読書のページ



このページでは、自分のこれまでの読書経歴を振り返り、若干の読後感想を交えてこれはと思った書籍を紹介してみたいと思います。
私は、学生時代にだまされたと思って(岩波さんゴメンなさい)岩波文庫の★100選に片っ端からチャレンジした経験があります。
今となっての感想は、100冊を読破したわけではありませんが、読み進んでいく内に、一冊一冊残るものがありました。
100選は古典が多い(ほとんどすべて)のですが、今まで読み継がれてきたのには、それなりの訳があるはずだ、それが何なのかわかりたいという気持ちで読み進めていきました。
読み終わって、なるほど、この本はここが長く受けいられてきたのか、と自分なりに納得したものです。
もちろん、読者によって受け止め方はさまざまなので、別の読者はまた別の受け止め方をされるのかもしれませんが、このページは私の理解の仕方で紹介していきたいと思います。
ご意見のある方は、mailで知らせていただければありがたいです。
それは違うんじゃないなど、それぞれの読者の方々の受け止め方はあってしかるべきだし、そうやって、文化の輪は広がってきたのだろうし、また、広がっていくのかもしれません。
前置きが長くなってしまいましたが、私の心にとまった書籍を紹介していきたいと思います。

1: 寺田寅彦随筆集
 この本は、物理学者 寺田寅彦氏の随筆集です。私が中学生の時、中学校の図書館で見つけた本で、とても読みやすく、昼休み時間に行っては読んだものです。
 この随筆集の中で、有名な言葉「天災は忘れた頃にやってくる」を見つけました。当時の私は、この言葉自体は知っていたものの、どこから来た言葉なのかは知らなかったので、何か素晴らしいことを発見したような気持ちになったことを覚えています。
 名著の一冊だと思います。ぜひご一読を。
2: 偉人伝「野口英世」
 私は偉人伝が結構好きで、特に小学生の頃は良く読みました。
 その中で印象に残っているのが、野口英世物語です。
 小さい頃は貧しい生活の中で、いろりに手を突っ込んで大やけどをしたが、十分な治療を受けられず、左手の指が不自由になり、その自分の弱みを跳ね返す意味で、猛勉強したというところが小学生の私が感動したところです。
 晩年は、黄熱病の研究に自分の身体を提供し研究を進めようとした。今思うと、私自身の仕事へのやりがい・人生への生き甲斐のモデルになっているのかもしれません。
 私は、25歳頃、ある機会に野口シカさん(母親)のたどたどしいながらも、母の気持ちのいっぱい詰まった手紙を見て、もう一度野口博士の生き様を振り返りました。
 自分は、野口博士のような一生懸命な人生の生き方ができているのか、自問自答しました。
 その意味で、この本は私の「座右の本」です。
 野口英世博士に関しては、その医学的な業績やアメリカでの行状に批判もあるようですが、私は、野口博士のアイデンティを貫き通した生き方には共感を持ちます。みなさんはどうでしょうか。
ぜひご一読してほしい一冊です。
また、それ以外の偉人伝もおすすめです。特に、小さい子どもさんに。
3:「吾輩は猫である」(夏目漱石著)
   この本はご存じ夏目漱石の代表作ですが、タイトルと視点のおもしろさが特徴です。
 書き出しの「我が輩は猫である。名前はまだない。……。」のとっつきやすさと作者の社会風刺が表現の随所に見られておもしろい作品です。
 私がこの本にふれたのは小学生高学年〜中学生の時でしたが、その後、夏目の作品を全部読むことになります。それは、夏目作品の心理描写が私にぴったりでストレスなく読めるところにあったように思います。
 夏目漱石の他の作品、「坊っちゃん」「草枕」「それから」「明暗」なども併せて読むことがよいと思います。
 また、夏目作品の心理描写の巧みさは、三島由紀夫の「潮騒」「不道徳教育講座」、住井すゑの「橋のない川」にも通じます。
 これらの作品は、自分の心理状態とつきあわせて読むと作者の意図により迫れると思います。
 ぜひ一度は読んでほしい作品です。
4: 「職業としての学問」(マックス・ウェーバー著、尾高邦雄訳)
 この本は、翻訳本の一例として、また、しっかり考える必要のある問題について論じた本の一例として紹介します。
 私が学生時代に読んだ本の中で、翻訳本が嫌いになる一因となったのはカントの「純粋理性批判」「実践理性批判」です。
 翻訳本は、いくつか読み比べてみると分かるのですが、訳者によってかなり訳し方が違います。それは、当然のことなのでしょうが、読者にとっては本来の著者の言いたかったことが正しく伝えられているか、という一抹の不安があります。
 この本でも、重要語句として、「僥倖」「霊感」「前提」「知的廉直」など難しい訳語が使われています。訳者自ら述べているように、「訳は日本語として自然であることを主眼とした。従って直訳してはわかりにくいと思われるところはなるべき意訳するようにした。」と。
 これを解決する方法はただ一つしかありません。即ち、原典を読むことです。しかし、これはハードルが高いですね。そこで、やむなく翻訳本を利用するというわけです。
 今回取り上げた「職業としての学問」はドイツ語本です。岩波さんの★100冊の中の一冊です。
 今回の紹介のために、もう一度読み返してみました。やはり、しっかり構えて読まないと理解しにくい本でした。そのせいか、私の記憶の中には具体的な内容が教訓としては残っていませんでした。
