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1 2010-12-31(金)
冬のソナタ4
 「冬のソナタ」の後半の展開は、人間の心に迫るものとなっている。
 主人公とヒロインが、異母兄弟であり、近親愛・近親婚になるという設定である。
 最終的には、異母兄弟ではないとわかるが、この問題は、古来からいわれてきた古くて新しい難問である。
 近親愛・近親婚が禁止されるのには、いろいろな理由があるが、主として生物学的観点から禁止されている。
 つまり、血が濃いために、常染色体性遺伝病の危険性が高いのである。
 有名な近親婚の弊害例として、スペインの名家ハプスブルク家がある。ハプスブルク家は174年間にわたってスペインを支配した名家であるが、血筋を重んじるあまり三親等以内の近親婚が多くなり、そのため、特定の遺伝病が高い率で出現し、跡継ぎができず1,700年に断絶したといわれている。
 日本では、民法の734、735、736条に近親婚禁止の条文規定がある。ここでいう近親婚は、直系血族同士および傍系血族三親等以内の結婚禁止である。従って、一番血の濃い可能な結婚は、いとこ同士の結婚である。
 一方、韓国では、八親等以内の結婚禁止、また、古い先祖が同一であると結婚が許されない同族同本婚禁止というものもあり、現在では改正により緩くなっているものの日本よりも厳しく、近親婚の禁止は根強い。
 その韓国の土壌で、近親愛・近親婚のタブーに切り込む設定になっている。ドラマでは、近親婚を理由に分かれるが、近親愛は貫いている。韓国の近親愛・近親婚のタブーを一部凌駕しているともいえる。
 血が濃いということは、それだけ近いのであるから、惹かれあうのは生物的に必然である。しかし、血が濃いことに伴う弊害を避けるため、近親婚は生物学的に避けられようになっている。それを人間の愛がどこまで踏み込めるのか、かなり、きわどい設定である。
 生物学的に絶対許されない近親婚であるだけに、それを打ち破ることはできず、最後には、異母兄妹ではなかったという設定にして初恋を成就させている。
 「冬のソナタ」における近親愛・近親婚の取り扱いは、あまりにも厳しい(厳しかったといった方がよいのかも知れない)韓国の近親婚禁止の考え方に対する監督や脚本家たちのレジスタンスであるとも考えられる。
 ドラマ中、主人公が近親愛になることを知りながら、相手が知らなければよいとする考え方は、近親婚に一歩踏み込んだものであり、近親愛・近親婚さえをもタブー視せず、よりオープンに愛を考えようとする現代韓国の恋愛事情を反映しているのかも知れない。
 いずれにしても、男女の愛を極限まで追求した作品であり、人間の愛について考えさせられる。小説化してもなかなかの作品になるのではないかと思われる。 
2 2011-1-15(土)
冬のソナタ5
 このドラマは日本語に吹き替えられ、視聴しやすくなっているが、私は、敢えて韓国語、日本語字幕で視聴し、韓国語の微妙な言い回しを極力とらえるようにした。
 私は、韓国語は全くわからないが、日本語字幕と対比しながら聞いていると、韓国語のおもしろさが少しわかってきた。
 たとえば、これはどうしてかはわからないが、日本語がそのまま韓国語になっている言葉がいくつかあった。たとえば、記憶、新作、気分、準備、無事などはKIOKU、SINSAKU、KIBUN、JYUNBI、BUJIと発音し、全く日本語と同じ発音である。インタビュー、スケジュール、カリスマ、ストレス、アクセサリ、クリスマスなど英語からの言葉もそのまま発音される。
 また、約束、圧迫、教授などもほとんど日本語の発音である。
 人の呼び方もお互いの距離によって使い分けがされる。たとえば、ドラマ中でヒロイン ユジンを呼ぶ呼び方がいろいろある。たとえば、同級生および主人公は、ユジンをユジナと親しみを込めて呼んでいる。一方、ユジンさんという呼び方はユジンシーと呼ぶ、このように名前の後にa、iをつけて、ユジナ、ユジニなどと使い分けている。
 お互いの距離感によって呼び方を変えるのは、日本でもある。日本では、〜さん、〜くん、〜など語尾につける言葉によって、異なる人間関係を表す。
 そのほか、このドラマで覚えた韓国語は、いいえがアニャ、キスがポッポ、お母さんがオモニ、お父さんがアボジ、感謝しますがカムサミダである。
私はほとんど日本語しか駆使できないが、韓国語に触れて、断片的ではあるが、これまでの韓国語の歴史が伺われておもしろかった。
 韓国語を本格的に学ぼうとは思わないが、韓国語には韓国の、日本語には日本の歴史があることが具体的に分かり、視野が広くなった気がしている。
3 2011-2-6(日)
タイガーマスク
 このごろタイガーマスクの話題がしきりである。
 タイガーマスクと名乗って、児童養護施設にランドセルなどを寄付する行為が広がっている。
 この出来事を聞いて、私は直感的に我々と同じ世代の人たちの仕業だと思った。
 我々の世代は、いわゆる団塊の世代と呼ばれる戦後すぐ生まれの人口の多い年齢層である。我々の育った時代は、貧しい時代からどんどん経済が復興して繁栄に向かう高度経済成長の時代であった。
 そのような時代を経験した我々は、貧しさと裕福さの入り交じった複雑な感覚を持っている。一面では、裕福さの中に貧しかった時代の質素倹約の精神を大事にしているところがある。
 このような混交した精神を持っている我々の世代は、還暦を過ぎて、社会や他人のために何かできることはないかと考えるようになっている。
 タイガーマスク運動は、政府の出した子供手当を評価しつつも一方で批判的にとらえ、より実態に即して支援しようという動きであるように思う。
 我々の世代は人口が多いだけに、団塊とひとくくりにされることも多いが、反面、よいと思うことに対しては、こぞって賛同するという精神も持ち合わせている。
 今回の出来事は、たまたまタイガーマスクに名を借りたささやかな善意の運動であるが、我々団塊の世代を象徴する出来事であるという気がしている。
4 2011-3-15(火)
東北大地震
 今回の東北大地震は、自然の驚異をまざまざと見せつけた。
 特に、津波の脅威がすごかった。
 スマトラ島沖地震の時にも映像が流されたが、それを凌駕するすさまじいものである。
 昔から、怖いものの喩えに、「地震・雷・火事・親父」というが、怖いもののトップに地震が挙がっているのも頷ける。
 地震の起こる原因は、プレートテクトニクスという理論が一般的である。つまり、地球上の地殻は10枚以上のプレートに分かれていて、そのプレート下にマントル対流が流動し、プレートは移動している。プレート同士が接触するところでは、プレートが地球内部に沈み込んでいっており、その沈み込む力に抗してプレートがリバウンドする。それが地震である、という理論である。
 私が、この理論を聞いたのは、故 竹内 均先生である。竹内先生は、地球物理学の専門家で、早くからプレートテクトニクス理論を提唱されていた。
 このプレートテクトニクス理論により地震が発生すると(特に今回のような海底で)、プレートのリバウンドによって直上の海水が持ち上げられ、それが周りに向かって津波となって伝搬する。
 理論計算によると、水深4,000mでは時速700〜800kmに達し、水面付近でも200kmに達するといわれている。津波を遠くに見て時速200kmで逃げられる人はまずいないだろう。つまり、目の前に津波を見たらまず助からないと考えなければならない。
 また、直径の大きなパイプから小さなパイプに水が入れば、圧力が増す、従って、外洋から内湾に津波が押し寄せると、巨大になった水の圧力が海岸に押し寄せ、防護壁などの障壁があると、一気に上に押し上げられる。今回の津波の場合、20m程度になったといわれている。
 今回の地震の場合、プレートのリバウンドで動いたであろう海水量は被害状況から見て相当な量に達したようであり、その塊が伝搬して、それぞれの入り江に突入し、未曽有の破壊をもたらしたと考えられる。
 そして、これは決して他山の石ではない。
 私が中学生の時に読んだ寺田寅彦先生の随筆中の言葉を引用し、不幸にして亡くなられ方々に哀悼を捧げたいと思う。
 「天災は忘れた頃にやってくる」。
 人の結びつきを大切にした被災地の復興を期待したい。
 私も、自分のできることでお手伝いしたいと思っている。
5 2011-3-31(木)
東日本地震
 時が経つにつれて、今回の大地震の様相が明らかになってきた。
 その中で、被災地や被災者に配慮した自粛の動きが広がっている。
 被害に遭わなかった者が華美なイベント等を自粛することによって、被災者に対する心情を思いやる営みである。
 しかし、これが社会的コンセンサスとなり、なにもかも自粛という風潮になっている感がある。
 私は、これは決して望ましい姿ではないと思う。
 なぜなら、それが経済的になんらの価値を生み出さないということもあるが、それよりも、そのことが被災に遭われた人たちの心情に合致するとは思えないからである。
   被災された人たちは、被災者に対する種々の支援に対してありがたいと思いこそすれ、何不自由ない生活をしている人をうらやましく思うようなことはないと思う。
 自分の些細な経験から考えても、自分が必死に生きているときには、他人をうらやましく思う心情など生じないものである。
 今を必死に生きている被災者の人たちは、被災に遭わなかった人に対して、自分たちと同じような思いをしてほしくないと願っていると思う。
 それに対して、偶然被災に遭わずにすんだわれわれは、ああよかったと思うのではなく、被災状況の中で必死に生きている人たちの姿から、命の尊さや不自由なく生きていることに感謝の気持ちを持ち、自分にできることはないかを考えることが大切だと思う。
 何ができるかは難しいが、ささやかであっても、他人を思いやる気持ちを持つことができれば、それは、この未曽有の大震災からすべての人が人として大切なことを学んだといえるのだろう。
 一日も早い復興を願わずにはいられない。
6 2011-4-2(土)
地震に伴う原発事故
 東北大地震の後遺症の中で、今、大きな問題になっているのが福島第一原発の事故である。
 事故から、3週間経ってようやく経営者の会見があったが、あまりにも遅いと感じざるを得ない。
 主原因は、自然災害であるが、調査が進むにつれて人災的側面が強くなってきている。
 他の原子力発電所と比べて、地震・津波に対する対応が十分なされていなかったことが明らかになっている。
 経営者は、そのことを知りながら、自然災害のせいにして、自然災害に伴うことだからと責任を回避しているようにも思える。
 情報も錯綜しており、政府の出す情報、保安院の出す情報、東電経営側から出す情報、IAEAからの情報、言い方が微妙に違う。
 私は原発については素人であるが、素人の目から見ても、原子力施設内で爆発が何回も起こっている事実は、かなり危険な状況であることは分かる。
 原子力発電の原理は、原子爆弾の原理と同じであり、原子核反応の速度の違いだけである。制御の効かなくなった原子力発電所は、じわじわと原子爆弾が炸裂するのと同じようなものであり、一刻も早く反応を止めることが必要であることは論を待たない。
 このような状況の中では、廃炉にするのは当たり前のことであり、あまりにも遅いといわざるを得ない。
 調べてみると、福島第一原発では、過去に幾度となく事故を起こしており、技術者や政治家の指摘を無視して、対策をして来なかった事実がいくつかある。いよいよ人災的要素が強いといわざるを得ない。
 断片的な報道情報しかないが、外部に放出された放射性物質として、ヨウ素131、セシウム134、セシウム137がある。これらは、いずれも核分裂に伴う生成物であり、放射線を出して別の原子に移行し、放射線を放出しなくなるまで崩壊を続ける。
 ヨウ素131は、半減期は約8日と短いが、チェルノブイリでは継続してヨウ素131を含む牛乳を飲用し続けたため、甲状腺にヨウ素131が多量に蓄積し、多くの住民に甲状腺ガンが多発したといわれている。
 セシウム134は半減期2日と短いが、セシウム137は半減期が30年と長く、体内に取り込まれると、ガンマ線を放出して、DNAを破壊するといわれている。
 ヨウ素131はβ崩壊して最終的にはキセノンに、セシウム137はγ崩壊して最終的にはバリウムになる。
 これらの放射性物質が、原電内の排水、土壌や海水中に放出され、高濃度の汚染状態となっている。
 ここまでの事実を突きつけられて、経営陣はやっと1〜4号炉を廃炉にせざるを得ないと言ったが、5号炉以降の原子炉については、存続させるともいえる発言である。
 ここまでくると、経営を優先させるために、地域住民の安全は二の次であると言っているのも同じである。
 右にするか左にするか、せっぱ詰まった選択状況の中で、何を基準にして判断を下すのか、最後はその人の人間性が問われる。経営を優先し末代まで恨みを買うのか、それとも、人の命を主に考え企業人の人間性を世に問うのか、対応が注目される。
 私ならば、躊躇することなく後者を選択するであろうが、皆さんはどうであろうか。
7 2011-5-5(木)
生き物飼育
 久しぶりの更新である。カウンターを設置し直したのと、東日本大震災のことで頭がいっぱいで、なかなか更新する余裕がなかった。読者にはお詫びしたい。
 今回の東日本大震災のこともあり、生き物の命ということを考えた。
 今、我が家にはちょうど金魚がいるので、そのことを書いてみたい。
 私は、もともと生き物が好きである。
 小学生の頃はウサギを飼っていた。その後も、犬を飼った。両方とも思い出がいっぱいであるが、そのことは回想編に譲るとして、現在のことを中心に書いてみたい。
 私が生き物を飼い始めたきっかけは、鶏の世話からである。
 当時、鶏は、農家では必ずと言っていいほど各戸で飼われていた。タンパク源としての卵、また、時には、カシワとしても利用できる。農家にとっては、またとないタンパク源であった。
 その当時のことは、回想編(18)(19)をご覧いただければと思う。
 現在は、ひょんなことから金魚を飼っている。妻が仕事の関係でもらってきたのがきっかけであるが、いつのまにか、我が家のペットになってしまった。
 生き物を飼うと、否応なしに世話をしてしまう。自分が生き物であるということからくるのだろうが、世話をせずにはいられなくなってしまう。
 今回の金魚も、水が濁らないように水槽を大きくし、水草を入れ、水循環器をつけるなどかなり金をつぎ込んでいる。もちろん、エサもである。
 そのうちの何匹かを母親の癒しにと思い、母親に分け与えた。しかし、母親は、えさをたっぷりやることがかわいがることだと勘違いしてえさを与えすぎ、水がえさの色に染まるほどになってしまった。
 えさのやりすぎを何回言っても馬の耳に念仏である。
 このままでは、金魚が死んでしまうと思い、緊急避難的に我が家に引き上げたが、そのままになり、現在に至っている。
 生き物を飼うことで、学ぶことがたくさんある。
 物を買うのと生き物を飼うのとでは、同じかうでもずいぶん違うものだ。
 金魚の生き生きと泳ぐ姿を見て、自分も人間という生き物として生かされているのだということを再認識させられる。
8 2011-5-9(月)
竹林
 このごろ毎日と言っていいほど、我が家の竹林の整備に行っている。
 この時期であるからタケノコがたくさん上がるので、その採取もしている。
 去年の4月18日(日)「人生初経験」で紹介したように、二年目の今年は、いよいよ竹の生命力に感心している。
 去年に続いてということもあるが、今年は、それ以上に新しい状況があり、昨年以上に頻繁に出かけている。
 その状況とは、我が家の竹林の反対側にあった鶏舎が業者の手に渡り、鶏舎周辺が大きく様変わりした。
 世間の風評によると、鶏舎跡地には大阪の業者が入り、ウナギの養殖地として利用されるとのことである。
 現時点では、鶏舎跡地にブルドーザーが入り、周りに生い茂っていた樹木や雑草が取り払われ、土手の道がはっきり見えるようになった。皮肉にも、人力ではいかんともしがたいほどの機械の力のありがたさを感じている。
 この後どうなるかわからないが、私としては、去年から始めた竹林の整備と土手に埋めて捨てられている廃棄物を取り除き、土手の土を打ち直して整備したいと考えている。
 ぼちぼちと始めているが、改めて竹の生命力に驚嘆している。
 我が家の竹林は主に孟宗竹であり、タケノコもうまいが、その竹の生命力もすごい。直径20cmもあるタケノコが地面を持ち上げ、天をつきまっすぐにのびていく様は圧巻である。
 古くなった竹や曲がってじゃまになる竹を切り倒し、奥の一段低い河川に近いところに放り込んでいるが、その隙間から頭を持ち上げ、まっすぐ上にのびていくタケノコの力を毎日目にしている。
 なぜだかはわからないが、竹林にいると気持ちが落ち着く。
 小さな小屋を建てて、そこに寝泊まりしようかと思うくらいである。
 今は、土手にまで進出してしまった孟宗竹の茎を取り除き、土手を斜め平坦にするのに精力を使っているが、一段落したら、孟宗竹の生命力と共生しながら、竹林のあるべき姿を求めたいと思っている。
 竹には竹の生命力があり、人力の及ばないところがある。それを見つけ、竹とうまくやっていければと考えている。
   東日本大震災でも、きっと植物の生命力を感じるところが多々あるはずである。それに目を留め、その力と共生しながら、復興を考えるのもいいのではないかと思う。
 そんなのんきなこと考えていて生活していけるのかと問われれば、このようなときだからこそ、あくせくせず、周りの自然の生命力に目を向けてみるのもいいのではないだろうかと答えたい。植物や動物は、このような自然災害にどのように適応しているのか、同じ生き物である人間にとって生きるヒントが得られるかも知れない。
 震災の復興を願いつつ、そんなことを考えている。
9 2011-5-23(月)
シカ
 昨日、雨が上がって天気が回復してきたので、午後5時過ぎから竹林を見に行った。
 土手の道を自転車で進んでいくと、竹林までの道の中間あたりにシカがいた。そんなに大きくない若いシカであった。一匹いるということは、その親やつがいや兄弟がいる可能性がある。
 自転車を進めていくと、そのシカは気がついてゆっくりと前に走り出した。
 かまわず、自転車を進めると、どんどん前に進んで、ちょうど我が家の竹林の手前で竹林の中に駆け込んでいった。
 以前から、竹林にシカがいるという噂は聞いていたが、現実に見たのは初めてだったので驚いた。
 竹林に逃げ込んだシカがどうしているのかは分からないが、竹林にシカがいることが明らかになった。
 シカは植物の芽を手当たり次第に食することで、食害を起こすということはいろいろなところで聞く。
 この辺りでも、獣害の話がある。特に、サルによる被害が多い。獣害という言葉は、人間から見て野獣による害という概念であるが、当のサルやシカは何と思っているのであろうか。サルは人間に近いということがあるが、シカは動物本来の本能に従って行動しているのであろう。
 ではなぜ、これらの野獣が人里に下りてきたのか、そのことに人間は関与していないのかと考えると、彼らよりむしろ人間の方に考えなければならないことがあるのかも知れないとも思えてくる。
 2−3年前、犬山市の霊長類研究所の研修に参加した。その中で、山に建物を建てるときは、下から上に向かって建物を建てていく必要があるということを知った。山の上の方から建物を建てると、そこに住んでいるサルを下に追いやり、人里にサルが入ることになるという。
 もし、そうなら、これはサルにとって人災であり、サルには罪のないことであるだろう。
 シカにも同じことがいえるのかも知れない。
 ともあれ、シカがいることがはっきりしたので、今後、シカとのせめぎ合いが新しい課題になるかも知れないし、シカと仲良くなれるかも知れない。私の人生で、初めての経験となる。
10 2011-5-26(木)
 福島第一原発の1・2・3号炉で、メルトダウンが起こっていた事実が明らかになってきた。
 あまりにも遅い報道といわざるを得ないが、それにもまして、計画的避難区域の人たちの避難や家畜の処遇が問題になっている。
 2009/6/16(火)の回想編1に書いたように、私は小さい頃、牛小屋で牛と一緒に寝たことがある。牛はたいへんやさしい生き物である。
 私は、父に怒られて牛小屋に放り込まれ牛と一夜を過ごしたが、牛は涙にぬれた私のほほをぺろぺろとなめてくれた。
 大きな優しそうな眼が50年以上経った今も鮮明に記憶に残っている。
 インドでは白い牛はシバ神の乗り物として神聖視されている。
 福島県の飯館村の人たちは牛を飼って暮らしている。人なつこい牛と毎日接していれば、情が移るのは当たり前である。その牛を殺処分しなければならないという。家族同様に育ててきた人にはとてもつらい仕打ちであるだろう。
 昨年の宮崎県での大量殺処分といい、今回の殺処分といい、人間に近い哺乳動物が殺されていく、しようがないというものの、何ともいえないわびしい気持ちである。
 牛乳や牛肉でしか牛を知らない人には、この気持ちは分からないかも知れない。
 私は、報道を聞いていて、もう少し、命という視点から家畜の殺処分を取り上げてもいいのではないかと思う。何の罪もない人がユダヤ人だというだけで殺されていった第二次世界大戦時とダブってしまう。
 多くの人の命が奪われた自然災害時だからこそ、あらゆるものの命の大切さや生きているということを今一度見直したいと思う。
11 2011-7-18(月)
母追悼の記1
 母が突然亡くなった。90歳であった。母の思い出は、小さい頃の思い出と重なる。それも、畑仕事である。一生涯畑仕事に打ち込んでいた姿が印象的である。
 最近は、耳が遠くなり、物忘れが多くなっていたが、身体は元気で亡くなる前日も元気にしていた。
 今思うと、私が仕事を辞めてもっと畑仕事を手伝えばよかったのにと悔やまれる。時々は、耕耘機で畑を起こしてくれと言ってきていたが、最近は、私が伊賀の方に出かけていて昼間いないので、頼みに来ることもなくなっていた。
