随筆日記 回想編2   回想編1へ  ホームぺ−ジへ  現在編へ 
(45)ビス

現在の原動機付き自転車の写真
からお借りしました。
私が知っているビスは、原動機
がサドルの斜め下にあったと思
います。(下にある原動機はもっ
と上、白いキャップのもう少し後
ですね。)
歴史は繰り返しますね。
原型は以外と古かったりします。
温故知新は真理ですね。
   私が小学生の低学年の頃は、自転車に小さな発動機をつけて、自転車としても使え、ミニバイクとしても使えるビスという乗り物があった。いわゆる原動機付自転車のはしりである。
 私が覚えているのは、自転車の後に2サイクル空冷エンジンを載せているものである。ひもで引っ張ってエンジンを始動するようになっていたと思う。
 エンジンは50cc以下の排気量の小さなものであったが、それでも足で漕ぐ必要がなくなかなかのものだった。
 調べてみると、愛知県犬山市に本社を持つ戦前からの「みづほ自動車製作所」という会社が戦後すぐに製造したものであった。
 自動車もほとんど走っていない当時としてはしゃれた乗り物で、田舎でもしゃれ者の兄ちゃんが乗っていた。
 今でいえば、自転車の後に草刈り機のエンジンをつけたようなものである。
 性能は別としても、アイディアとしては大変おもしろい作品だった。
 こういうのを見ると、日本人は昔から物作りの名人だったのだなと思う。
 懐かしき良き日本人の発想である。
(46)自動車


あるHPからお借りしたクランク
の写真です。
これを、車の前にある穴に差し
込み、両手で思い切り回転させ
てエンジンを始動します。
セルモーターのなかった時代の
遺物です。
  私が小さい頃見た自動車は、運転する人が車の前に棒を差し込んでクランクを回して始動するものであった。
 クランクはエンジンがかかると、それに振り回されて腕の骨を折るという事故がよくあったそうである。
 私が当時見たのは、近所の人が近くのお寺の少し広い通りで、自動車の前で中腰になりクランクを力任せに回してエンジンを始動している場面である。
 田舎には滅多に自動車もない時代であったが、粋な兄ちゃんは人に先駆けて自動車(ポンコツ)を手に入れ、クランクを回して自動車を乗り回していた。
 私の住む農村でも、粋な人がいて、タクシー会社を始めた。
 少し離れた町の宴会の行き帰りには、そのタクシーを利用していた。結構最近まで、そのタクシー会社は宴会や結婚式などに利用されていた。
 タクシー会社を始めた当時は、田舎ではなかなか思い切ったことをするというので、評判であった。
 現在の自動車はほとんどが電子制御化され、自分で自動車をいじる楽しみが減ってしまったが、エンジンの始動から自分でしなければならなかった当時は、まさに、人と車が一体となった人車一体という状況であったと思う。
 便利さと引き替えに、自動車を操る楽しみをなくしてしまったとしたら寂しいことである。
 こんなことを思うのも、年を取ったせいかなと思うこのごろである。
(47)カイニンソウ


あるHPからお借りしたカイニンソ
ウの写真です。
これを、乾かして粉にしたなもの
を湯に溶かして飲む。
虫下し、特に回虫に有効である。
  読者は、カイニンソウという飲み物をご存じだろうか。
 これを知っている方は、戦後すぐ生まれの方であろう。
 私が小学生の頃は、学校給食が始まった頃で、その意図は今と違って、子ども達の栄養補給が主な目的だった。
 その一環として、午前中の休み時間の前にカイニンソウを飲む時間があった。
 これは、回虫などの虫下しの薬で、当時は、アルマイトの容器になみなみとつがれたうす黄色のカイニンソウを飲み干さねばならなかった。
 独特のにおいがあり、私はそんなに嫌いではなかったが、同級生の中には、鼻をつまんで飲んでいる子が結構いた。
 カイニンソウは、海人藻と書き、紅藻類の一種である。これを天日で乾かし粉にしたものを湯にとかして飲むのである。その主成分はカイニン酸という一種のアミン酸で、これが虫下し、特に回虫に効果があるというので、全小学生を対象に給食で振る舞われたというわけである。
 現在の衛生状態からは想像できないが、実際にあった話である。
 それも、ほんの50年ほど前?の話である。おっともう50年経つのだ、時の経つのは早いですね。
  でも、今となっては懐かしい思い出である。
(48)鍛冶屋


