随筆日記 回想編1(自然の不思議) ホームページへ  回想編2へ 現在編へ
(1)桑の実
 
保存禁止保存禁止   私は、小さいときから自然が大好きで(というより、自然しかなかった)、自然いっぱいの野原を歩き回っては、自然にふれるのがとても好きでした。
 だから、理科のウニの発生の勉強で桑実胚というのが出てきたとき、うまく名付けたなと思ったものです。その胚がいかに桑の実にそっくりか、桑の実を食べて育った私にはピンときました。
 また、桑の葉っぱをちぎると、白い液が出ます。実はこの白い液にはアルカロイドが含まれていて、特定の虫(カイコ)にしか食用にならないそうです。そうやって、長い時間をかけてカイコと桑の木は共生関係を作り上げてきたようです。こんなロマンに満ちた話が自然にはいっぱいあります。
 小学校6年生の時?、誕生日にほしかった顕微鏡を買ってもらいました。今でも残っていますが、自分の周りにある自分の髪の毛から泥水までいろいろなものを手当たり次第見て楽しんだことを思い出します。
 今、心に残っているのは、いちいちの映像よりも親への限りない感謝とそのときのわくわくする気持ちです。
左の桑の実の写真は、あおもりくま様のギャラリーからお借りしました。
右の桑実胚の写真は、山口道明様のご好意で提供いただきました。
ありがとうございました。
(2)汽車の音

フリーフォトからお借りしました。
亀山駅でのD51です。
 私が小学生の頃、天気が崩れてくると10kmも離れた鉄道駅の方から汽車の汽笛の音がいやに大きく聞こえたものです。D51だったかどうかはわかりませんが、いわゆる蒸気機関車の汽笛の音です。
 なぜ天気が悪くなると汽笛音が良く聞こえるのか、大人の人(親だったか?)に聞いたような気がしますが、厚い雲に音が反射して良く聞こえるということだったのです。
 音が反射することは山びこで知っていたので、なるほどと納得したものです。その後、音の伝わる速さは、媒質によって異なるということに気づきました。水中での音の伝わり方、鉄棒をたたいたときの伝わり方、飛行機雲の後から音が聞こえてくることなどなど、音の不思議さについてあれこれ考えたものです。
 ちなみに、空気中の音速は、C=331+0.6tです。15℃の時秒速340m、時速1225km。音速をマッハという単位で表します。今の場合、1マッハ=340m/秒ですね。ちなみに、現在の最速ジェット機はマッハ7で、マッハ10を目指しているようです。
 最後に、かすかな記憶で、小さい頃、自分の発した声を先回りして聞くことはできないかとチャレンジしたような覚えがあります。人間の走る速さは10m/秒くらいですから、不可能だったんですね。
 でも、みなさん、自然に対する子どもらしいほほえましいチャレンジだと思いませんか。
(3)水紋

2009/5/5(火) 恵みの雨
待っていた水紋の写真が撮れる。
勇んで外に出てシャッターを切り
ました。雨粒落下による同心円状
の水紋と干渉波も同時に撮れました。
 梅雨の頃、毎日雨が降って外で遊べない日が続きます。そんな日は、しきりに降る雨を見るともなくぼんやり見ていました。
 雨が天から降ってきて、たまった水たまりに落ちてくる、すると、落ちたところから水紋が必ず同心円状に広がって、水たまりの端までいくと消えていく。いくつも雨が落ちてくると、同心円同士は衝突するんだろうかと不思議になって見ていると、衝突してどちらかが勝つというふうにはならない。
 それぞれが何の干渉も受けずに独立して消滅していくように見える。その光景が不思議で不思議でずっと眺めていたことがあります。
 雨降りのひそかな楽しみでした。いろいろな水界へ行ってもみました。川はどうだろう、水田はどうだろう、また、雨降りの日は他の生き物はどうしているのかな、と次々と見たいものがふえていきました。
 自然て楽しいですね。
(4)飛行機雲

2009/5/30(土) 飛行機雲発見
松の剪定をしつつ、下に降りて枝
を見上げていると飛行機雲が目に
入った。チャンスとばかりシャッタ
ーを切った。この写真はかなりの
高度を飛ぶ飛行機から出ている飛
行機雲の写真です。すでにできあ
がっている飛行機雲との違いがよ
く分かりますね。
 子どもの頃、不思議なものの一つに飛行機雲がありました。飛行機が飛ぶと後ろにスジ雲ができる。不思議でした。今になって思えば、車も寒い朝は雲のようなものを出している。なんだ、排気ガスかというわけですが、でもそれが少し長い間残っている、やっぱりなんでかなというわけです。
 そういえば、雲と雨の関係や人工降雨の実験などというものも行われていましたね。沃化銀?をまいて…ということだったような気がしますが、あれは今どうなっているのでしょう。
 雲ができるには、水蒸気が水滴になることと、水滴が集まりやすい核種が必要だったんですね。
 われわれが子どもの頃は、飛行機はもちろん、自動車もほとんどありませんでした。小粋なお兄さんたちが、車の前でクランクを回してエンジンをかけている、そんな時代でした。ビスという自転車に小さいエンジンをつけたものもありました。さらに、自転車のタイヤはノーパンタイヤでしたね。
 脱線しましたが、子どもにとって飛行機に乗って直接見ることのない高い空の上の飛行機雲、ロマンでした。寂しくなったときなど、雲を見ていると、その雄大さに心がホットしたものです。
(5)マキの実

7/14(火)我が家のマキの実です。
まだ実は青い(白い)ですが、熟し
たら赤い実の写真と差し替えます。
 桑の実と同じくらい親しみのあるのがマキの実です。昔の民家の周りにはマキの木が必ず植えられていました。マキの木は燃えにくく、火事があったときの延焼を防ぐ効果があったといわれています。
 そんなことは全く知らず、そこここにマキの木があり、時期になるとたくさん実をつけるのです。熟した実はそんなに甘くはないが、甘みのあるおいしい実でした。そういえば、グミの実に少し似ていました。
 小学生の頃は、マキの葉っぱでどちらが強いか半折りにした葉っぱを引っ張り合ったことを思い出します。
 またマキの木の根元には、ジグモ(土中に筒状の網を張るクモ)が網を土中に張っているのを網もろとも引っ張り出す遊びがありました。網を破らずにクモもろとも引っ張り出すのが結構難しく何回も挑戦したものです。ジグモさんには、とんだ迷惑だったことでしょう。
 あのときのジグモさんはもう死んでしまったかな。生きていたら会いたいね。
(6)一生傷

見苦しいものをお見せしますが、
親指の爪の一番下に古傷があります。
古傷の部分は、爪の組織を作る
ところで、 そこを傷つけたので、
爪はずっと真ん中で割れたように
なって生えてきます。
 小さいときにした傷が一生残ることがあります。一生傷と言いますが、小さい頃の腕白さが伺えるものです。
 私は小さい頃、ずいぶん腕白でした。幼稚園のなかった頃なので、小学校に上がる前は、母親の後をついて畑仕事に行った覚えがあります。
 川のそばの畑で、さつまいもなどが植えてあったような記憶がありますが、定かではありません。腕白ものの私は、母親のいつも使っている鍬を使って畑の土を耕していた?(これも何をしていたときか記憶が定かではない)時、思い切って振り下ろした鍬が自分の左足の親指に当たり大出血しました。
 そのときの母親の処置は水で洗っただけだったか?医者に行った覚えはありません。どんな処置をしてもらったのかも定かではありませんが、とにかく、親指の爪の付け根を損傷したようで、ずきずきと痛んだのを覚えています。
 癒えてから見てみると、その後から出てくる爪は真ん中が盛り上がって、横から見ると山のような形になっていました。どうやら爪を作るもとの細胞(または細胞塊)に傷を付けてしまったようです。
 それは、現在まで続いています。小さい頃の一生傷の思い出です。
 みなさんにも、一生傷の一つや二つあると思います。自分の小さい頃の思い出と共に保存されています。
(7)さとうきび(2009-4-26(日))