 亡くなる6日前、父が体調を崩し、母親が病院へ連れて行ってやってくれと頼みに来て、翌日、病院へ搬送し、その足で総合病院へ入院することになった。入院する前は、父親の病状はかなり悪かったので、母親は地域の周りにある地蔵さんに願をかけに行っていたようである。父親の病状も回復に向かい、家に戻れるかと思っていた矢先、突然亡くなってしまった。
 あたふたしながら、通夜・葬式を終え、初七日を済ませた。しかし、父親には母親が亡くなったことは伝えてなかった。母親を送ることが一段落ついたら、今度は父親にどう伝えるか心配しなければならなくなった。
 いつ、どう伝えるか思案したが、どうせ知らせなければならないとしたら、主治医と相談し、体調のよい日を選んで極力早く知らせようと思った。
 初七日の終わった翌日、金曜日であったが、病院を訪問し、体調が良さそうだったので、思い切って母親が亡くなったことを知らせた。どう受け止めたか分からないが、そのときは特に取り乱すこともなく、冷静に受け止めたようだった。そのすぐ後、私の妻が衣料を持って行くと、長々と母親のことを話したらしい。やはり、60年以上連れ添った相方が亡くなったのであるから、それ相応のショックはあったのだろう。いつ伝えるかという問題はあったが、伝えなければならないことは必定であったので、後は、父親の生命力に期待するしかないと思っている。
 私としては、父親は戦争を経験し、戦友の死を経験してきているので、自分の中で気持ちの整理をし、乗り越えるものと思っている。
 自分の伴侶が亡くなると、相次いで亡くなることも多いと聞く。私の近所でも、そのようなケースがいくつかある。覚悟はしなければならないが、最後は、本人がどこまで自分の命を大切にし、少しでも長く生きようと思うかである。父親には、そのような姿を期待し、すぐに伝えられなかったことも含めて事実を伝えたのである。
 今日、訪問すると、熱があり氷枕を当ててもらっていた。やはり、知らせたことのショックから来ているのかも知れない。あとは、本人の生命力に期待するしかない。気がかりなのは、母親が元気であったので、それに負けじとがんばって生きてきた気持ちが萎えてしまわないかということである。
 父親にまだまだ生きようとする気持ちを鼓舞するのに何がよいのか、模索しなけばならない。
12 2011-7-19(火)
母追悼の記2
 母追悼の記2回目。母追悼の記1で書いたように、母の姿はいつも畑仕事をしていた。特に後年はそのイメージが強い。
 回想編1の(6)一生傷で書いたように、小さい頃から母親の畑仕事について行った。とにかく土に親しむ母親の姿が目に焼き付いている。
 2〜3年前までは、自分で耕耘機を運転して畑を起こしたりしていた。
   ここ1年あまりは、さすがに自分で耕耘機を運転することはなくなったが、それでも暇があれば、畑に出かけ、手で草引きをしていた。育った時代がそうさせるのだろうが、私の住む家の庭の草引きなど、じっとしていることなく動いていた。そのせいか、結構広い庭であるが、草はほとんどなかった。母に感謝である。
 私の63年の人生で、母親が寝込んだのは1回だけである。百日咳で1日?寝込んだのが最初で最後である。二回目の寝込みは永眠となった。
 母は強しとよく言われるが、まさにそのような人だった。
 その安心感からか、私ももっと畑の手伝いに行かなければと思っていた矢先に、旅立ってしまった。
 通夜・葬儀のお礼の挨拶でも述べたが、まさに「ぴんぴんころり」、理想的な亡くなり方だった。
 突然亡くなったことには、残された遺族はもちろん、近所の人も驚いた。昨日まで元気に挨拶を交わしていた人が翌日には帰らぬ人となっていたのであるから無理もない。
 一番驚いているのは本人ではないかと思う。自分もまさか、このような形で逝ってしまうとは思っても見なかっただろう。
 今頃、ぺっと舌を出しているかも知れない。
 亡くなって日にちが経つほどに、寂しさが募るという。
 亡くなった日や通夜・葬儀はばたばたしていて、ゆっくり母の思い出を振り返っている余裕などなかったが、これから、少しずつ母親の思い出を回想していきたいと思う。
合掌。
13 2011-10-11(火)
父追悼の記1
 母の急死から約2ヶ月、父も旅立った。
 母が亡くなってからの二月間、父親にとっても、われわれ子供にとっても長い月日だった。特に、体の悪い父親にとってはどのような二ヶ月間であっただろうか。
 母の急死を知らせたときには、私の妻に母親の分もがんばると言っていた。だから、二ヶ月もがんばれたのかも知れない。
 母親が亡くなる前に入院したときは、相当悪かった。それが、約3週間で元気になり退院の運びとなったのであるから、母親の分までという気持ちは嘘ではなかったと思う。
 ちょうど母親の中陰が空けるのを待っていたかのように、父親は旅立った。
 父親は仕事一筋の人だった。大工として自分の住む地域の家をほとんど建てさせてもらったことを喜びにしていた。
 初七日の日、近所の人が「腕のいい大工だった。40年経っても建具がぴたっと閉まる。狂いがない。」と言って下さった。父親には、何よりの言葉であっただろう。
 90歳を超えてからは、肺の病気、右足大腿骨骨折と大きな病気・けがと闘ってきた。
 この3年間、私が仕事を辞めるのを待っていたかのように、父親の世話をさせてもらった。大変だったが、恩返しができてよかったと思っている。
 父親は、体の調子がすぐれなくても感情的になることもなく、周りの人に常に感謝の言葉を口にしていた。
 わが父親ながら、すばらしい人間だった。
 合掌。
14 2011-10-17(月)
父追悼の記2
 父追悼の記二回目は、母追悼の記と同じように、父親の一番の思い出を書いてみたい。
 父親の思い出でもっとも鮮明に残っているのが、2009年8月3日(月)に回想編で書いた「どこまで続く電信柱」の思い出である。
 私が小学校に上がる前、母の里への里帰りの途中の一こまである。
 父親の運転する自転車の前かごに私、後ろの荷物台には母親が乗って自転車三人乗りでの帰省であった。
 その後の顛末は、回想編をご覧頂きたいが、このときの父親とのやりとりが、その後の私の知識欲を刺激したように思う。
 小さい頃の私の行状は、回想編にいろいろと書いたが、それもこれも、この出来事がきっかけになっている。
 父親は母一人子一人という状況の中で、家計を助けるために上級学校には行かず、大工の徒弟になったが、大変賢い人だった。
 亡くなる直前まで意識はしっかりしていたし、知識の豊富さだけでなく、人間としても大変人徳のある人だった。
 後年になって知ったが、小学校のPTA会長もしたことがあったようだし、区長や農業委員もして、いろいろなことをよく知っていた。
 私にはこうせよということは言わなかったが、それでも、区のことなど分からないことを聞くと、詳しく教えてくれた。
 若いうちに、父親と妹二人・弟(長女であった妹は、16歳で亡くなった)を亡くした父は、家族を大切にしていた。だから、自分の母や妻にも、また、われわれ子供にも常に慈悲の心だった。
 父親の人徳は、私の残りの人生の目標である。
 合掌
15 2011-11-5(土)
母追悼の記3
 先々週金曜日の午前中時間があったので、畑のサツマイモ掘りをした。
 先日亡くなった母親が植えていったサツマイモである。
 ずっとそのままにしてあったので、できているかどうか分からなかったが、いざ掘ってみると、結構できていた。
 私が小学生低学年の頃のおやつといえば、サツマイモであった。私は、サツマイモは好きであるが、毎日となると、いやになってきて、一度、食べ残しのサツマイモを道ばたに捨てたことがあった。
 当時を振り返ると、もったいないことをしたという気持ちと母親に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいである。
 サツマイモは、茎に細菌(マメ科の根粒菌ではない)を共生させていて、空気中の窒素を固定するので、肥料をやらなくても良く育つ。
 私の育った小学生低学年の頃は、戦後の復興時代で、農村地帯でとれる作物が貴重な食料であった。中でも、サツマイモは、肥料がいらず、良く生育して、おいしいので畑の作物として貴重であった。
 私の母もよくサツマイモを植えていた。当時の川の近くの砂地の畑でもよく育った。砂地の畑は、サツマイモが掘りやすく作業がしやすかった。
 サツマイモ掘りをしながら、母親のことやサツマイモのことがいろいろと思い出されて、懐かしい気分で作業を終えた。
 亡くなる前、「畑、ようするやろか」と心配していた母親に少し恩返しができたと思っている。
 合掌
16 2011-11-29(火)
通い
 ここ2年ほど、第二の人生で少し遠くに出かけている。
 時間にして45分ほどの距離であるが、その間、自動車を運転しながらラジオを聞いている。
 主にNHKのラジオ番組を聞いているが、一昔前のNHKのイメージと違ってなかなか楽しめる内容となっている。
 具体的な番組名は差し控えたいが、毎日新鮮な内容があり、楽しく聞いている。
 帰りも同じくNHKのラジオ番組を聞きながら帰途についている。こちらもなかなか楽しい内容で飽きない。
 一昔前は、NHKといえばお堅いイメージで、ニュースが特にそうだった。ニュースは相変わらず堅い雰囲気であるが、ニュース以外の番組が前述のような和らいだ雰囲気に変わっているので、かえってニュース番組が生きている。
 このごろは、NHKのアナウンサーも民放に移籍することも珍しくない時代なので、NHKのアナウンサーといえども、個性を売り物にできるようになってきている。
 いずれにしても、聴者にとって聞きやすいものとなっており好感がもてる。
 いろいろなものが時代と共に変化してきていて、われわれ年を取った者にはついていくのが大変であるが、このNHKの変化は大歓迎である。
 今回はNHKを取り上げたが、他の民放でもそうなのかも知れない。
 今度は、民放にも耳を傾け、その変化を感じ取ってみたいと思っている。
17 2012-4-30(月)
シカ2
 ずいぶん久方ぶりです。父母が亡くなってしばらくして追悼の記を書いては見たものの、やはり、父母の死の存在が大きくてなかなか日記を書く気力が出なかったのです。
 7ヶ月近くが経ち、以前とは違う生活に慣れてきてという現在の心境です。
 さて、昨年の5/11付けでシカのことを書いたが、一年経って、我が家の竹林にシカの糞が大量にあるのを発見した。
 確実に、我が家の竹林にシカが入っている。
 写真のように、竹林の土手に近い所であるので、草を食べに土手から入ったものと思われる。我が家の竹林は、土手に近いところは、竹を整理して、明るくしたのでいろいろな草がたくさん生える。その草を食べに入ったものと思われる。
 近所の人の情報によると、竹林から離れた畑にもシカらしき足跡が見られるという。
 ともかく、シカが畑に入ると、手当たり次第若芽を食するので、要注意である。
 獣害対策をされている方に相談すると、シカ対策用のネット、回転灯、忌避剤を貸して下さった。
 まずは、ネットを竹林の周りに張り巡らした。それでも不十分なら、回転灯・忌避剤と進もうと考えていたが、ネットを張ってから入ったようすがないので、とりあえずは成功かなと思っている。
 しかし、これから、季節が変わるとどうなるか分からない。予断を許さない日々が続く。シカと仲良くなれるチャンスでもあるが、どうなることか。
 獣害対策の方に借りたネットのおかげでタケノコが生えてきたので、タケノコを掘り出し届けた。
 人生いろいろなことがあるものだと楽しみながらやっている。
18 2012-10-31(水)
川の氾濫
  もう一ヶ月ほど前になるが、台風17号で近くの河川が決壊し、我が家の畑や小屋にも泥流が流れ込み大変な状況となった。
 畑には、泥流が運んできた泥が土の上に堆積し、乾くのに一週間、乾いてくると亀の甲羅のように固く厚く(2cm程度)なり、完全に乾くと土埃を舞き上げる状態となった。
 我が家の畑では、怪我の功名で、植え付けるのが遅くなったジャガイモと大根の種は、芽が出ていなかったために難を免れた。
 他の家の畑では、かなり芽が大きく育ってきていたので、泥流に芽をやられて全滅となったところが多かった。
 また、小屋にも泥流が流れ込んだようで、小屋の中に置いてあった油かすや牛糞の袋が破れ、泥流と一緒になって小屋の土間ぜんたいに流れだし、さながら牛小屋状態となっていた。
 小屋の中には様々な器具も入っているので、片づけるといってもそう簡単にはいかない。
 しかし、牛小屋のような悪臭のするまま放置することもできないので、天候が回復し出した日を見計らって、小屋の中にあったものを外に放り出して乾かし、片づけを始めた。
  一番やっかいなのは、流れ出した肥料の処置で、あいている畑にビニールシートを敷き、そこに泥と一緒になった肥料を広げて少しずつ太陽光と風にあてて乾かした。
 何日も臭いが消えなかったが、一週間、二週間と経つうちに臭いも少なくなっていった。
 しかし、乾いてくると、そのうちに雨が降り、また湿る、を繰り返し、結局、現在もまだ処理し切れていない。
 一方、その他の器具等は一通り片づき、水の入った土間の入り口を開けて風を通し、少しずつ土間を乾かしていった。
 そして、近くのスーパーで段ボールをもらってきて、敷き直した。
 今回敷き直して、一年に一回は大掃除のつもりで土間の段ボールを敷き代える必要があることが分かった。その意味では、大変いい経験になった。
 ところで、今回の大水の件で、川の土手が切れたという話を聞き、昭和34年9月26日の伊勢湾台風が思い起こされた。
 そのときは、我が家の田のすぐ横の主要河川の堤防が切れ、一面濁流が暴れる状態になった。
 近所の長老が、母親の処に来て、「田圃を見に行ってら行かん。見たら気がふれるぞ。」と警告するのを聞いた。それほどひどい状態だった。
 その日は、台風接近というので、朝から休校で家にいたが、少し小康状態になったので、外に出て上を見ると、丸く青空が見えた。
 いわゆる台風の目だった。相当大きな目だったと記憶している。そうこうしているうちに、再び暴風雨が激しくなり、家に戻ったが、そのうちに上で述べたような川の土手が決壊するという出来事が起こっていた。
 今回の台風による土手の決壊は、久方ぶりの出来事であったが、人災的側面も囁かれている。
 現在、水利のために上流にダムが設置されているが、今回の台風時、台風の影響がどんどん強くなってくる午後3時になってダムの水を放流し出した。
 通常ならば、ダムの水があふれる危険性がある時には、早めから計画的に放流し、余分な影響を避けるのが常道である。
 今回のダムの水の放流は、常道からはずれた処置であったといわざるを得ない。
 その結果、我々の住む下流地域では、上で述べたような川の決壊や家屋への浸水、畑の陥没などの被害が出た。
 伊勢湾台風時に、川の土手が切れて我が家の田圃に泥流が入り込んだのは、ダムのない当時であるので、全くの自然災害であるが、今回は、自然災害+人的災害であるように思える。
 機械化で便利になっても、最後にコントロールするのは人間であるということを今回の災害は教えてくれていると思う。
19 2012-11-16(金)
目から鱗1
  この歳になって初めて聞く話は、まさに目から鱗である。
 今回は、文学的な話である。
 私は、文学的なことはあまり興味がなかったので、これまで深堀してこなかった。
 学生時代に読書はたくさんしたが、小説の構成に秘密があるなどとは考えたこともなかった。
 それが、今回たまたま機会があって、小説の構成に大きな秘密が隠されていることを聞いて目から鱗であった。
  講師は、大学の文学部の教授であるが、三島文学の「潮騒」を例にしての話であった。
 三島由紀夫は、私が大学生の時、クーデターを企てて自衛隊に乗り込み、果たせず割腹自殺するというセンセーショナルな出来事を起こした作家であり、また、一時、ノーベル賞の候補にもなった作家である。
 私は、これまでにいろいろな作家の作品を読んで、自分のセンスに合う作家・作品とそうでない作家・作品があることに気がついていたが、それが何から来ているのかは見当がつかず、自分の感性に近い・遠いというイメージだけであった。
 しかし、今日の講義で、作品の構成にその秘密があることを知り、目から鱗となった。
 小説には、セリフ部分(会話文)とそれ以外の部分(地の文)がある。
 会話文はもちろん登場人物の気持ちを語る部分であるが、地の部分は何なのか。
 私は、これまで、地の部分は作者の思いが反映された作者の語り的な部分だと思っていたが、「潮騒」では、第三者が語っている設定とされており、三人称の小説であるという。
 紙面の都合で、詳しくは書けないが、若い男女が裸で交わす会話文と地の文の構成は、「潮騒」という三島作品の有り様を象徴している。
 いみじくも、萩野アンナ(慶応大学教授)は、「ミッシマ精神研究所」の中で、「潮騒」の若い男女が裸で語り合う部分を、セリフだけ取り出すとまったく小説にならず、吉本新喜劇になると言っている。
 確かに、セリフに意味づけをする地の文にどんな立場を持たせるかが、この小説の真骨頂となっている。
 講師は、三島由紀夫が「潮騒」の舞台に三重県の孤島神島を選んだことにこの小説の意味があると言われた。
 それは、神島が映画のない土地であり、また、都会から離れていることから現代的な恋愛のあり方を知らない若い男女の純粋な初恋が描けると考えたからだと。
 そして、この小説は最初から映画化をねらった作品であり、三島のプロデューサー的な資質がかいま見えると結ばれた。
 三島由紀夫のプロデューサー的な資質という部分は、後年、楯の会を率いてクーデターを試みた三島の姿とも重なるように見える。
 いくつになっても、というより、歳を取ったからこそ、目から鱗の話は余計におもしろいのかも知れない。
20 2013-1-4(金)
目から鱗2
   ノーベル賞受賞の山中博士のiPS細胞研究をはじめとして、最近の科学技術の進歩はめざましい。
 私が、中学生の頃から夢と思っていた光合成の仕組みが徐々に解き明かされ、いよいよ人工光合成の可能性が出てきた。
 光合成に関する最近の研究を二つ紹介してみたい。
 今日の新聞記事に、「夢の燃料 手本は植物」という見出しで、日本の研究が紹介されていた。
 豊田中央研究所で、空気と水と太陽エネルギーから簡単な有機物「ギ酸」を合成することに成功したというのである。
 この研究所は、数十年先にはギ酸より複雑な有機物メタノールの合成を目指しているという。
 これが実現すれば燃料としてのメタノールが無制限に手に入ることになり、燃料・エネルギー革命が起こるだろう。
 もう一つは、東京大学の木暮教授のグループが、多くの海洋細菌の持つプロテオロドプシンという光受容蛋白質が、光エネルギーを使ってATPを合成することを確認したというものである。
 ロドプシン(視紅)は、人間の眼の網膜にも存在する光受容蛋白質である。
 プロテオロドプシンが海洋細菌の間に広く分布していることは、2000年に発見された。
 今回、プロテオロドプシン生成遺伝子を大腸菌に組み込み、光エネルギーを使ってATPを合成することが確かめられたのである。
 これまで、光エネルギーを使って二酸化炭素を固定するクロロフィル型の光合成が海洋生態系においても主たるエネルギー獲得の方法と考えられてきたが、この新しいメカニズムが海洋細菌に広く見られるならば、これまでの海洋生態系のエネルギー収支は大幅な見直しを迫られることになる。
 海洋生態系は複雑多様でよく分かっていない事が多いが、この発見は海洋生態系の理解に大きく貢献すると思われる。
 以上の二つのニュースは、クロロフィルを持つ生命体の独壇場と思われていた光合成に新しい視点をもたらすものであり、まさに目から鱗の自然科学のトピックである。
 可能ならば、私もこれらの研究プロジェクトに入りたいと思うくらいである。
 今後、益々、自然科学が進歩し、人類の福祉に貢献することを期待したい。  
21 2013-6-20(火)
同級生
 最近、HPの更新記事を書くのがなかなか進まず、半年ぶりとなってしまったが、久しぶりに自分のことを書いてみたい。
 昨日、パソコンのブラウザの調子が悪くなり、HPのカウンターがリセットされてしまって、これまでの7,000人ほどの訪問者が100人台の表示となってしまった。
 これまでの訪問者諸氏にお礼申し上げると共に、こんなこともあるものだと今更ながらネットワーク設定の難しさを思い知った。
 さて、現在の私の生活は、文字通り「晴耕雨読」である。
 晴れた日は、畑を耕し、雨の日は家で読書にいそしむという生活である。
 3日前、梅雨の晴れ間の暑い日、畑の作物の敷物にするのに近所の人に麦わらをもらいに出かけた。
 午後五時頃、一輪車を引いてその田に入った。
 残してもらってある麦わらを束ねて縛り、一輪車で300mほど離れた我が家の畑まで運ぶのである。
 残暑の残る午後5時前から始めて6時頃には、麦わらの束が20束ほどできあがったので、一輪車に積み込み、ゴムバンドで縛って畑まで運び始めた。
 一輪車には、多くても7〜8束を積み込むのが精一杯で、二往復目に入ったが、さすがに暑さと疲労のため熱中症的な状態になり、痛い脚を引きずりながらしんどそうに運んでいた。
 その様子を見ていたのであろうか、二往復目の終わりに近づくと、同級生K君の軽トラックが横にやってきて、「運んだるわ」と言ってくれた。
 そして、軽トラックでその田圃まで行き、最後の8束を一緒に積み込み、畑まで運んでくれた。
 別れ際、「軽トラ使う時あったら、家に置いてあるで使ってええよ。来年は、うちが小麦作るで麦わらくくっといてくれたら運んだるで。」と。
 同級生はありがたいなとしみじみ思った。
 K君は小学校に入る前から一番の親友である。彼とは生まれが半日しか違わない。彼が29日の夜、私が30日の明け方に生まれた。勢い親同士も親しくなるし、我々も親しくなり、毎日、真っ黒になって遊んだ。
 さすがに中学校以降は遠ざかっていたが、結婚して子供が出来ると子供同士が同級生だったので、再び接する機会が多くなった。
 最近は、お互い親の死を経験し、自分の老後の生活を送っている。
 どちらが先に逝くかわからないが、死ぬまで親しい友人としてつきあっていくのだろうと思っている。
 