 今回40年ぶりに再度読んでみると、なるほどと頷くところが多々あり、自分が「職業としての学問」をどう考えるかを考えるのには好適な材料本といえます。
 ただし、21世紀に入った現在とかなり時代背景が違う(第一次世界大戦の敗戦下での大学生に対する講演)ので、そこのところは割り引いて、あくまでも「職業としての学問」そのものを考えるきっかけとして読むことをお薦めします。
 就職難の現在、この本がどれほどの意味を持ちうるかは読者の意識の持ちようによると思いますが、だれしも職業に就く以上、一度は読む価値のある一冊です。

5:「方法序説」(デカルト著、落合太郎訳)
   この本は、今から400年前のものである。有名なデカルトの著になる。
 デカルトは、昔の学生には有名な「デカンショ」の一人である。デカルト、カント、ショウペンハウエルは、大学生には必須の哲学者である。
 私が学生時代に読んだ記憶は、とにかく、完璧な理詰めの学者というイメージである。
 今回40年ぶりに読み返してみた。やはり難解という感じは否めないが、それは序説という性格にもあるようである。
 序説であるので、簡潔に導入編としてまとめているので、よけいにわかりにくい感がある。この序説では、幾何学の具体例はなく、心臓の構造や仕組みについて少し詳しく述べられている。
 心臓の解剖学的正確さと物理学的メカニズムの説明は、さすがと思わせる。今でも十分通用する構造とメカニズムの説明は、デカルトの並々ならぬ知識と聡明な頭脳を感じさせる。
 この論文の中でデカルト自ら言っているように、疑わしいものは一切認めないという前提から出発し、そしてそう考える自分は何者だと問い、有名な「我思う、故に我有り」を自分の哲学の第一原理としている。しかし、「私をして私であらしめるところの精神は身体とは全く別個のもの」  「たとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれが本来あるところのものであることをやめないであろう」として心身二元論を展開している。
 心臓の仕組みについての完璧なまでの演繹的解説と比べて、人間の精神に関する神学的解釈には、大きな落差が感じられる。このころの時代背景として、ガリレオ・ガリレイが地動説をめぐりローマ教皇庁と対立していたことがある。ガリレオ・ガリレイは地球は動いているという科学的事実を貫き通したが、デカルトはこの世は神が造り賜うたとしている。デカルト自身の言葉を借りれば、「最も穏健なものだけしか択ばなかった。」として、敢えて神の存在を否定することをしていない。
 その点では、デカルトは科学者になりきれなかった人であり、思想家といった方がよいのかも知れない。
 ともあれ、この「方法序説」は理性の存在基盤を神に置いているものの、理性による真理獲得の方法を徹底的に自らに課し、生涯をかけてそれを追求するという純粋な生き方が語られている。
 学問や人間としての生き方を問う多感な学生諸君には、やはり必読の一冊といって良いであろう。
 
6:「にんじん」(ルナアル著、岸田国士訳)
 この本は、「にんじん」とあだ名で呼ばれる主人公の成長を家族内のやりとりを中心に書かれた小説である。
 この本を私が読んだのは大学生になってからであるが、私にとっては、難しい理屈を抜きにして読める本であり、とてもヒューマニズムの感じられる本であった。
 再度、拾い読みをしてみると、内容的には日常生活の色々な場面を取り上げているだけのものであるが、にんじんの一つ一つのとる行動が短い文の中に凝縮されている。
 にんじんの取る行動は、同じ人間として共感できるところが多いが、一方で、家族の絆といえるかどうか分からないが、他の家族人(父親、母親、兄姉など)の取る態度も一概に否定できない。
 父親はにんじんの最大の理解者であるが、一方、母親はその正反対ににんじんの最も嫌う家人である。この両親に対するにんじんの語る言葉は、父親に対しては「だからさ、父さん、僕は、父さんを愛しているね。ところが、父さんを愛しているというのは、僕の父さんだからというわわけじゃないんだ。僕の友達だからさ。実際、父さんにや、父親としての資格なんか、まなるでないんだもの。…」と、母親に対しては、「やい、因業婆!いよいよ、これで申し分なしだ!俺はおまえが大嫌いなんだ!」と。
 父親に対する言葉は、直接父親に向かって言っているが、母親に対する言葉は、直接母親に面と向かって言っていない。このあたりは、育ちの中でのにんじんの複雑な心境を物語っているように思える。
 この小説は、ルナアル自身の生い立ちをモチーフとした自叙伝に近いとされているが、その真偽のほどはさておいても、家族とは何か、人間とは何かなどわれわれ一人ひとりにとって大切なものを提示していると感じる。
 あらゆる人に一度は読んでほしい本である。
7:「生命の起源と生化学」(オパーリン著、江上不二夫編)
 私が、著者のオパーリン博士を知ったのは、大学生の時である。コアセルべートという聞き慣れない言葉を聞き、実験で実際に作って確かめたりした。
 我々人間は生物である。そのことを忘れてしまうほど、我々人間は文明や文化を発達させているが、体を病んだときなどは、自分が生命を持つ生物であることを実感する。