イラストを入れる予定です。
 私が小学生の頃は、自分たちの村に鍛冶屋さんがあった。
 「村の鍛冶屋」という歌があるが、まさに、その歌の通りで、真っ赤になった鉄を叩いて仕上げていく、そんな風景だった。
 明治時代以前は、刀鍛冶が中心であったのだろうが、私が知っている村の鍛冶屋さんは、農具の修理が主であった。
 鍛冶屋さんの仕事場に入ると、土間の奥まったところに腰までの深さの長方形の穴があって、そこに大きな前かけをした鍛冶屋さんが入り、奥から赤く溶けた鉄を引き出しトンテンカンと鎚で打っていく。
 形が整うと、近くにある水を張ったバケツに入れてジューと焼き入れをする。
 当時のかすかな記憶をたどると、仕事場には修理前、修理後の農具が並んでいたように思う。
 当時の農家の人たちは、鍛冶屋さんで直してもらった農具を使って農作業をしていた。
 今でいえば、リサイクル・リユースである。
 ところが、その後、私が小学生高学年の頃(昭和35年頃)になると、三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)が各家庭に出回り、大量生産・大量消費の時代になっていった。そして、その蔭で、一つの物を直して大切に使うという生活様式がだんだんと姿を消し、村の鍛冶やさんも廃業に追い込まれていった。
 現在は再び、リサイクル・リユースが見直され始めたが、当時を知っている私たちは今更ながらという感がしないでもない。
 そういうわれわれ団塊の世代も、これでいいのかと思いながら、たやすくより良いものが手に入る大量生産・大量消費を支援してきた責任がある。
 あの当時からもう50年になる。
 歴史は繰り返すという。
 今から50年後、どのような時代になっているのか、私には知る由もないが、賢明な読者の中からそのことを真剣に考える人が出てきて欲しいものである。
(50)自転車


写真はまだ
 みなさんは、自転車に初めて乗った時のことを覚えておられるだろうか。
 私は、小学生の何年生だったか、初めて自転車に乗れた時のことをはっきりと覚えている。
 その時の自転車は、このHPで紹介したノーパン自転車である。当時の田舎の道は舗装がされておらず、でこぼこ道であり、初心者には厳しい状況だった。
 小さい時は、足の届く、しかも、後輪の両側に補助輪のついた子供用自転車で乗り回しているが、いざ、その補助輪を外して乗るとなるとなかなか難しい。さらに、足が届かない大人用の自転車となればなおさら難しい。
 最初は、自転車にまたがせてもらい、後を大人の人に持ってもらって押してもらいながら、少しずつその手を離してもらって自分で乗れるようにしていく、そのようなやり方でならしていった。
 この当時の私は、夢の中で何回も自分一人で自転車に乗れる夢を見た。
 正夢かと思って自転車に乗ろうとするとうまくいかない、その繰り返しであった。
 ところが、何回目かに、いつも後で支えてもらっている大人の人が支えてくれていると思って振り返ると、大人の人は支えていないことに気が付いたことがあった。
 自分だけで自転車に乗っていると喜んだとたんにひっくり返る、ということを何回か繰り返す内に、自分だけで乗れている時間、距離がだんだんと伸びていった。
 そして、ついには、ずーっと乗り続けることができるようになっていった。そんな思い出がある。
  初めてというのは、いくつになってもどきどきするものである。
 乗り物の原体験が子どもの頃の自転車乗りにあるような気がする。
 皆さんはどうでしょうか。
(51)写真