沖縄での写真です。牛力絞り器です。
下にあるのがサトウキビです。
 私が小学生の低学年の頃、我が家の畑では、さとうきびや綿を栽培していました。今日は、そのうちのさとうきびについてお話しします。
 今でも、我が家の畑でできたさとうきびの茎を途中で短く折って皮をむいてしがんだ時の味が記憶に残っています。
 ずっと後になって、本場沖縄のサトウキビを味わいましたが、甘さの感じがずいぶん違いました。我が家でとれたものは、薄い砂糖水のような感じでしたが、沖縄のものは黒糖の味です。
 土壌、気候、品種等さまざまな違いがあるのでしょうが、一番の違いは、私自身の感覚かもしれません。その感覚には懐かしさという味付けがたっぷりとされていて、小さい頃しがんだ我が家のさとうきびが一番おいしいと思うのです。
 今、大脳生理学などで研究が盛んですが、人間の記憶や脳の働きは不思議ですね。
(8)綿の実(2009-4-27(月))
 さとうきびと同じく、私が小学生低学年の頃は、畑で綿の実を栽培していました。家には、取り入れた綿の実がありました。
 大きさは3〜4cmで、ほおずきのフクロを大きくしたような形で、実の皮が3〜4枚に裂けて中から綿が見えていました。
 われわれが普段目にする綿は真っ白の吸水性の良い脱脂綿ですが、そのままの綿は、少し黄色がかっていて油を含んでいる感じです。
 綿実油という油もあるくらいで、油分があります。これを水泳の時の耳栓にすると、水をはじくのでとても効果的です。私などは、川での水泳のとき、これを耳栓にして遊んだものです。効果は抜群で、少しも水が耳に入りません。今販売しているような耳栓よりも、よほど効果的です。
 私の記憶では、綿の木はそんなに大きくならず、ごまの木と同じか少し大きいくらいの背丈です。
 綿実油にはお目にかかりませんでしたが、油を含んだ綿は懐かしさと共に記憶に残っています。
(9)カイコ(2009-4-28(火))
 今日、HPを見ていたら、石川様のHPにカイコのことが詳しく載っていたので、私も、小さい頃のことを思い出しました。
 今回は、カイコの話です。小学生の頃、昭和20年後半〜30年代前半には、まだ私の住む農家ではカイコを飼っているところがあり、畑には桑の木がありました。
 養蚕部屋に入ると、竹で編んだ棚の上にカイコの葉とカイコがたくさんいて、ばりばりと葉を食べる音がしていたものでした。また、養蚕部屋は暖房をしていなくても、カイコの体温のせいか暖かく独特の雰囲気がありました。真っ白なカイコを手で触ると、人間のすべすべの白い肌のようで、かわいい感じでした。
 カイコの種類にもたくさんあるようですが、私たちのところで飼っていたのは何という品種なんでしょうか。
 ずっと前にテレビで日本の古くからの絹糸の原料として、種々のカイコ蛾が変われていて、色の付いた絹糸になる繭を作る種類もあったようです。
 人間とカイコ蛾の古くからのつきあいが伺われます。また、桑の実のところでも書いたように、カイコの幼虫と桑の木の関係も長い間の進化に関係しているようです。
 カイコを通して、人間の文化やカイコと桑の木の共生関係の歴史など、ロマンを感じます。
 やはり、自然は奥深いですね。

(10)地蔵さんの入水音(2009-5-21(火))

地蔵さんの写真です。
耕地整理で、川が移転し
ましたが、元の位置近く
にあるので、たぶん例の
地蔵さんに間違いありま
せん。
今思うと、二人で転がし
て川へ放り込んだので、
もっと大きいと思ってい
たら以外に小さかったで
す。
それだけ、自分が大きく
なったのですね。無邪気
な私たちの物理実験に協
力頂いたお礼と川へ放り
込んだ無礼をわびつつ合
掌し、写真に収まって頂
きました。
お地蔵さん、ごめんなさ
い。そして、ありがとう。
合掌再拝。
  いくつの時のことか定かではありませんが、小学校1年生の頃だったと思います。仲の良かった同級生と二人でいろんな遊びをしていていて、ある時、道ばたの地蔵さんを川に放り込んだらどんな音がするだろう、と二人で地蔵さんを転がして川に放り込んだことがありました。そして、橋の上から二人で小便をかけたことを思い出します。
 近くで畑仕事をしていた近所のおばあさんが飛んできて、「このばちあたりが」と思い切りしかられました。とにかく、おっちゃくかった(いたずら好きという意味)。当時のことを母親に聞くと、「お地蔵さんも水浴びさせてもらって喜んでござるやろ」とおばあさんが言ってくれたのでホットしたということでした。母親にも心配させていたんだなと今になって反省。
 この当時のことを思い起こしてみると、川に石を投げ込んで遊んでいると、石の大きさによって水の音が違うことに気が付きだして、大きな石を放り込んだらどんな音がするだろう、試してみよう、ということになったんだろうと思います。そして、周りを探すとお地蔵さんがあった。これを放り込んでみよう、ということになった。
 返ってきた水の音は、低く長く聞こえたように思います。今考えても、音の元は何なのか、しっかり考えないと分からない難問です。
 小さい子どもの発想は、結構物理学の本質的なことを追い求めているような気がします。
 石の投入音が聞こえるということは、投げ入れたことによって水が変形し、それが周りの空気を振動させ音となって聞こえてくるということなのでしょう。投げ入れた物体の大きさによって音の高低や大きさが違うのは、空気の振動数や振幅の大きさが異なるためと今なら考えられます。
 しかし、どの大きさならどの程度の音、媒質の種類や状態によってどう違うかなどの定量的な関係は、結構複雑で研究してみるとおもしろい研究になるかもしれません。
 とにかく、この当時は水の跳ね返り音がおもしろくてやっていたようです。ただし、なぜ小便をかけたのか?ですが、たぶん、川に小便をしたときの音との違いを聞きたかったのかな、と小さい頃の自分を人ごとのように思い出します。
 自然っていいね。
(11)牛と寝る(2009-6-16(火))

沖縄旅行で撮った牛の写真で
す。
今回の実の主人公ではありま
せんが、同じ仲間です。
牛は眼が優しいですね。
一緒に寝てみると、その優し
さは実感です。 大きな舌で顔
をぺろぺろとなめてくれます。
私の小さい頃は、農作業の働
き手として牛を飼っていました。
今は、ペットとしてイヌを飼う人
が多いようですが、ウシを飼っ
てみるのもお薦めです。
 歳は定かでありませんが、私は小さい頃、おっちゃくかった(いたずら好き)ので、よく父親にしかられ、押入れに放り込まれたりしました。押入れに放り込まれて、そのまま寝てしまったことも何度かあります。
 そのうち、押入れが小さくなってきて、今度は、牛小屋に放り込まれました。
 何回か放り込まれましたが、最後の方は、出してもらえずそのまま一晩牛と一緒に寝たことがあります。
 牛はとても優しい眼をしていて、とても優しい動物です。私の顔を大きな舌でぺろぺろとなめてくれました。温かくて、一緒に寝ました。
 インドではヒンズー教の影響で、牛が神聖な生き物として大切にされていますが、牛と一緒に過ごした私には、それがよく分かります。
 小さい頃は、切ったわらを牛にやるのが私の役割でした。大きな臼歯で、上あごと下あごを臼のように使いながらわらをすりつぶして食べます。 わらしか食べないのに、なんであんな大きな体をしているのか、不思議に思ったものです。
 偶蹄類の反芻胃の仕組みと言い、そこに住み着くバクテリアと言い、生き物の生命維持の仕組みは実に旨くできています。 長い長い時間をかけて進化というしかけで現在のスタイルができあがっているのです。
 また、思い出として残っているのが、牛の爪切りです。時々、獣医が来て牛の爪を大きく鋭利な鋏で切るのです。 この獣医七半?(400cc?)の大きな白いバイクに乗ってやってきました。その後、流行った「月光仮面」のようでした。 爪を切ると颯爽と白いバイクに乗って去っていく、かっこよかったというか、不思議な人でした。
 それこれ共に、牛の懐かしい思い出です。
(12)水泳(水浴び)(1)(2009-6-27(土))

2009-7-4(土)久しぶりに川に行っ
てみました。
同じ場所ではありませんが、この
ような川の流れにのって泳ぎました。
実際の場所は、もう少し深さがあ
りました。
 小さい子どもの頃の夏休みの一番の楽しみはなんといっても川での水泳です。水泳というよりも水浴びといった方が適当かもしれません。
 ともかく、夏休みになると、近くの川へ保護者(近所のおじさんやおばさん)が子どもを集めて連れて行ってくれました。
 今思うと、近くのおじさんやおばさんとふれあえる良い機会でした。近所の人にとっても、いろんな子どもとふれあう機会でもあったのでしょう。
 このような雰囲気からは、昨今起こっているようなおかしな事件は起こりようもありません。懐かしき良き時代と片づけてしまうにはもったいないものです。
 ともあれ、プールのなかったわれわれの時代は川が唯一の水泳場でした。池や川でもドレッジャーで掘ったあとの人工池などもありましたが、危険なので遊泳禁止になっていました。
 このドレッジャーで掘った人工池にまつわる話はまた次回にでも紹介したいと思います。
 さて、この川での水泳ですが、この当時はまだ水がきれいで、とても気持ちよかったですね。水中めがねをはめて、耳には家で採れた綿耳栓をして、潜って遊んだものです。
 当時人気があったのは、少し色の付いた石を放り込んで、探しあいっこするというものでした。これは、探すのに一生懸命になるので、知らず知らずのうちに水に親しむことができます。
 また、川は流れがあるので、プールよりも泳ぎやすかったという印象も残っています。
 ただ、自然の中なので、いろんな虫が飛んでいて、刺されることもありました。特に、アブは痛いです。牛小屋で寝たときも、一番危険だったのはアブです。
 ともあれ、自然いっぱいの中での子どもの頃の暑い夏のいい思い出です。
(13)水泳(水浴び)(2)(2009-7-1(水))

