産經新聞『正論』四月号より

校長が自殺し、教授が解任される!日教組王国三重県の暗闇

編集部・上島嘉郎



 その一報が編集部に飛び込んできたのは昨年十二月十五日の夕方だった。「三重県立松坂商業高校の校長が自宅の庭で首を吊って自殺した」。遺書はなく動機は不明、という。東京で目にした限り、翌日の新聞はどこもベタ記事扱いで、自殺の真相に関する続報はその後もなかったが、昨秋から、"日教組王国"三重県教育の実態を批判する論を本誌上で展開してきた担当者として、松坂商業の校長自殺は看過できる事件ではなかった。とっさに思い浮かんだのは、昨年二月二十八日、卒業式を翌日に控えた広島県立世羅高校の石川敏浩校長の自殺である。広島県教委は同日午後から緊急会見を行い、辰野裕一教育長が、卒業式で学習指導要領に基づいて国旗掲揚・国歌斉唱をしたいとする石川校長に対して、高教祖(広島県高等学校教職員組合=日教組系)に所属する教職員らが強く反発、同問題をめぐる協議が連日続けられ、悩んでいたことを明らかにした。

 この事件は国会でも取り上げられ、石川校長が自殺直前に遺書めいた走り書きのメモと日記を残していたことから、卒業式での国旗・国歌の取り扱いをめぐる学習指導要領とそれに反対する教組の板挟みに悩んだ末の悲劇だったことが広く認識されるに及んだ。そうした教育現場の混乱を収束、指導を後押しする目的から、「日の丸」を国旗に、「君が代」を国歌と定める法律の制定につながったことは記憶に新しい。

 いったい松坂商業の校長の身に何があったのか。広島県の事例と似たような板挟み状況があったのか...、三重県の事情を直接取材してみた。

悪しき慣行は本当に是正されるのか

 まず勤務評定の「オールB・開示」や「勤務時間内の組合活動」など本誌に掲載された一連の論文(平成十一年十月号「私の日教組打倒論」渡邊毅氏=三重県公立中学校教諭、同十二月号「"日教組王国"の惨状」松浦光修氏=皇学館大学助教授、平成十二年二月号「揺らぎはじめた"日教組王国"」新田均氏=同)によって明らかにされた三重県教育界のさまざまな疑惑について、その後の推移を概観する。

 三重県教委と文部省のやりとりは昨年十一月四日から頻繁になり、同日、文部省地方課から、本誌に掲載された三教祖(三重県教職員組合)問題に関する事実関係と、勤評問題の実態報告を求められ、県教委が報告、以後年末までに計五回県教委は文部省に出向いて状況報告と、国旗・国歌に関する指導などを受けた。また二月二十八日からは会計検査院も県教委の検査に入ることになっている。調査内容の詳細は不明だが、勤務時間中の組合活動が公費の不正支出に当たるかどうかが焦点になると見られる。

 一月二十四日に開かれた三重県議会行政改革調査特別委員会で県教委は、勤務評定の詳しい実態や三教組役員の受け持ち授業時間数、文部省からの指導内容などについて明らかにしたが、それによると勤務評定は昨年九月の時点で、県内六百六校の小中学校すべてでオールB評価。七十七校の県立高校・盲聾養護学校のうち五十二校でオールB評価となっていた。県内には三教組の支部が全部で二十六あり、約一万三千六百人が加入、うち二百二十二人が支部長から執行委員までの役員に就き、それらの教員の一週間の受け持ち授業時間は、少ない教員で四時間、半数近くの百五人が十時間未満しか受け持っていなかった。ちなみに全国平均は小学校二十二時間、中学校十六時間、高校十五時間となっている。

 中林正彦教育長は同委員会の質疑の中で、勤務中の組合活動が給与(公費)の不正支出とされた場合、「責任は関係するみんなにある」と述べ、県教委や学校幹部だけでなく、現場の教員にも責任が及ぶという考えを示した。また同委員会では、県教委と三教組が人事異動の内示後に、当該職員からの苦情について話し合いの場を設けてきたことが"是正すべき慣行"の実態として明らかにされたが、三教組が組合員から拠出させている「主任手当」については、支給開始年度の昭和五十二年から平成十年度までの間に支出された約二十一億二千百万円のうち、三教組への拠出額とその使途は不明という報告がなされた。使途不明なのは、県教委が三教組に回答を求めたものの、拒否されたからだという。