 その生物である自分が何者であるか、どこから来たのかとたどっていくと、必ず生命の起源にたどり着く。そもそも我々人間も含めて、生命、生物というものがどうやって誕生してきたのかは、私にとって自然科学の他のどんな疑問よりも新鮮である。それを真正面から取り上げ研究対象としたオパーリン博士の科学者としての発想を尊敬する。
 自分が生命を持つ生き物であることから来るどうしようもない「生命の起源」への追求心、それを自然科学の研究対象としたオパーリン博士の姿勢は、たとえようもなく素晴らしい。
 この本は、来日したオパーリン博士の講演と日本の生化学者との対談、そして、生命の起源についての解説という形でなりたっている。
 講演録だけでなく、来日中のオパーリン博士の行動も紹介されていて、オパーリン博士の研究にかける並々ならぬ情熱と豊富な知識教養、そして、大きく温かい人間性が感じられて、「生命の起源」について、自分ももっと知りたいという気持ちにさせてくれる書物である。
 すべての人が一度は読んでほしい書物である。
8:「赤と黒」(スタンダール著)
 この小説は、ドキュメンタリ風の小説である。作者はフランスの作家スタンダールで、18世紀中頃のフランス社会を風刺したものであるといわれている。
 私は、今から40年前にこの小説を読んだが、「赤と黒」という変わった題名と激しい描写が印象に残っている。
 私は、「赤と黒」の題名の由来は知らず読んだが、当時の私の解釈は、他人の妻との恋を愛(赤)と贖罪(黒)になぞらえて書いたものと思っていた。いろいろな批評家の説では、貧しい主人公が出世の手段として、軍人(赤)、聖職者(黒)を利用しようとしたことを象徴しているとしている。
 赤が恋の情熱と軍人の猛々しい戦闘意欲のどちらを象徴しているのかは分からないが、いずれにしても、貴族階級から市民階級に主権が移行していこうという当時のフランス社会状況の中で、他人の妻との恋や人と人が殺し合う戦争と人々の心のよりどころとなっているキリスト教精神との相克がモチーフになっていると思われる。
 読んでみると、赤と黒という題名が象徴する描写が迫ってくる。
 私には、読後感想として、内に秘めた赤い情熱を黒い聖職者の服で制御するという感じが強く残った。
 主人公の最後の死は、黒の倫理からではなく、赤の強さゆえの選択死であると感じる。
 名作の一つに間違いない。是非一読を薦めます。
9:「高村光太郎詩集」(高村光太郎著)
 この詩集は、詩に素養のない私にも詩のすばらしさを感じさせてくれる本である。
 初版は1955年というから、今から55年も前である。名作というものは、時代を超えて読み継がれるものであるが、高村光太郎詩集もまさにその一つである。
 光太郎の詩は、どれも素晴らしいが、私が特に好きで記憶に残っているのは、「牛」である。
 高村光太郎自身の生き方を表した詩であるといわれるが、私自身にも当てはまる部分がたくさんあり、ストレートに自分の感性に入ってくる。
 牛の眼を書いた部分は、私自身が小さい頃、牛小屋で牛と一緒に寝た時の優しい眼とまったく同じである。そこに共感できる。
 短い詩の中に人間としての生き方が詰まっている感じで、とても響きがよい。
 高村光太郎の詩には、このほかにも「道程」「ぼろぼろな駝鳥」など素晴らしい作品がたくさんある。
 人生の応援歌として読み応えのある詩集である。是非、一読を薦めます。
10:「菊と刀」(ルース・ベネディクト著)
 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史による日本論あるいは日本人論である。
 私の学生時代の読後感想は、アメリカ人が、しかも、一度も日本に来たことのない人がよくここまで分析したなという感じと、そうかなと思う箇所が何カ所もあるという感じである。
 この書物は第二次太戦中に書かれ、戦後に出版されたものである。従って、日本と敵対関係にあった時代のアメリカ人学者による日本、日本人の分析であり、文化人類学的に、優位な立場からの視点であるという点は否めないように思う。
 それには、文化人類学の発展自体が、植民地支配を合理化しようという視点から始まったという歴史が関係している。そうかといって、ベネディクトは一方的に日本や日本人を批判しているのでもない。そのあたりは、学者としての良識であるのだろう。
 この本の中で、ベネディクトは、今では有名になった、日本は恥の文化、西欧は罪の文化という概念を展開している。
 結論的には、罪の文化の方がよいというような論調であったと記憶しているが(当時の私の感想)、これは、文化や時代背景の違いのしからしむるところであるかも知れない。
 現代の文化人類学の視点ならば、その国・地域・民族固有の文化をあるがまま受け止め分析し、その文化人類学的価値を見いだすという手法が一般的であると思われる。
 当時の時代背景を分かって読めば、日本人以上に日本・日本人を深く分析したこの書物は、読み応えがある。
 学生時代には、読んでほしい一冊である。  
11:「人間不平等起源論」(ルソー著)
 ルソー1755年出版の本である。
 ルソーは、ホッブズ、ロックに続く啓蒙思想家であり、「社会契約論」で当時のフランス革命の思想的支柱となったことは周知の事実である。