2009-7-4(土)上と同じ日の写真で
す。
この写真の一番上のあたりが水泳
場所でした。
ドレッジャーの掘った穴はもうあり
ません。
今は、草が生えて面影はありませ
ん。
思い出が封印されたようで、ちょっ
と寂しい。
 水泳の二回目です。前回約束したように、今回は、機械で掘ったあとの人工池での水泳について書きます。
 私たちが泳いでいた川は、採掘権を獲得したのか、ある砂利業者が砂利を掘り出していた。
 ドレッジャーという機械で掘った後には、水たまりというか池ができていた。この人工池は、ちょうどアリ地獄のようなすり鉢型になっていて危ないので遊泳禁止になっていた。しかし、水が冷たく気持ちがいいので、泳ぎ自慢の子らは泳いでいた。
 いつもの夏休み、その場所へ泳ぎに行った。そのうちに、人工池で泳いでいた一人の子がおぼれ出した。まわりで騒ぎ出したが、なかなか助けに行く者がいない。その内に、ある一人の子が飛び込んで助けた。助けた子は、後に中学校で同じクラスになった。さわやかないい男であった。
 その後、その話がどう伝わっていったものか、助けた子がNHKの「私は誰でしょう」という番組に出演することになった。
 その子は、マントを着て他のニセ者の二人の子と共に登場し、どうやって助けたかをそれぞれ実演して見せた?。助けた本物の子は、「おぼれている子がしがみついてきたので、いったん沈み、しがみついている手を離させてから、背後に回り、あごに手を添えて一緒に岸まで泳いだ」と言った。
 本物が誰かは、そのコメントですぐに分かったが、それにしても、すごいテクニックだと驚いた。ちなみに、当時のテレビは白黒で、まだテレビを持っている家が少なかった時代で、この番組も近所のテレビのある家に見せてもらいに行った。
 おぼれる子を助けたその同級生は、10年ほど前に亡くなり、現在はもうこの世にはいない。
 懐かしさと共に複雑な心境になる出来事である。
(14)祖母(2009-7-8(木))

祖母の肖像画です。私の
長女作です。
祖母の特徴をよく表して
います。うまい。
私が中学三年の時になく
なりました。64歳でした。
早かったですね。もっと長
生きしてほしかったですね。
私が医師を目指したきっ
かけにもなりました。
諸事情で医者にはなれな
かった私ですが、なくなる
ときには、自分が医者で
あればと思ったものです。
 今回は、私の祖母の話です。私には、祖父母が4人います(当たり前)。そのうち2人、両祖父は顔を見たことがありません。即ち、若くしてなくなっています。
 昔は、仕事がきつく、かつ、医療体制も整っていなかったので、主たる働き手であった両祖父は体に負担をかけ、若くしてなくなったようです。
 一方、祖母の方は、母方も父方も顔を知っていますが、母方の祖母は病気がちで、私が知っている祖母は床に伏せっている姿だけです。従って、私の記憶に良く残っているのは父方の祖母です。
 祖母は私が小さい頃(小学校に入る前)は、私をあまりかわいがらなかったようですが、小学校低学年から中学年ころになると、私が、「ばあちゃん、ばあちゃん」と言って寄っていくので、だんだんと大事にしてくれるようになったようです。
 縁側で、よく祖母の肩たたきをしました。祖母は昔の人でしたが、今思うと、色々なことをよく知っていました。特に、風邪薬はオオバコ、心臓にはゲンノショウコ、毒下しにはドクダミ、おねしょにはイボガエルなど、薬草をよく知っていて煎じて飲ましてくれました。
 特にオオバコの風邪薬はよく飲みました。今の私の基礎体力は、祖母のこれらの薬草のおかげかなと思ったりします。
 ちなみに、私が学校を休んだのは麻疹にかかった二日くらいだけでした。それも法定伝染病の出席停止というやつで、小学校では皆勤賞をもらっています。
 祖母との思い出の一番は映画会です。昔は、青年団が近くの小学校の講堂で、よく映画会をしていました。祖母は、いつもの巾着を持ってよく映画会に連れて行ってくれました。映画会の楽しみは、映画そのものよりもアイスクリームでした。その当時、アイスクリームなどというしゃれたお菓子は滅多に食べられるものではありません。しかし、その映画会ではアイスクリームが売っていて、祖母はいつもそれを買ってくれました。なんていいおばあちゃんだ、子どもは正直ですね。ますますおばあちゃんが好きになりました。
 映画会は、二時間くらいあったと思いますが、一時間くらいすると決まって頭が痛くなりました。小学校で習っていたので、それは炭酸ガス(二酸化炭素)のせいだとわかりました。ちなみに、酸素は赤血球、二酸化炭素は血漿と別々の方法で運ばれるのを知るのは中学校に入ってからでした。
 今、地球温暖化、オゾン層の破壊など二酸化炭素や酸素に関係する現象が起こっていますが、それらに自然と意識が向くのは、この小さい頃の頭が痛くなった経験がそうさせているのかも知れません。
 小さい頃祖母と過ごしたことが、今の私が自然に興味を持つ原点かも知れません。
 あらためて、祖母に感謝、合掌。
(15)もらい風呂(2009-7-11(土))

その当時の面影を残す風呂の写
真です。
祖母の生家の風呂です。
当時は、このようなコンクリ作りで
はありませんたが、位置は変わっ
ていません。
我が家の風呂は作りかえて位置
が変わってしまっています。
この祖母の生家の風呂は、裸に
なって風呂へ行くまで少し距離が
あるので、冬などは寒かったです。
でも、懐かしいにおいのする風呂
でした。
 私が小学生の頃は、もらい風呂があたりまえでした。
 毎日風呂を沸かすのは大変なので、風呂を沸かしている近くの家に風呂を入らせてもらいに行くのです。
 自分の記憶では、現在自分の住んでいる集落のほとんどすべての家の風呂に入らせてもらったように思います。
 私の住んでいるところは、農村地域なので、助け合いの精神が強く、風呂をお願いすると、自分の家族は何時頃に入り終わるので、その頃に来て下さいということで、その家の家族が入り終わった頃にもらいに行くのです。
 当時の農家はよく似た建て付けになっていましたが、家によって少しずつ感じが違っていて、いろいろな風呂を楽しめたという感じがあります。
 私たち子どもはそうでもなかったけど、親同士はそこでいろいろな会話があって、同郷意識を涵養するのに意味があったのではないかと思います。
 隣の集落にも仲の良い友達がいて、夕食をいただいたり、風呂を入らせてもらったりしました。その子の家でも、いっぱい遊んだ後、風呂へ入らせてもらいました。そこの風呂は、いわゆる五右衛門風呂で周りに何もない風呂で、いつもとは違った風呂を楽しめました。
 最近に至るまで一番親しかったこの同級生は二年前に他界しました。
 私の小さい頃は、このように隣同士の助け合いがあり、農村地域の良さを残していました。
(16)小さい頃の遊び(2009-7-13(月))

当時のチャンバラの舞台、近くの
城山です。
チャンバラとは、ちゃんちゃんばら
ばらが語源だそうです。
ちゃんちゃんは、刀のぶつかり合
う音、ばらばらは鉄砲の弾が落ち
てくる音だそうです。
要するに、戦いの時の音が語源だ
そうです。
そういえば、大将がたまに「これが
見えぬか」と言って、鉄砲を撃った
ような気がします。
また、それを刀で振り払おうとした
ことも。
とにかく、おもしろかった。
 私が小さい頃は、いわゆる三種の神器はなく、外で遊ぶのが常でした。
 家での娯楽といえばラジオで、浪曲や相撲中継などが主でした。NHKのニュースは、硬い口調で余り聞きたくないものでした。
 外の遊びの主役は、チャンバラでした。家の近くに城山があり、そこが男の子の遊び場でした。
 チャンバラは、山に落ちている朽ち枝の手頃な長さとそり具合のものを選び刀代わりにして、斬り合いをして楽しみました。
 よく知っている上級生(いわゆるガキ大将)が、シチュエ−ションを考え、隠密剣士の物語など、当時はやっていたものをやりました。
 斬り役はもちろんガキ大将で、それ以外の者は斬られ方がうまいと大将からアメをもらえるのです。
 テレビが家に入ってきてからは、レパートリーが増え、さまざまな時代物をやりました。
 そのほかには、お寺の境内での缶蹴りやかくれんぼ、みりん玉やけん(めんこ)、独楽回し、雨の降る日はお寺の廊下ではさみ将棋、女の子との遊びは、花いちもんめやゴム飛びなどいろいろでした。
 とにかく男の子も女の子も外でよく遊びました。だから、みんな一人ひとりの個性をよく知っていて、それぞれが個性を発揮して楽しく遊んでいました。
 今のように裕福ではなかったけど、精神的には結構充実していました。
 懐かしき良き時代です。
(17)ピカドン(稲妻・落雷)(2009-7-19(日))