22 2013-8-27(火)
缶詰
 ここ2週間ほどの間に、福知山市の花火大会会場でのガソリンタンク爆発事故や、沼津市のキャンプ場でのガスボンベの爆発事故など爆発事故が相次いでいる。
 実は、我が家でも、先日、置いてあったみかんの缶詰が爆発する事故があった。
 幸い、実損はなかったもののかなり大きな爆発音がして、一瞬、何事が起こったのかという状態だった。
 内容総量850gのちょっと大きめのみかんの缶詰である。
 蒸し暑い日で、夕食直前、畑仕事から帰ってクーラーの前で涼んでいた時、突然、「バン!」と大きな破裂音がした。
 妻は、夕食の準備でガスコンロに向かっていた。
 ガスコンロが爆発したのか、あるいは、クーラーが破裂したのか、と思って確かめたが、どうもそうではないらしい。
 食事が終わって調べると、風呂の焚き口近くの土間に置いてあったミカンの缶詰が破裂して、中のミカンが飛び出していた。
   
 写真のように、缶詰の上下の蓋が膨らんでおり、そのうちの上の蓋が吹き飛んでいた。結構な破裂力である。
 裏蓋には賞味期限090309と刻印があり、4年以上前のミカンの缶詰である。
 どうやら、缶の中で徐々に気体が発生し、蓋を押し上げ、ついには、蓋が持ちこたえられず吹き飛ばされる事態となったようである。
 缶詰が爆発するというのは聞いたことがなかったので、どうしたものかと消費生活センターに電話すると、損害賠償を請求するような事案であれば、消費生活センターから製造会社に電話をすることもあるが、今回のケースでは、賞味期限から4年以上経過しているし、損害賠償ということでもないようなので直接会社に電話して事実を伝えて頂くのがよいのでは・・・・という返答であった。
 そこで、缶詰会社のお客様相談室に電話すると、缶詰の内側にはスズメッキがしてあって、それが内容液と反応してガスを発生することがあるという返事だった。
 賞味期限を4年以上過ぎていてこちらにも非があるが、缶に書いてある注意書きには破裂の危険性は一言も書いてない。
 しかし、電話応対に出た人の弁では、ガスが缶内で発生することは承知していたようであったので、今後、安全に一層注意して頂き、よりよい商品づくりを心がけて欲しいと伝えた。
 電話口の向こうからは、ありがとうございました、よりよい商品づくりに生かさせて頂きます、とさわやかなコメントが返ってきた。
 良いことをしたなあという気持ちになった。
 一日一善という言葉があるが、これからも、そのような日々が送れたらと思う。
 