 この「人間不平等起源論」は、社会契約論に先立つ作品であり、その中に社会契約論の萌芽が認められる。
 私は学生時代に読んだが、大変読みやすい書物であったという印象がある。それは、タイトル自体が、自然科学的でもあり、社会科学的でもあり、中身もまたそうであるからである。
   自分のことなのでよく分からないが、私が現在、、自然科学と社会科学両方に興味を持っている一つの原因が、この書物の影響にあるかも知れないと思う。
 ルソーの理論は社会契約論でもそうであるように、大変わかりやすい。このことは、書物に限らず、大変重要な点である。
 わかりやすいから、人に受け入れられやすく、また、発展性もあるのだと思われる。
 ルソーは、後の社会契約論で有名なように社会科学者、啓蒙思想家であるが、この書物の中では、自然科学的にも人類の進化に関わる内容を十分に議論している。
 当時、この分野では、さほど自然科学が発達していなかった時代であり、ネアンデルタール人も発見されていなかったのであるが、それでも、読み応えのある人類の進化に関する記述はさすがと思わせるものがある。
 今から見れば、その後、新たな事実が次々と発見され、また、研究も進展しているので、自然科学的には陳腐な部分もあるが、それでも、当時の少ない科学的事実を元にして展開されている理論は、思索に相当な時間を費やしたであろうと思われる。
 この事実を元に徹底的に思索を巡らすという点は、哲学的態度であるが、進歩のテンポが速くなっている現代のあらゆる研究者には、見習ってほしい点である。そんなことをしていたら、研究者の世界から取り残されるという点は別にして。
 とにかく、社会科学に興味のある人も、自然科学に興味のある人も楽しめる書物である。
 是非一読を薦めたい。
12:「若きヴェールテルの悩み」(ゲーテ著)
 この作品は、有名なゲーテの小説である。1774年に刊行されたというから、240年ほど前の小説である。
 学生時代は、この小説の主人公ヴェールテルのように、だれしも悩み多き年代である。
 この作品は、ゲーテ25才の時の作品であることから、学生時代に読んだ感想は自分自身の心情に近いという印象である。
 激しい恋愛の後、自分が命を絶つという形で、その叶わぬ恋愛に終止符を打つ結末は、当時の私には、たかが恋愛で命を絶つという行為は理解できなかったが、それでも、そこに至るまでの心の葛藤には少なからず共感できた。
 恋愛の相手であるシャルロッテとその結婚相手である友人アルベルト、それぞれに対する心情からくる葛藤は、若い頃には誰も持ち合わせるものである。ある意味で、人間は葛藤を乗り越えて精神的に成長していくのだと思う。私は、この小説から、そのような教訓を得たと思っている。
 世の中、自分の思うようにはならない、その最大のものが恋愛であるだろう。
 相手を限りなく尊重するところに、恋愛というものは成立するものだとも思う。
 生まれも育ちも違う男女が惹かれ合うというのはどういうことなのだろうか。当時の私も、そのようなことを考えた。
 恋愛の中で、相手が最も昇華されるのはプラトニックな恋愛であるだろう。相手の生物的な魅力も含まれているかも知れないが、それ以上に、相手の人間的な魅力、文化教養的な魅力、そのような内容が色濃い。
 結末が、ウェルテルの死というややショッキングな結末であるが、その部分は差し引いて、そこに至るまでのヴェールテルの心の葛藤に対する処し方には、参考とするべきものも多い。
 若い年代に一度は読んでおきたい一冊である。
13:「ヴェニスの商人」(シェイクスピア著)
 この戯曲は有名なシェイクスピアの代表作である。
 1590年代後半の作とされている。今から実に400年以上も前の作品である。日本でいえば、江戸時代直前の作品であり、現在まで面々と受け継がれてきた名作である。
 この作品の真骨頂は、シェイクスピアならではの、人間の善意に充ちた心情表現にあると思われる。
 主人公はユダヤ人の金貸しシャーロックである。彼は、ある男に金を貸すのに、もし返せなかったら、男の胸の肉を1ポンドもらうという証文約束をする。
 いろいろな曲折があって、その場面がやってくる。
 その場面でのやりとりが人間の心情を掘り返す場面である。  裁判官に扮した肉をとられようとする男の妻が、理詰めの論理でシャーロックに肉を切り取ることをあきらめさせ、しかも、逆にシャーロックへの財産没収の判決を言い渡す。
 男がシャーロックへの温情をかけ、円満解決となる。
 しかし、妻である裁判官は、お礼をしたいという夫である男の妻への気持ちを確かめようと、結婚指輪を求める。にくいシェイクスピアの設定である。
 最後は、すべてが白日の下となり、円満解決となる戯曲である。
 どんでん返しが何回もあり、最後の拍手喝采のエンディングを迎える構成は、シェイクスピアの練られた作品ならではである。
 ぜひ一読を薦めると共に、戯曲の舞台を鑑賞されることをお薦めする。
14:「ソクラテスの弁明」(プラトン著)
 この本は、弟子であるプラトンの著になる。
  この書物は、罪を着せられたソクラテスが死刑になる直前に、常なる言葉で自分の身の潔白を語り上げる物語である。
 仏教でもそうであるが、現在残っている経典といわれるものは、釈尊本人が書いたものではなく、釈尊の弟子が釈尊の語ったことを著したものである。
