■三重タイムズ5月26日4面記事「寄稿」 ● 勝田吉太郎先生へ 東京都議会議員 土屋たかゆき  鈴鹿国際大学の久保憲一教授が、三重県立人権センターの展示が極めて偏向したも のであるとことを、地元紙「三重タイムズ」で批判したこと等を理由に「当学園の名 誉と品位を害し、生徒、学生の募集に悪影響を与えかねない」との理由で「教授」を 解任された。  この「事件」発生直後、私は面識のある勝田吉太郎学長に私信を出した。私信の詳 細はここで述べるべきでないので遠慮するが、要点は、大学の自治、学問の自由に関 することだ。  大学では、さまざまな考えに基づいた研究をしている教師が授業を担当している。 大学は、高校、中学、小学校とは違う。教職免許を持っていなくとも、教授にも、講 師にもなれる。何故なら、その人物が研究した成果を学生に伝達することが、大学の 使命であるから、教職免許と言う、形式的なものに拘束される必要がないからだ。  私の知っている限りにおいても、元新聞記者、元大臣秘書官、ジャーナリストが大 学教授として活躍している。  私は、高校以下の学校においては、学習指導要領に従った教育を実施すべきで、教 育の政治的中立は厳正に確保されるべきであると思っている。従って、「平和」「人 権」などを政治的に利用しようとしている日教組、都教組(東京都の場合)とは、厳 しく対決し、これに違反した教育をした教師には、懲戒を始めとする厳罰で臨むべき であると、都教育庁に要求しているし、議会でも追及している。実際、ある中学で、 偏向教育を実施した教師は、2度に渡って懲戒処分されている。しかし、大学となる と別である。  勝田吉太郎学長は、京大の滝川教授の門下生であると公言し、「今回の件は、久保 先生の思想と学問を裁くのでは絶対ない」とも言っている。「学問の自由は大学の生 命です」と言うこの学長は、今回の「教授解任事件」は、大学の学問の自由を侵犯す る重大な加害行為であることに気が付かないのか。  久保教授が、この処置に対して「地位保全の仮処分」を裁判所に申請したところ、 大学側は、教授に復すると言う措置を急遽取った。しかし、講義、教授会への出席、 大学施設の使用は認めないと言う但し書き付きでである。これが、勝田吉太郎学長の 言う「学問の自由」なのか。  勝田吉太郎学長は、月刊誌「諸君」での論文の中で、京都大学で学問的迫害を受け た滝川教授に如何にご自身が傾倒していたかを、62年、欧米留学に出掛ける際に同教 授から送られた言葉を引用して語っている。  勝田吉太郎学長は、この「被害者である滝川教授との関係」を強調することで、今 回の自身の学問侵害、自治破壊行為を正当化しているに過ぎない。  「諸君」論文の中で、「久保教授は右寄り過ぎる。大東亜戦争肯定論者だ」との忠 告もかつてあったが、自分はそれもかばって来たと言っている。しかし、「映画プラ イドを学生に観ることを強く勧めたことは、『学問の自由』の大儀を失うことだ」 と、 今度は、今回の処分に至る経過を正当化している。  仮に、勝田吉太郎学長の言い分が正しいとするなら、「15年戦争史観」を大学で講 義している教授は“五万”といる。経済学でも、とっくに崩壊した「マルクス経済 学」 を教授し、その講義の中で、学生に「参考図書」として、丸山真男氏を始めとする左 翼主義者の図書を参考に論文を作成することを教唆する教授は、私の知っている限り でも数名いる。  私のところにボランティアとして来てくれる学生に聞いてみると、中には、公平 に、 仮にその教授の学説に反したレポート、答案を書いても正当に評価される場合もある が、大方は、正当とは言えない評価の場合が多いと聞く。私の学んだ、大学において も、実際そのような体験をしたことがある。  しかしそれは、その教授の器量の問題であって、何もそれを大げさに騒ぎ立てる問 題でもない。今回、映画プライドの鑑賞を仮に久保教授が勧めたところで、それは、 丁度、左翼系の教授が、「岩波ブックレットを読め」と言うのに等しい。あくまで も、 学問の自由の中で、その教授が、学生が特定のテーマを考える上で必要としたから、 「資料」として示したまでで、それが、多少の強制を伴っていたとしても、例えば、 「〇〇〇〇」の本を読んだ上で授業に臨むことと、条件を付ける教授が何ら処分され ることがないのと同様だ。  仮に、「プライド」を参考資料に勧めたことで処分を受けることになるのなら、時 代遅れの左翼思想を振りかざしている、我が東京都の都立大の教授など過半数は「解 職」と言う事態になってしまう。  今更言うまでのないことだが、大学の学問の自由とは、15年戦争史観を教える自由 もあり、自由主義史観を教える自由もある。学生は、適当と思われる講座を受講する だろうし、仮にそれが必修単位であったなら、その単位を取得する術くらい持ってい る。また、批判的に考える学生は、正々堂々、反論を試みる。それが、大学と言うも のだ。  それをどこから圧力がかかったかは知らないけれど、久保教授を一方的に解任する とは、陳腐としか言いようがない。ある教授は、久保教授に「学長に晩節をまっとう させて下さい」と迫ったそうであるが、「晩節をまっとうさせるため」に、大学の学 問の自由と、自治を売られては困る。  そして、そんな程度の認識しか持っていない人物が、「教育会議国民会議」委員と して、これからの教育改革を審議するなど、その審議会で審議される予定の「教育基 本法改正」が一体どのような内容のものになるのか心配に思うのは私ひとりではない だろう。  「晩節をまっとうしたい」のなら、尊敬して止まない、滝川教授のように最後まで 毅然とした態度を貫くべきである。外部の不当な圧力に屈して、そんな程度のことも 出来ないようであるなら、「自由を愛する保守主義者」との評を自ら返上すべきでは ないか。