私の好きな言葉2 


(3)「自分が一番嫌いだったものが、今は一番好きになっている」(ある美術家の先生の言葉)
 これは、私が親しくさせて頂いた美術の先生の言葉です。忘年会か何かの宴会の後、色々な話をしていたときに、その先生が言われた言葉です。
「私は、茶色が嫌いだった。しかし、服を買いに行ったとき、自分の好きな色目を探し求めてなかなかほしい服が決まらなかった。そのとき、ふと一番嫌いな茶色の服を選んでみたら、すぐに決まった。それ以降、茶色が一番好きな色になった。」と言われたのです。
 私もそうですが、大嫌いと思っているものが実は一番好きだったりするわけですね。
 これは、まさに人生訓です。みなさんも、是非参考にしてみてください。違った人生が開けるかもしれませんよ。
(4)「子どもはもっとえらい(しんどい)」(ある若手教師の言葉)
 私が教職にあったとき、一緒に勤めた若い教師の言葉です。教師といえども人間なので、体がえらい(しんどい)と、つい、「えらいな(しんどいな)」と口走ってしまいます。
 そんなとき、若い同僚教師は、「でも、子どもはもっとえらい(しんどい)でね。」とさらりと言いました。教師の姿勢を言い当てた言葉で、この先生は若いけどすごいな、自分よりよっぽどしっかり考えてるなと納得したものです。
 きっと、素晴らしい教師になっておられることでしょう。

(5)「難しい内容をわかりやすく説明できるのが教養である」(??いろんなところで聞いた言葉)
 この言葉は、そもそも誰の言葉か分からないほど、いろんなところで耳にする言葉である。この言葉は、本当に的をついた言葉で、生活のあらゆる場面で当てはまる。
 たとえば、小さい子どもの「どうして?なぜ?」という質問攻めに的確に答えるのは至難の業である。まさに難しい内容をわかりやすく説明することの難しさを思い知らされる。 また、同時に、自分はまだ本当に理解できていないな、と感じさせられる言葉でもある。
 学生時代に難しい書物もたくさん読んだが、難解な書物もあった(特に翻訳本)。教養がついていかないのもあるが、筆者自身が十分に咀嚼できていないのではないかと感じることも多々あった。
 ともあれ、この言葉は私にとっては自分の教養を推し量る大切な言葉である。
(6)「人事を尽くして天命を待つ」(宋代の胡寅(こいん)著「読史管見」の中の言葉)
 この言葉は、今から900年も前の言葉ですが、使われている言葉は古いものの、内容的には現代に通じる内容を含んでいます。
 人事、天命などという文言を見ると、一昔以上前のイメージを抱きますが、現代風に平易な言葉で言えば、「やるべきことをやって、あとはその展開を待つ」ということでしょう。
 宋代は争いの絶えない時代だったようですが、国家単位の話でなくとも、個人レベルでも大切にしたい言葉です。
 長く人生を生きてくると、自分の思うようにばかりいかないのが、人生とわかってきます。
 もちろん、若い頃の自分の目指す目標に突き進むバイタリティはいつまでも大切ですが、そこからさらに一歩進めて、ケセラセラと生きるのもまた大切なことではないでしょうか。
 天命を待つ=運を天に任せる、というと何か運任せの無責任な言葉のように聞こえますが、なるようになるという発想は、むしろ積極的な考え方ではないでしょうか。
 私は、この言葉の重みは、前半の人事を尽くすにあると思っています。どこまでやれば人事を尽くしたことになるのかは、いちいちの事柄によって変わってきますが、私は、自分が納得できるところまでやると解釈するのでよいのではないかと考えています。
 そして、やるだけのことをやった後は、うまくいかなかった結果に拘泥することなく、結果を真摯に見つめ今後の糧にすればよいのです。
 この言葉をそのように捉えることで、自分の気持ちが軽くなり、人生を心豊かに過ごせる事につながると思います。