 このソクラテスの弁明もそれと同じく、ソクラテスの言葉をまとめたプラトンの書物である。
 この書物は、題名の如く、訴えられたソクラテスが滔々と自分の身の潔白を語る物語であり、そのゆえに口語調で大変読みやすい。
 この弁明の中には、人間の真実がしっかりと述べられている。
 私が特に共感したのは、ソクラテスの論駁の中に「私のほうが彼よりはまだましである。というのは、彼は何にも知らないのに知っていると思っているが、私は何も知らないが知っているとも思っていないのだからと。この後の方の点で、私はその人より少しばかり優れていると思えるのです。」という下りがある。
 これは、われわれの日常陥りやすい点を鋭くついている。
 知らないのに知ったかぶりをする、それがかなりの知識者になればなるほど、狡猾となることは良く経験することである。
 知らないことを知らないというのは、ごく自然であるが、知恵がついてくると、知らないことは恥ずかしいことだという感覚が生じ、知らないのに知っている振りをすることが始まる。
 そのことの間違いを正そうとしたソクラテスを世を惑わす悪人として訴え、自分の保身を図った者がいる。
 それを何としても正そうと行ったのが「ソクラテスの弁明」である。
 この姿勢は、その後のアカデミズムの始まりとなる。
 つまり、本当の賢者とは、知らないことは知らないと言い、知っていることを自信を持って人に伝え啓蒙することのできる人のことである。
 今に伝わる啓蒙思想の考え方である。
 これは、後に、ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と言って、毒杯をあおった姿勢にも通じる。
 私たち人間は、生きている限り、知識をつけて、より賢くありたいと願う。
 本物の賢者となるべく、「ソクラテスの弁明」を心して実行したいと思う。
 みなさん、本当の賢者になるべく努力を続けましょう。
15:「リア王」(シェイクスピア著)
 この物語は、私のかすかな記憶の中にある。  たぶん小学校一・二年の頃、小学一年生または小学二年生という雑誌の中の漫画だったと思うが、読んだ記憶がある。
 その後、小説も読んだが、漫画の記憶が鮮明である。
 物語は以下のような筋だったと思う。
 ワンマンなリヤ王が、年老いて退役し、娘三人に領土を分割することになったが、一番下の娘は「土地は要りません」と言ったのだったか?それに激怒したリア王が「この恩知らずめ」と言って末娘を勘当する。そして、上の二人の娘を頼っていくが、放り出され路頭に迷うようになる。それを知った末娘がリア王を救うが時すでに遅く、末娘は捕われの身となり殺されてしまう、その遺骸を抱いてリア王は憤死するという悲劇の物語である。
 この作品は、どこにもありそうな親と子、相続争いの物語りであり、親子の心の絆って何だろうと問いかける物語である。
 親子の絆というものは、物ではなく、心であるべきであるというのがモチーフであるだろう。
 親の心子知らずとよく言うが、この作品では、子の心親知らずという設定である。
 また、別の角度から見れば、ワンマン王の行き着く先は悲劇である、という当時の王政に対するちくりとした風刺でもある。
 シェイクスピアの作品はどれもそうであるが、日常生活で起こることをモチーフにして、自分の生き方を問う内容となっていて、わかりやすく、それでいて考えさせられる名作が多い。多くの人に愛読されるゆえんである。
 さて、みなさんは、リア王のような余生を送りたいと思いますか? 
16:「聊斎志異王」(蒲 松齢著)
 「聊斎志異」とは変わった題名の書物である。  この書物は、今から300年以上前 中国清代の蒲 松齢(ほ しょうれい)という作家の短編集である。
 私が学生時代に読んだきっかけは、分けのわからない題名からくるスケベ根性からである。
 「聊斎志異」とは、聊斎は作者の雅号であり、志異とは変わった話というような意味である。
 読んでみると、日本の妖怪ものの類で、短編集であり、日本にはないシチュエーションが感じられておもしろく読める。
 読後感想は、単に妖怪変化をおもしろおかしくというよりも、現実をちくりと風刺している感じがする。
 全編を再読することはできなかったが、一部、再読してみると、妖怪を登場させて当時の人間模様を批判的に描いている感覚が妙に心に残る。
 日本の芥川龍之介の羅生門にもその影響が見られる。
 現在、中国は経済大国として急成長しているが、中国の裏面をかいま見る小説として読むとおもしろい。
 おばけの出てくる話であるが、ぞっとするような書き方ではなく、さらりと著述し、ちくりと世間を風刺するあたりは、作者の真骨頂であり、リラックして読める作品である。
 昔の中国の一端を知るというつもりで読めば、得ることが多いかも知れない。
 視野を広げるつもりで読むことをお薦めしたい。 
17:「ハムレット」(シェイクスピア著)
 ハムレットは、ご存じシェイクスピアの代表作である。
 高校の英語で良く引用される有名なセリフ「to be or not to be, that's the question」がある。シェイクスピアの英語は難解であるとは良く聞くことであるが、このセリフも、beという原型が使われているし、questionの前の定冠詞theも意味深い。