 人事上の慣行について記者が得た県教委と三教組の具体的な申し合わせ事項に触れておくと、たとえば高校では、同一校三年以内の勤務者及び五十五歳以上の教員は異動なし同一校三〜七年の勤務者は本人の希望・承諾がなければ校長は異動させることができない、などである。取材に応じた元県立高校長によれば、これらの申し合わせは文章化され、現場だけでなく県教委と三教組の双方が保管しているはずだという。

根深い県教委と三教組癒着の構造

 新田均皇学館大学助教授は本誌二月号の論文で、「教育長の対応の早さは、三教組ばかりでなく、私たちをも驚かせた。そして、かえって、『教育長はこの問題をさらに追及する覚悟があるのか、それとも、これで一件落着(記者注・十一月二十四日付に教育長名で出された「勤務評定の適正化と教職員の服務規律の確保について」という通知)にするつもりなのか』との疑念が生じた」と記している。

 確かに中林教育長はその後、教職員の勤務時間に関する実態調査を過去三年に溯って行うことを指示、学校管理運営改革のため「学校運営改革担当」を県教委事務局内に設置することを決めたほか、一月二十四日の行革調査特別委で、"是正すべき慣行"として、先に述べた人事異動における内示後の組合との話し合いの廃止▽勤務評定の適正化と非開示の徹底▽勤務時間内の組合活動の是正と管理の徹底▽これまで職場の選挙・推薦で選出されてきた主任を校長の判断で任命するよう徹底▽職員会議を学校の最高意志決定機関ではなく、校長の補助機関として位置づける、の四点をあげ、教育改革に強い決意で臨むことを表明している。

 しかし、県教委が一枚岩となって教育改革を進めるかどうかは、現状では不確かと言わざるを得ない。三重県で日教組が王国を築くことができたのは、「他の都道府県には見られない非常に柔軟な教育委員会・校長会・組合の三位一体となった教育行政、管理職対応、組織運営があったから」である(本誌十月号渡邊論文)。 昭和四十七年から平成七年まで六期二十三年という長期にわたって知事をつとめた故田川亮三氏が社会党推薦で当選した革新知事として、社会党や三教組の要求を色濃く県政に反映させたことが禍根となったという声は根強い。三教組が田川県政の屋台骨だったことは紛れもない事実で、三教組自身、かつては県議会に独自会派を持ち、現在も組織内議員九人、推薦議員三人(会派は県民連合)を抱えるなど、三重県政界、行政への強い発言力は依然として保持したままだ。その影響力は県教委にも及び、県教委職員の四割以上が三教組の組合員であるという。

 一月十一日に津市の教育文化会館で三教組の「新春旗びらき」が開かれた。北川正恭知事、中林正彦教育長、平成八年の衆院選で三教組の推薦を受けて当選した川崎二郎、田村憲久両衆院議員(ともに自民党)らが出席した。挨拶に立った鈴木逸郎中央執行委員長は、「昨年来、三教組に対するさまざまな攻撃や批判があるが、一つには率直に、素直に聞かなければならない指摘もあり、是正すべきものは是正していきたい」と余裕を示しつつも、「三教組の進めている教育運動を偏向教育だとする組織攻撃や、自由主義史観、新しいナショナリズム攻撃には毅然とした態度で対決していかなければならない」と対決姿勢を崩していない。

 また、かつて田川亮三氏とともに県教委と三教組の"友好関係"を担ったとされる山本正和参院議員(元三教組委員長、社民党=比例代表)はいみじくも、「勤務時間内の組合活動は法律違反だという一部の人や、支払った賃金を返せという人が現れ、三教組結成以来の危機(が訪れている)。先生が(一週間に)四十四時間しか働かなったらどうなるのか。教育を守ろうとした先生たちがいたから圧倒的な田川(亮三前知事)政権が生まれた。配慮も必要だが、堂々と自己主張すべきはせねばならない」と発言した。

