RING LONG
山本正之 〜SALABA子供の海へ〜 へのオマージュ著者:ぶるくな10番!
「アサギ!」
「モエギ姉さん逃げて。フォボスがもうすぐ落下するわ」
アメリカ航空宇宙局、NASAは現時刻より6時間以内に火星引力圏に浮遊周回していた衛星フォボスと
ダイモスのうち、フォボスが火星引力圏を離脱しホノルル北東の太平洋上に落下するという予測を発表し
た。これにより地球の地軸はねじ曲がりポールシフトが起こった後、世界規模の大地震とかつて人類が
経験した事のない大洪水が起こる。ニューヨークも東京も香港も世界の主要都市の多くが海に沈んでし
まう。
ネオ東京の安アパートでひっそりと暮らしていた二人の姉妹は、この事実を今朝のケーブルTVで知った。
「アサギをおいて行けないでしょ!」
「私は車椅子だから・・・」
「姉さんの背中に乗りなさい」
「モエギ姉さん」
アサギは生まれついて病弱なうえ、脚が不自由であったので、人生のほとんどをベットか車椅子で過ごし
ていた。しかし目鼻立ちは端正に整い、長く伸びた直毛の黒髪はしっとりとした美しい光沢をはらんで、ま
さに美少女というに相応しい娘であった。一方、双子の姉のモエギは男勝りの気丈な性格。髪も短髪で
小学生の頃から習い始めた空手はすでに黒帯の腕前であった。顔のつくりは妹と同じく端正であったが、
その性格のためか色香のない娘であった。
「もっと早く教えてくれればいいのに、一体何故今になってあんなニュースを発表するのかしら」
「要人達が安全に避難するためでしょう。私達市民はパニックを引き起こす障害物に過ぎないのよ」
「そんな・・・」
外では車のクラクションが鳴り止まない。もう信号機は役にたたず、あちこちで事故を起こした車が
潰れている。
ケガをして動けないでいる老人が助けを求めても誰も手を差し延べようとしない。
醜い顔に歪んだ人々の群れが、我先にと非難所のシェルターへと急いでいた。
交差点では両親にはぐれた小さな女の子が、テディベアのぬいぐるみを抱きかかえたまま泣き叫んで
いる姿。靴を履き忘れるほど慌てさせたのか、冷たいアスファルトに小さな素足をさらしていた。
「モエギ姉さん!」
「放っておきなさい。私達には何もできないわ。あの子の無事を祈るのよ」
「姉さん・・・」
遠くでガラスの割れる音がする。店主のいなくなった通りのコンビニからは、陳列されていたほとんどの
ものが盗まれてなくなっていた。
パニック状態の崩壊都市では、普段は善意の一般市民でさえ暴徒に豹変する。
「姉さん!あれをみて」
下水道から無数のネズミが地上にわきでていた。一筋の列それ自体がまるで大きな生き物のようにう
ねり、人の流れとはまるで逆の方向に走っていく。
「あっちは海の方向。助からないわ」
「でも・・・海底都市があるよ」
モエギはアサギの言葉に一瞬驚いたが、すぐに冷静さをとりもどした。
「確か都が用意したシェルターは一万人しか収容できないっていう話だから、今からいっても間にあわな
いわ。」
「皆死んでしまうのね・・・」
力の無いアサギの言葉を背にふと見上げると、鈍色(にびいろ)に膨らんだ終わりの日の空に、黒い空洞
が浮かんでいるのが見えた。その中心部にはあの忌まわしい紅い炎が地上を見下ろしている。
フォボス、それを確認するとモエギはある決意をするように小さくうなずいた。
「アサギ、私はあの熊のぬいぐるみの子を連れてくるわ。あなたはここで待っていなさい」
モエギはアサギを背中から降ろすと、まだあどけなさの残る17歳の少女の、天使のように綺麗な顔をの
ぞきこんだ。
「いいわね。ここを動かないで」
アサギが何も言わずに小さくうなずくと、モエギは背中を向けて走り出そうとした。
「モエギ・・・」