 これをもじって、「to be to be, ten made to be」というしゃれもあった。
 ところで、この戯曲であるが、シェイクスピア四大悲劇の一つである。
 設定はデンマーク王子ハムレットの肉親間の復讐を描いたものである。
 自分の父である王が急死し、前王の弟である叔父が王に座り、母親を王妃とするが、それを快く思わない王子ハムレットが、父の死の真相を突き止め、父の敵を討つという仇討ちの物語である。
 この主テーマに付随して、王妃である母親も、その他多くの人が死に、最後は、友人に後を託し、自分も死の道を選ぶという設定である。
 この作品は、どこにでもありそうな仇討ちをテーマとしながらも、展開の中でいろいろな心情の変化・動きを描き出し、仇討ちが成功した後に、主人公の死というどんでん返しで結末を迎える。
 この辺りがシェイクスピアの作品がいつまでも人気のあるゆえんであるのだろう。
 ところで、この物語りでは主人公がハム、従臣の息子が(レア)チーズ、ハムとチーズの闘いである。これは、私の日本人的言葉遊びであるが、悲劇をハムとチーズの闘いとして鑑賞するのも一興である。
 ぜひご一読を。 
18:「マクベス」(シェイクスピア著)
 今回は、現在編3月17日に取り上げた黒沢明監督作品「蜘蛛巣城」で取り上げたマクベスのことである。
 マクベスは、シェイクスピアの悲劇の一つである。
 「蜘蛛巣城」では、三船扮する武将が森の中で亡霊からのお告げを聞き、自分の殿の暗殺を謀るところや、最後の森が動くという設定は、マクベスの設定そのままである。
 マクベスは、私的には余り好きな物語ではない。
 なぜならば、狂気的なところや神懸かり的なところがモチーフになっているからである。
 この物語は、出会った魔女の予言を信じ実行し、国王に登りつめるが、最後には予言に裏切られる格好で死を迎えるマクベスの物語である。
 魔女の予言を聞くというあたりは、キリスト教的で、われわれ日本人にはぴんと来ない。 黒沢氏がマクベスを日本的に書き下ろしたのが「蜘蛛巣城」であるが、映画を見て若干の違和感を感じるのは、キリスト教的精神風土のヨーロッパと仏教的精神風土の日本の違いからきているのではないだろうか。
 この物語の教訓としては、予言を自分の都合の良いようにのみ聞く者は、神の罰を受けるということであろうか。
 人間、自分の都合の良いようには世の中や物事が展開するものではない、という人としての真摯な生き方を訴えているのかも知れない。
  物語の展開の底にあるシェイクスピアの伝えたいことを考えながら読むとおもしろい。
 是非ご一読を。
19:「ユートピア」(トマス・モア著)
 この作品は、今から約500年前、トマス・モアによって書かれたものである。
 ユートピアとは理想郷とか理想社会と訳されている。
  私がこれを読んだのは大学生の時である。
 多感な青年時代には、いろいろな意味で理想を求めるものであるが、私も学生時代には理想郷という文言に魅力を感じ、わくわくしながら読んだ。
 この小説の中で述べられている国家・社会は空想であるが、今になって思えば社会主義・共産主義である。
 この小説の中の理想とされる社会生活は、私有財産の否定・勤労の義務・共有財産制に基づいている。いわば原始共同体の如き生活である。
 ユートピアは、他から独立(孤立)した島国家であり、周りが水路・海で守られている。
 国民は、一日6時間の農業労働に励み、余暇には芸術や科学研究を行う。
 しかし、一方で、共同体社会を守るために、細かい生活規定や相互監視、また、共同体社会になじめない者に対する奴隷制など、非人道的な側面もある。
 このような理想社会などあるはずはないのであるが、人間はそれでも理想的な社会を追い求めたくなるものである。それがこの小説のバックボーンとなっている。
 この小説の250年後、社会契約の考え方に基づくヨーロッパ革命、さらにその100年後、マルクス主義に基づく共産主義革命が吹き荒れ、ユートピアをめざした国家が建設された。
 それからさらに150年後の現在、その評価はどうだろうか。
  歴史の事実が証明しているように、トマス・モアの唱えたユートピアは所詮理想でしかなかった。
 しかし、彼のユートピア思想は、人間が存在する限り今後も形や内容を変えて提唱されるだろう。
 それは人間の性ともいえる。
 読者の皆さんは、どんな理想郷を想像されるだろうか。
20:「小泉信三全集」(小泉信三著)
 私が、この書物に接したのは中学生の時である。
 確か、読書感想文を書くのに、この書を選んだ記憶がある。
 読んでの感想は、とにかく難解な文章であるという印象である。途中で理解できない部分があって、もう止めようかと思ったが、せっかく読み始めたのだから、最後まで読んでみようと思った記憶がある。
 いちいちの文言は記憶していないが、文言の中に次の一文があったと記憶している。
 それは、「人生において、万巻の書をよむより、優れた人物に一人でも多く会うほうがどれだけ勉強になるか。」である。これは、現在の自分の座右の銘になっている気がする。
 私が人と接する時の基本的なスタンスとして、どのような人であれ、その人の優れた部分を吸収しようとする精神となっている。
 そのおかげで、これまでの人生で、いろいろな人のもっとも素晴らしい部分を吸収できたのではないかと思っている。