写真はなし
 私が小さい頃は、写真は貴重品であった。
 写真機が使われるのは、田舎の結婚式が主であった。
 当時の結婚式は新嫁を受け入れる家で行われるのが常であった。
 もちろん、われわれ子どもも親戚の一員として親と一緒に参加する。
 宴会は、奥座敷を開放して行われ、最後に、写真屋さんが記念写真を撮る。
 当時の写真撮影は、笠のような反射板をいくつも設置して、大きなマグネシウムのフラッシュを焚いて撮影した。
 そのため撮影が終わると、酸化マグネシウムの煙がもうもうと立ちこめていた。
 現在は、デジタルカメラが主流となり、画像が即座に確認できたり、パソコンに取り込んで、あるいは直接プリンターにつないで直ちに印刷できるが、当時は、記念写真ができあがるのに何日もかかった。
 その代わり、できあがりは素晴らしいものであった。
 当時は白黒写真が主流であったが、銀盤写真は定着が良く、年限が経っても色あせることがない。
 現在でも、50年以上前の写真がしっかり残っている。
 写真だけに限らず、大量生産・大量消費の反面で、大切な技術も薄れてしまったのであれば、残念なことである。
 今の時代、手間暇をかけた技術のすばらしさを再確認する時代なのかも知れない。
(52)雲


ある日の雲の写真です。
雲をじっと見ていると、雲に乗って
見たくなります。
周りは青い空が広がっていて広大
です。
見ているだけで心が和みます。
 私が小学生の頃、空を見上げて雲を眺めていたことがよくあった。
 小学校何年生の頃かは忘れたが、よその家の前庭を借りて、モミを乾かさせてもらったことがあった。ムシロにモミをまんべんなく広げ乾かし、陽が傾き、湿気が出るまでにモミを袋に回収するのである。
 乾かしながら、のんびりとした時間があったので、余っていたムシロの上に大の字に寝っ転がり、見るともなく上を見ると、きれいな青い空に白い綿雲があった。
 しばらく見ていると、その雲が流れていく、そして、少しづつ形が変わっていく。その飽きない光景に見とれていた。
 その時に感じたのは、空はでかい、雲もでかい、人間とはスケールが違う、ということだった。
 その時以降、暇があると空を見上げることにした。
 私も人並み気持ちが沈んでいる時もある、そんなときに見た空や雲のことが記憶に残っている。
 現代社会の中で、気を病んでいる人が少なからずいると思うが、そういう人たちには空や雲を見ることをお薦めする。
 空や雲はでかい、それに比べたら、自分の思い悩んでいることは何とちっぽけなことか、そんなことで悩んでいる自分は何とちっぽけな存在なのか、ということに気がつく。
 そうすると、自分の気持ちが楽になって、またがんばろうという意欲が湧いてくる。
 自然は、私にとって最大の教師である。
 みなさんも、自然を師とし、友とされてはいかがでしょう。
(53)堆肥


写真はなし。
 私が小学生の頃は、われわれ農家では労働力として牛を飼っていた。その牛小屋に敷いたわらを再利用し堆肥として使っていた。
 我が家の庭にも木で囲んだ枠を作り、その中に牛小屋のわらや食べ物の余りなどを入れ、自然発酵させて肥料としていた。その堆肥の中には、いろいろな虫の幼虫がたくさんいて、肥料化に一役買っていた。カブトムシの幼虫(われわれはジンドと呼んでいた)やミミズがたくさんいた。
 その後、牛に変わって耕耘機やトラクタが入り、堆肥に変わって人工肥料が主流となり、堆肥を使うことはなくなっていった。
 ところが、最近になってエネルギーや環境の面から、リサイクルが見直され、堆肥を作って利用することが再び行われるようになってきた。
 昔を知っているわれわれには、何を今更という気がしないでもない。しかし、機械や人工肥料を使い増産に励んできたのも自分たちであるから、半分は自分たちの責任でもある。
 そんなことより、子ども心にいろいろな種類の生き物と友とし、生きているということを実感できた懐かしい思い出の一こまである。 
(54)アイスキャンデー