(7)「さらばじゃ、達者で暮らせ」(映画「柳生一族の陰謀」の中での徳川二代将軍秀忠の言葉)
 この言葉は、実際のものかどうか分からないが、映画「柳生一族の陰謀」の中で、今は亡き女優大原麗子さん扮する「出雲の阿国」に西郷輝彦さん扮する二代将軍徳川秀忠が戦いに出かける決心を阿国に告げる場面の言葉です。
 大原麗子さんが亡くなったからというわけではないが、この場面での西郷輝彦さん扮する秀忠の「さらばじゃ、達者で暮らせ」というセリフが妙にかっこよくてしびれたものです。
 俳優の言う言葉は演技とは分かっていても、やはり、真に迫っていいものです。
 私も一生に一度は言ってみたい言葉です。
 自分が亡くなるとき、「さらばじゃ、達者で暮らせ」と言ったら、残る家人は何と思うであろうか。
 ともあれ、自分の人生にいさぎよく生きているという証の言葉ですね。
(8)「自分であろうとする絶望は本当の絶望ではない」(ニーチェ著「ツァラトストラはかく語りき」の中の言葉)
 この言葉は、私が高校生時代、図書館で読書をしていた時に見つけた言葉です。
 ニーチェは、ニヒリズム(虚無主義)の代表とされ、イメージとしては、暗いイメージがあるが、私が「ツァラトストラはかく語りき」を読んだ感じでは、そうではなく、むしろ、生に対して非常に強いこだわりを持った哲学者で、ニヒリズムからの脱却を目指していたと思われる。
 「ツァラトストラはかく語りき」の中の、この言葉は、それを代表する言葉であると思われる。つまり、人間が絶望の淵に立ったとき、絶望にもいくつかの段階があり、絶望しながらも、なお自分にこだわりを持っている間は、本当の絶望ではない、まだ救いがある、という意味である。
 若いときは、ちょっとしたことで自分はダメなんだなどと自分を卑下し、絶望感に苛まれることがある。
 しかし、時が経って、そのことを振り返ってみると、なんだそんなことで悩んでいたのか、と笑ってしまうことも多い。
 でも、絶望の渦中にいるときは、そうは思えなくて、どうしたらいいんだと自分を追いつめてしまう。
 そんなとき、この言葉に出会うと、ホットする。そんな経験がある。
 ちなみに、私の高校生時代には、図書館を会場に文化祭「弁論大会」があり、うまいヤジにはヤジ賞が出るなど、おもしろい企画があり、文化的な雰囲気が感じられたものである。
 それも含めて、青春時代に自分を深く見つめていた頃の思い出の言葉である。
(9)「牛のよだれのように」(伯父の言葉)
 これは、今は亡き私の伯父が語った言葉です。伯父は博識で、いろんなことをよく知っていました。
 この言葉は、どんな場面で言ったのだったかはっきりとした記憶はありませんが、法事か何かで我が家に来た時の言葉です。
 「牛のよだれのように」、こつこつとすることの大切さを言ったんだったと思います。
 「牛のよだれのように」というと、だらだらと無為に時間を費やしているように聞こえますが、そうではなくて、「牛のよだれのように」、じわじわこつこつと努力することの大切さを言ったものです。
 そのときの伯父の使い方も、そのような意味で使っていたように思います。
 「商いは牛のよだれのように」という使い方もされているようで、一種の人生訓です。
 短兵急に結果を求めるよりも、こつこつと努力を続けることが大切です。
 「牛のよだれのように」、という比喩が妙に新鮮で心に残っている言葉です。
(10)「腹は縦にせず横にせよ」(近所の人の言葉)
 この言葉は、私が小学生低学年の頃、入学式か卒業式かでの来賓の人の言葉です。
 その人は、私の家の近所に住んでいて、来賓として出席されていた。
 その人のしゃべり方は特徴があって、子供心に記憶に残っている。
 私は、家人から「おまえは短気だから、もっと気長にならないかん」ということを常々言われていたので、腹を横にするというこの言葉は私の心に残ったようです。
