れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

れいめい塾 発

「25時」 

2002年1月10日号

明けましておめでとうございます。

ほんまにすんません。今年はまだ年賀状を出していません。今年のウチの塾の年賀状は山本明徳(以下アキちゃん)が早稲田に合格したら出すつもりです。

3年前の高校受験、津東を目指しながらアキちゃんの内申が思うように伸びない。5教科総合を当初念願だった400点に乗せたものの内申は50をクリアできない。決して態度が悪いタイプではない。むしろおとなしいほどだ。それなのに内申は遅々として動かない。私立高校入試で思うような結果が出ずに最後の三者懇談が始まった。頑強に津東と言い張るアキちゃんに担任からは「今だったら久居高校にウチの中学の枠がある。君が津東に行きたいのは分かるが、ここは久居高校にしときなさい。絶対に受かるから」とのありがたい?ご指導。アキちゃん、泣く泣く津東を断念、久居高校を受験することになった。

合格発表当日、塾で待っていると合否の報告、一番槍は距離ゆえにかアキちゃん。しかしその表情は冴えない。まるで落ちたかのよう・・・。「先生、合格してました」 「そうか・・・」 良かったなと言いかけ口をつぐんだ。ゼネコンの談合まがい、予定通りの結果。温いコーラのようなプロレスを見ちまったような観客が2人、人気のない教室のなか。薄ら寒い思いから言葉も途切れがち。そんな沈黙を破ったのはアキちゃん、おずおずと言葉をもらす。「先生、高校の3年間で頑張ったら僕でも早稲田に合格できるでしょうか?」 早稲田!? 唐突に出てきた油ぎった大学名と真摯なアキちゃんの顔のコントラスト、俺はタバコの煙を吐き散らしながらアキちゃんの成績を頭の中で反芻する。

ウチの塾では全県模試という校外試験を塾生に受けさせている。アキちゃんの成績は総合では50を切っている。得意教科は国語、しかし必殺技ではない。偏差値にして55ほど。あとは安定感がなく50を多少切るか大幅に切るか。なにしろ津東を内申で攻略しようとしていたから実力のほうは今いち。中間や期末に費やした時間が悔やまれる。社会は公民が苦手で地理はそこそこ、歴史が少しは見られる程度か。英語は徐々にでは上がってきていたが偏差値50を越えれずにいる。早稲田を受ける以上は3教科受験。数学や理科の1分野は目も当てられない惨状。当然文系。中心教科となる英語はこれから3年間びっしりしごく。社会は日本史に落ち着くだろうが藤原氏を80名も覚えることができるのか。これもまた3年間・・・いや待てよ。高校では日本史は高2からだ。1年間のブランクはきつい。デンちゃんが月に一度、大阪から教えに来てくれることになっている。高1から受講させてみよう。そして国語だが・・・なんとか現状でまともなのは国語だけ、これも高1から先輩に混じって甚ちゃんに教えさせてみよう。

俺はアキちゃんに言った。「これからの3年間、英語と国語、そして日本史の3教科に絞ったらなんとかなる。合格する保証はできへんけど必ず勝負できるレベルにはなるよ」 「そうですか」 空気が和んだ。高校合格発表当日、アキちゃんが初めて見せた笑顔だった。

アキちゃんが何故に早稲田という名前を出したのか。それは後になり人づてに聞いた。その年の冬、広末涼子が品川女学院から早稲田大学に特別推薦で合格。その話題が日本中で沸騰。ウチの広告「25時」でも広末ネタの作文が投稿されていた。当時中央大学に在学中だった竹中が作文に書いている。「最後の最後に、受験の人はガンバレ! 広末涼子も早稲田へ入ってしまう時代だ。よく考えてよ! くやしくないか? 絶対負けるなよ!」 確かに有名人だから早稲田に入れるという現実は受験勉強で身体を酷使した経験を持つ竹中にとっては我慢できなかったのだろう。しかし、この広末早稲田合格に志望大学をさりげなく変更した受験生も多かったに違いない。さらに早稲田の難易度の現実を知らずしていち早く志望大学に決めた受験生も日本のなかには少なからずいたような気がする。アキちゃんもその中の一人だった。広末命てな軽いノリが高校合格発表当日にいち早く早稲田志望を口にさせたんだろう。今となっては俺は広末に感謝すべきなんだろうな。