写真はなし。
 小さい頃の夏休みの楽しい思い出の一つは、アイスキャンデーである。
 近くにお菓子屋さんがなかった頃だったので、自転車に乗ったアイスキャンデー屋さんが、アイスキャンデーを売りに来るのが楽しみだった。
 自転車の後の荷台に、アイスキャンデーの入った木箱が積んであり、ハンドルのところに鐘がつけてあって、それを「ちりんちりん」とならして売りに来る。
 その音が聞こえてくると、10円玉を持って必至でアイスキャンデー屋のおっちゃんを追いかけ、アイスキャンデーを買う。
 必至で追いかけたが、音を見失い、買い損ねたこともあった。
 相手は、自転車なので、うかうかしていると、走り去っていってしまう。
 だから、「ちりんちりん」と音が聞こえると、音に向かって全速力で追いかける。そのせいか、勢い走るのが好きになる。
 当時の値段が10円だったか、5円だったか、はっきり覚えていないが、とにかく10円玉を握りしめて、必至に追いかけた記憶が新鮮に残っている。
 当時、キャンデー屋のおっちゃんは、アイスクリームも持っていたような気もするが、当時の私たち子どもには、氷に少し味を付けただけのアイスキャンディーがよかった。
 「ちりんちりん」という音は、私にとって暑い夏の少年時代の懐かしい一こまである。
(55)ラジオ体操


写真はなし。
 私が小さい頃の夏の思い出に、ラジオ体操がある。
 毎朝、と言っても盆明けまでだったか?と思うが、毎朝、小学校の校庭に出かけラジオ体操をした。
 ラジオ体操をご存じの方はおわかりのように、朝6時30分からの放送である。
 つまり、この取り組みには夏休み中の早寝早起きの習慣をつけさせるねらいがあった。
 小学校放送室への出入り鍵を預かった団長が放送室に入り、ラジオ放送を流す。
 現在はどうか分からないが、当時のラジオ体操は全国を回っての中継放送であった。「今朝は、○○におじゃましています。」という挨拶から始まった。
 始めに、肩や首を回して、その後にラジオ体操第一である。アナウンサーによる一つ一つの動作の軽妙な説明があり、それに従って体操をした。
 その後、再度、ジャンプなどの軽い動作があって、ラジオ体操第二と続いたが、当時の朝の体操はラジオ体操第一だけだった。
 参加した児童は、担当の保護者がはんこを押して解散となった。と言っても、集落毎に整列して帰宅した。
 夏休みともなれば、学校を離れて地域での生活が中心となるが、このようなラジオ体操を通じて、地域の児童の結びつきがあったような気がする。
 最近では、地域ごとの集会所に集まってやっているところが多いようである。
 地域の子は地域でとよく言われるが、ラジオ体操の取り組みなどを通して、そのようなことが具体的に取り組まれることが望まれる。
 現代社会は大人もそうであるが、地域の結びつきが希薄になりつつあると言われる。子ども達には、小さい頃から地域の結びつきを感じさせるものがあって欲しいと思う。
 大人になって孤立しそうになった時、小さい頃の地域の結びつきが思い起こされ、またがんばろうという気になってくれればと思う。
(56)そろばん


写真はなし。
 小さい頃の夏休みの思い出に、珠算がある。
 近所の家の養蚕小屋を改築した二階が珠算小屋であった。
 小屋の周りにはシュロの木が植えてあって、南国の雰囲気があった。
 珠算教室の二階から、そのシュロの木の上の部分が見えていた。シュロの木に飛び移っている子もいた。
 朝、9時ころからだったか珠算教室が始まった。
 結構の人数の小学生が集まっていた。軽い一桁の読み上げ足し算から始まって二桁、三桁とだんだん難しくなっていった。
 かけ算や割り算、また、時には億という単位の読み上げ算もあった。
 講師の先生は、その家の娘さんで、珠算の段持ちの先生であった。
 時折、教室を二つに分けて、読み上げ算の競争があった。一度、正解を答えたものは二度と答えられないルールで、二桁くらいまでの読み上げ算だったような気がするが、速い読み上げの時もあれば、ゆっくりとした読み上げ算もあった。
 できるだけすべての教室生に一回は答えさせるように工夫されていた。
 学校の先生ではなかったが、うまい教え方だなと思った記憶がある。
 教室の前には、兆より上の単位が書いて貼ってあった。
 京・垓・抒・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数
 けい・がい・じょ・じょう・こう・かん・せい・さい・ごく・ごうがしゃ・あそうぎ・なゆた・ふかしぎ・むりょうたいすう
 である。
 当時、読み方がはっきりしないものもあったが、兆の上にまだ単位があったのは知らなかったので、目から鱗であった。ちなみに無量大数は10の68乗である。
 また、小さい方もあって、
 割・分・厘・毛・糸・忽・微・繊・沙・塵・埃・渺・漠・模糊・逡巡・須臾・瞬息・弾指・刹那・六徳・虚・空・清・浄・ 阿頼耶・阿摩羅・涅槃寂靜
 最後の「ねはんじゃくじょう」はまさに仏教用語で、10の−26乗である。
読み方は読者が調べてみて下さい。
 小さい頃のできごとは、何もかもが楽しかったと思える今日この頃である。
(57)鯨の肉


