メバチコ



洗面台の鏡の前で、憂鬱そうに眼鏡を掛けた。今日一日、良いことなんてなにもない。重い溜め息が足を縛り、洗面所から玄関までの僅かな距離がとても長かった。ドアを開けたら、後戻りは出来ない。



「行きたないなぁ」



ドアに手を掛けたまま、その先の行動が取れない。頭の片隅で、休めと誰かの声が聞こえる。今なら難癖付けて



「あかん。あかん。俺は幼稚園児か、早よ行かな」



休む理由くらい考えるのはわけないが、低年齢な思想を、頭を振って掻き消した。悪魔の囁きなんかに耳は貸さない。ドアを勢いよく開け



「…が待ってるやないか」



走り出すように家を飛び出し、浮かんだのはだった。いつもの待ち合わせ場所で、首を長くして待ってる。だから、休むなんてとんでもない。を遅刻させるわけにはいかないと、大急ぎで向った。



「侑士!遅い!」
「すまんかった。堪忍や」



待ち合わせ場所は、十字路近くの掲示板の前。忍足の来る道を、まだかまだかと時間を気にしながら待っていたの目に、やっと待ち侘びた忍足が見えた。手を合わせ謝るポーズの忍足を、怒ったようにぷぃっと顔を反らして向きを変えると、学校の方へ歩き出した。慌ててスピードを上げた忍足は何度も謝りながら、の隣へ並ぶ。



「ホンマ、堪忍して」
「わかった。寝坊したの?」
「まぁ、そんなところやな」



許して下さいと、深々と頭を下げて歩く忍足に、観念したかのように肩の力を抜いた。大体の予想で言った言葉と共に顔を上げたら、よそよそしく顔を反らせ、曖昧な答えが返された。



「・・・・・?侑士」
「なんや、急がんと」



忍足を見ているのに、目を、顔を合わそうとしない。そういえば並び位置も、いつもならの右側に来るのに、今日は左側。でも、道路側である。遅れて来たから急いでいるのはわかるが、どうも余所余所しいというか、怪しいと判断したは、前に回り込もうと行動に移した。



「どないしたん!遅刻するで」
「わかってるけど、いつもと位置が違うから気持ち悪い」
「なにコンビ芸人みたいなこと言うてんの」
「だって、恋人も所定位置ってものがあるの」
「あらへんって」
「わたしはあるの」



いきなり前へ動いて来たから逃げるように、忍足は足を止め、体を半回転させた。そこで終ればまだ良かったが、後を追うようにも着いて行き、なんともおかしな会話が展開された。2人は鼬ごっこのように、その場でクルクルと回る。にもしつこい部分があったのかと、驚く忍足は、必死になってるところが可愛いと、楽しんでいるに気付いていなかった。少しの時間が長く感じられ、いつまでも遊んではいられないと、は別な行動に出た。



「あっ!・・しもた」
「勝っち!侑士もまだまだだね」



ずーっと、同じ向きで回っていた2人。そこで、は逆に回った。と、いうよりも、立ち止まったら忍足と鉢合わせで、の勝ち。なんとも悔しそうに唇を噛んだ忍足に、ピースで指先をクイクイっと曲げ、誰かの口癖を誇らしげに言った。観念したのか忍足は、大きな溜め息と共に、肩を落とした。



「そんな、落ち込まないでよ」
「落ち込むわ。にだけは見られたなかった」
「なにを?」



忍足の落胆振りに、遊び気分でいたは苦笑いを浮かべる。神妙な面持ちに、眼鏡の影は大きくなり、は息を呑んだ。



「見てみ!わかるやろ」
「?」



眼鏡を下にずらし、近付き過ぎない距離で顔を見せる。急なことに警戒心が立ち上がるも、いつもと違う忍足に、なにがあるのかと顔を見つめれば、キョトンと首を傾げた。



「あんま近づいたらあかんで」



納得したように頷き、忍足の奇怪な行動がやっとわかった。忍足の顔には、実に似つかわしき物である。



「どうしたの?メボができてる」
「メボ?メバチコやで」
「メバチコ?モノモライいでしょ」



モノモライの言い方は、住んでる土地でいろんな呼ばれ方がある。忍足とも育った土地柄から言いようが違って、?が交差するもモノモライはモノモライで纏った。



「せや。朝起きたらなってた」
「へぇー」
「なんや、冷たいな」
「だって、気にしてたら治らないよ」
「ま、まぁ…そうやけど」



あれだけ騒いだのに、期待はずれな反応で拍子抜けというか、慰めの言葉もなく流されたことに、忍足はショックを受けた。所詮は他人事。恋人の顔に大きな瘤があろうが、蛸になってようが、こんなもの。と、素っ気なさにいじけてしまう。回れ右で、足は家に向おうとしていた。



「そうだ。わたしに移せば」



歩き出そうとした足が、その一言での前に飛び戻れば、両肩を押さえ、凄い剣幕で言い寄った。



「なに言うてんねん!そないなこと出来る訳ないやろ!の可愛い顔にメバチコなんて、考えられへん!」



怖いくらい真剣な目と思わず耳を塞ぎたくなるような声に、軽々しくものを言ってはいけないと、心に誓うだった。忍足のためと思ったことが裏目に出るとは、ここはゆっくり治してもらいましょうと、腕から抜ける。



「なら、早く治すことだね」
「簡単に言うてくれるな。参るわ」
「じゃないと、キスも出来ないよ」



クルリと振り返り、人差し指を唇に当て悪戯っ子のように笑う。仕返しではないけど、このくらいは言わせてもらうとしてやったり。



「せやった。クソッ!・…まぁ、ええわ」
「え?」
「治ったら、できんかった分の精算はさせてもらうで。よろしゅう」



今日は動くことが多かったと、何度目かのずれた眼鏡を直した後に、悪魔の微笑みが姿を表していた。



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