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ウィルス
著者:ぶるくな10番!


「智子、どうしたの!ねぇしっかりしなさいよ。」
それは四時限目に起こった。古文の授業中、前の席に座っていた友人の智子の頭が急に視界から消えると、制服の女子高生が身体ごと床に叩きつけられていた。ガタンという音のすぐ後にドスンという鈍い音。驚いて立ち上がると椅子が勢いよく後ろに倒れた。上半身だけ抱き上げると顔面が蒼白くなった智子の眼は、白内障の患者のように白い。瞳孔が開いて焦点がどこにも合っていない。
「マ…・・…ザー・・…ク・・・・ッ…シ・…」
うわごとのように何かをつぶやいているけれど、何を言いたいのか分からない。
「どうした、森野。」
担任の教師が血相を変えて教壇から駆け寄ると、抱きかかえてる私とぐったりして精気のない智子を上から見下ろし、大人げの無い慌てた顔をして言い放った。
「119番だ。救急車を呼ぶ。みんなは落ち着いて。席を離れるんじゃないぞ。先生はすぐ戻って来るからな、いいな。落ち着くんだ。慌てるな。」
生徒に言っているのか、自分に言っているのか分からない程大きな声を張り上げながら教室を後にすると、廊下をバタバタと駈けていく音が聞こえた。

生徒達が私と智子の周りにザワザワと集まってくる。
「…・…ザ……クラ・・…ッ」
その間にも紫に変色した半開きの唇が何かをつぶやいていた。
「森野さんどうしたの。」
「智子。」
「持病でももっていたのかよ。」
「遊び過ぎじゃねぇの。」
「そういえば妙な噂聞くよな。風俗で働いてるとか。」
「男関係か。怖いねぇ、最近の17歳は、ケケ。」
「森野抱いてる桜井もそうなのかい?」
私は聞こえないふりをして黙っていた。
「あんた達、こんな時に何言ってるのよ。男子はあっち行ってなさいよ。邪魔よ。」
「おーっ。フェミニスト運動推進中の委員長のおでましか。へーい、今どき肩身の狭い男供はあっち行ってますよ、ヘヘ。」
皆が言いたいことを言っている。こういう言葉を聞いていると、男子は無骨で野蛮でどうにも嫌気がさす。心配気な顔をして寄り集まる女子達もどこまで本気か分からない。普段は私と智子のグループの悪口を言っている子達も集まって来ている。
ドスン。
密集する塊の向こうで音が聞こえた。
「おい、山本。」
誰かが倒れたらしい。
ドスン。
ドスン。
ドスン。
肉の塊たちが連鎖するように、床に崩れていく。一体何が起こっているのか分からない。
数分後、誰も立っていなかった。全員が床に寝ていた。このクラスでまともに意識があるのは私だけだ。ふと気が付くと、昼間だというのに教室の外もとても静かだ。智子を床に寝かせて2階の窓際から外を見た。運動場には体操服姿の生徒達がバラバラと横たわっている。学校の外では玉突きに衝突した自動車群。道端には買い物カゴの中身をアスファルトにバラ撒いて倒れている主婦。その隣では小さな子供が寝ている。老人もサラリーマンも警察官も、お店の従業員も皆あちらこちらで倒れていた。世の中の時間が停止してしまった。いや時間は流れていた。人が停止した。観測者がいないと時間も空間もないのと同じだと、どこかで読んだことがある。世界中で私一人だけがこの時間と空間を観測しているのだとしたら、今私が倒れるとこの宇宙の全てが、無に帰すに等しいことになってしまうのだろうか。
「何これ。ふふ。」
あきれたように漏らしながら、何故か笑わずにはいられない。これはひょっとして何か大掛かりなロケ撮影で私だけが知らされてなくて、どこからか「カーット」とかいう声が飛んできて、撮り直しとか。私だけNGとか。ギャラなしとか。ありえない馬鹿げた妄想が頭の中でかき混ぜられた。
ウゥー。ウゥー。
突然、沈黙を破って大きなサイレンが街中に響いた。そしてどこからか、人の声とも作り物の声とも分からない言葉が聞こえた。
「先ほど、悪らつ集団ハッカー・フリーダムの攻撃により、我が国のマザーコンピューターがクラッシュいたしました。復旧の見込みが立たないため、現在倒れているサイバーノイドの方々の再起動には、いましばらく時間を頂きます。現在意識のある数少ない生身の一般市民の方々は、我が国の健全なる発展のため、サイバーノイドに改造させて頂きます。調査員が回収にうかがいますので、そのままお待ちください。」
冷たく事務的なアナウンスが4月の青い空にこだました。耳をすますと、誰もいないはずの学校の廊下にコツコツと2、3人分の足音が響いている。

<おわり>