写真はなし。
  私が小学生の頃、給食メニューに鯨肉がよく出た。
 1cm位のさいころ型だった。
 そのころの記憶では、固い肉だというイメージがある。
 噛めばおいしいが、スジがあって歯によく挟まった。マッコウクジラの肉であったと記憶している。
 そのようなこともあって、小学生時代、鯨について自分で調べた経験がある。
 その時の知識では、
 ・鯨には歯がある種類と歯ではなく櫛を持つ種類の二種類があり、それぞれの代表は、マッコウクジラとシロナガスクジラである。
 ・鯨は地球上最大の生物で、中でもシロナガスクジラは最大で20m〜30mある。また、シャチやイルカも鯨の仲間である。
 ・人間は、古代から鯨を捕獲して、大事な食料源としてきた。
 ・鯨は隅から隅まで利用でき、捨てる部分はない。
 などである。
 みなさんご存じのように、鯨はわれわれ人間と同じ哺乳類に属している。従って、われわれ人間と同じ肺呼吸であり、胎生である。そのことと絶滅危惧の関係から、鯨を殺したり、その肉を食べることについて議論がなされるようになってきた。しかし、昔から鯨捕りが行われてきた地域では、鯨を食料源として大切に扱い、鯨を神体として祀る風習もある。
 現在、捕鯨をめぐる問題は大きな国際問題となっている。
 国際機関として国際捕鯨委員会がある一方、捕鯨に反対するグリーンピースというNGO団体もある。
 最近では、グリーンピースの中の過激派グループであるシーシェパードが捕鯨反対の実力行使に及び、議論を醸している。
 私は、このような問題を聞くと、誰の何のための取り組みなんだろう、人間ってなんだろうと思ってしまう。
 小学生の頃、何も知らずに鯨肉をおいしくいただいていたことが妙に懐かしく思い起こされる。
(58)麦ご飯