アキちゃんを早稲田に合格させたい・・・その一心で俺は4年ぶりに高1の英語を担当した。アキちゃんは中3の頃のテンションのままで毎日塾に姿を見せた。高校生活が始まりアキちゃんは高校から塾へ自転車でやって来ては授業が終わると久居駅へ自転車を飛ばす。最終電車の乗って中川駅で乗り換え、大阪線で榊原温泉口へ。駅前に預けてある自転車を走らせて20分、白山の自宅に到着という毎日。最終電車に遅れた夜には俺が榊原温泉口の自転車を預かってくれている店まで送った。店に着く頃には店は閉まっていて、アキちゃんは裏口の戸を叩いては店の人を起こし、その度に「また君か!」なんぞと叱られていた。

アキちゃんの早稲田熱は下がりそうになかった。俺の英語の授業を何度も何度も復習していた。その甲斐もあってか、津高に合格して惰眠を貪っていた村瀬や砂山などを猛追し始めてはいた。夏休みの全国統一模試、アキちゃん内心期待してただろうが、村瀬や砂山が中学時代の貯金からか?偏差値60を軽くクリアしているのに対しアキちゃんのそれは偏差値46だった。しかし嬉しい誤算はアキちゃんの熱が感染したのか、村瀬や砂山も押っ取り刀で英語を勉強し始めた。さらに高校進学後に一旦は塾を辞めた中井が塾に戻ってきて猛然とアキちゃんの背中を追い始めた。これらの要因から例年に比べ急激な高1の展開となった。デンちゃんのマニアックな日本史も受け始めた。細かすぎてまったく覚えられないとの泣きを何度も聞かされることになった。今すべてを覚える必要はないし覚えられるはずもなかった。いつか覚えられる・・・同じ授業を3回、つまり3年間、聞け続けさえすれば分かるはず。勝負は始まったばかりなのだ。そしてその年の夏休みに帰省した海津にアキちゃんのプロフィルを説明、さっそく海津の古典の授業に放り込んだ。現代文もやはり甚ちゃんが先輩の授業に密航させては雰囲気なりとも浸らせていた。泣きは出るもののアキちゃんは決して授業を休まなかった。徐々にではあるが、俺だけでなく講師の面々もアキちゃんの早稲田大学現役合格という破天荒な夢に参画し始めていた。何にも増してアキちゃんの勉強に取り組む真摯な姿勢が皆のなにがしかを刺激していた。

塾の中での評価が上がる一方でアキちゃんの高校での成績は悲惨を極めた。どうにか英語は見られる成績だった。しかし後は惨憺たるもの・・・この時期、何度も俺はお母さんに高校3年間の展開を説明していた。早稲田に標準を絞って今の段階から3教科を徹底的にしごく。しかし実力を最短距離で付けにいくための必要悪で、高校の内申が壊れる・・・。「先生の考えているようにしていただければ」と言われるものの、やはり頭では分かっても中間期末の成績がボロボロでは、俺のやり方に疑念を抱いたであろうことは想像に難くない。どうしても実績が欲しかった。今のままではご両親にとって実感が伴わなかった。

冬休みに入った頃、英単語もターゲット800をほぼクリアした。英文法もまた初歩の一冊を終えていた。そして高校生一斉の過去のセンター試験の問題で出口が見えた。制限時間内では解けなかったにしろ全国平均点を初めて越えた。一旦越えると翌日から立て続けに平均を超えた。村瀬や砂山の視線がアキちゃんに向くようになった。そして高1の3学期の校内実力試験、遂に結果が出た。国語が学年1位、英語が2位。文系総合1位。やっとのこと、なんとかご両親に対する面目を保てたわけだ。俺が3年後を睨み、目論み、やり続けたこの1年間の効果がうっすらと出てきた一瞬だった。しかしは所詮は久居高校内での話。相手は早稲田、つまりは全国私学最高峰のレベルはまだまだ遥か彼方。1位を取ったと喜んでいるヒマはなかった。まだまだ旅の途中だった。