現在の旧家の近くの電柱です。
トランスが二個ついていますが、
当時も二個ついていました。
当時と違うのは、電柱は木だった
のが、コンクリートに変わっています。
トランスも当時は真っ黒の鉄製?の
ものでしたが、現在は白っぽい難
燃性の材質が使われているよう
です。
 現在編でも紹介したように、私が小さい頃、家のすぐ近くの電柱にピカドンが落ちた事があった。
 雨の激しく降る夜で、突然家の中の電灯がいっせいにすごい明るさで輝いたかと思うと真っ暗になり、そのあと大きな音がした。
 外を見ると、どこの家も真っ暗で、懐中電灯で電柱のトランスを照らすとトランスからもくもくと煙が立ち上っていた。
 トランスとは変圧器のことで、送電線から送られてきた高電圧を家庭用の電圧に変換するものです。
 この原理は、中に二種類の巻数の違うコイルが入っていて、有名なファラデーの電磁誘導の法則に従って、変圧された電気を取り出すようになっています。
 トランスの中には、電気絶縁性の高い油、この当時使われていたかどうかはっきりしませんが、ポリ塩化ビフェニールなどが入っています。
 とにかく、トランスからもくもくと立ち上る煙だけは、印象に残っています。
 その当時、家の電化製品がどうなったのか、父母に聞いてみると、電球はやられなかったようです。過電流が電球を破壊する前に、ヒューズが飛んで被害を防いだのです。
 それまでに、1740年にベンジャミン・フランクリンが凧(たこ)を使って、雷が静電気であることを発見したということを知っていたので、この絶大な威力を持つ雷の電気を蓄えて利用できないものかと思ったものです。
 電気と人間との闘いはまだまだ続きそうですね。
(18)動物の飼育(ニワトリ編)(2009-7-24(金))

現在の旧家の庭です。
この一番奥の所に鶏小屋がありま
した。
そのすぐ近くにあった電柱(写真の
一番後ろに少し見えているコンク
リートの柱)が、例のピカドンが落
ちた電柱です。
いろんな思い出のある庭です。
 私が小さい頃は、動植物に親しむことが多かった。
  たいていの家にはニワトリが飼われていたし、牛も飼われていた。自然にそれらの動物の生態を知ることになった。
 私も、小さい頃は、ニワトリの餌やり、少し大きくなってからは牛の餌やりを経験した。
  鳥目ということがあるが、ニワトリは寝るのが早い、薄暗くなってくると止まり木に止まって眠る。その分、朝が早く、コケコッコーの鳴き声は早い。
 ニワトリは砂嚢を持っているので、小さい石ころや貝殻を砕いて時々(1週間に1回くらい)やらなければならない。そういえば、私もニワトリのまねをして石を食べようとして、家人に止められたことがあったような気がする。
 餌は、農家であるので、米の供出に出せない「ゆりこ」といわれるものをやっていた。これはもともと米なのでニワトリにはごちそうである。食欲旺盛で、一気に「ゆりこ」を食べてしまう。
 また、ニワトリの世界にはいじめがあって、年とったニワトリを他のニワトリがつついていじめるように見える。
 かわいそうに思った私は、その一匹だけ別のところに移して世話をしたことがあるが、やっぱりだめで、また集団の中に戻したことがあった。とにかくニワトリの世界をいろいろ観察した。
 また、自分の住んでいる地域には、イタチやタヌキやキツネがいて、特にイタチは少し隙間があると鶏小屋に入り込み、ニワトリの首の頸動脈をかみ切り血をすすっていった。
 鶏小屋の中を掃除しながら、ニワトリのうんち(尿も一緒)は白い(尿酸です)とか、抱かえてみると温かい(体温41・2℃位)とか、いろいろとニワトリの生態が楽しめた少年時代だった。
(19)動物の飼育(ウサギ編)(2009-7-28(火))

現在の旧家の玄関付近です。
家の戸口の右手に父親に作っても
らったウサギ箱がありました。
今、花の鉢が置いてある所です。
 私が、小学生中学年の頃だったか、ウサギを2,3匹飼っていた。
 いずれも真っ白の毛並みのウサギで、対照的に眼や耳の内側などは血管で真っ赤だった。
 ウサギのどこがかわいいかというと、ネズミやリスなど齧歯目に近く、そのため食べ方がとてもかわいい。口を小さく速く動かして食べる食べ方がかわいくて、食べている様子をずっと見ていたりした。
 餌は、その辺に生えている野草を採ってきてやっていた。ウサギは好き嫌いがはっきりしているので、嫌いな野草はやってもにおいをかぐだけで食べようとしない。その反対に好きなものは、どんどん食べる。
 だから、いろんな野草をやってみて、うまそうに食べた野草を次からやるようにしていた。ウサギは草食なので、うんちはくさくない。したがって、飼っている箱の掃除もしやすかった。
 うさぎを抱かえようとすると噛むので、まず長い耳を持ってつり下げ、それから抱かえるとうまくいく。ニワトリも抱かえたことがあるが、これらの生き物はいずれも温かく、生きているという実感が伝わってくる、生き物を飼う一番の楽しみである。そして、間近でその動物をしげしげと観察できる。生きた学習教材である。
 ある日、私が学校から帰ると、突然ウサギがいなくなっていた。祖母がどこかへ処分したということだった。そのとき、祖母になんと言ったのか覚えていないが、少しきついことを言ったような気がする。「おばあちゃん、もうきらいや」というようなことを言ったかも知れない。
 私がだんだん大きくなって、祖母から離れていったのが祖母には寂しかったのかも知れないな、と今になって思う。
 皆さん、今、癒しのペットブームですが、ペットをかわいがるのはいいけど、それ以上に家族を大切にしましょう。
(20)どこまで続く電柱(2009-8-3(月)) 

どこまでも続く電柱の写真
です。
私が過去に見た場所には
それらしき電柱がみつか
りまでんでした。
従って、これは別の場所
での写真です。
 私が小学校に上がる前、母親の実家へ行くのに父親の自転車の前かごに載せられていったものです。
 ある時、道中のうどん屋さんで食事をして外に出ると、目の前にどこまでも続く電信柱が目に入った。私は、「父ちゃん、あの電信柱どこまでいっとんの」と聞いたことがありました。
 父親の返事は、「ずーっと向こうまでや」という返事だったと思います。
 その後、私は、小学校に入ると、図鑑で電信柱、電線、電話線、電気、通信のことなどを調べた覚えがあります。父親の言った「ずーっと向こうまで」ってどこまでやろ、と調べたんです。
 今思うと、うまい言い方やったなと思います。大人にとっては何気ない言葉でも、子どもにとっては大切な言葉として残ることの例です。
 私が今、自然科学に興味を持つのも、このような小さい頃のことが引き金になっているのかも知れません。
 最近は、電柱もほとんどがコンクリートになっていますが、この当時は木製だけでした。しかも、線は送電線だけで、電話線もほとんどありませんでした。
 社会の進歩というか、科学の進歩を感じますね。
(21)寺子屋(2009-8-8(土)) 

現在の寺の写真です。
今の寺は、新しく棟上げをした新
しい寺です。
基本的なスタイルは変わりません
が、雰囲気が違います。
 私が小さい頃は、お寺が学び屋で、お坊さんの説教を聞いたり、幻灯を見せてもらったりして、情操教育を受けました。
 私の記憶に残っているのは、お坊さんの説教の後の幻灯で、母子の物語です。母親と子どもとの心のふれあいの物語で、心がじんとするものでした。
 そのほか、寺では日曜日の習字教室や、寺の近くの家ではそろばん教室がありました。
 夏休みには、映画館へ映画を見に行ったり、海水浴場へ海水浴に行ったりもしました。また、農業の手伝いもよくしました。
 私の生きた時代は、ちょうど高度経済成長がどんどん進んでいく時期で、足踏み脱穀機から、発動機を使った脱穀機、そして、チェーンのついた脱穀機、コンバインとみるみるうちに変わっていきました。
 そして、子どもの自由時間が増え、家の中にはテレビがあり、子どもは外で遊ばなくなりました。
 私も小学校高学年に家にテレビが入ってからは、外で遊ぶことが少なくなり、そのうちに中学校に入り、生活スタイルが変わっていきました。
 私の時代は、家での学習(宿題、予復習)が中心で、私には家庭教師も塾も無縁でしたが、そろそろ家庭教師や塾が流行りだしてきました。
 私も学生時代は、その波に乗ってたくさん家庭教師を経験しました。
 いろんなことが駆け足で変わっていった時代でした。
(22)川の増水(2009-8-19(水)) 