 同じ席で挨拶に立った北川知事(無所属、平成七年選挙当時は新進党や新党さきがけなど推薦)は、「三教組さんも昨年来、大激動の時代に入っているが、それは時代がそうさせている。中途半端な改革ではなく、どうか百回も二百回も三百回も四百回も議論を重ね、プラスの遺産は引き継ぎ、マイナスの遺産は改めるよう教育改革に取り組んでください」と語った。ある自民党県議は田川県政時代とは大きな違いだと指摘し、「北川さんは田川時代の弊害を知っている。その教育改革の意向を受けて知事部局から教育委員会に舞い降りたのが中林さんだ。中林さんは"捨て石"になる覚悟をすでに固めているのではないか」という。北川知事の発言を受けた中林教育長は、「(三教組に対する批判は)一部の声との発言があったが、そうではなく県民(全体)の方々からの批判と考えたい。(改革は)痛みを伴うが、是々非々でオン・ザ・テーブルで話し合っていきたい」とここでも決意を表明している。

改革をめぐる県教委内部の温度差

 革新幻想が崩壊した後、地方政治がオール与党化したことが保守の側の緊張感を失わせ、左翼・革新の価値観に無警戒になったことは間違いあるまい。中央政界では一時自社連立があったが、地方政界はかなり前からその構図が当たり前になっていた。とくに教育界では都道府県教委と組合がベッタリという状況である。そうした馴れ合い構造が教育を歪めたことは、ほんの一、二年前の広島県の状況を見るまでもなく、三重県の構造もそれに酷似していると言わざるを得ない。

 二月十日、記者は三重県議会教育警察常任委員会を傍聴したが、その場で三重県教育界の構造を示唆する重要な質疑応答があった。一つは教育改革に取り組む中林正彦教育長と、中村正昭教育次長以下の教育委員会幹部職員との温度差が透けて見えたことである。田中覚議員(県政会)が中村次長に校長当時の感想を求めたのに対し、中村次長は、「教育活動は勤務時間にがんじ絡めにされず、ある程度幅を持ったものであるべき。勤務時間中に自由に教育について考え、研修することも必要と考えて、組合活動を黙認してきた」と答えたうえで、「組合活動は純然たる組合活動だけでなく、教育活動も多い。(実態調査では)教育活動と組合活動を仕分けしていかなければならない」と発言し、勤務時間中の組合活動を一部"擁護"したのである。

 さらに田中俊行議員(県政会)が勤務時間内の組合活動の児童生徒への影響を尋ねたのに対し、中村次長は、「組合役員が組合活動で不在の場合、ほかの先生が担当しており、学校運営全体の中では子供たちに影響はなかった」と説明するにいたって、田中議員らから、「ほかの先生が担当して影響がないというのなら、その先生は要らないということではないか」と強い批判を浴びた。三教組出身の中村次長にしてみれば当然の発言だったのかも知れないが、およそその発言に教育改革に取り組む熱意は感じられなかった。むしろ教育改革を求める動きを疎んじるような雰囲気を感じざるを得なかった。

 もう一つは、浜田耕司議員(自民党)と中林教育長との間で交わされた松坂商業高校の永井久男校長の自殺に関する質疑応答である。「週刊新潮」(2月17日号)の「ベタ記事『県立松坂商業高校校長自殺』の背景で浮かぶ『ある圧力』」という見出し記事にあるように、永井校長は同校の教員が起こした差別発言をめぐって対応に苦慮していた。それを初めて公にしたのは、確認できる範囲では日本共産党三重県議団(荻原量吉、真弓俊郎両県議)である。十二月二十一日に同県教育委員会の作野史朗委員長と中林正彦教育長に、「差別を固定化、永久化する同和教育の是正」という形で申し入れが行われている。

 それによると昨年六月、松坂商業の一教員の居住地での行動と発言が「差別事件」とされて、八月に二回、部落解放同盟(解同)三重県連合会から永井校長と問題の教員が呼ばれて「確認会」が行われたこと、六月から十一月にかけて県教委同和教育課から永井校長への「聞き取り」「指導」などの訪問が二十数回にわたってなされたこと、昨年十一月五日に松坂市役所で開かれた第一回の「糾弾集会」では、参加者約四百人のうち二百二十四人が県職員で、県幹部職員も多数参加、校長も「自らの間違った認識」を糾弾されていたことなどを指摘、「こうした経過と同校長の自殺という不幸な事態が無関係と言い切れるのか」と質している。とくに部落解放同盟の行った糾弾集会に参加した職員の大半が公務として扱われていたことを癒着として問題視している。

 一月十四日、永井校長の自殺原因を究明しようと、共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)や「三重の教育を守る会」(鈴木茂会長)などが中心になって「自殺の真相を明らかにする県民の会」が結成された。同会は今後、県への要望として行政の主体性の確立、解放同盟の確認・糾弾集会への参加の取りやめ、自由な討論のできる環境づくり、同和加配、同和教育の特別枠の廃止などを求めていくとしている。