 みなさんも、その時々に出会う書物に自分を重ねながら、最後まで読み終えてみることをお薦めする。
 どの書物にも、全編を通じて読者に伝えたいものが必ずあり、そのことは、読者にそれまでとは異なる世界観を与えてくれることも多い。
 読者の皆さんには、いろいろな種類の書物に親しみ、自分の人生観や視野を広げられることをお薦めしたい。 
21:「こころ」(夏目漱石著)
 最近、朝刊の朝日新聞紙上に夏目漱石の「こころ」が連載されている。
 1914年の4月20日から8月11日まで朝日新聞に連載されたものの再掲である。
 戦後生まれの私には、当時の連載は知る由もない。
 私が、「こころ」を読んだのは、岩波100選だったか新潮社の文庫本だったかどちらかである。
 記憶に定かでないほど、過去の記憶である。学生時代、今から45年も前のことである。
 記憶に残っているのは、「こころ」という作品の結末が自死というものであったということである。
 夏目漱石作品は一通り読破したが、晩年の「こころ」と「明暗」は暗い印象の作品である。
 「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」は、ユーモアにあふれた作品であるが、「こころ」はそうではない印象がある。
 この機会に、再度、詳しく読み返しているが、さすがになかなかの作品である。
 何がさすがかといえば、夏目漱石の作品全体がそうであるが、心理描写が実にうまい。
 このような作品は、私の知っている範囲では、ほかには、三島由紀夫の「潮騒」と住井すゑの「橋のない川」である。
 この機会に、連載を読破し、45年前に感じたものが何だったのかを自分に問い直してみたいと思っている。
 45年の人生経験を経て、同じ小説が自分にどのように受け止められか、自分自身楽しみにしている。
 今回のこのページは、「こころ」の再連載に合わせて、このページ初めてのシリーズになるかもしれない。
 読者の皆さんも、様々だと思います。
 「こころ」を初めて読む方、二回目以上の方、朝日新聞を購読の方、そうでない方、それぞれの立場で是非読んでください。
 そして、このページをご覧ください。
22:「こころ」二回目(夏目漱石著)
 「こころ」二回目である。
 これまで連載を読み進めてきての感想は以下の通りである。
 「こころ」というタイトルにふさわしい心理描写がものの見事に展開されていて夏目漱石という作家の語彙の豊富さと表現の巧みさに舌をまいている。
 日常の何気ない所作動作や会話の展開、そのときの心理描写が実に巧みでよくこんな言葉が出てくるな、という位見事に表現されている。
 さて、クライマックスに入ってきて、手紙という形式を借りて、先生の友人Kの自死という場面が展開されている。
 自死に至る場面の始まりは、先生と友人との下宿宿の娘さんを巡っての恋のさや当てである。
 先生は、友人がその娘さんに好意をもっていることを彼との会話の中から感じ取ると、先鞭を切って娘さんの母親に「娘さんを私にください」と迫る行動に出た。
 そして、母親からその約束を取り付けてしまうのである。
 さらに、自分から友人に直接そのことを伝えるのではなく、母親からそのことを伝えてもらうという手段を執るのである。
 友人Kは、自分の友達から直接話を聞くまもなく自死という道を選んでしまう。
 私は、多感な学生時代にこれを読んで、男の友情と男女の情愛との間の心の葛藤に対して、自分ならどうするだろうかと自問自答したことを思い出す。
 その後、実際、私にも似たような経験があり、友人を自死に至らしめるほどにもつれることはなかったものの、多感な学生時代には誰にもあることだと改めて思う。
 この後、先生がどのような態度に出るかはこれからであるが、どのように展開されていくのかクライマックスを読み進めようと思っている。
 読者の皆さんも、自分の若い頃のこころのありようを思い起こし、「こころ」連載を読み進められることをお薦めする。
23:「こころ」三回目(夏目漱石著)
 「こころ」連載も105回目に入った。
 物語はKの自殺後の展開に入り、Kの葬式も終わって、先生自身のこころを見つめ直す場面に入ってきた。K自殺の直接的な原因と思われるお嬢さんとの結婚も終わり、二人でKの墓前に参る場面があるが、印象に残る箇所があったので抜粋しておきたい。
 「私はとうとう御嬢さんと結婚しました。外側から見れば、万事がよき通りに運んだのですから、目出度いといわなければなりません。奥さんも御嬢さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が随いていました。
 私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。」
 「私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後決して妻と一所にKの墓参りをしない事にしました。」
 この二箇所の表現は、これからの小説の展開とクライマックスを予想させるものである。
 しかし、私の学生時代に読んだ記憶の中には、Kの自殺もこの後の展開も記憶にない。新たな気持ちでこの後も読み進めたいと思っている。
24:「こころ」最終回(夏目漱石著)
 「こころ」連載は、110回目で終了した。