二回目、地蔵さんの写真
です。
今は耕地整理で、用水路
の位置が変わっています
が、やはり、用水路の脇
に立っています。
二回目登場のお地蔵さん
に、感謝の気持ちを込め
てしっかり合掌です。
 私が小学生高学年の頃、大雨のあとの川ががどんなになっているか弟と二人で見に行ったことがあった。
 その川は、私たちの住んでいる集落のはずれを流れている川で、大きな川から引いた農業用水路である。
 その川には石橋がかかっていて、その橋のたもとには石段が作ってあり、洗い物ができるようになっていた。そのころは、近所の人が畑でとれた大根やジャガイモやサツマイモを洗ったり、赤ちゃんのおしめを洗ったりしていた。私たち子どもも、川に入って魚取りをして遊んだりしていた。
 その日はかなり大雨が降ったので、その川へつながる道もわからないほど大水が出ていた。いつもはきれいな水の川が急変し、橋の上は濁流が流れていた。
 橋を渡ろうとすると、小学校低学年の三つ下の弟が「あ−っ」という悲鳴と共に、濁流に足を取られ、下流に流された。私は、「おーい、おーい」というだけで何もすることができない。ちょうど橋のわたり始めのところだったのが不幸中の幸いであった。川岸には笹が川面に垂れ下がっていた。それが目に入った私は、「笹をつかめ」と大声で弟に言った。弟は笹をつかんだが、濁流が速く今にも濁流に呑み込まれそうになっている。「おーい、おーい」と大声を出すだけでなすすべがない。一瞬、弟の死んだ顔が目に浮かんだ。
 そのとき、近くの畑に来ていたおばあさんが川に入って弟を抱きかかえて下さった。助かった。
   その橋を渡り終わったところには、以前、川に放り込んで小便をかけたお地蔵さんが立っていた。
 お地蔵さんの怒りか、それとも、お地蔵さんのおかげて弟の命までは取られなかったのか、とにかく、このときばかりは、死を身近に感じた。
 今年の夏も、豪雨のあとの濁流で亡くなられた方もおられるようですが、みなさん、川の増水にはくれぐれも御用心を。
(23)白黒テレビ(1)(2009-8-23(日)) 

何年か前まで旧家に残っていたの
ですが、先日見に行ったらもう残
っていませんでした。
家電店にお金を出して引き取って
もらったようです。
代わりに、あるHPの写真をお借り
しました。
たぶん、このタイプが我が家最後
の白黒テレビだったと思います。
結構豪華なタイプだったので、私
が前住んでいた家の一階応接間
に残してあったのですが、処分し
た後でした。
アンテナはもうありませんが、ア
ンテナなしで映る3チャンネルの
画面でもと思っていたのですが、
残念です。
 来年に地デジへの移行を控えて、これまでのテレビの歴史を自分の生活経験から振り返ってみたいと思います。
 そもそも、テレビというものが出回ってきたのは1959年頃です。いわゆる、現天皇陛下と皇后陛下の結婚パレードが中継されたころです。このパレードは多くの国民がテレビの中継を見たと言われていますが、私も自分の家にまだテレビがなかったので、よその家に見せてもらいに行った覚えがあります。
 我が家にテレビが入ったのは、その後すぐで小学校の5〜6年生の時でした。
 詳しくは覚えていませんが、日曜日などは、かなりテレビ漬けになっていたような気がします。
 われわれの時代は、もちろんVHFの白黒テレビで、屋根には大きなアンテナがあって、二段切り替えで多くのチャンネルが使えるようになっていました。
 しかし、もちろん映りはよくなく、画面にいわゆる細かい雨がたくさん降っていました。それでも、1,3,4,5,6,8,9,10,11とたくさんのチャンネルが使えました。
 ちなみに、1は東海テレビ、3はNHK、4は毎日テレビ、5は中京テレビ?、6は朝日テレビ、8は関西テレビ、9はNHK教育テレビ(9は最初はなかったかも?)、10は読売テレビ、11が名古屋テレビ、12が東京テレビ(これはほとんど映らなかった)でした。
 映りのいいのは、3と5位で、あとはたくさん雨が降っていました。
 それでも、今までなかった映像が見られるので、テレビにかじりついていました。
 私の眼が悪いのは、たぶんにテレビの見過ぎだと思います。元々余り良くなかった視力が更に悪くなってしまいました。
 いろいろな番組を見て視野が広がった反面、私自身の眼の視野は逆に狭くなりました。 今思うと、テレビの功罪など、いろいろと複雑な思いの残るこの時代です。
(24)白黒テレビ(2)(2009-8-27(木)) 

白黒テレビのパターンです。
これで、図柄がゆがまないよう
にテレビの後にある垂直・水平
調節ねじで調節するのです。
要は、ブラウン管の上下・左右
の磁石を調節して電子線の方
向を調節して画像を調整する
のです。
しかし、これがなかなか難しく
てうまくいきません。
特に、初期のテレビは、ブラウ
ン管が性能的に難で、幾たびも
挑戦したものです。
この画像は、「古き時代にタイ
ムスリップできる雑貨屋」とい
うHPからお借りしたものです。
 はじめの頃の白黒テレビは、番組が少なくて、一日中放映しているのではありませんでした。
 特に、民間放送は、スポンサーも少なかったたせいか、新聞の番組表も歯抜けトンボでした。次の放送は何時何分からです、というような感じでした。
 番組を放映していないときは、パターン放送というのがあって、テレビの後ろについている水平同期、垂直同期などという調節ねじを調節して、静止パターンがゆがまず見えるように手動調整していました。
 今のテレビのようにブラックボックス化しかしてなくて、テレビの中も見ることができました。中には大きなブラウン管と、大小いくつもの真空管がありました。
 従って、故障すると、ブラウン管だけを替えるとか、特定の真空管だけを交換するなどしていました。
 このころの時代は、動くものを見られるのは映画とテレビでしたが、迫力の点や俳優の点ではテレビはまだまだ映画には及ばず、映画の方がはるかに優勢という感じでした。
 それが拮抗するきっかけになったのが、(23)白黒テレビ(1)で紹介した現天皇・皇后陛下の結婚パレードでした。
 それ以降、映画館もテレビへの危機感を強めていったようです。
 そういえば、私が小さい頃見た映画では、はじめにニュースが必ず放映され、それから本番の映画が上映されていたように思います。
 その後、ニュースはテレビの独占するところとなり、映画館でニュースが放映されることはなくなっていったように思います。
 ニュースはテレビで、娯楽は映画館でという棲み分けが進んでいったようです。
(25)カラーテレビ(2009-9-5(土)) 

カラ−テレビのパターンです。
光の三原色RGBです。
この色の重ね合わせによって色々
な色を現出します。
RとGの1:1の重ね合わせはシア
ン、RとBはマゼンダ、GとRは黄色
RGBは白色という具合です。
割合を変えれば、微妙な色を表現
できるというわけです。
 カラーテレビがいつ我が家に入ったのか、しっかりとした記憶は残っていません。
 白黒テレビが入った時に比べると、当たり前のように入ってきたような気がします。
 それでも、これまで白黒で見ていた歌手の派手な衣装がカラーで見えることは新鮮に映った記憶があります。あの歌手は黄色の衣装だったのか、というような具合です。
 それ以外には、漫画というかアニメがカラフルだったのが印象的です。
 白黒テレビとカラーテレビを比べてみると、漫画やアニメなどカラーに特化した番組以外では、中継物などは、白黒よりもカラーの方が臨場感が強くなったような気がします。特に、相撲の関取の化粧まわしや懸賞の色は白黒でしか見てなかったので、結構新鮮でした。
 巨人、大鵬、卵焼きのカラー映像は、それぞれの人気を上げるのに効果的だったように思います。
 このカラーテレビも初期の頃は、カラーパターンによって手動で調整するようになっていて、少し人工的なカラー映像という印象があったものです。
 その後、自動カラー調整機能が付き、天然に近いカラー映像が楽しめるようになっていきました。
 「兼高かおる 世界の旅」などは、行ったことも、見たこともない、世界の名所・旧跡をカラーで見られるので、楽しみにしていた番組でした。
 テレビのカラー能が高まるに連れて、日常目にするカラー場面とテレビのカラー画面がシームレスにつながるようになり、テレビの生活への影響力が高まった時代でした。
 今回、始まる地デジは、そのシームレスさを視聴者とテレビ番組制作者もしくはテレビの中の登場者との実際の双方向通信でさらに一体的に実現しようとしているように思います。
 地デジのことについては、「随筆日記 現在編」でも取り上げていきます。そちらも併せて読んでいただければと思います。
 ご意見などあれば、メールでお寄せ頂ければありがたいです。
(26)伊勢湾台風(2009-9-15(火)) 

9/16(水)撮影
現在あるお寺のマキの木
です。
太さから考えて400年は経
っているようです。
このお寺には、古いマキ
の木が二本ありましたが、
そのうちの一本が倒れま
した。
残りの一本は健在です。
長く生き続けてほしいもの
です。
 今年は、悪名高い伊勢湾台風から50年目になる。私が、小学校高学年の時、伊勢湾台風が三重県を直撃した。
 その日は、臨時休校で家で待機していたが、猛烈な暴風雨の合間に風雨が止み青空の見えたときがあった。
 私は、もう台風が行き過ぎたのかと思って、外に出て空を見上げると、雲の真ん中に円形の青空が見えた。やった、台風は通り過ぎたと思っていると、再び猛烈な暴風雨となった。今思うと、あの合間の青空は、台風の目だったのだと思う。青空の見えた範囲は結構大きく、大きな台風であったことが分かる。
 その当時、私の隣家のお寺の古いマキの大木が倒壊した。子どもの手では抱きかかえられないくらいの大木であったが、見事に倒されてしまった。相当な暴風であったことが分かる。
 そのとき、近くの川の土手が決壊し、濁流が何件かの田んぼを直撃した。我が家の田んぼもその中にあった。近所の人が母親に「見に行くな、気がふれる」と言った。
 子ども心に、臨時休校となりうきうきしていたが、実際は大変なことになっていたのであった。
 それから、50年、気象異常など色々なことがささやかれる現在であるが、当時の伊勢湾台風の恐ろしさを知っている私には、地球温暖化に伴う大型台風の発生だけはゴメンである。
 みなさん、地球温暖化に注意を払いましょう。
(27)小学生のボランティア(2009-9-20(日)) 