振り返るとあの日のベルを握り締めたアサギがいて、遥か未来を見つめる賢者のように、終わりの始ま
りを告げる聖母のように、モエギの眼球を透かしてそっと微笑んだ。
「行ってくるわ」
淡いセピアの記憶によみがえる、幼い日の姉妹の想い出。
モエギは双子の妹アサギに昔の箱舟の伝説を絵本で読んで聞かせた。神妙な顔をして聞き入っていた
アサギは物語が終わると小さな口を開いた。
「神様はなぜその家族だけを助けるの?」
「正しく生きていた人達だからだよ」
「でも洪水の日、みんながそのお船に乗ろうとした時、神様は扉を開けなかったんだよ、どうして?」
「みんなはお船のことを馬鹿にして、洪水が起こるなんて信じていなかったから」
「それでも助けるのが神様なのに・・・。おかしいよモエギちゃん」
「神様は自分を信じる人しか助けないんだよ」
「でも毎日祈ったってこの脚は治らない・・・生まれたときからずっとこのまま動かない・・・神様が人間
を作ったのに、みんなを同じくらい好きじゃないなんてヘンだよ。神様なんていないんだよ!」
声を荒げてアサギが言った。
「アサギちゃん、そんなことを言っちゃだめ」
モエギは少し強い口調で返した。
「いやだっ!モエギちゃん嫌い」
アサギはモエギの言葉をさえぎりながら、車椅子のまま押し入れに隠れた。押し入れはアサギの車椅子
がすっぽりと入るほどの余裕があった。アールデコの小さなチェストの上には聖母像とステンドグラスのラ
ンプが置かれていて、幼いアサギの祈りの場所になっていた。
バリン。押し入れの奥で何かが割れる音がした。
モエギは初めて自らの怒りをあらわにした妹アサギの態度に戸惑ったが、すぐに心配な気持の方が優っ
て押し入れに手を掛けた。
「はいっちゃだめ」
泣き声に震えるアサギがモエギを拒んだ。
双子で生まれたにも関わらず、姉妹の身体の健康の差は歴然としていた。モエギは妹の身体の自由
を自分が母親の中で吸い取ってしまったのだと思い、小さな胸を傷めながら、自らに科したその贖いに、
両親に代わって手となり足となり、よく妹の面倒をみていた。
「アサギちゃん開けて」
「・・・・・」
「モエギはね、アサギちゃんのためにベルを作ったんだよ。そのチェストの引出しの中をみてごらん」
カタン。オーク材の擦れ合う音が押し入れの奥から聴こえてくる。わずかな沈黙の後、ほどなく向こう側
から戸が開かれると、モエギは隙間から頭だけを突っ込んだ。暗闇の中には虹色のステンドグラスの明
かりが鮮やかに灯り、折り紙で出来たベルを手のひらにちょこんと乗せているアサギの輪郭を浮かび上が
らせていた。足元には聖母像が割れて石膏の破片が散乱している。
「これはお守りのベル。箱舟の終わりの日にモエギが必ずアサギちゃんを助けてあげるから、このベルを
鳴らすの。いい?」
「鳴らない」
アサギは持っていた折り紙のベルを、手のひらに包んだまま振ってみせた。
「モエギには聴こえるよ。アサギちゃんのベルの音が」
「ほんと?」
「ほんと、神様が守ってくれなくてもモエギがアサギちゃんを守ってあげるから。アサギちゃんの代わりに
モエギが箱舟の外に居てあげるから」
そういうとモエギは車椅子越しに、ぎゅっとアサギを抱きしめた。
アサギは苦しくて両の腕をバタバタさせた。
「テディベアを抱えた女の子を知りませんか」
モエギの声に誰一人として耳を傾けようとしない。頭上に迫る恐怖の星が鼓膜を塞いでいるかのように。
空を見た。今さっき見上げた時よりも大きくはっきりとフォボスが浮かんでいる。
「速い」
NASAの発表より確実に早く、この青く、まぶしく、美しい地球に裁きのソードが突き刺さろうとしていた。
何故裁かれなくてはならないのか。この星にとって必要としない生き物達が増殖してしまったから。