 お釈迦さんも人を諭すのに、わかりやすい例え話を引用したようですが、この来賓の人も、子どもにわかりやすいようにと比喩的に話をされたのです。
 経験的に言っても、腹を立ててよいことは何もありません。相手にも、自分にもいやな感情を残すだけです。
 みなさん、この言葉のように腹は縦にせず横にしましょう。そして、穏やかに人生を過ごしましょう。
(11)知らないことを知らないと言えるのは、知ったかぶりをするよりも賢明である。(「ソクラテスの弁明より」)
 この言葉は、人間が人間らしくあることを言った言葉である。
 自分の身に付いた知識から出る言葉は説得力があるが、あやふやな知識から出る言葉はどことなく自信なさげで説得力に欠けることは、日常良く経験することである。
 人間誰しももっと賢くありたいと願うのは万人共通である。
 それが本物の知恵となっているかどうかは人それぞれの努力の違いである。
 例えば、入学試験が本当の知恵を測る物差しになり得ているかというと、はなはだ怪しい。
 知識が知恵となるには、知恵となすための確かな努力が求められる。
 最近は少なくなったが、私の住む田舎には、確かな知恵者と思われる人がいる。それらの人を見ていると、自分の仕事や自分のなすべきことに真摯に取り組み、確かな知恵をつける努力をしていると感じる。
 今から2,400年も前のソクラテスの言ったとされるこの言葉は、人間とは何かを考えさせる重みのある一言である。
(12)人生において、万巻の書をよむより、優れた人物に一人でも多く会うほうがどれだけ勉強になるか。(「小泉信三全集より」)
 この言葉は、私が中学生の時に読んだ「小泉信三全集」の中で出会った言葉である。
 中学生時代の私は、読書をすることが賢くなることだと思っていたが、そうではなくいろいろな人との出会いの方が、ずっとためになるのだということに気づかされた言葉である。
 しかし、この言葉を実感したのは、就職して社会人になってからである。
 書物よりも、その書物を書いた人から直接学ぶ方が何倍も得ることは多いというのはわかるが、それだけでなく、自分の身近にいる人から学ぶことは書物で得ることよりも遙かに多いということを言っており、奥の深い言葉である。
 これは、いわば人生の年輪を経た人ならではの言葉であるが、若い人にも耳を傾けてほしい言葉である。
(13)愛とは決して後悔しないことである(映画「ある愛の詩」から)
 2004年の映画「LOVE STORY」(ある愛の詩) のラストシーンで主人公を演じるライアン・オニールのセリフである。
 この映画は、伝統を誇る名家の男と秀麗な女の恋愛を描いた作品である。経済的に不自由なく育った男と自分の才能に夢をかける女の恋の物語である。
 二人は、急展開で交際し学生結婚に至る。
 伝統の力を借りずに自分の力でやっていこうとする男は、一足先に教師に就職した女の稼ぎを頼りに有能な弁護士になる。
 男の稼ぎによる幸せな生活が待っているはずであったが、しばらくして女に不治の病が見つかり、場面は急展開する。
 男は、女の治癒を願い、不義理をしている父にも金の工面を相談する。しかし、その甲斐もなく、女は男の腕の中で息を引き取る。
 状況を聞きつけ、かけつけた父に語る男の言葉「愛とは決して後悔しないことです」は父との決別を示す言葉である。
 ホッケー場の観客席に座った男は、男の試合に熱い視線を送った女を思いやりつつエンディングを迎える。
 この後の展開は視聴者の想像にゆだねられるが、男は父に頼ることなく、自分の道を生きることを選び、自分の人間性に従って生きていくと筆者は想像する。
 この映画視聴後の展開予想は、視聴者一人一人の視聴後の余韻によって決まるだろう。
 名作の一つといえる。
 視聴をお薦めすると共に映画中で交わされる男と女の会話にも耳を傾けてほしい。