現在の校庭に残る学校の
主のようなメタセコイアと
カシの木です。
校舎は変わってしまいまし
たが、この大木は、そのま
まの位置にあります。
よく枝にぶら下がって遊ん
だり、枝に逆上がりで乗っ
て、そこから飛行機飛びで
飛んで遊んだものです。
 私が小学生の頃、高学年になってからだったと思いますが、私と近所に住んでいる同級生と二人で、先生に申し出て、自発的に毎日の気象観測をしたことがあります。
 観測項目は、天気、雲量、雲の種類、気温、湿度、地温、雨量、気圧でした。当時の小学校は、木造で、二棟に分かれていて、中央の渡り廊下でつながっている構造でした。その渡り廊下の一角に気象黒板があって、天気や気温などが書き込めるようになっていました。
 百葉箱は棟と棟の間の庭園仕立ての中庭にあって、児童は用がないと立ち入ることができないようになっていました。
 私たちは、特権のように中庭に入り、観測をしました。観測項目の中で、地温と雨量は日常では目にすることのない観測項目で、観測するのが楽しみでした。
 結局、卒業するまで我々二人がずっとやっていて、その後、引き継ぎがいたのかいなかったのか分かりませんが、小学生によるボランティアの草分けでした。
 このころの私の夢は、測候所か気象台で働くことでした。
 そこへ至る学問コースが分からず、そのうちに夢が変わっていったりしましたが、小さい頃の良き思い出です。
(28)学芸会(2009-9-29(火)) 


フリーのカットからお借りしたも
のです。
学芸会のメインの出し物は何とい
っても劇です。
劇は、国語、美術、技術、仲間づ
くりなどいろいろな要素が入って
いて、総合芸術ともいわれます。
劇の発表は、記憶に残りますね。
 私が小学生の頃は、毎年、秋には学芸会があって、公開で村民の人も参加して盛大に行われたものです。
 出し物は、学年によって特色があり、私が出たのは、劇と音楽発表でした。
 その当時の講堂は、結構立派な建物で、大きなシャンデリアが天井からぶら下がっていました。
 記憶に残っているのは、4年生の時?の私が主役をした劇「ものぐさ太郎」です。医務室にあったベッドを舞台に持ち込み、そこで日長寝そべっている「ものぐさ太郎」の物語でした。
 「あっ、おだんご」というセリフが一カ所だけで、おいしい役でした。
 公開だったので、隣の寺のおばあさんが見に来ていて、私のセリフに大きな口を開けて笑っているのが見えました。
 舞台も奥行きがあり、袖から大道具が搬入できるようになっていました。また、講堂の後から舞台まで長いすが並べられて花道になっており、下手から舞台に近づいてくる場面が設定できました。
 6年生の時も劇でした。このときも主人公の役で、劇の題名は覚えていませんが、牛がいなくなって、それを探すのに呪文を唱える場面があり、どんな呪文にするか相談しました。結局は、担任の先生の案で、「うしよでてこい」を逆さまにして、「いこてでしう」という呪文にしました。手にお払いの道具を持って、二回、「いこてでしう」「いこてでしう」と呪文を唱えた記憶があります。
 現在も、小学校では、公開で学芸会が行われているようですが、これは子どもにはほのぼのとした思い出として残るものです。ぜひ、続けてほしいものです。
(29)サメの歯(2009-10-25(日) 

 中学校の部活は体操部に入りたかったがなかったので、科学部に入った。
 顕微鏡で色々なものを観察したり、鏨(タガネ)と胴乱を持って化石探しに出かけたりした。
 私の住む郷土の山の中腹までは過去に湖水に浸かっていたようで、サメの歯の化石や巻き貝の化石が出土している。
 科学部で、化石がでるという場所へ探しに行ったとき、私は結構大きなサメの歯を見つけた。
 引率の科学部の先生は、「ちょっと貸してくれ」と言って、そのままになり現在に至っている。45年が経過した。
 同窓会に招いた時、その先生に聞くと、「残ってる」と言いながら、返す気はなく自分のコレクションの一つとしてしまっているようである。
 昔の先生はよかったね、それで済んでいったんだから。
 私も、この年になり、もう老い先短い先生から自分の採集したサメの歯を取り戻そうとは思っていない。
 懐かしさと共に、いろいろな思いのある中学生時代である。
(31)イナゴ捕り(2009-11-11(水)) 


HPのフリー写真からお借りしました。
私が目にしたイナゴとほぼ同じ色・
姿です。
イナゴは、他の昆虫と同じく周囲に
合わせて体色が変わります。
穂が出るころの稲は、緑と褐色なの
で、そのような体色になります。
 妻の借りてきたDVD「阿弥陀堂だより」を見ていて、自分の小さい頃のことを思い出した。いろいろな思い出があるが、稲穂のシーズンのイナゴ捕りのことを書こうと思う。
 イナゴだけでなく、私が小さい頃の田んぼは、余り農薬を使っていなかったので、ホタルもいたし、ヒルもいた。
 茎が太くなって穂がつき始める頃になると、イナゴがたくさん出てきて、幼虫は茎の蕊を食べるし、成虫は茎も穂も食べる、稲の最大の食害虫である。当時は、その時期になると、子どもの手伝いとして、一升瓶を持っていって茎に止まっているイナゴを捕っては一升瓶に集めた。
 昔は、イナゴは貴重なタンパク源で食したそうであるが、私は食べたことはない。いや、食べたかも知れないが、記憶にはない。別名をオカエビともいうそうで、エビのような味がするという。
 ちなみに、イナゴはバッタの一種であるが、トノサマバッタよりも小さく、成虫でも2cmくらいである。稲の茎に止まっているイナゴは逃げないので、たやすく手でつかむことができる。子ども心に、動く動物、昆虫を自分の手にすることは楽しいので、すいすい捕れるイナゴ捕りは楽しくて一生懸命捕まえたものである。
 その後は、農薬が大量に使われるようになったせいか、イナゴはほとんど見かけなくなった。1998年のレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を待つまでもなく、私をはじめ農村に住む人たちは、農薬による異変を知っていた。しかし、危険性をアピールすることを知らず、1998年になってしまった。
 農家にとってはいやな害虫であったが、そんなことを知らない子どもは、無邪気にイナゴと遊んでいるような感覚でイナゴ捕りをしたことを懐かしく思い出す。
(32)イモの保管(2009-11-15(日))


妻が今年収穫したサツマイモです。
現在は、床の下に保存はしていま
せん。
サツマイモ料理をいろいろ楽しめ
る日々です。
小さい頃の唯一のおやつがサツマ
イモだった頃を思い出します。
 私が小学生の頃は、下部屋の床の下に穴を掘って、そこにサツマイモやジャガイモを籾殻の中に保存していたのを思い出す。
   いつ頃からそのようなことが行われているのか分からないが、今から考えてもとても合理的な方法で食料の保存をしていたものだと思う。
 ネズミに食されにくいし、温かく保存されていてまるで生きたまま保存されているような感じだった。事実、サツマイモを食べるときに取り出すと、まるで取り立てのような新鮮さがあった。
 近年の研究で、サツマイモはマメ科植物と同じように、空気中の窒素を固定して成長することが知られている。
 サツマイモの栽培を奨励した青木昆陽先生は、窒素固定をすることまでは知らなかったであろうが、サツマイモが鹿児島県の栄養分の少ないシラス台地で良く成長することを発見した。その元は、サツマイモが空中窒素を固定して利用することにあったのだ。
 これからサツマイモのおいしい季節ですね。味わいましょう。  
(33)自然の食べ物(2009-11-30(月)) 

 小さい頃は、野山で遊ぶことが多く、勢い、自然に実る食べ物に親しんだ。
 今頃の時期になると、山の斜面にたわわにぶら下がっているイガグリを落として、栗を採った。イガグリりを剥くのは、片足でイガグリを押さえながら、火ばしを使って剥き実を取り出す。生で食べるときは、実を割って中の渋皮を爪で取り、そのままかじる。こりこりしておいしい。もちろん、蒸せばまたおいしい。
 「栗よりうまい十三里」といわれるが、両方ともよく食べた私には、どちらも捨てがたい良さがある。甘さは甘藷の方があるが、栗は栗でまたおいしい。
 そのほか、このHPでも紹介したグミや桑の実、マキの実もよく食べた。グミの熟したのはおいしい。桑の実もなかなかいける。私は、マキの実も好きで、ほのかな甘さがなんともいえない。マキの実は、家屋敷のマキ垣があちらこちらにあり、手軽に手に入るので、よく食べたものだ。
 また、隣の集落の神社にシイの実を拾いに行った。その神社は古く、大きなシイの木が何本もあった。時期になるとたくさん実をつけ、下の溝にその実がたくさん落下している。それを拾って頂くのである。シイの実はまったくのでんぷん質で、蒸すと真っ白で米より甘い感じでおいしい。「ドングリ」が文明の始まりであるという研究者がいたが、ドングリやシイなど自然の食材が人間の食生活の始まりだったであろうと感じさせられる。
 このごろは行かないが、私が小さい頃は、隣の集落の山に家族でキノコ採りに出かけた。マツタケが目当てである。記憶に残っているのは、私が立派なシメジを見つけ、その晩はシメジご飯だったことである。シメジは香りが良く吸い物にもよい。
 このように、季節に応じていろいろな自然の食材を楽しめる。
 みなさんも自然の食材を楽しまれることをお薦めする。
(34)温め器と目張り(2009-12-21(月) 

