今宵は安らかに
あなたが巴里に旅立つ前夜。
私たちは一晩中体を重ねた。
果てては、体を重ね、体を重ねては果てた。
あなたの体温と感触を私の肌に染み込ませるように。
私はあなたを貪るように求めた。
あなたは私を貪るように抱いた。
あなたの指、舌、唇が私の体をなぞるたびに私は歓喜の声を上げ、我を忘れる。
あなたに貫かれるたびに私は愛されていることを実感する。
私の肌に刻み込まれる紅い刻印は体を重ねていくたびにに増えていく。
重ねた肌から伝わる鼓動を通してあなたの心が聞こえたような気がした。
「離れたくない。ずっとこうしていられるのならば・・・・」
それは私も同じ。
でも、それは言わない。言いたくない。
あなたにすがって泣いてしまいそうだから。
行かないでと泣いてしまいそうだから。
あなたを甘えさせて引き止めてだめにしてしまいそうだから。
だから今宵は我を忘れよう。
明日のことを忘れ。今日のことを忘れ。
あなたの体温と感触だけを私の中に残そう。
「マリア・・・・」
私のひざを枕にして、あなたは横になった。
情事の後のあなたのいつもの行為。
あなたの硬い髪が私の肌をくすぐる。
とてもくすぐったくて私はいつもあなたに膝枕するたびに身をよじる。
「マリア・・・。なんだか眠れないんだ」
あなたはいつになく甘えた口調で言った。
「何を言ってるんですか。こどもじゃあるまいし」
「そうだけれど・・・・」
あなたは少しむくれた顔で言いましたね。
私はそれがおかしくて少し笑ってしまった。
「じゃあ・・・・。子守唄でも歌いましょうか?隊長。よく眠れるように」
「そうしてもらうよ。あと・・・。二人だけのときは一郎さんと呼んで欲しいけどな」
「ええ、一郎さん・・・・」
私は目を閉じ、囁くように歌った。
心を煩わせず 心乱さずに
何も心配しないで
今宵はおやすみなさい
今宵は安らかに
周りの事なんて何もかも忘れて
今宵は何もかも忘れておやすみなさい
さあ、香油を塗りましょう
悩みが消えるように
あなたの火照った額を冷ますように
だいじょうぶ。すべてうまくいくのだから
香油が火照った頭と足を心地よく冷やしてくれるわ
どうか瞳を閉じて瞳を閉じて
今宵は安らかに
今宵は安らかにおやすみなさい
ニューヨークのうらぶれた街で私はこの歌を聴いた。
地下劇場で話題になったミュージカルのナンバー・
自暴自棄になった私の耳に安酒場のラジオから聴こえたこの歌だけは記憶に残っていた。
救世主ジーザス・クライストに恋する罪深き娼婦の歌。
マグダラのマリア。
私と同じ名の娼婦が救世主を癒したように、私もあなたを癒そう。
明日のことを忘れさせるために。
あなたのために歌おう。
私にとってあなたは救世主。
私の心の氷を溶かした救世主。
私に人を愛することを思い出させた救世主。
だからあなたのために歌おう。
マグダラのマリアのように。
あなたはいつのまにか寝息を立てていた。
あなたの寝顔の穏やかさに私はほっとした。
そしてほんの少し泣いた。
明日の別れをおもって。
そして、一年後。
あなたは帰ってきた。
あなたは今まで見たことのない悲壮な瞳をしていた。
痛々しいまでに悲しい瞳をしていた。
理由はすぐにわかった。
巴里に残したあなたが恋した女(ひと)。
あなたを一途に想った女。
あの女と何かあったのですね。
一度、巴里にきたときに私を激しく見据えた銀色の髪の女。
どこかなげやりで、そしてどこか切ないほどに張り詰めたブルーグレイの瞳をした女。
昔の私と同じ瞳をした女。
あなたは私とあの女との間で揺れたのでしょう。
あなたは異国の地で苦しんだのでしょう。
あなたはやさしいひとだからどちらも傷つくことを恐れたことでしょう。
でも、私を選んだ。
そしてここへ帰ってきた。
何も言わないで。
あなたの瞳がすべてを語っているから。
あなたは嘘をつけないから。
おかえりなさい。
何も言わないで。
あなたの瞳は今にも泣いてしまいそう。
あなたは私を見るなり強く抱きしめた。
痛いほどに強く抱きしめた。
おかえりなさい。
そして、泣かないで。
その夜私たちは体を重ねた。
あなたの背中はかすかに震えていた。
ためらいがちな指の動きが私に巴里の残した女への嫉妬とその女を振りきり、ここへ戻った
あなたの胸の痛みへの悲しさを呼び起こした。
あなたは母親の乳房を求める乳飲み子のように私にもたれかかった。
私の感触と体温を確かめるように。
心の激しい揺れを抑えるように。
情事が終わり、あなたは呟いた。
「なあ、マリア・・・・。歌ってくれないかあの歌を」
その声はかすかに震えていた。
そして瞳は濡れていた。
私は黙ってあなたの髪をなで、頷いた。
歌おう。
一年前の夜のように。
あなたが私のひざの上で眠りについた夜と同じように。
だから昨日のことも明日のことも忘れて。
二つの恋に揺れたことも。
そのことで心痛めたことも。
何もかも忘れて。
さあ、瞳を閉じて。瞳を閉じて。
何も考えずに。
何も心配しないで。
あなたのために私はマグダラのマリアになろう。
あなたを癒すために。
あなたが癒してくれたように。
そして歌おう。
傷ついた心を体とともに眠らせてあげよう。
おやすみなさい。
あなたのかすかな寝息が聞こえた。
穏やかなその寝息は私をほっとさせた。
しかし私は歌い続けた。
瞳を閉じて。瞳を閉じて。
今宵は安らかに・・・・・。

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