23 2014-5-6(火)
足のしびれ
 ここ1ヶ月ほど前から、左足の親指あたりがしびれていて、親指を上にそらせることができず、つっかけサンダルが脱げる状態が続いている。
 何がきっかけかよくわからないが、思い当たるのは畑仕事のしすぎである。
 母親が亡くなって3年目に入るが、最近はほとんど毎日のように畑仕事に出かけている。
 特に今年は、小麦を植えて、その世話が結構大変になっている。
 何が大変かというと、4〜5条ずつ3ブロックに植えているので、溝のない条間に足を踏み入れにくく、ブロックの中の方の作業が大変なのである。
 それで、つい無理な姿勢で作業してしまう。その蓄積が今回の背景にあると思う。
 これまで、同年齢では若いと自負していた私は、こんなはずではない、なんとか取り戻さなければとあせって、無理して作業し、長引くという悪循環に陥っている。
 いきなりこのような状態になったので、血圧が高いので脳の血管が切れたのか、また、親指を引っ張っている太いスジが切れたのか、と思ったこともある。
 医者へ行くにも抵抗がある。もし、スジが切れているとでもいわれたらと思うとなかなか足が向かない。もう少し自分で状況を把握できてからと、ワンクッション置いている。
 ネットで調べてみると、どうやら「腓骨神経麻痺」という症状らしい。
 ネットに掲載されている範囲では、日にち薬らしく、時が解決するという。スジが切れているのではなさそうなので一安心ではある。
 左足から腰にかけて触診してみると、臀部の中の方が痛く凝っている感じがある。暇を見て、湿布薬を貼ったり、エレキバンを貼ったり、自分の指で指圧したりしている。
 また、時折、足を伸ばした状態、曲げた状態で柔軟をしたりしている。
 一月経って、少ししびれが軽減した感じがするし、親指も少しは曲がるようになった気がする。
 読者の皆さんに、完治のお知らせができることを期待している今日この頃である。
 