正しくない人々が増えてしまったから。
火星マーズから投げっぱなしで放たれた恐怖神フォボスは、地球アースとの合意の上衝突する。
死をもって贖いとなす残酷な儀式が、今まさに惑星規模で行われようとしている瞬間であった。
モエギは人、人、人を押しわけてあの子を探した。
両親がやってきて我が子を連れて行ったのだろうか。
どこにもいない。
途方に暮れて立ち尽くしていたモエギの鼓動がにわかに早くなった。湿った一陣の風にのって何かが
耳元をかすめて行く。
チリリン。
ベルの音だ。アサギのベル。折り紙のベル。約束のベル。
モエギは走った。
風にのってスピードで駈けた。
暗く淀んだ空に浮かぶ紅い炎と競争するように、全力でアサギのもとへ駈けていった。
その場所に希望はなかった。
それまで生きてきた17年間を暗闇の彼方へ忘却させられるような、途方も無い衝撃に我を失った。
アサギのいたビルの壁にはBMWのワゴン車が衝突してボンネットが潰れている。
「アサギ!」
空の炎より紅い鮮血で染まった灰色のアスファルトには、うつ伏せに寝転がって動かない少女が見えた。
BMWの中に人はいない。
自分の命が一番のこの崩壊都市で、撥ねた少女をおいて逃げるなどは、もはやさして重大な出来事で
はなかった。
「アサギーッ!!アサギ!!しっかりして・・・なんで、どうしてあなたが、こんな・・・アサギーッ!」
糸の切れた操り人形のように力無くしな垂れたアサギを抱きかかえながら、モエギは絶叫した。
鮮血にまみれながら、狂わんばかりに泣き叫んだ。
あと数時間でこの世の中が終わってしまう前に、今はもうどうでもいい未来を憂うことなどなかった。
ただ目の前に動かなくなったアサギの重みを確かめることだけが、とめどない涙を溢れさせた。
小一時間が過ぎようとしてもそうして泣いていた。
「お姉ちゃん、悲しいの?」
モエギの嗚咽を破る声が後ろから聞こえる。
涙に濡れる眼球の網膜越しに、視覚化されたテディベアの少女は、ぼんやりと二重に見えた。
「こっちのお姉ちゃん動かないの?もう寝ちゃったの?」
「あなたを探しに行ったのよ。その間にこうなってしまったの」
「そう、お姉ちゃんが動かなくなって悲しいね」
「何を・・・・」
モエギはこの年端も行かない女の子に怒りをぶつけようとした自分が悲しかった。そしてすぐ目の前の
小さな命を守りぬくことが、今この刹那の使命であると自覚した。
「私と一緒に行きましょう」
「うん」
「こっちのお姉ちゃんは?」
「そこに寝かせておいてあげましょう」
「うん・・・あっ?」
女の子はアサギの手のひらから何かを見つけると、そっと拾い上げた。
「ベル」
抱いていたテディベアの背中のファスナーをおろし、そっとその中にしのばせるとモエギに向かってにっこ
りと微笑んだ。
幼い日のアサギを思わせるひとなつこい笑顔が、あの日の幻影のようにモエギの胸を締めつける。
約束を守れなかった。
「さぁ、私の背中に乗りなさい」
「うん」
「あなたの名前は?」
「ボタン。お姉ちゃんは?」
「モエギ」
「モエギ姉ちゃん!」
元気よく叫んだボタンの声に、凛とした生命のエネルギーが身体中を駆け巡る。
この子を守り抜こうと心の中で誓った。
海底都市はネオ東京の湾岸線を東西およそ1.5kmに渡って張り巡らされていた。
シンボリック・タワー、ベイ・シティ400は海底都市より地上へと行き来することが出来、地上高約400mの
高さを誇っていた。
「あそこから入れるよ」
ボタンはベイ・シティ400の裏門を指差して言った。
「でもあそこはいつも閉鎖されて・・・いない」
このタワーの管理もそこそこに逃げてしまったのだろう。ひっそりとたたずむ摩天楼が、世の終わりに憐れ
な栄華を主張していた。海の波は普段より荒々しく踊っている。