現在のセルフの精米機です。
農機具販売店が設置しているよ
うです。
われわれのような農村地域でも
多くの人が利用しています。
 私が小さい頃は、ビタミンBを補給する目的で、ご飯に麦を入れるのが通例だった。
 うすく、扁平に処理された麦がご飯の上に炊き込まれて、ご飯と一緒に食べたものだ。
 その理由は、米の精米の過程で胚芽やぬかの部分が削り取られてしまって、その部分に含まれているビタミンBが不足するからだった。
 実際、私の小学校の時の体育の先生は脚気だった。今でこそ脚気という病気を知らない人もいるくらいであるが、当時は、脚気は一般的な病気で、精白米によるビタミンB不足が原因であるとされていた。
 私の家の精米は、同じ集落の中にある精米所に玄米を持っていって精米をしてもらっていた。
 精米の途中で出る胚芽成分やぬか成分は精米所が処分していたと思う。
 そのせいか、精米にはお金がいるが、出る胚芽分やぬか成分の分かどうかわからないが、おいしいせんべいに換えてもらっていた。
 当時、子どもだった私には、その仕組みはよく分からなかったが、胚芽やぬかも必要ならもらってくることも可能だったのだろうと思われるが、子どもの私には、それより、甘くおいしいせんべいの方が魅力的だった。
 当時は、自宅で漬け物を漬けるのにぬかも使っていたので、必要な時は、ぬかも自分の家に持ち帰ることもあったのだろうと思う。
 最近は、その精米所もなくなって、少し離れた県道筋のところに、精米機械だけが設置してあるセルフサービスの精米所があり、現在はそれを利用することが多い。
 また、胚芽を残した胚芽米が流通していたり、炊飯器の発達に伴って、炊くのが難しい玄米をそのまま食する玄米食もできるようになって、昔のように麦をご飯に混ぜることは減ってきている。
 我が家でも、ご飯に麦を入れることはない。しかし、精白米のビタミンB不足は解消していないので、隠れ脚気の人が結構いるのではないかと心配する研究者もいる。
 われわれの時代には考えられなかった米の輸入自由化や近年のグルメ時代ともなると、さまざま米や調理法が出回り、主食として影響の最も大きかった精白米の功罪も変わってきている。
 昔よりも、一人ひとりがいろいろな情報を知り、判断して精白米のビタミンB不足を解消していく術を持たなければならないのかも知れない。
 主食として麦ご飯を何杯もぱくぱく食べていた小学生時代が懐かしい。
(59)ボールペン


  写真はなし。
 ボールペンといえばBICである。
 私が、中学生の頃だったか、ボールペンが登場した。
 最初に使ったのはオレンジBICボールペンだったと思う。現在も、世界のベストセラー商品となっている詰め替えのできない使い切りタイプだった。
 使った当初の感想は、すらすらと滑らかに書けるというイメージと結構太字(1.0mm)であるということである。
 私自身、太字の方が好きなので、BICのボールペンはすぐになじめた。
 また、BICのイメージとして、ボールペンのボールを頭に持つ少年がボールペンを背中に背負っているキャラクタが新鮮で、子ども心に親近感を覚えたものである。
 その後、ケースが透明のものに変わり、さらに、芯も詰め替え式に変わっていったが、最初のがっしりとした使い捨て式オレンジボールペンが印象的である。
 最初のBICボールペンから時が経過すると、いろいろな文房具メーカーからさまざまタイプのものが登場し、ボールペンが一般的な文房具となっていった。
 現在では、BICボールペンを探すのが困難なほどさまざまなものが出回っている。
 従来、公式文書は青または黒のインクとなっていたが、現在では、ボールペンでも良いとなっている。技術が進歩し、ボールペンが万年筆と同じくらいの価値をもつ独自の文化を形成するほどになったといえる。
 直接、手で字を書くことが少なくなっている現代ではあるが、ボールペンはボールペンとして独自の地位を築き、その利用範囲を確保している。
 BICボールペンとの出会いが刺激的であったので、私にとってボールペンはすらすらと殴り書きのできる便利な文房具というイメージが強い。
 読者の皆さんにとっては、どうでしょうか。
(60)黒板


  写真はなし。
 私が小学校時代、教室にはいわゆる黒板があった。
 黒板、文字通り黒い色の板書板である。
 もともとアメリカから入ってきて、ブラックボードと称していたようである。
 その後、ブラックボードが黒板という名称に代わり、さらに、昭和29年にはJIS規格で黒い色から緑色に変わったと言われている。
 私より年代の若い人たちは、黒板といえば、緑色をしたものと思われるだろう。
 私の小学校時代や中学校の講堂に置いてあったのは、黒い色をしたものだった。
 材質はもちろん木材である。表面の塗装が痛んでくると、ところどころめくれ上がって、見にくくなっているものもあった。
 私は、小学生の頃から視力が弱かったので、後の席になると黒板の字が見えにくく、特に、中学校時代になると生徒数が多くなり、後の席は黒板からかなり隔たるので、益々見えにくくなり困ったものだった。
 現在は、スチール製やマグネット製のもの、場合によってはホワイトボードなどが使われているが、黒い色に白いチョークでの板書は教育の原点のような懐かしさがある。
 黒い板に白いチョークで書く先生の板書は、教科書と同じくらいノートに記録する価値があった。
 われわれの世代の学校の先生に対する尊敬の念と黒板、懐かしくもあり凛とするものである。
(61)まんじゅう