この年の広告「25時」のアキちゃんの作文を以下に掲載する。

津東に入るのが目標だった。担任にも、友達にも、自分自身にも、絶対津東に行くと断言した。だが、私立受験の見るも無惨な結果に現実の厳しさを知った。口先だけじゃ何もできない・・・そして久居高校に決めざるをえなかったとき、僕は中1と中2のときになんでもっと勉強しなかったのか?と悔やんだ。もう一度中1からやり直したい、もう一度高校受験したい。僕は考えた、高校受験はやり直せないが、大学受験なら高1から勉強できる!!! ちょうどそんなときだろう、広末が早稲田に行くというのをテレビで観たのは。芸能人と同じ学校に通うという夢を達成しようと心に誓った。そして今、それを目標として日々勉強している。中学と比べて大きく違うのは、やはり1年のうちから目標があるということだ。最近、高校でマラソンがあった。そのときのことを思い出してみる。前方にはまだたくさんの人がいて、その人達を追い抜くにはその人と同じスピードで走っていてはいつまでたっても追い抜くことはできない。そいつらよりも速く走らなければならない。なんだか勉強に似ていると思った。最後に高校の”格”について僕が思っていることを書こうと思う。「あいつは津東やから勝てへんわ」って思ったとき、”格”を理由にして、自分自身に対して言い訳しているんだと感じた。そういや、中学のときも部活を理由に自分自身に言い訳したっけ。つまり”格”なんて言い訳するときにしか使わないんだってこと。そして2年後、”格”などないと必ず証明する!!!

高2になりアキちゃん期待してやまなかった日本史が高校の授業で始まった。高1の1年間、ワケ分からずにデンちゃんの授業を聞いて通した。自分と比較する対象はいずれも先輩だった。勝負にならない。当然のことだった。高2となり自分の日本史の知識がどのくらいのものなのか、尺度があるなかでの勉強が始まったわけだ。生意気にも「全国統一模試でも日本史あるんでしょ?」と聞いてきやがった。「第三回目の模試からな」と言うとつまらなそうな表情をした。「高1から日本史をやってきた。はやく自分の実力を試したくなる気分は分かるけどな、11月実施の全国統一、一発目から偏差値70狙えよ」 「わかりました」

高1の頃は「山本は漢字が読めへんからやっかいや」とのデンちゃんの感想、頻繁に聞いた。しかし2年となってはとんと聞かれなくなっていた。夏休みからは中井と共に高3の今井(立教大学1年)や波多野(浪人中)、福井から密航していたアキラと近現史に入った。夏季講習中ゆえに俺の時間は深夜しか取れない。深夜0時を過ぎてから日本史の授業開始。伊藤博文から始まる歴代内閣史の内容の綿密さに驚嘆しながらも中井ともども高3顔負けのテンションで食らいついてきた。明治や中央など、過去の入試問題でも先輩連中に勝つことも多くなった。目的の地は遥か彼方、しかし着実に距離は狭まっているはずだった。

2学期の全国統一模試で英語の偏差値は始めて60を突破したものの、やはり村瀬との差はなかなか埋まらなかった。車で白山まで送っていく車中、ついついグチが出た。「村瀬君はそれほど勉強してへんのになんであんなに出来るんやろ」 「仕方ねえさ、村瀬は中学時代から基本ができてる。オマエは中学の頃の基本が欠けている」 「・・・」 「しかし、いつか埋まる。やり続けるしか方法はないんだ」 返事はなかった。助手席には眠りこけているアキちゃんがいた。時刻は午前2時、いつものことだった。

以下に広告に書いた作文・・・。

高1から今まで勉強してきたが、もっと努力できたんじゃないか?とか、これでよかったのか?と思うことがある。そんなとき僕は一通の封筒を開く。その封筒の中の手紙は、中3のとき「1年後の自分に手紙を書く」という国語の時間に書いたものである。その手紙にはこう書かれている。

一年後の自分へ。

高校に入って楽しいことがたくさんあると思うけど、人に流されてはいけません。早稲田に入るという夢があるのだから。

絶対、早稲田へ行く! 絶対、早稲田へ行く! 絶対、早稲田へ行く! 絶対、早稲田へ行く! 絶対、早稲田へ行く!

これを見ると、中3のときの志望校を下げたつらさ、悔しさがひしひしと伝わってくる。そして過ぎ去った時間は取り戻せないが、忘れていた心は取り戻すことができる。中3の受験勉強をしている毎日はなぜか充実していた。もちろん、勉強が楽しいわけではない。睡眠時間も少なく、身体的にも楽ではなかった。でも、なぜか充実していたのは、自分で決めた目標に対し努力する自分が好きだったからだと思う。そういった意味で僕にとって受験とは、最高の自分と出会えるチャンスである。ラスト1年、死ぬ気で最高の自分と出会える勉強をしていこうと思う。

        早稲田大学志望  山本 明徳

 この作文を書いた直後の全国統一模試で、遂に早稲田の教育と社学にD判定が灯った。それはそれまで延々と続いてきたE判定が突如途切れた一瞬だった。約束の地は遥か彼方ではあったが、確かにその姿を現した。

   

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