REQUIEM 著者:ぶるくな10番!
楓の台座に鎮座していたエジンバラHWはコルクの木目を誇らしげに見せ付けながら深呼吸を始めていた。やがてやってくるパワーアンプからの働きかけを待っているかのように。
真空管アンプのスイッチを入れてオレンジ色の灯火を確かめると、モーツァルトのレクイエムをトレイに飲み込ませた。
そして待ちわびた音の粒子達が川の流れのように穏やかに、厳かにあのアダージョを綴っていくと、やがて美しく憂いを帯びたソプラノが独唱を歌った。
この曲はラクリモーサで終わる。そこで演奏をやめさせなければならない。それ以降は弟子のジェスマイヤーが補筆したものだから。
ひとりそうつぶやいていた主人の哀しげな横顔を私は今も憶えている。
アルコールが苦手な主人の座るソファのテーブルにはジンジャエールが置かれていた。
主人は煙草を吸わない。主人はギャンブルをしない。主人は女遊びをしない。
私はいつもそんな主人の膝の上に居た。
しかし今日は何故か身体が重い。つい一週間前まで私は獣医に預けられていたからこの家に帰って来られるのがとても嬉しかった。私を迎えに来てくれた主人は哀しそうな顔をして、小さな声で私に優しく呼びかけた。
「マリー」
どうやらペルシャという種類の猫らしい私は、弱々しくにゃぁと答えるのが精一杯だった。
長く艶のあった毛並みも今では恥かしいくらいに荒れて元気がない。
もう主人は私の身体を撫でてくれないのではないかと心配したけれどそんなことは無かった。
「お前は可愛いやつだ」
そういって愛撫されるたびに私の身体は喜びで震えた。
私がまだほんの子供だったころエジンバラは我が家にやってきた。
昼下がりのある晴れた午後に主人に喜んでもらおうとバッフルで爪を磨いた。
仕上げにサランネットを思いっきり引っかいてみる。繊維がちぢれて裂けると向こう側のコルクが見えた。
私は誇らしげに爪をペロリ、ペロリと舐めた。
「何をしている!!」
雷の様に主人が怒鳴りつけると、部屋の片隅で震えてまるくなっている私に、果たして主人は手を上げることはしなかった。そしてひょいと私を持ち上げると優しく抱きしめてこう言った。
「怒鳴ったりしてごめんよ」
それから私をソファに放すと、エジンバラに近づきバッフルをさすりながらサランネットを見つめる主人の寂しげな背中を私はただじっと見つめることしかできなかった。
その夜、ただひたすら眠れない子供の自分がいた。
「マリーもう逝ってしまったのか!」
ぐったりとして意識のうつろな私に向かって少しだけ大きな声で主人が呼びかける。
にゃあという気力がない。答えたいけれど答えられない。
何かの水滴がひとつふたつ私の身体に落ちてくるのを感じる。
主人のもの。
目の前の風景が二重に見えた。私が傷つけた12年前のバッフルの線の束がいつもより多く見える。
そしてぼんやりとやがて何もかも白く見えて来ると、私と主人といつも一緒であったエジンバラからの最後の音を私はぎゅっと抱きしめながら宙に浮く感じを最初で最後に体験していた。
それはラクリモーサの最後のフレーズ。
アーメン
<おわり>
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