 寒気がやってきて、急に寒くなった。
 こんな時期になると、中学校時代、弁当を温めたことや教室の板に目張りをしたことが思い出される。
 われわれの中学校時代は、弁当持参だった。冬になると、教室前のコンクリートの廊下に弁当温め器が設置された。各クラスで、それぞれ一個の網つきトレイに各自の弁当を並べ、温め器に入れて温めるのである。
 定かな記憶はないが、温め器の中の場所は早い者勝ちだったような気がする。一番下は、熱すぎて、ご飯がぱりぱりになる。一番上は熱が通らず余り温まらない。下から二番目が一番良い場所で勢い取り合いになる。
 時には、熱すぎてぱりぱりになったご飯を頂いたこともあるが、たいていは、ほどよく温まったごはんを頂いた。おかずだけは給食で出たように記憶している。
 また、板張りの教室だったので、冬の北風は厳しい。冬になると、板と板の間のすきまに新聞紙で目張りを張り寒さを防いだ。たったこれだけのことであるが、これが以外と効果があって温かかった。
 いずれも、45年以上も前の懐かしき思い出である。
 与えられた環境の中で、できうる範囲で最善の努力をすることは大切なことである。そんなことを学んだ気がする。
(35)オオバコ(2009-12-25(金)) 


季節の花300からお借りしました。  
 私が小さい頃、風邪薬はオオバコの煎じ薬だった。
  祖母は、つみ取ってきたオオバコを日陰干しし、煎じて風邪薬として飲ませてくれた。
 飲む時には、煎じ薬に砂糖を少し入れて、甘くして飲みやすくしてくれた。
 私には、オオバコの煎じ薬はとても良く効いて、風邪はたちまち治った。
 また、風邪気味の時は、熱めの風呂に我慢して少し長く浸かり、脂汗が出たら風呂から上がって、温かくして寝ると直ると教えてくれた。
 その通り、実践すると翌朝にはすっきりしていた。
 このように、私の現在の身体は、祖母の処方のおかげで作られたと思っている。
 私が小学校で一度だけ学校を休んだのは「はしか」の時だった。二日ほど?高熱が続いた。私の体は、ふだんオオバコの煎じ薬しか飲んでいないので、アスピリンがとても良く効き、そのときも、アスピリンで高熱が下がった。
 今思うと、祖母のオオバコの煎じ薬のおかげだと思う。
 祖母は、私が中学校三年生の時に亡くなった。今からもう45年も前のことである。
 今更ながら、元気でおられるのも祖母のおかげだと思う。
 オオバコと祖母に感謝である。 
(36)麦踏み(2009-12-29(火)) 

     写真まだ
 冬には、麦踏みをした。
 母親に連れられて畑に行き、早朝、霜柱の立った麦の足下を踏む。
 最近、霜柱というものを見ることも感じることも少なくなったが、私の少年時代には土に親しんでいたので、霜柱は日常的であった。
 ぱりぱりに乾燥した土を踏むと、霜柱がざくざくという感じでつぶれていく。
 足にその感触が伝わってくる。
 そのままにしておくと、根の十分発育していない野菜は、根が持ち上げられやられてしまう。
 それを防ぐため、霜柱ごと踏みつけて根を安定させるのである。
 霜柱現象は、土を耕して隙間のできた畑で起こりやすい。
 最近のように、冬は霜柱の起こらない温室ハウスでの栽培が主となってくると、霜柱を経験することが少なくなってしまった。
 畑仕事の手伝いと併せて、いろいろな自然現象に接することができた少年時代は感性を豊かにしてくれた時代だったと、懐かしく思い出される。
 みなさんも、自然と親しむことを大切にされることをおすすめします。 
(37)かじかむ(2010-1-4(月)) 

     写真まだ
 正月から小屋の周りのトタンのペンキ塗りを始めた。
 今年の正月はかなり寒く、しかも、北側のトタンなので陽が当たらず風が強い。
 寒いと思いながら、作業を続けていたが、そのうちに手がかじかんできた。
 手がかじかむという感覚は久しく忘れていた感覚であったが、少年時代を思い出した。
 私の少年時代は、寒い日も、「子どもは風の子」といわれて、寒風吹きすさぶ中、外で遊んでいた。また、今のようにエアコンなどというものはなく、家の中も火鉢ぐらいで寒い。勢い、手がかじかむことが多い。机に向かって勉強していても、手がかじかんで鉛筆で字が書きにくいことがたびたびあった。そのことを思い出した。
 ついでにいうと、手がかじかむことが続くと、しまいには、手や足に「しもやけ」「あかぎれ」ができる。
 耳たぶ、手の指や足の指やかかとは「しもやけ」「あかぎれ」ができやすい。毛細血管の血流の悪い部分がよく分かる。
   当時は、「しもやけ」に対しては、「しもやけ」の部分を良くもむ、風呂で軽石を使ってその部分をこする、「あかぎれ」に対しては、手を洗ったら水分をしっかりふき取る、というような対処法だった。
 今の少年・少女の中には、「かじかむ」「しもやけ」「あかぎれ」を経験したことのない人があるのではないか。無理矢理経験する必要はないが、いろいろな経験をすることも必要ではないかと思ったりする。
 何かにつけて、時代の流れを感じるこのごろである。
(38)ゆたんぽ(2010-1-7(木)) 


当時の湯たんぽはもうないので、
ウィキペディアからお借りしました。
 寒い冬の夜のせめてもの楽しみは、寝る時の温かいゆたんぽである。
 私が少年時代、寒い夜寝る時、温かいゆたんぽが楽しみだった。
 比熱の大きい湯を湯たんぽにいっぱい入れて、ゴムぱっきんつきの栓でしっかり栓をしてできあがりである。
 初めは熱すぎるので、やけどをせぬように毛布でくるんで使うが、夜中には少しさめてくるので、裸の湯たんぽに足を宛てて楽しむ。寒い冬の夜にはせめてもの楽しみであった。
 水は地球上の物質の中で最も比熱が高いといわれるが、それを実感する。朝まで温かい。
 また、ゆたんぽは電気あんかと違って、熱すぎることもなく、適度に温かい。そして、温かさの感覚が違う。あんかはどうしても部分的に熱さが異なるが、ゆたんぽはどこも温かさが同じでマイルドである。安心して、湯たんぽに親しむことができる。それゆえ、体全体が温まる感じがする。
 寒い冬の夜はいやだが、じんわりと温かいゆたんぽに親しめたことは、寒い中でもほっとさせてくれるものだった。
 人工的な温かさとはひと味違う温かさが、少年心に心地良かった。
 読者の皆さんも、寒い冬の夜はゆたんぽで温まることをお薦めします。 
(39)冬の遊び(2010-1-10(日)) 


当時の遊んでいるようすは、もう
再現できないので、言葉だけにし
ました。
本当は、残っているメンバーで
やってみたいところです。
むちゃ、盛り上がるだろうな。
 子どもは風の子とはよく言ったもので、私が小さい頃は、冬でも外で陽が落ちるまでは動き回って遊んだものである。
 いろいろな遊びをしたが、冬の寒い季節は「どんま」が多かった。
 「どんま」は、じゃんけんで負けた子が馬になり、壁に手をついて馬の格好をし、そこにじゃんけんの順番に飛び乗り、馬がつぶれなかったら、その子は馬の股に頭をつっこんで長い馬を作り、次の子が飛びのり・・・順番に飛び乗ってつぶれた馬が今度は馬になって最初からやり直すというのであった。
 これは、今思うと、筋力を使うので温まるのと同時に、馬となって足腰を鍛えるのと飛び乗るのにジャンプ力を養うという子どもの基礎体力を養うのに効果があったと思われる。
 今、子どもの遊びが見直されてきているが、それは、主に子どもの社会性を養うことに主眼が置かれているようである。
 私は、それにもう一つ、道具を使わないこれらの子どもの遊びには、子どもの創造性を養うのに大きな効果があると思っている。
 遊びをよりおもしろくするためには、工夫が必要であり、その工夫が受けるかどうかは社会性も含めて子どもの創造性が多いに高められると思われる。
 学問的にも、研究をすればおもしろい研究になるのではないかと思う。
 そんなことにはお構いなく、子どもの遊びは掛け値なしに楽しい。
 こんなことを経験できたわれわれの少年時代は、とにかく楽しかった、その思いだけは強く残っている。
 みなさん、道具を使わない子どもの遊びを大切にしましょう、そして併せて、子どもの遊びから学びましょう。 
(40)冬の楽しみ(2010-1-20(水)) 