  写真はなし。
 私が小さい頃、いわゆる法事(我々のところでは報謝と言っていた)の時のお供えは、まんじゅうと決まっていた。直径20cmほどの大きさの白いまんじゅうである。
 私の住む集落から少し離れた集落にある二軒のお菓子屋さんに頼むのが常だった。
 二軒のお菓子屋さんは、昔の軽便鉄道の発着駅から続く街道筋にあった。
 われわれ農家集落には、そのような店屋はなかったので、報謝の時のお添えなどはそのお菓子屋に頼んでいた。
 ところが、たびたびお供えのまんじゅうを食べているうちに、その二軒のまんじゅう屋のまんじゅうのあんこが違うことに気がついた。
 一軒は粒あんであるが、もう一軒はこしあんである。両方ともおいしいが、私には、粒あんの方がよりおいしかった。
 どちらがおいしいかどうかは、その人の好みによるが、あんこそのものおいしさやまんじゅうの皮のおいしさも関係し、どちらがどうおいしいかの判断は難しいものであるが、どういうわけか、私には粒あんの方が性にあった。
 しかし、私が中学生になる頃には、報謝のお供えとしてまんじゅうがあまり利用されなくなり、私が大学生の頃には商売にならなくなったからか、両方とも店を閉めてしまった。
 懐かしさがだんだんと封印されていく。寂しい感がある。これも時代の流れか。
(62)小学校の先生1


  写真はなし。
 私たち団塊の世代にとっては、学校の先生は尊敬すべき存在であり、あこがれでもあった。
 いろいろな先生がおられたが、とりわけ純粋多感な小学校時代の先生は、思い出深い。
 その中から、記憶に残っている先生を思い出してみたい。
 まず最初は、幼稚園のなかった時代の私にとって、初めて出会う小学校一年生の担任の先生である。
 若い新婚ほやほやの女性の先生で、十朱幸代さんのような顔立ちであった。
 今でも覚えているが、講堂の前で入学記念写真を撮る時、児童一人一人の名前が呼ばれたが、私は自分の名前を呼ばれたと思って大きな声で返事をした。
 しかし、別姓同名の同級生の名前だった。恥ずかしいので、「あ、しもた、間違えた。」と大きな声で言ってしまい、周囲の母親の笑いを買った。
 人前で恥をかいた最初の出来事である。
 そのせいか、その当時の写真を見ると、写真をにらみつけるような顔で写っている。
 その記憶だけが鮮明に残っていて、その後、教室に入ってからの出来事はあまり覚えていない。
 恥ずかしさとともに懐かしい思い出である。
 ちなみに、その先生は私と同じ町内に住んでおられ、第一回目の小学校同窓会に招待させていただいた。
 大変喜んで頂いたが、先生には、それが最初で最後の同窓会参加になった。
 先生は、そのときすでに体を悪くされていて、余命が少ないのをご存じで参加してくださったのだった。
 私にとっては、忘れられない先生の一人である。
(63)小学校の先生2


  写真はなし。
 二人目に紹介する先生は、小学校時代の音楽のF先生である。
 今でいう専科の先生である。
 一般的には、担任の先生の思い出が主となることが多いが、私にとっては、F先生の方が印象に残っている。
 F先生は、ピアノも上手であったが、それよりも、われわれに語りかけられる話の内容が記憶に残っている。
 F先生は、広島の大学時代に被爆され、一方の耳がケロイド状に変形していた。
 そして、先生はその変形した耳をわれわれに見せて、「私は、原爆を受けて耳が変形しよく聞こえません。それでも、音楽の先生になれました。みなさんは、耳もよく聞こえます。だから、私よりも音楽が上手にできるようになるはずです。」と話され、いつも私たちを励まし、音楽好きにしてくださった。
 大人になるにつれて、自分が壁に突き当たったり、悩んだりしたときに、いつも思い出されるのが、F先生の言葉である。これまでに、この言葉に何回励まされたことだろうか。
 私にとって本当の教師とは、F先生のことをいうのだと思っている。
 教師は、児童・生徒にいろいろな知識や考え方を身につけさせることが主であるが、それ以上に、児童・生徒にやる気を起こさせ、自分の力で学習していく力を身につけさせることが大切である。
 なぜなら、私自身の経験からも、人間やる気になればほとんどのことができるようになるからである。もちろん、学校の勉強もしかりである。
 児童・生徒のやる気を引き出し、自信を持たせることができれば、その教育は成功したといっても過言ではないと思う。
 私自身、教育のことを考えるようになって、F先生のいわれたことの意味や重みをかみしめるようになった。
 F先生は現在も存命であるが、「ありがとうございました」の感謝の言葉しかない。
(64)ラジオ


