蜘蛛



早朝の演習場は静寂に包まれていた。鳥達もようやく目覚めたころ、それ以外の住人がいることも忘れてはならない。朝になれば全ての生き物が目を覚ます。



シュー・…シュー……



「ん?ヒィィィィィィ!」



木の上で息を潜めていたは、真横にあるモノの気配を感じた。軽い気持ちで振り向いた先に、世の中で一番嫌いと言っていいモノの姿を目にする。ちょうど顔の位置で、遠くに焦点を合わせていれば気付かなかったかもしれないが、どんぴしゃで飛び込んできたそれをマジマジと見た挙げ句、薄い毛に、脚が、口が、ワサワサと動いていた。観察したいわけではないのに、細かなものが目に付き全身に鳥肌が立つと同時に、吸い込んだ息の限界が来た。



「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!あ、あぁぁぁ!」



吸ったら吐く。息と共に出るだけの悲鳴を上げ、放れようと足を引くまで、ここが木の上だということを忘れていた。気づいた時には遅く、もがく手は空を掴むだけで、体はまっ逆さまに落ちる。忍びならば、数mの高さなら対処できる範囲内だろが、今のはパニック状態のため、落ちるだけだった。



シュッ!ガシッ!



「なにやってんだ!」
「サ、サスケ君…」



近くの枝木から飛び出してきたサスケに抱えられ、助けられた。その顔には珍しく焦りが差し悲鳴に驚いたが、の無事に一先ず安堵した。サスケのお姫様抱っこに時が止まったようなだったが、地面に降りた途端、それは甦る。



「クモが!蜘蛛が!」



怖くて、足を踏み外して、落ちる前まで見ていたのが蜘蛛で、木の上と地上で離れているからいいのではないかと思うが、完全に居なくなったと言う確証を得るまでは気になる。自分の知らぬ間に、もしもと言うこともあり、縋るようにサスケに問う。



「蜘蛛って、これか」
「いやぁ!」



バッチーン!



涙の訴えは脆くも崩れ、もういないと思っていたに現実が付きつけられる。ご丁寧なことに、サスケはだけでなく、蜘蛛まで助けていたのだ。開かれた手の平には、悲鳴を上げ、足を踏み外す原因ともなった蜘蛛がいた。またも、間近で見てしまった蜘蛛に、の理性は消え、渇いた音が響く。



「っ!お前なぁ…」



突然のことで庇いきれなかったサスケの頬に、鋭い痛みが走る。の小さな手でも、加減なく叩かれれば痛いのかと、赤く腫れた頬を指で撫でた。



「ごめん!だって、蜘蛛嫌いなんだもん!」
「今日は終わりだ。帰る」



自分のしたことが本意ではないと言い訳し、挙げてしまった手をギュッと握る。微かに残る痛みは、サスケの痛さの半分もない。強く責めもせず、済んでしまったことをとやかく言う気もなく、表情1つ変えずにサスケはズボンのポケットに両手を突っ込んで踵を反した。



「ま、待って!サスケ君」



慌てて追ったサスケの背中を見て、の足は震えていた。普段となにも変わらないサスケに、どうしたらいいのか、戸惑いで胸が苦しい。並びはせず、一歩後ろを歩いた。



「痛い?」
「思いっきり叩かれたからな」
「っ……ごめんなさい」



恐々と声を掛ければ、変わらないトーンで返ってくる。それが辛くて、は立ち止まり頭を下げた。震えは大きくなり、いてもたってもいられなくなったは、腰のポーチからハンカチを取り出した。



「ハ、ハンカチ濡らして来る」
「いい。これで」



言うが早いか、動く前にハンカチを持ってない手が掴れた。引き寄せるように引かれた手は、サスケの頬に当てられる。冷たくなった手が、まだ赤く熱を持つ部分にピタッと触れた。



「あっ!」
「震えてる」
「だって!もう、いい?」
「まだだ」



震えがサスケの手に伝わり、軽く笑われた気がした。自分のしたことだけど、生々しく受け取るのが嫌で手を引こうとするも、力が入らない。震えの代わりに熱が絶えず伝わる。嫌がるを愉しむように、もう片方の手も掴むと引き寄せる。



「はっ…」
「蜘蛛はいないのに、なにが怖いんだ」
「こ、怖くなんか」



近くなった距離に俯き、体に力が入った。サスケの息が耳に掛かり、逃げたい自分と、そうでない自分がいることに、思考はパンク寸前で、別な逃げ道を探している。震え以外に、鼓動の速さ、体温の上昇など、口には出さないが気付いているはず。ここで、凛とした態度で返そうと顔を上げた。



「サスケ君がはぅ・・・ん・・」



言おうとした言葉は飲み込まれ、全てが真っ白になってしまった。一瞬だったのに、嘘のように震えが消え、の目には、いつものサスケが映っていた。意地悪な笑みを残して、優しく抱きしめる。



「止まったな。俺がどうした?…蜘蛛より怖いか」



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