24 2014-8-23(土)
足のしびれ、その後
 5月に足のしびれから、突っかけサンダルや靴の履けない状態、また、走ることもできない状態が続いていた。
 5月6日の日記に書いたように、この症状はどうやら日にち薬であり、3ヶ月位で元に戻るらしいと思って過ごしてきたその3ヶ月が経った。
 8月3・4日、大学時代の同窓会があった。他府県での開催であったので、一泊二日で出かけた。
 同窓会の中で、友人から「それは座骨神経痛や」と指摘があった。同級生であるので、似たような経験をしている者がいた。
 実際、その頃にはほぼ3ヶ月前の状態に戻りつつあったので、一安心となった。
 それから、三週間ほど経って、現在、ほぼ元通りになってきた。
 しかし、3ヶ月間、左足をかばっていたので、少し違和感はある。時間をかけて元通りに戻していきたいと思っている。
 ところが、それよりも、現在、もう一つ気になる症状がある。
 この年齢になって、初めて受けた検診で、肝臓にB型肝炎ウィルスがいることがわかった。
 二回調べて、二回とも陽性反応が出た。
 今後、6ヶ月ごとに検査をすることになっっている。  医者の話では、日常生活で特に心配するレベルではないということであるが、原因が不明なこともあり、心配の種となっている。
 HP等で調べると、輸血等で感染することがあるというが、輸血はしたことがないのでその可能性はない。ただ、予防接種や検診時の注射器等の使い回しの可能性がなくはない。
 また、風俗店等への出入りから感染する可能性もあるというが、これも何十年縁がない。
 それ以外では、母親からの母子感染の可能性ということであるが、今になってもウィルスが存在しているのはどうかと思う。
 ゆえに、原因がはっきりせず、また、これまで検診で肝臓のγ−GTPが少し高いくらいで、特に問題はなかったので、余計に不安になる。
 人生60年半ばになって、これまで心配のなかった身体に少し陰りがでてきた。
 両親と永遠の別れをしたり、仕事を辞めて晴耕雨読の生活に変わったり、人生の節目にさしかかって、体の調子が変わってきたかなと思っている。
 一回きりの人生、自分の体と相談しながら余生を送りたいと思っているこの頃である。
 