「誰かいませんかーっ」
「誰かいないのーっ」
吹き抜きのがらんどうにモエギとボタンの声が反射して虚しく響いた。
「あの階段見てるとなんか目が回るぅ」
間の抜けた声でボタンが言った。
見上げると、螺旋の階段は遥か天空まで届けとばかりにどこまでも続いている。バビロンの崩壊都市の
象徴、バベルの塔のように堕落した人間がその傲慢さを天に突きたてていた。
「下に降りましょう」
「上がいいよ」
「津波が来たらこの塔は折れてしまうのよ」
「折れないよ。夢でみたもん」
モエギはボタンの言葉に少し驚いたが、アサギがベイ・シティを行き先として指し示し、ボタンの予知能力
が塔の最上階へと導く、何かの因縁のようなものを感じた。
「分かったわ、ボタンちゃんのいうことを信じましょう」
「ベルを鳴らせ」
「え?」
「トビーが言ったの。ベルを鳴らせ」
「トビー?」
「この子の名前」
ボタンはおぶさりながら、左手に持ったテディベアのぬいぐるみをモエギの目の前に示した。
「この中にあるのモエギ姉ちゃんが作ったベルだよね」
知るよしも無いあの日の想い出の映像を、この少女は見ることができるというのか。
モエギは驚かなかった。幼い日にしか使えない超能力を、この少女は使うことができるのだ。
「上の展望台でそれを鳴らせってトビーが言うの?」
「うんうん。上って言ってたのはあのお姉ちゃん。寝ながらそう言ってた」
「息のないアサギが?」
「うん」
エレベーターは60階から動かなくなった。現代に蘇るバベルの塔は120階。
モエギはボタンを背負い螺旋を上へと上がって行く。人類の思い上がりを踏みしめながら。
丸窓のガラス越しに外を見やると、荒れ狂う海原と突風、黒い雨がいよいよ文明を滅ぼそうとしていた。
怒りの大空はすでに紅く染め上げられ、昼なのか夜なのか区別のつかない地獄の様相を呈している。
時空の歪みの中に投げ出された我らが母星は、滅びと創造の苦しみに悲鳴を上げていた。
「最上階だぁ」
緊張感のないボタンの声が展望台に響いた。
空と海との触れ合う壮大なパノラマの彼方は、紅と紫の交じり合う絶望の色をしている。
「ひやぁっ!」
突然ボタンが叫んだ。
抱えていたテディベアのトビーは白くまぶしい光に包まれながら、ボタンの手を離れて空中に浮かんでい
た。そのまま部屋の中央まで水平移動すると、さらにハシゴのある位置で上空へと向かい天井に身体を
ぶつけたまま張り付いているようだった。
「展望台の上に行きたいんだわ」
「風がいっぱい吹いてるよ」
「ボタンちゃんはここにいて」
鉄パイプで出来た長いハシゴを登りきると、錆付いた白い天井窓のハンドルロックを力いっぱい回した。
終わりの日の暴風に吹かれて、丸い鉄窓が強引に押し開けられると、トビーが外に飛び出てそこだけ
無風の空中に停止した。
モエギはトビーを追って屋上へ出た。しかし裁きの風がモエギの身を切るように吹き荒れる。まともに両
の目さえ開けていることができない。空手の型のように身体の前後に両脚を広げ、膝を中段に曲げしっか
りと鉄筋の大地をつかむと、何とか右の腕で激風から眼球をかばいながら薄目を開けることが出来た。
フォボスの姿を探して空を見ると、モエギは信じられない光景を見た。
投げっぱなしの衛星フォボスが、今まさに東の空から彼方の海原に落ちて行く瞬間を目撃したのだ。
アースの絶叫が大空に轟き、イカズチの閃光が時空を裂いた。一瞬空間がぐにゃりと歪むと、地軸がいざ
ったのを感じた。大地が上下に激しく揺れると、塔も大きく揺らいだ。モエギは這いつくばるようにして、とっ
さに近くのポールにしがみつく。宇宙から飛来した粉塵が、見たこともない奇妙な色で大気を覆い尽くして