 最後の二回は、クライマックスとなる先生の自殺に至る「こころ」が書かれている。
 三回目で書いたように、お嬢さんの争奪戦から友人Kの自殺に発展したいきさつを「こころ」の中に封印したつもりが封印しきれず、ついに、明治天皇崩御に続く乃木大将の殉死に名を借り、先生自身も明治の精神への殉死という形で自ら命を絶つことになる。
 もちろん、手紙はその直前の「こころ」が綴られているのみであり、その後の展開はわからない。
 手紙に書かれた内容によると、頓死、血を見せない死に方、殉死などという文言が見られる。
 小説は、大体において、作家の精神を反映したものであるが、夏目漱石も自殺を取り上げるということは、自らも自殺願望があったのかもしれないと想像する。
 先生の自殺に至るまでの「こころ」の葛藤を些細なまでに微妙に描いている反面、自殺を決意した後は、自分の「こころ」を実に淡々と描いている。
 夏目漱石は、人生最大のテーマ「死」について深く考えることを通して、そこに至る人間の「こころ」のヒダを描きたかったのだと思う。
 一度きりの人生を清く終わりたいと思うのは漱石先生をはじめ万人共通の真理ではないだろうか。
 これを書いている私自身も、その時を必ず迎えなければならない。自分の最後をどうまとめるか、現時点で具体的に考えているわけではないが、それまでの日々の「こころ」の営みを大切にしたいと思うこの頃である。
25:「三四郎」(夏目漱石著)
 「こころ」に続いて、「三四郎」の連載が再掲された。
 この「三四郎」も夏目漱石の作品であり、これも学生時代に読破している。
 その当時の感想は、三四郎という主人公が大学生の身に起こる様々な出来事をおもしろおかしく描いている、というものである。
 自分の大学生生活と重ね合わせて、読んだと記憶している。
 特に、学生時代にはありがちな女性との恋愛に関する下りは、参考にしようという気持ちがあったのか、その視点で一気に読み進めていったように覚えている。
 朝日新聞に毎日再掲されているので、単行本で一気に読んだ当時とはまた違った心持ちで読み進めている。
 この書物は、「坊ちゃん」や「猫」と並んで、親しみやすく読みやすい夏目漱石入門書の一つである。
26:「三四郎」二回目(夏目漱石著)
   「三四郎」連載も?回目」に入ってきて、三四郎池のほとりでであったあこがれの女性と再会し、その距離がだんだんと縮まっていく様子が描かれるようになってきた。
 「こころ」でもそうであったが、連載の注釈欄に載る説明がなかなかにおもしろい。
 今回は、里見美彌子のモデルは里見某という女流作家であるらしいという注釈がついている。小説家というのは、現実のモデルを脚色して小説化していくものなんだと改めて思い知らされる。
 この後、この女性との心のやりとりが展開されるものと思われる。
 私も、学生時代にあこがれの女性があったが、自分自身の回顧とつき合わせて読み進めていきたい。
 また、三四郎の姓名は小川三四郎であることも明らかになった。
27:「三四郎」三回目(夏目漱石著)
 「三四郎」も78回目に入った。
 美禰子の家を訪問しての1対1でのやりとりの場面になった。
 きっかけは、同級生の?に貸した金20円を美禰子から立て替え返却してもらうという設定である。
 今回の連載文の中で台詞はたったの4句である。
 三四郎の「美禰子さんは御宅ですか」、下女の「暫く、どうか・・・・・・」、美禰子の「いらっしゃい」「とうとういらっしゃった」である。
 美禰子の後の方の台詞はなかなか趣のある台詞である。
 いろんな受け止め方ができるが、待ち焦がれていたとも受け取れる。
 この後の顛末は、次回以降の連載に期待したい。
28:「三四郎」四回目(夏目漱石著)
 「三四郎」全117回の101回目に入り、クライマックスが近くなってきた。
 美禰子とのやりとりが急展開している。
 美禰子とは金の貸し借りからつきあいが深まっていくが、今回は、美禰子がモデルをしている画家の原口宅を訪れての美禰子とのやりとりがおもしろい。
 三四郎は、美禰子に対して、
 「あなたに会いに行ったんです」
 「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」
 と告げている。
 これまでの展開の中では、最も踏み込んだ発言である。
 この後クライマックスに向けて、どのような展開が待っているか楽しみである。
29:「三四郎」最終回(夏目漱石著)
 「三四郎」の最終回はあっけなく終わった。
 これまでの美禰子とのやりとりから、どうなるかわくわくしながら読み進めたが、最後は美禰子の別人との結婚という形で終結した。
 淡い初恋物語は、同年齢の女性に心を翻弄される形で終わった。
 学生時代の私にも似たような経験があるが、やはり、同じような結末であった。
 生物学的にも、男性と女性とでは、成熟の仕方が異なり、女性の方が成熟が早いと言われている。
 裏を返せば、男性の方が未熟である。特に、精神的な面に関しては。そのことを物語るような結末である。
 漱石がこの小説で何を言いたかったのかは分からないが、漱石の心理描写は巧みでおもしろかった。
 特に、三四郎と美禰子との心のヒダのふれあいは実にうまく表現されている。漱石のたぐいまれな心理描写を堪能した。  続いて連載される「それから」も堪能したいと思っている。