25 2015-7-12(日)
脱穀
 ほぼ一年ぶりの日記です。色々と思うところがあって今になってしまいました。
 母親が亡くなってから畑仕事をしているが、今日が母親の4回忌ということもあって、久しぶりに日記を書くことにした。
 今日、55年ぶりの足踏み機による自家栽培の小麦の脱穀をした。
 どうやって脱穀したかというと、懐かしい足踏み脱穀機による脱穀である。
  
 上の写真が使った脱穀機である。
 残念ながら、我が家にはもう足踏み脱穀機は残っていない。
 ネットで注文したものであるが、なかなか良く出来ている。
 暫く踏んでいると、昔の感覚が戻ってきた。
 この年齢になって、足踏み脱穀をすることなど想像していなかったので、感無量。
 これも、亡くなった母親に代わって畑の耕作をしているからこそである。
 親に感謝しなければいけない。
 なぜ、小麦を自家栽培しているかといえば、自家製パンを作るためである。
 実は、昨年から小麦を栽培し、もうすでに、何回かパンを焼いた。甘みがあってなかなか美味しい。
 昨年は、近所の人がコンバインで刈り取ってくれたが、今年は自分で手で刈り取り、足踏み脱穀をすることになった。
 手間はかかったが、手応えはある。
 これから、種子を選別し、粉ひきからパン焼きである。
 結果は、後日報告する予定です。
 読者の皆さん、足踏み脱穀もなかなかいいものですよ。
26 2016-5-10(火)
中型免許
 昨年のことになるが、60歳代後半に入ってどうしても中型免許が必要になり、取得にチャレンジすることになった。
 御存知の方もあると思いますが、限定解除という方法である。
 免許証に免許の条件等の欄があって、眼鏡等の条件が記載されるが、その中に、中型車は中型車(8t)に限るという条件が付いている場合、それを解除することによって中型自動車免許が取得できるのである。
 この場合、学科試験は免除なので、指定の自動車教習所に通って技能検定試験に合格するか、運転免許試験場で技能試験を直接受験して合格すれば、
 車両総重量8tの限定が解除され、車両総重量11t未満、最大積載量6.5t未満、29人以下乗員の中型自動車免許が取得できる。
 私の場合、年もとっているので、前者の方法に依った。
 講習は、普通免許を持っているので、いきなり、クランクである。しばらく、マニュアルに乗っていないので、アクセル、クラッチ、ブレーキの違いに戸惑う。
 特に、ブレーキは初めての排気ブレーキでいつも使っているディスクブレーキと効き方が違う。
 ゆっくり踏み込んでいけば良く効くのだが、ディスクブレーキのように強く踏み込みすぎ、急ストップしてしまう。
 講習は全部で5回しかないので、1回1回しっかり消化していかなければならない。慣れるのに時間がかかる。必死でやるのだがどうしようもない。年を感じる。
 それでも、3、4回目ではなんとかクラッチ、アクセル、ブレーキワークにも慣れてきた。
 そして、車庫入れ、縦列駐車と続く。
 目視だけで、バックして後ろの壁50cm以内に駐車しなければならない。当たってしまったら、そこで実技試験は失格である。緊張が走る。
 また、縦列駐車も切り返しが難しい。一回でピタリと納めたいが、ずれたときは切り返しが待っている。
 前日練習はうまくいったが、技能試験当日、縦列駐車でミスが出て、切り返しに入った、それも不十分で、再度の切り返しで何とかクリア。
 最後のバック車庫入れはOK。安全確認と縦列駐車の切り返しの減点があったが、なんとか一回で合格できた。講習も追加はなく5回で終了した。
 久しぶりに緊張の一ヶ月であった。  そして、年末には、14人乗りのレンタカーを借りて県外に出かけた。
 往復350km程をもう一人の大型免許所持者と二人で走破した。
 終わってホッとしているが、我ながらよくやるわ、という感じである。
 これからも安全運転に気をつけ車の運転を楽しみたいと思っている。
   
27 2016-6-2(金)
ソラマメ
 
 上の写真のように今年はソラマメが豊作で毎晩その味を堪能している。
 退職してから晴耕雨読の生活を送っているが、晴耕の成果の一つとして今年はソラマメが豊作であり、とにかくうれしい。
 植え付けた日を忘れたが、風の強い寒い日があったのでカバーをかぶせて保護してあった。
 温かくなってカバーを取り外し、支柱をして虫除けにコンパニオンプランツとしてニラを間に植えた。
 私の作物の売りは無農薬である。自分が食することを前提にして無農薬だけは譲れないことにしている。
 ニラのたまものか、今年は虫害もなく無農薬ソラマメが豊作で毎日その味を楽しんでいる。
 下の写真のように、種子はほとんど虫に食われていません。
 
 皆さんも、自作の無農薬作物を作って健康生活を送りませんか。いいですよ。
28 2016-6-12(日)
自作ジャムパン
 
 上の写真の右側が自作ジャムパンである。左は、併せて作ったハムパンである。
 昨年度、脱穀機を使って脱穀した小麦から小麦粉を精製し、パンを焼いている。もちろん、無農薬パン粉である。
 今回、それに、今年収穫した無農薬イチゴから作った自家製ジャムを使い、ジャムパンを作り食した。
 作ったのは私ではなく妻であるが、材料は私が作ったものである。いわば、夫婦の合作である。
 無農薬の作物作りは私の持ち味であるが、それを受け入れてくれて、自作パン作りに協力してくれている妻には感謝である。
 ジャムの味付けもなかなかで、少し甘みのある小麦粉から作ったパンと相性が良く大変美味しい。
 手間暇がかかった分、おいしさもひとしおである。
 老後の究極の贅沢ともいえる。
 みなさんも、自分の健康のためにも、口に入る食べ物にはくれぐれも注意を払いましょう。
 ちなみに、今年の小麦はあまりできがよくない。
 まだ刈り取っていないが、去年収穫した種子を蒔いたが、獣が畑を荒らして蒔いた種をほじくり返していった。
 蒔いたすぐであったので、被害甚大。
 気がついてカバーをかぶせたが後の祭りで、三畝蒔いたが、1畝半しか芽が出なかった。
 今年は、脱穀機を使う必要がないかも知れないし、パン粉も余りとれないかも知れない。
 自然の中で作る作物にはこういう年もあると思っている。
 来年は、今年の轍を踏まないようにしたいと今から決意している。
29 2016-12-11(日)
宗教について考える(1)
 半年ぶりの投稿です。わざと書かなかったわけではなく、歳のせいもあるが、主として、身内や知り合いに不幸が続いて遠ざかってしまった。
 義理の父親と弟が亡くなり、最近では、高校生時代、大学生時代の友人が相次いで亡くなった。
 いやが上にも死や生について考えざるをえない状況が身の回りに起きている。
 そのこともあり、最近は宗教(特に仏教)について考えることが多くなった。
 やり始めると中途半端で辞めたくない性格が災いして、今回も最も難解な宗教に足を突っ込んでしまった。
 若い人や健康な人にはあまり縁のないことかも知れないが、将来のためと思っておつきあい下さい。
 なお、宗教という奥の深い難解な問題であるので、私なりの解釈であることをあらかじめお断りしておきたい。
 宗教とは何か、と大上段に振りかぶっても、固定した定義は難しい。宗教・宗派の数ほど定義はあるとも言われる。
 私の場合は、とりあえず、自分の内面や行動の参考となるうる規範とでもしておきたい。
 私は在家の仏教徒であるが、現在の日本にあまたある仏教宗派は、仏陀の仏教にあらずとは東南アジアの出家仏教徒の言葉である。
 いわゆる「大乗非仏論」である。
 この辺からまず入っていきたい。
 