いた。下のフロアからはボタンの泣き声が聞こえる。しかしモエギには何もできず、ただ塔から振り落され
ないようにするのがやっとだった。
北アメリカ西海岸、鳥は大地に叩き付けられ、獣は大波にのまれていた。幾千幾万の大木がなぎ倒され、
傲慢な文明がネプチューンの槍で一網打尽に砕かれた。グランドキャニオンは遥か悠久の時を越え、再び
海底に沈もうとしていた。やがて轟音とともに、巨大な津波が東から日本列島を襲いくる姿を目の当たり
にすると、モエギはもう誰一人として助かる者はいないと確信した。
モエギが絶望に打ちひしがれた瞬間、無風の空中に浮かぶトビーの体が膨らんで、みるみるうちに形を変
え、やがて一人の人間の姿に変わっていく。
「アサギ!」
永遠の眠りについたはずのアサギが、2、3メートル先の空中に浮かんでいる。
「姉さん、私の愛しいモエギ姉さん」
アサギの身体は向こう側の風景が見えるほど薄く、透けていた。
「私はもうこの世の実体をもった人間ではないの。今、モエギ姉さんの見ている私は仮の姿。姉さんに
分かりやすいように、アサギの形に思念を固定化しているだけ」
「何を言っているかわからない・・・アサギ、私の可愛い妹、アサギ」
「姉さんは昔、幼くて聞分けのない私に、折り紙でベルを作ってくれたよね。私はとても嬉しかった」
「そう・・・・でも約束を守れなかった。あなたを守り抜くって言う約束を」
「私はモエギ姉さんに愛されるだけで、充分幸せでした。姉さんは私が病弱だったのも脚が不自由だっ
たのも全部自分のせいだと思っていたよね。私はそんな風に思ったことは一度もなかったよ」
「わかっていたの?あなたには」
「姉さんはとても優しい人。本当の優しさは誰かを守り抜こうとする強い勇気から生まれてくるんだって、
教えてくれたよね。私はいつも弱い子で、姉さんに苦労ばかりかけて・・・姉さんから大切な時間を奪って
いたんだね。姉さんの髪を梳いてあげたかった。姉さんの唇に紅をひいてあげたかった。私の姉さんは
世界一綺麗だってみんなに分からせてあげたかった。本当はもっとオシャレがしたかったんだよね。クラ
スの友達とも遊びたかったんだよね。姉さん、私の愛しいモエギ姉さん、アサギが妹だったこと・・・・・
ごめんね。それから・・・ありがとう」
「アサギ・・・」
思いがけないアサギの言葉にそれ以上何も言えなくて、モエギの両の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
白く暖かな光に包まれていた空中のアサギは、モエギのすぐ目の前まで降りてくるとこう言った。
「泣かないでモエギ姉さん、私の胸のリボンをほどいて、このベルを取って。そして大空に向かって思いき
り投げるの。ベルを取ってしまうと、私はここにいられなくなってしまうけれど、生きているうちに何も与え
られなかった私の愛するモエギ姉さんへ、最初で最後の贈り物をするから。とても素晴らしいことが起こる
はずだから。時間がないわ、さあ」
アサギが消えてしまう。自分の命より大切な妹アサギが。
ベイ・シティの目の前には巨大な津波が迫っていた。地上高400m、現代に蘇るバベルの塔より遥かに
高く、難攻不落の冷たい水の壁が、歪んだ人類の生き方そのものを叩き潰そうと押し寄せてくる。
「モエギ姉ちゃん!」
屋上の様子をもどかしく下から見ていたボタンが、たまりかねて天井窓から顔をだして叫んだ。
「来てはだめ!」
荒れ狂う激風はまだやんではいない。
「モエギ姉さん、早く」
身体の向こうに紫の津波を透かしながら、アサギが促す。
モエギは守るべきものを悟るとアサギの胸のリボンをそっと解いた。折り紙のリボンが掌にコトリと落ちる
とアサギの姿が次第に薄くなって行く。幸福な微笑みを湛えたアサギは声にならない声で、さようならと
