾は辞めなかった。

 紀平(南山大学4年)がこぼす。「最近、話しかけても誰もかまってくれへんでおもろないわ。ちょっと前までは隆哉だけは相手してくれたんやけどな。さすがに最近は勉強してて俺のこと、かまってくれへん」 そして最後に・・・「でも、あいつ、よく今まで塾もったな」

 しかし遊びまくった代償は余りにも大きすぎた。隆哉の地を這うような成績は2年の3学期になっても微動だにしなかった。なんとか数学だけは高橋(三重大学医学部)のボランティア的な献身で少々得意にはなったが、英語は俺の激怒を蝶のように舞い蜂のように刺す?フットワークでかいくぐってきた。しかし徐々に変化しているのは分かっていた。何者にも代え難かったはずの友人関係ひしめく世界に塾の生活が徐々にではあるが浸透していった。友人関係と塾のどっちかを選べ!という問いを発する時が勝負だった。高2の夏、塾内で隆哉と最も仲がいい中井に聞いた。「今の隆哉にダチか塾か、どっちか選べて聞いたらどっち選ぶと思う?」 「ダチでしょ」とすかさず中井は言った。まだまだ時期尚早・・・再び冬休みに中井に同じ質問をしてみた。答えはいっしょだった。そして高3へと進学する春休みになり、やっと中井はGO!サインを出した。

 俺は隆哉をイジリンマに誘い出し単刀直入に聞いた。「オマエどないするねん。もう高3やで。ここは塾を取るか、友人関係を取るか。どっちかに決めろや」 「・・・塾で勉強する」 大きな局面だった。しかし、なんとかクリア。さらに続けた、第二弾が残っていた。「オマエはやっと受験生の扉を開けたばっかのビギナーや。そんなオマエが古い塾で勉強するだけの器量はまだまだ・・・。だから新しい塾の1階で勉強しろ」 これには動揺したようだった。確かに気分的には受験生になったようだが、古い塾での生活・・・全てのことを自分で管理する、自己管理・自己責任・・・今の隆哉には到底荷の重い環境。逆にけむたい存在いないことを幸いに享楽追求にひた走る怖れもあった。高3の一部からも「隆哉が古い塾に来たら俺たちが勉強できへん」というシビアな意見が出ていた。隆哉を新しい塾で勉強させるというのは他の連中に対する俺なりの返答でもあった。しばしの沈黙の後、隆哉はぼそっと言った。「分かった、新しい塾で頑張ってみる」 なんとか窮地を脱した。俺はほっと安堵・・・これで勝負できるかもしれない!

 しかし急転直下、春休みに状況は急転する。マドンナからの電話、らしくない金切り声だ。「先生、隆哉がバイクで事故を起こした!」 「クソ! あのバカ、いろいろやらかしやがるじゃねえか」

 大西君がウチに始めて訪れた時は隆哉でテンヤワンヤ。入院やら補償問題やらで塾が云々なんてどころじゃなかった。「あの時のバイクの少年が隆哉やったんですか」、今となって懐かしそうに大西君は言う。オヤジの怒りもなんとか収まり、一ヶ月の自宅謹慎の後にやっと塾に復帰。その大西君の国語の授業も始まっていたが、要約や論文を書かせると聞いて「そんなん、めんどくさい」とばかりに国語の授業は出奔。

 夏休み明けから国語の授業に参加するものの、やはり国語力の腹筋が足らない。それでもなんとか小説は読める程度になったが、まだまだ評論は安定感に欠ける。これが古典はなるとフランス語も同然! 大西君、最後の起死回生が漢文。なんとか2週間詰め込めば80%は取れるはずと冬休みから漢文の集中講義が始まった。しかし大西君、膠原病の疑いから検査入院の日々。結局は海津に漢文の進み具合を委ねることに・・・。仁志やアキちゃんは大西君の出した課題をこなしたことから新年明けから漢文の点数が伸び始めた。隆哉はというと、数学と英語にかかりっきりで漢文の課題をこなせなかった。結局はこれが致命傷となった。