30 2016-12-22(木)

 前回、「大乗非仏論」を紹介した。現在の東南アジアの仏教からみれば日本の仏教は仏教ではないという論である。
 逆に、大乗仏教徒は東南アジアに伝搬した仏教を「小乗仏教」と称したことがあった。小乗とは小さい乗り物、大乗は大きな乗り物という意味である。
 現在は、1950年の第一回世界仏教徒会議で小乗仏教という差別的な表現に代えて上座部仏教と呼ぶことになっている。
 さて、日本の仏教の歴史からみていくことにしたい。
 日本に仏教を取り入れた人として、蘇我氏や聖徳太子が有名である。
 聖徳太子は、十七条憲法とか冠位十二階、遣隋使の派遣などの政策を行ったとされている。
 少なくともわれわれの世代では、歴史でそのように習った。
 ところが、最近の研究で、聖徳太子は実在しなかったのではないかと言わている。
 壱万円札の聖徳太子の肖像画は本人ではない可能性が高いというのである。
 肖像画の元は、法隆寺の「唐本御影(聖徳太子三尊像)」(宮内庁所蔵)であるが、これが描かれたのは太子没後100年以上も後のことであり、太子であるというはっきりした証拠はないというのである。
 また、聖徳太子の名前が登場するのは日本書紀であるが、そこには厩戸皇子の名前はない。
 つまり、厩戸皇子が聖徳太子であったという証拠ははっきりしないのである。
 逆に、中国の歴史書である隋書には、聖徳太子は大王であると読める箇所がある。
 つまり、証拠となる日本書紀と隋書の記述に齟齬があり、それが上のような議論の元になっている。
 最近の教科書では、「推古天皇が新たに即位し、国家的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王等が協力して国家組織の形成を進めた。・・・」のように記述されている。
 つまり、厩戸皇子という人がいたが、有力な皇子の一人に過ぎず、聖徳太子の名で呼ばれたこともないという。
 まだまだ議論の途中であるが、これまでの聖徳太子伝説は覆りつつあるということではないだろうか。
 このように、日本への仏教伝来期の最重要人物の存在自体が揺らいでいるが、史実に沿って拾ってみよう。
 この時代に制定された17条憲法には、「篤く三宝を敬え、三宝とは、仏・法・僧なり」とある。
 仏教は最初、国家宗教として採用されたことが分かる。
 この伝統は中国でも見られることであり、仏教だけでなく宗教の持つ宿命であるのかも知れない。
 なぜなら、良きにつけ悪しきにつけ、人心を把握するのは宗教心によるのが確実だからである。
 そう思うと、宗教は何のためにあるのか、と考えてしまう。
 みなさんも、宗教の持つ意味や意義を今一度考えてみましょう。
31 2017-1-18(水)
宗教について考える(3)

 さて、第三回で取り上げるのは、天才僧空海である。
 空海の教えは、釈迦の説いた仏教から大きく変化し、開祖である釈迦を措いて大日如来を本尊とする真言密教の教えである。
 空海の教えは仏教の枠を超えるほどの迫力である。
 日本に高僧多しといえども、これほど明快に心の修行を論じた人も少ない。
 凡人に理解できないほどありがたさが増すとされる仏教各派の教えからすれば、最も明快に教えを展開している。
 彼の中心的な著述である「十住心論」は、人間の心を十段階で表し、最高到達境地を真言密教の秘密荘厳心としている。
 ちなみに、第一から第九は、異生羝羊心(煩悩心)、愚童持斎心(儒教的境地)、嬰童無畏心(インド哲学、老荘思想境地)、唯蘊無我心(声聞境地)、抜業因種心(縁覚境地)、他縁大乗心(法相宗境地)、覚心不生心(三論宗境地)、一道無為心(天台宗境地)、極無自性心(華厳宗境地)となっている。
 これまでの各宗派の教えを網羅的に理解しつつ、それらすべてを凌駕する教えとして真言密教があるとしている。
 空海は、高野山金剛峯寺の奥の院に入定し即身仏どころか、今も生きていると信じられている。そのために、毎日二回食事が供されることになっている。
 今も生きているということはあり得ないが、奥の院の地下に空海が即身仏として存在するとも言われている。
 彼は、師である恵果のように三代の皇帝を弟子にする事は出来なかったが、嵯峨天皇に書を通じて接近し、天皇の別当としての地位を得、東寺と高野山を与えられ、東寺で密教儀式を通じて政治への影響力を持ちつつ、高野山で密教僧を育成し衆生済度を実現しようとした。
 その衆生済度の力は大きく、今尚、弘法大師伝説として全国各地に広く伝えられている。
 また、四国88ヵ所遍路や現在の仏教の供養儀式も空海のしたことが元になっているといわれている。
 さらに、日本最初の私立大学である綜芸種智院を設立し、民間人のための高等教育を施している。
 空海自身が地方豪族の子弟出身でありながら、明晰な頭脳で中央の官立大学に入学したが、その教育内容に疑問を感じ、中途退学し、仏教修行僧の道に入った人であることから、民間人子弟のための教育機関を設立したといわれている。
 自然の代表である空と海を冠した空海という名前が象徴するごとく、彼は宇宙の神秘的な力を自分の身と心を通じて体現しようとした希有な人である。
 空海はもともと香川県の豪族の出身であるが、幼小より俊英であり、語学能力に優れ、中国語、サンスクリット語をマスターしたと言われている。
 従って、私費留学僧であり期間20年の規定にかかわらずわずか二年で真言密教を完璧にマスターし、真言密教の正統な第八祖となり帰国している。
 このように、空海はたぐいまれな頭脳と人間性の持ち主であり、現在の様々な面につながる功績を多数残している。
 このような人物が過去の日本にいたことはわれわれ日本人にとって誉れである。
 このシリーズでは、宗教とは何かを探っているが、空海を訪ねてみて、宗教はあくまでも人間のためのものであることを改めて意識させられた。
 読者の皆さんも、空海の人間性に学んでいただければと思います。
 
32 2017-3-5(日)
宗教について考える(4)

   (左:最澄、右:相応)
 第四回目は、僧侶の修行について考えてみたい。
 現在の僧侶の仕事が葬儀や法事にあることから考えると、僧侶の修行もそれらの儀式の作法の習得にあると思われる。
 このような状態になったのは、長い江戸時代の檀家制度からきているようである。
 しかし、もともと僧侶は出家をして、ひたすら山にこもり悟りを求めて修行したものである。
 釈尊が苦行で悟りは得られないとして、座禅を主としてひたすら瞑想に励み悟りの境地を得たとされているが、
 悟りに至るには、それ相応の修行が必要とされるだろう。
 調べてみると、現在でも非常に厳しい修行(苦行)を課しているところがある。
 その代表は、日本密教の一つの雄である台密(天台宗密教)である。第三回で紹介した空海が伝えたのは真言密教であるが、こちらは最澄に始まる天台宗系の密教である。
 最澄は、密教習得が十分でなかったため、年下の空海に密教の教えを請うたが願いを果たせず物別れに終わっている。
 しかし、最澄の後を継いだ円仁・円珍・安然が中国で密教を習得し、帰国後、台密(天台密教)を完成させたといわれている。
 その天台密教の厳しい修行が千日回峰行である。文字通り、千日、7年間にわたってひたすら比叡の峰々を訪ね歩く修行である。
 この厳しい修行は平安時代に相応和尚により開基されたといわれ、1200年の歴史を持つ。
 1〜3年は一日に約30kmを年に100日ずつ合計300日、9,000km、4〜5年目は年に200日ずつ合計400日、12,000kmである。
 700日を終えると、その後、最も厳しい堂入りとなる。
 堂入りとは、無動寺明王堂に入り、9日間の断食・断水・断眠・断臥の四無行を行うものである。
 9日間、飲まず食わず眠らず横にもならず、真言10万回を口に唱え、毎晩深夜水くみに出かけ不動明王に水を供える。
 死に至る人も出るほどのこの修行を終えると、自己修行は終わり阿闍梨と尊称されるようになる。
 そして、これ以降、衆生救済の利他行に入るとされている。
 6年目は、比叡山から京都市内にある赤山禅院まで一日約60kmを100日、6,000km歩く。
 7年目は、前半京都市内大回り約84kmを100日、8,400km、後半は元に戻り比叡の峰々約30kmを100日、3000kmである。
 計算してみると、7年千日間で約38,400kmを歩くことになる。地球一周である。
 これは苦行であるから、僧侶誰もが行うものではないが、このような厳しい修行も残っているのである。

33 2017-10-5(木)
宗教について考える(5)