  写真はなし。
 私が小学校高学年までは、各家庭での娯楽はもっぱらラジオであった。
 今、その当時のラジオは残っていないが、我が家の居間の一段高い台の上にラジオが置かれていた。
 夕食後、こたつに入りながら家族でラジオを聞いていたことが思い出される。
 よく聞いたのは、相撲中継や浪曲・夫婦ぜんざいなどであった。
 相撲中継では、当時の横綱は、鏡里や吉葉山であった。その後、初代若乃花と栃錦の時代になる。あんこ型の代表は、体重200kgもある大起(おおだち)、そっぶ型の代表は、クレーンと異名をとるつりの得意な明武谷だった。
 浪曲では、広沢虎蔵、桃中軒雲右衛門、寿々木米若、玉川勝太郎というような浪曲師の名前が記憶に残っている。女性の浪曲師もいた。二葉百合子だったかと思う。
 夫婦ぜんざいは都蝶々と南都雄二の漫才コンビが司会をしていた。
 小学生低学年頃の私は、ぜんざいという意味がわからず、甘いぜんざいのことだと思っていた。後年調べてみると、ぜんざいは漢字で善哉と書き、甘いぜんざいのことであってまんざら間違っていなかった。
 つまり、夫婦善哉という番組名は、夫婦が善哉のように甘い夫婦生活を語るという意味からきていた。
 夫婦ぜんざいの番組名以前から、大阪には二つのお椀で善哉を出す夫婦善哉という店があり、それになぞらえて夫婦善哉のように甘い生活を語るという意味で名付けられたらしい。
 後年、ラジオでしか知らなかった場面や人の姿をテレビで見ることになると、やっぱりという場合は少なくて、へーそうだったのか、ということが多かった。
 ラジオはテレビよりも想像力をたくましくさせる効果があるようだ。
 このようにラジオ時代は、ラジオというメディアによって形成される当時の人たちの想像力や感性が、生活の一部を形成していたように思う。
 現代は、主として視覚中心の時代であるが、それが、現代に生きる人々にどのような影響を与えているのか、興味のある研究領域である。
(65)置き傘


  写真はなし。
 私が小学生の頃は、小学校に置き傘があった。
 滅多に使うことはなかったが、下校時に急に雨が降ってきた時のためだった。
 その後、置き傘制度はなくなっていったが、最近、その合理性が見直され、保育園や小学校で置き傘が復活しているようである。
 当時の傘は和傘で、骨は竹、張ってある紙は油紙なので、雨粒が当たると、ぱらぱらと音がして雨粒をはじいているという実感があった。
 和傘の歴史は古く、6世紀中頃仏教伝来と同時に中国から朝鮮半島にあった百済を経由して伝来したといわれている。
 置き傘は、子供には手の届かない教室の廊下側壁の高いところに柄を下にしてかけられていた。
 記憶では、実際に使ったのは一回か二回くらいだった。
 しかし、置き傘には存在感があり、安心感の象徴だった。
 当時の置き傘の値段は覚えていないが、結構高かった気がする。
 当時は、少々値が張っても良いものを長く使うという考え方であったように思う。
 置き傘の思い出は、物を大切にし、長く使うという精神と共に懐かしい思い出である。

  
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