 センターを2日後に控えた17日の夜、憮然とした表情で入ってきたのは下で高3相手にセンター対策最後の授業をやってた大西君。「どないしたん?」 「先生、ちょっと」 コンピュータの部屋では隆哉がポツンと座っている。「今も隆哉と話していたんですが、こいつは漢文の課題やってへんのですわ。さすがに今からでは手の打ちようがない。戦略的に今の隆哉やったら国語の現代文当てて70%、うまくいって80%。でも古典と漢文では25%がいいところ。なにしろ覚えてへんのやから・・・。そして先生、英語は?」 「ええとこ60%、なんとか65%ってのが俺の読み、いや神頼みやな」 「それじゃあ静岡大学のボーダー75%は・・・」 「国語がこけると限りなく難しい・・・」 「僕は考えたんですけど、センター利用できる私立を探してみませんか。数学もTAはいいらしいけどUBはまだまだの仕上がりやとか。ここは国語を現代文だけで、数学もTAだけの大学を・・・」 

 隆哉の志望する静岡大学は国公立ながら3教科だ。教科は英語・国語・社会&数学から1教科選択。隆哉の英語も怖いが、国語の古典と漢文となると全く勝負できない。このままでは古典と漢文必須の静岡大学攻略は風前の灯火。ならば現代文(評論&小説)だけで受けられるセンター利用の私立大学を視野に入れることに。英語をなんとか60%、国語を80%、そして得意とやらの数学TAを選択でき、それで85%叩けば75%ラインなら攻略できる。

 時刻はセンター前日に変わっていた。しかし俺と大西君は大学データリサーチと首ったけ・・・そして出てきた大学が龍谷大学経営と甲南大学経営の67%にアジア・太平洋立命館の3教科73%、立命館大学経済経営の76%。しかし龍谷と甲南の受付締切は24日だが、立命館は18日! つまり今日である。俺は隆哉に言った。「受ける受けへんは勝手や。しかし静岡と心中覚悟で勝負しても待ちが悪すぎる。間2筒できあがり一通みたいなもんや。朝までに考えてみて、もし立命館受けるんやったら忙しい一日になるで・・・」

 隆哉は絶対現役で合格させたい。こ奴が浪人したら高校の二の舞、再び多数のダチとつるむ享楽追求型の生活が始まるのは自明。河合塾だろうと代ゼミだろうと、ダチといっしょに久居駅から近鉄乗って予備校ならぬどこへ行く。予備校の周辺はゲーセンとパチ屋と雀荘で一杯なんだ。

 「やっぱり隆哉には浪人は無理ですかね」と大西君。「あかんあかん、あんな奴、浪人になったらそれこそ粗大ゴミや。粗大すぎて誰も引き取り手ないわ」 機嫌が悪そうだった大西君、その日初めて笑った。深夜2時、隆哉は帰っていった。生意気にも朝型にとシャレこんでいるらしい。そして教室には昼夜兼行、アキちゃん(久居高)と中井(津東)が勉強している。

 隆哉は6年前、親に誘われるように私立中学を目指した。そして落ちた。落胆した母親の顔は幾度も夢にまで出てきたという。辛かっただろう。

 3年前は私立中受験で悲しませた両親を喜ばせるために津西を目指した。そして合格・・・狂喜乱舞。あの時のコーラかけのビデオは今も塾に残っている。俺は何か辛くなるとそのビデオを観る。隆哉の笑顔を観る。隆哉の笑顔には人を楽しくさせる魅力がある。そしてそれ以後の高校生活・・・得意の絶頂の日々。遅刻しそうな時刻に家を出ても焦ることなく威風堂々。先生から両親に呼び出しがかかっても我関せず。さぞかし高校生活を謳歌したことだろう。

 西高合格発表当日、コーラかけの喧噪に耳をふさいで津西を後にした香里ちゃんは去年の夏、再び塾に受験生として戻ってきた。そして日本福祉大学に推薦で合格。3年越しの念願のコーラかけならぬビールかけ、嬌声をあげる香里ちゃんを隆哉はどんな想いで眺めていたのだろう。そして同じ中学なれど成績面では歯牙にもかけなかった田上ニーチェが立命館大学に合格した。これもまたどんな気分で・・・。

 隆哉は明日、親のためでなく誰のためでもなく、自分のために、自分のためだけに、センター試験に臨む。

 

 18日、中3の小林が頭之宮へ行ったとかで霊験あらたかなお水を持ってきた。「先生、これ高3の先輩方へ」 「いらんよ、高3は仕上がってわい!」 隆哉が頭をかすめた。出ていこうとする小林を呼び止めて俺は叫んだ。「隆哉先輩にそのペットボトル、全部飲ませてやれ!」

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