(タイの仏塔)
 暫くぶりの日記である。実は、二月の末にタイに出かけた。
 3月5日の日記は、その旅行後のものである。
 タイ旅行について書こうと思っている矢先に、親戚の不幸が続いたりしているうちに、今になってしまい申し訳ありません。
 さて、タイに旅行に行こうと思った理由はいくつかあるが、その一つに今取り上げている宗教に関係がある。
 宗教について考える第二回で書いたように、タイは上座部仏教の国であり、仏教本来の姿を今に残していると思ったからである。
 自分の目で、タイの仏教のようすを見てきてやろう、という思いがあった。
 そして実際に行ってから数ヶ月が経過したが、結論的にいえば、タイの仏教についてはよく分からなかったというのが正直な感想である。
 タイの仏教の話はガイドの方から少し聞いたが、タイのお坊さんを見かけたことはなかったし、修行のようすを見ることなどはさらになかった。
 従って、タイは上座部仏教の国であるといっても、その実感はなかった。
 現地ガイドの方の言葉を借りれば、タイの男性は一度は必ず出家して僧侶の生活を経験しなければならない事になっているということであるが、
 この習慣もこれまでのような厳しい戒律修行ではなく、成人としての通過儀礼のようなものに変化しており、形骸化しつつあるということであった。
 即ち、僧侶生活を経験したあと、そのまま僧侶生活を続けるのか、還俗して凡人の生活に戻るのかも自由であるということである。
 このように、現在のタイの仏教のようすは、現代の社会生活を色濃く反映して変貌し、少なくとも、多くの一般社会の人たちにとっては、その日暮らしの生活に目がいっていて、仏教に目が向くことはないようである。
 これは、日本の葬儀仏教化した姿とそう異ならない。
 しかし、考えてみればこれは当然のことで、出家を中心にした上座部仏教にとっては、出家して厳しい戒律により僧侶になるのが主であるからである。
 そうであるなら、現代僧侶の人たちの修行のようすや生活のようすを直接見聞きしなければ分からないのは無理もなかった。しかし、これも自分が僧侶になるつもりで接触するしかないので、やはり無理がある。
 とにかく、数日間の観光旅行で、現地の仏教の様子を知ろうとするこ自体無理だったと言わなければならない。
 この問題は、今後の継続課題であり、今後も、アンテナを高くして自分の身の回りや海外にも広く目を向け、仏教や宗教について考えていきたいと思う。
 写真は参詣した寺院であるが、観光客向けのきらびやかな建物であり、僧侶の修行そのものとは直接関係のないものである。
34 2017-12-30(土)
宗教について考える(6)

(左:アンベードカル氏、右:佐々木秀嶺氏)
 書かなければと思いながら年末になってしまった。
 このシリーズの最初に書いたように、余りにも難しい内容に首を突っ込んでしまったという思いで一杯である。
 宗教の歴史から考えても、また、人間存在における宗教の持つ意味から考えても、とても書き切れる内容ではない。
 年末のこの時期に、一応のまとめを書いてシリーズのまとめに代えたいと思う。
 最後に取り上げるのは、インドにおける現代仏教の様子である。
 実は、インドで再び仏教が復興しているといわれている。
 その中心になった人物は、アンベードカルという人で、インド独立の父といわれたマハトマ・ガンジーと同じ時代の人で、現代のインド憲法の草案を作った人である。
 ガンジーは、非暴力不服従主義を唱えてインドを独立に導いた人であるが、一方で、バラモン教を信仰しカースト制度を是認していたといわれている。
 このカースト制度の是非をめぐって、ガンジーとアンベードカルは激しく対立したといわれている。
 インドのカースト制度は、いわゆる身分制度であり、現在のインド憲法では禁止されているが、人々の社会生活に根深く残り、その生活を規定しているといわれている。
 カーストは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4階層を主とし、その4階層のさらに外に階層外の階層とされる不可触賤民層と呼ばれる階層がある。
 ガンジーはヴァイシャ層の出身であり、一方のアンベードカルは、不可触賤民層の出身である。
 インドにおけるカースト制度は、上の4身分階層を主とするヴァルナと世襲職業集団であるジャーティとが渾然一体となった社会制度で、長く人々の社会生活を規定している。
 現在、身分制度は廃止されたといわれるものの、長い歴史制度は依然として残り、未だに人々の社会生活を根強く規定している。
 カースト制度の詳細は割愛するが、このカースト制度はヒンドゥー教がベースになっている。
 現在のヒンドゥー教はインド教ともいわれるほど広範であり、多神教で、これまでのインドの歴史を含んでいる。
 ヒンドゥー教の母体はバラモン教であり、このバラモン教が身分制度の元になっている。
 宗教は、人間の精神生活を規定する古い決まり事であり、その土地の風土そのものでもある。
 ゆえに、これを一言で述べることなど到底不可能なことであり、インドのような歴史の古い土地ではなおさらである。
 現代のインドで仏教が復活しつつあるが、その中心人物が上に述べたアンベードカルである。
 彼は、たぐいまれな明晰な頭脳ゆえに藩王の知遇を得て、ボンベイ大学、コロンビア大学、ロンドン大学などで勉学を積み、政治家となってインドの改革に取り組んだ人である。
 特に、法相としてカースト制度の廃止や信教の自由などを憲法に盛り込み、インド憲法の父といわれている。
 また、晩年には、カースト制度の廃止はヒンドゥー教では達成し得ないと達観し、数十万人ともいわれる同胞と共に仏教への改宗運動を推し進め、現在のインドにおける仏教再興のきっかけを作った人である。
 この運動は新仏教運動とも呼ばれており、インドにおける仏教再興運動である。
 アンベードカルは、身分制度と仏教の関係への深い洞察から、「ブッダは輪廻転生を否定した」との見解に至り、輪廻による因果応報をカースト差別との関連から否定している。
 この輪廻否定については賛否両論があるが、これまでカースト制度に苦しんできた人々の間に支援を広げ、大きな動きとなっていることは間違いない。
 ヒンドゥー教では、ブッダはヴィシュヌ神の化身とされており、置き去りにされている仏教の聖地や寺院の多くは、ヴィシュヌ神を祭る場としてヒンドゥー教徒が管理している。
 そして、不可触賤民層の人たちの立ち入りを禁止している。
 不可触賤民層の人たちのこれらの聖地への立ち入り要求は、仏教徒による返還運動として表面化してきている。
 現在のインドにおける仏教徒勢力は、出典により異なるが、不可触民階層の人たちを中心に勢力が拡大しているといわれている。
 このように、いったんは仏教が姿を消したといわれていたインドに、再び仏教の灯を灯したアンベードカルという人物は、ガンジーに勝るとも劣らぬ人物であり、仏教史、宗教史、また、インドの歴史に偉大な1ページを刻んだといえる。
 このアンベードカルの遺志を受け継ぎ、インドにおける仏教徒指導僧佐々井秀嶺氏の活躍も異彩を放っている。
 以上、アンベードカルの偉業を紹介し、一応の宗教シリーズのまとめとしたい。
 なお、宗教の問題については、今後も折に触れて紹介もしていくつもりであることを申し添え、まとめに代えたい。
35 2018-6-6(水)
娘の結婚
 先日、長女の結婚式があった。娘は、年齢ももう若くないので、一生独身かと思っていたら、あれよあれよという間に結婚話が進み、結婚式の運びとなった。
 古来から良く言われる「縁は異なもの」という言葉通りである。縁などというものは、どこにあるのか分からないものである。
 相手の男性もなかなかの好青年で、親としても満足している。
 孫娘の晴れ姿を期待していた祖父母は7年前に他界して、もうこの世にいないのが残念である。
 さて、当日の結婚式であるが、素直な感想を言うと、葬儀でもそうであるが、結婚式場はいやが上にもお涙ちょうだいを仕掛けてくる、そんな感じがあり、自分としては、もっと自然体でやらしてくれといいたかった。
 結婚式ならば、親は嬉しいのは当然であるし、葬儀ならば、身内は悲しいのは当然である。
 上にも述べたように、親の私の気持ちとしては、祖父母にも娘の晴れ姿を一目見せてやりたいという気持ちもあり、なかなか複雑な思いがある。
 結婚式場や葬儀場は、仕事やサービスとして、それを増幅し、雰囲気を盛り上げようとする。
 しかし、人の感情は本来自分の中からわき上がってくるものであって、外から無理やり鼓舞するものでもないと思う。
 自分の中からわき上がる感情にそっと浸りつつ式を執り行いたいと思う。
 セレモニーの中で、娘から親への感謝のメッセージがあり、娘は嗚咽しながらメッセージを読み上げていた。
 こちらもぐっとくるものがあったが、感謝の気持ちなどというものは、そもそも言葉に尽くせないものであるのだろう。
 言葉に尽くせない感謝の気持ちを込めた雰囲気作りこそが、結婚式場の力量ではないのだろうか。
 例えば、動物の親子の愛情表現は、言葉によるものではない。人間も、動物の一種であり、人間のDNAの中にはそういうものが組み込まれているはずである。
 言葉よりも古くから人間に備わっている感情表現、それを最大限に発揮し、記念に残る演出をするのが式場の役割であるべきだと思った。
 いずれにせよ、一件落着となってほしいが、そうは問屋が卸さない気もしている。
 もうしばらく、娘の成長を見守っていかなければならないのかなと思っている。
 その肩の荷を下ろせるのは、自分がこの世から姿を消す時であるのかも知れない。
 年を取ってきたせいか、自分の人生の終わり方が気になりだしてきた。
 最後に明るく締めくくりたい。今後の娘の幸せに乾杯!

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