ジャズよもやま話

ライブでの思い出深い出来事とか、私の経験した体験談です。記憶から引っぱり出し
がらUPしますので時代が前後するかもしれませんが悪しからず。            

 アート・ブレーキーの楽屋に押しかける

     大学1年の時、クラブ(ギタマンクラブ)の同僚数人で労音に入会し、名古屋市公会堂で行われた
     アート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーのコンサートを聴きに行きました。当時は名古屋にはラ
     イブハウスはほとんど無く、国外の大物ジャズマンのコンサートはほとんど公会堂でした。
     コンサートも終わり同僚の一人が「楽屋まで行こうよと」ということで皆で押しかけました。
     楽屋の扉は私が開けましたが、そこにはソファーにどっしりと座ったアート・ブレーキーが!!!!
     まるで大きなゴリラ!!とも思える体格、風格とても圧倒され、すぐ横にはブレーキーとは対照的
     に小柄なビル・ハードマン(Tp)が立ってました。ブロークンイングリッシュでその時何をしゃべった
     か記憶にありませんが、ちょうど楽器を持っていたのでケースから汚れたシリコンクロスを取り出し
     ビル・ハードマンからサインをして頂き、感激モードで帰路に着いたのでした。
     ブレーキーは晩年肺ガンでやせ細って、ハードマンももう故人になってますが、とにかく私の感動の
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NHK FM公開録音初体験

     高校時代よりFM番組は聴いてましたが、公開録音(今はスタジオ505)が時々あり往復はがきで
     申し込み、ナベサダバンド、ニューハードを名古屋の中電ホールに聴きに行きました。
     まだギターの増尾さんが早稲田のジャズ研在籍のころではないかと思います。
     ナベサダさんの増尾さんの紹介が「すばらしい若手ギタリスト・・・」と記憶しています。
     この時代は今のようにカメラのチェックもなく両バンド共望遠レンズを駆使し撮影し、この時撮影
     した増尾さんの写真が30数年後増尾さんの手元に渡ることになります。
     ニューハードもオリジナルを多く演奏するバンドでギターの山木幸三郎さんのアレンジはとても
     モダンです。

バンドの練習場所は公園 

     30数年前はアマチュア社会人ビッグバンドに在籍してましたが、当時の練習は土曜日の夜と日曜日
     の午前中で名古屋城北の名城公園が練習場所でした。夜の練習は車のバッテリーからインバータ
     でAC100Vにしポールを立て裸電球を点灯してというものでした。数年間はそのような練習が続き
     ましたが、その後、各区に「青年の家」なる公共の練習場所ができ安定した練習ができるように
     なってます。

ジャズを聴く人は変人

     10年ほど前、地元の同業者とつき合うようになり、そこの従業員でKさんという三重県の南部
     出身のかたがみえました。高校時代よりマイルスを聴きかなりのジャズファンなのです。
     ずいぶん後から聞きましたが、高校時代を過ごされていた頃はジャズはまともな人間の音楽では
     ないという風潮があったらしく、私が当時乗っていた車のリアウインドウに「I Love Jazz」の
     ステッカーが張ってあるのを見て「ジャズを聴かれるのですか?」という問いかけに「ジャズはよく
     聴きますよ」と答えると「あ〜 よかった ジャズの事を口にしたのは何年ぶりだろう。ジャズという
     化粧品のブランドもあるし、また変人扱いされるかもしれなかったけど、思い切ってよかった。」
     その後はKさんとは仕事よりもジャズ談義でのつき合いが多くなり私の事務所でレコードを聴き
     ながら酒を呑むという事が続きました。
    

マンモスキャバレー  ホステスの更衣室

     就職した年の冬、偶然高校時代のブラスバンドのN君に会い、キャバレーのバンドでアルバイトを
     しているとの事。「一度遊びにおいでよ」とさそってくれたので楽器を持って一緒に行きましたが、
     楽屋まで辿り着くのにホステスの更衣室を横切っていくのです。2,3人のホステスが着替えて
     ましたが目のやりばに困ってしまいますね。バンドはフルバンドとコンボで交代で演奏しますが
     ドサ周りの名前も聞いたことない演歌歌手のバックをした時は楽譜は初見だし・・・・・・・
     その演歌歌手は2日連ちゃんでしたが2日目は行方不明になってしまうし・・・・・・
     

ファンファーレのアルバイト

     ビッグバンドには時々営業の仕事が舞い込みますが四日市の「一番街」?という商店街のセレ
     モニーでファンファーレを吹くことになりバンドのラッパ隊3人、それぞれ会社を休み行きました。
     階段に3人が並び5種類くらい吹きましたね〜。落語家の林家喜久蔵が司会をしてました。
     ギャラはいくらだったか忘れましたが30分ぐらいの時間で終わってしまいました。

都市対抗野球

     バンドのメンバーがM重工業に勤務していた関係上、またまたかり出されました。当時私はまだ
     サラリーマンをしていましたが仕事の鞄と楽器を持って、部下に運転させ名古屋の熱田球場まで
     行き「2時間後に迎えに来てよ」と車を降り、バンドの仲間とおちあいスタンドにスタンバイします。
     応援チ−ムがヒットを打つと同時に演奏するのですが、慣れない私は試合を見るのに夢中で、1テ
     ンポどうしても吹くのが遅れてしまうのでした。(笑)
     こんなことしてても帰り際、ギャラC万円も頂きニンマリ。早々に部下の待っている車まで戻り会社
     に帰りましたが部下曰く「あれ〜 なんだかすごい日焼けしましたね〜」と言われてしまいましたが
     「今日の仕事は外だったんだよ〜。修理が長引いてしまって。」てな事にしておきました。

ミュージッシャンからサインを求められる

     前述の「FM公開録音」に書いたように増尾さんを撮影しました。2000年11月3日、名古屋のLovely
     30周年のイベントがあり私は行かなかったのですが、翌日4日Lovelyで増尾さんのライブがあり
     増尾さんのHP管理人のKacoさんと一緒させていただき、ライブの後Kacoさんより紹介していただき
     30数年前撮影した写真を増尾さんに渡したところ、増尾さん自身より私にサインを求められ困惑しま
     したが汚い字でサインしてしまいました。増尾さんはとても懐かしがってみえ「これはレスポールだろ
     うか?」と当時使ってみえたギターに関心がありそうでした。
     別な写真に増尾さんのサインも頂きましたが「僕、太陽が好きだから太陽のマークも書きますね。」
     と言われ、とてもフレンドリーな増尾さんを垣間見ることができこの日は感動!感動!の日でした。