差別事件の処理をめぐる指針

 こうした動きがある中で、浜田議員は同委員会において、国から地方自治体に対して、こうした差別事件の処理についての指針が文章で通知されていることを指摘、その通知内容の周知を職員に徹底するように求めた。中林教育長はその文章の一部を読み上げたうえで、「同和問題をタブー視することなく、オン・ザ・テーブルで議論していきたい」と答えた。 差別事件に関する国の指針を示した文章とは、昭和六十二年に総務庁長官官房地域改善対策室長通知として、各都道府県知事・各指定都市市長宛に出された「地域改善対策啓発推進指針」である。その中に「差別事件の処理の在り方」として次のような一文がある。

 「差別事件を起こしたと指摘された個人、企業等は、法務省設置法により権限を付与された法務省人権擁護局並びに法務局及び地方法務局の人権擁護(部)課(以下「人権擁護行政機関」という)の人権侵犯事件調査処理規定に基づいた事件処理等に従うことが法の趣旨に忠実であるということである。したがって、個人、民間運動団体等から差別事件を起こしたとして追及を受けた場合、所轄の人権擁護行政機関に訴えてくれれば、その事件処理に従う旨を追及者に告げることが肝要である。相手がそれに応じない場合は、自らが所轄の人権擁護行政機関に出頭し、同機関の事件処理等に服する旨を申告することができる。このようにすれば、法に基づく妥当な事件処理が行われることになるのである。

 今一つのみちとしては、全く任意に民間運動団体の主催する確認会、糾弾会に出席することが考えられる。この場合、出席が本人の自由意思によるものであり、出席しない場合は、民間運動団体の激しい抗議行動が予想される等の強制的要素がないことが重要である。また、集団による心理的圧迫がないこと(出席者を糾弾側、被糾弾側同数とし、かつ小人数に絞ること等の工夫が必要である)、確認糾弾の場を権威を持って取り仕切ることができる中立の立場の仲裁者が居ること、プライバシーの問題が無い場合は、第三者にも公開されて冷静な客観的な議論ができる環境が保証されていることの各要件がすべて満たされている必要がある。

 しかし、このような理想的な確認・糾弾会が開かれることは、これまで皆無に近かった。前述の法の定めるところに従った人権擁護行政機関の事件処理によることが適当であるとされるゆえんである」

 松坂商業高校の永井校長の自殺原因が果たして何だったのか、軽々に論じることはできない。しかしながら、以上述べたような国の指針にしたがって差別事件の処理を行っていたら...、と考えるてみることは決して無駄ではあるまい。ここではそれを述べるにとどめておく。

人権センター批判はタブーか

 三重県教育の歪みは、最終的にはその教育内容についてこそ論及しなければならない。確かに勤評のオールB・開示も、勤務時間内の組合活動も問題だが、ある中学校の一年生を対象に行われた「人権学習」で次のような"教師側の意図"が堂々とまかり通る異常さのほうがより深刻であろう。朝鮮と日本の歴史を題材に、「細かい歴史事実の相関よりも、日本が自国の利益のためにアジア、とりわけ朝鮮の人々に甚大な犠牲を強いたその身勝手さ、酷さが伝わればよい」というのである。いったいこれはどこの国の国民を教育するための授業なのか。一例にとどめるが(本誌十二月号松浦論文に詳細)、これを偏向と言わずして何と言うべきか。

 こうした偏向は教育の現場ばかりではない。「平和・人権教育」の名のもとに、戦前の日本の"加害"の歴史をことさらに強調したり、祖父母の世代を一方的に貶めるような偏った展示、歴史観、社会観を押し付けるような施設も問題であろう。すでに問題とされた各地の施設をあげれば、大阪国際平和センター(ピースおおさか)、地球市民かながわプラザ国際展示室、川崎市平和館、長崎市原爆資料館などがある。

 三重県はどうか。昨年、三重県人権センター(津市)の展示物に偏った歴史観に基づいた反日・自虐的な傾向が見られるとして、「三重の教育をただす会」(山野世志満代表)など市民グループが質問や改善を求める声を同センターに寄せた。それによると、同センターの一階常設展示場のパネルは一方的な内容で、二階図書室の書籍についても反権力・反体制の色合いが強く、行政の展示としてはふさわしくない点が多い、という。これに対し馬場左所長は、「思想的に偏った内容の書籍が多いのは確か」と認めたうえで、一定の改善を検討する旨の回答をしている。ここで歴史的事実に照らして、疑義のある同センターの展示を一つだけ指摘しておくと、一階にある「侵略戦争の拡大と南京虐殺」とタイトルの付けられた写真であり、日本軍が中国人を二十〜三十万人殺害した旨の説明文である。