写真まだ
 小さい頃の冬の楽しみって何だったろうと振り返ると、暑い夏よりも家庭の団らんがあったという記憶がある。
 冬は寒いので、勢い家族が火の周りに集まることが多くなる。
 私の小さい頃は、今のような暖房エアコンや石油ストーブもなかった。従って、火鉢が中心であった。大きな火鉢の周りに家族が集まり、いろいろな話があって家族が一つになっていた感がある。
 また、親戚の人が尋ねてくると、火鉢の周りでいろいろな会話がなされ、子供心に大人の会話に自然と参加していた気がする。それゆえ、親戚を身近に感じ、結びつきが強かったように思う。
 人は人間といわれるように、人と人との間が大切で、間が近いと感じると親しみが湧く。冬の火鉢には、不思議とそのような感覚があった。
 現在から見れば不便ではあるが、その中には、便利さの中で失われつつある人間として大切にしなければならないことが詰まっていたような気がする。
 現在も、あるいは現在だからこそと言った方が当たっているかも知れないが、火鉢でなくても人と人の距離を近くに感じる仕掛けが何か必要ではないかと思う。
   いつまでたっても、人間は人間らしくありたいと思う。
 小さい頃の冬の寒い時期の過ごし方を思い起こし、そんなことを感じている。
(41)母方の祖母(2010-2-4(木)) 


写真なし
 先日、親戚の法事があり、久しぶりに母方のいとこと話をする機会があった。
 その中で、祖母の話が出て、祖母を懐かしく思い出した。
 母方の祖母のことを書きたいと思う。
 母方の祖母が亡くなってから、もう45年にもなる。
 私が知っている母方の祖母は、寝たきりでいつも布団の中にいたという記憶である。
 しかし、一度だけ怖かったことがあった。
 小学校の低学年の時だったと思うが、正月に遊びに行って、いとこと一緒に、砂糖を庭にまいて川ができたといって遊んでいると、おばあさんが怒って追いかけてきた。私は、必死で逃げた覚えがある。
 私くらいの年齢の人は経験があると思うが、その当時の砂糖は三盆白といって貴重品であった。法事の返しは三盆白と決まっていたものだった。それを惜しげもなく、遊び道具に使ったのだから、祖母が怒るのも当たり前である。
 しかし、当時の私には、そのようなことはわからないので、砂と同じような感覚で遊び道具として使ってしまったという次第である。
 体の悪い祖母が起きあがって追いかけるくらいだから、よほど頭にきたのであろう。
 小さい頃はいたずらが好きなものであるが、私のいたずら好きは相当で、親や親戚や近所の人にさんざん迷惑をかけたようである。当の本人は、迷惑をかけているというような意識はなく、もっぱら、なんとしたらおもしろい遊びができるか、それだけが頭にあったように思う。
 今思い出すと、そうやっていたずらをして大人にしかられ、社会常識を身につけていった。
 叱られもせず、好きなことをしていただけだったら、とんでもない人間に成長していたことであろう。
  当時の大人の人たちに感謝しなければならない。
(42)植物採集(2010-2-27(土)) 


写真なし
 小学生の頃は、夏休みの宿題で植物採集をした。
 課題としては、昆虫採集か植物採集かであったが、私は、植物採集を選んだ。
 少し太い竹を20cmくらいに切り、片方の端を斜めに切り落としてスコップ代わりにした。これは大変便利で、植物の根元に差し込み、すくい上げると根ごと採集できる。それと、家にあった金属製の胴乱を使った。道具はこれだけである。
 家の近くの山の根を歩きながら、いろいろな植物を探しては採集した。おかげで、家の付近にはどのような植物が生えているかよく分かった。
 このHPの野草のページを立ち上げたのも、このような小さい頃の経験があったからだと思う。これが、昆虫採集をしていたら、たぶん、昆虫のページとなったことであろう。そう思うと、小さい頃の体験は大切だなと思う。
 さて、集めてきた植物を枯れないうちに、根を水洗いして新聞紙に形が崩れないように、また、葉や根が重ならないようにはさみ、少し重しを載せて乾かす。これを2〜3回新聞紙を変えて繰り返し、標本のできあがりである。
 最後は、少し厚手の台紙に細く切った紙で丁寧に貼り付けて仕上がりである。細く切った紙で貼り付ける時は、台紙との隙間をあけないように丁寧に貼り付けるのがこつである。
 実や種がある時は、別の小袋に採っておき、貼り付けて仕上げる時に、植物の横に貼り付ける。
 そして、植物名、学名、採集場所、採集時刻、特徴、気の付いたことなどを書き添えてできあがりである。
 これを何年か続けてしたように記憶している。
 担任の先生に教えてもらったのだったと思うが、牧野富太郎博士の植物のスケッチを見て感動したことも覚えている。
 山の根にひっそりと生えている植物は何時間見ていても飽きない発見がある。
 小さい子どもさんやお孫さんのいる方は、一緒に植物採集をすることをお薦めします。
(43)ポッカン(2010-4-3(土)) 


絵の苦手な私の書いた当時のポッ
カン製造器の絵である。
真ん中にある黒い大きなドラムが
印象に残っている。
ポッカンと大きな音と共にポッカン
ができあがる。
大きな音とおいしいお菓子、子ども
にとっては、ダイナミックな組み合
わせである。
 私が小学生の頃、近くのクラブ(集会所)にポッカンがよくやってきた。
 ポッカンとは自分たちが勝手に付けた名前で正式名称ではない。今で言えば、ポン菓子製造器とでもいうものである。
 玄米を持っていくと、それを大きな機械でポッカンにしてくれるのである。
 その機械は、大きな黒いドラムが真ん中にあり、その中を通る管に玄米を入れドラムを回転させながら火で熱し、頃合いを見計らって、ドラムの中の膨張した空気を一気に抜くとポッカンが仕上がる。空気を抜く時に大きな音がするのでポッカンと呼んでいた。
 ドラムに閉じこめられた空気は、理想気体の状態方程式を近似して、PV=nRTから、T(温度)が高くなるほどPVは大きくなる、ここで、ドラムは閉鎖系なのでV(体積)は一定だから、T上昇に伴ってP(圧力)が大きくなる。大きな圧力(10気圧?)がかかった玄米を一気に一気圧に戻す時に、玄米がふくらんでポッカンができるという仕掛けである。
 どれくらい熱してから空気を抜くのかは職人の腕である。
 かすかに残っている記憶をたどると、入れる玄米の量にもよるが、5〜10分くらいの加熱だったと思う。左の絵の左端の丸い青色のところを持っておっちゃんがドラムを回転させながらまんべんなく加熱するのである。そして、ドラムに圧力ゲージがついていたかどうか定かでないが、よい頃合いを見計らってポッカンとやらかすのである。
 甘いお菓子が出回っていなかった当時の農村の子ども達には、これは人気があった。ポッカンはそのままでも甘みがあったが、少しお金をはずむと、水飴でポッカンを固めて甘いおこしのようにもしてくれた。
 しかし、そのうちにいろいろなお菓子が売り出されてきたためか、ポッカンのおっちゃんはいつの間にか来なくなってしまった。あのときのおっちゃんの技は、職人技だったと思う。
 自分の小さい頃の思い出とともに残っている懐かしい一場面である。
(44)ノーパン(2010-4-11(日)

 ノーパンというと聞こえは余り良くない。
 一昔前、ノーパン喫茶というものが流行った。物は試しで、私も入ったことがあるが、この場合のノーパンは、ノ−パンツであるが、今回の話題は、そのノーパンではなく、ノーパンクのノーパンである。
 私が小学生の頃の自転車にはノーパンタイヤというものが使われていた。
 どういうものかというと、全部がゴムでできている。従って、ものが刺さってもパンクすることはない。ゆえにノーパンである。
 タイヤにとってパンクしないというのは大切な要件であるが、もう一つ大切な要件に乗り心地がある。このノーパンタイヤはなるほどパンクはしないが、乗り心地は良くない。ごつごつ感があって、地面の凹凸がそのまま車体に伝わってくる。従って、ショックを吸収できないので、凹凸や石ころに乗り上げるともろに振動が伝わってきて車体を安定させるのが難しく転倒することもしばしばあった。
 要はどちらをとるかという問題であるが、乗り心地を犠牲にしてでも、パンクしない方をとった作品である。
 当時は、道路は整備されておらずがたがた道で、パンクが大変多く、至る所に釘や鉄の破片、ガラスの破片などが落ちていた。乗り心地よりもパンクしないことを優先させるのも無理からぬ状況だった。
 しかし、これは、道路の整備が進むと共にほどなく消えていき、今の空気タイヤが一般的となっていった。
 そんな時代の懐かしい一台である。

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