言った。そしてアサギは完全に消えた。
モエギは特別な時に零れる涙のしづくを、小さなベルに一粒しめらせると、空に向かって力一杯投げた。
「アサギーっ!!!!」
折り紙のベルは螺旋を描きながら急上昇し、やがて天空に吸い込まれて見えなくなった。
何も起こらない。
巨大な津波がいよいよ眼前に迫り、ネプチューンの槍がその鋭い切っ先を突きつけていた。
モエギはボタンの元へ駆け寄り、小さな命をかばう様に愛しく抱きしめると、
全ての終わりを覚悟し、静かに目を閉じた。
その時 - 。
荘厳な鐘の音が天空から鳴り響いた。
眼前に迫る津波は塔を避けるように真っ二つに裂け、左右に分かれた水の塊は陸に届く前に絶対零度
の風に吹かれて氷に固まり、粉々に砕け散った。
さらに聖なる鐘の音が空から空へと連ると、幾万幾億の天からのレーザーが奇妙な色の粉塵を一掃し、
鈍色(にびいろ)に膨らんだ空はまぶしい光に包まれて、その禍々しい姿を消した。
地球アースは魂の怒りを鎮めると大地を揺らすのをやめ、吹きすさぶ暴風は上昇気流へと集束し、やが
て暖かで穏やかな微風となって、モエギとボタンを優しく包んだ。
山に、森に、鳥に、魚に生きとし生けるもの全てに神聖な光が差すと、次に全世界中で奇跡が起こった。
なぎ倒された木々や決壊した川は、あたかもVTRの逆回転のように破壊される前の姿へともどっていく。
死んでいった人々や獣達の身体は、まるで再生不可能な塵のような状態からでも、細胞の記憶をたどっ
て原形を取り戻した。
それが御神の御意志なのか、崩されて積み木のように転がった建立物のガレキや、潰された鉄の馬の
群れに奇跡は降らなかった。
天から降りそそぐ清らかな鐘の音。
それを聴く人々の欲望、怒り、苦しみ、悲しみ、恐怖、猜疑、憎しみ、恨み、妬み、嫉み、あまたに溢れる
あらゆる負のエネルギー思念は、一瞬にして純白無垢に染め上げられた。歪んだ顔の醜い人々の魂から
は、たった今生まれ出た赤子の心に帰るように、毒の気が抜けていく。
世界中のあらゆる自然がリセットされた。
人類は自然物の一部として扱われたようだった。
「髪のびたね。モエギ姉ちゃん」
「似合う?」
「うん。アサギ姉ちゃんみたい」
「双子だもんね」
姉妹の並んで映る笑顔のフォトグラフはアールデコの小さなチェストの上。
フォボスの悪夢から1年が過ぎて世界中のすべてが平安にもどった後も、アサギが帰って来ることはなか
った。
愛する神のもと翔けて行ったアサギ。
生前、満足に歩くことも儘ならなかった彼女から、「神様なんかいない」という言葉を聞いたこともあった。
そのたびにモエギは「神様は絶対いる」と言いつづけてきた。自らの心の中で繰り返してきた。
幸と不幸のあざなえる縄のように、複雑に絡み合った螺旋をあの日ほどいて、アサギは永遠の自由を手
に入れた。
行方知れずの両親はボタンの前に現れることはなかった。ボタンはモエギの妹になった。
モエギは守るべき者ができてとても幸せだったが、一つだけ気がかりなことがあった。
次に人類が自然の調和を乱した時、果たして天は人を自然物の一部として扱うのだろうか?
宇宙に漂う聖なる箱舟、地球は45億年周期の惑星齢を超えて、ただ悠々と回りつづけた。
<おわり>
著者からのコメント...
ちなみに登場人物を漢字表記するとこのようになります。
萌葱(もえぎ)色 緑系
浅葱(あさぎ)色 青系
牡丹(ぼたん)色 赤系
そうです。三人は色の名前だったんです。
赤-青-緑を混ぜ合わせると白になります。
上の色では真っ白にはなりませんが・・・。
汚れなき心は地球を救うです。
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