 人権教育は"加害"の面だけを強調、非難すれば足りるのか。もっと多様な教え方をする必要があるのではないか。こうした問いかけなり批判は、果たして人権無視につながる行為だろうか。

 三重県人権センターの展示を批判したり、東條英機元首相に焦点を当てつつ東京裁判の不条理を描いた映画『プライド−運命の瞬間』の鑑賞を学生に勧めたことなどを理由に、鈴鹿国際大学(三重県鈴鹿市、勝田吉太郎学長)の久保憲一・国際学部教授が、同大学を経営する学校法人・享栄学園(本部・名古屋市、堀敬文理事長)から教授職を解任され、事務職員にされたことが、久保教授の地位保全を求めた津地裁への仮処分申請によって明らかにされた。申請が出されたのは今年二月十六日である。

 仮処分の申請内容や関係者の話などによると、久保教授は平成十年八月と十二月、支部長をつとめる「日本世論の会」三重県支部のメンバーとともに人権センターを訪れ、「戦争関連の展示が自虐的で偏向している」として改善を要望したほか、十一月五日付の地元紙三重タイムズのインタビューに答えて、「(人権センターの展示は)想像以上にひどい。ほとんどが部落問題で占められている。あとの二割ほどが反日、自虐史観です。どういう子どもや日本人を育てようとしているのか疑問に感じるような施設」と問いかけ、東京都の平和記念館問題とオーバーラップするとしたうえで、「日本でありながらまるでアメリカ史観、中国史観です」と発言した。また平成十年夏頃には、「一般教養や学部、ゼミの講義などで学生に対して映画『プライド』を見れば(成績評価で)有利に扱う」と話したという。

 学園・大学側は今年一月二十四日付で久保教授を戒告処分にするとともに、大学の教授職を解き学園本部付事務職員とする辞令を発令した。その後、仮処分申請直前の二月十四日付で、事務職員と大学教授を兼務する新たな辞令を出したが、久保教授は研究室の使用や教育活動は禁じられたままであるという。学園側は処分理由について、人権センターへの批判や同和問題に関する久保教授の発言に配慮がなく、東條元首相の映画鑑賞を学生に強要したことなども含め、そうした言動が教授会で不適格と決議され、反省を求めても改善されなかった、としている。

 これに対し久保教授は、映画の鑑賞は学生に強要していない。人権センターヘの要望や、三重タイムズのインタビューは歴史観に関するものが中心で、同和問題を軽視したものではなく、他の人権問題を含めて多様に展示してほしいという内容だった、と話している。

 記者の取材からは一私立大学の人事上の問題では済まされない構造が見えかくれしている。久保教授の三重タイムズのインタビュー記事が掲載された後、県教委事務局同和教育課や同県生活文化部同和課などから鈴鹿国際大学に何らかの働きかけがあったのではないか、という話が関係者の間で囁かれている。県教委同和教育課の藤田郁子課長をはじめ県側はそれを全面的に否定しているが、学園側は具体的な内容とその相手については明かせないとしながらも、「有形無形の働きかけ」があったことを記者に認めた。

 久保教授の言動が大学教授として解任されねばならないほど不見識なものかどうかの判断よりも、実際に学園側が憂慮したのは久保教授の言動によって三重県内での学生募集に悪影響が出るのではないかということだった。それは"廃校の危機"という表現をもって久保教授に伝えられている。久保教授の言動が多くの国民の批判を浴びねばならないものかどうか、一般の常識に委ねれば自明と思われるのだが、それが廃校の危機につながりかねないとは、いったい何がそうさせるのだろう。学園の関係者は、「三重県の事情」としか語らなかった。

 憶測は避けよう。本号の発売時、三重県は定例三月県議会が開かれているはずだ。また会計検査院の調査も入っている。そこで何か新たな事実が明らかになるかも知れない。教育・学問という世界で、校長が自殺し、大学教授が解任される......、"見えない暗闇"が三重県を覆っている。


日本世論の会 三重県支部