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GRFの部屋さんの音


レポーター:kks(2006.11.6更新)

10月中旬過ぎの爽やかな夕方、初めて「GRFの部屋」さんのお宅にお邪魔しました。初めて降りる地下鉄の駅で下車。少々不安があったものの、さほど迷うことなく夕暮れのなか大通りからあまり離れていないのに閑静な地域にあるGRFの部屋さんに到着。

初対面の挨拶もそこそこオーディオルームに案内いただきました。第一印象は「広い!!」 なにしろ、GRFが普通サイズのスピーカーに見えるのです。いや、それ以上にナグラとサウンドパーツのプリとiBook G4に目がいってしまう自分が場違いに思えてちょっと悲しくなりました。iBook以外は実物をみるのが初めてでついついワクワクしてしまうのです。落ち着かなくっちゃと自分に言い聞かせているものの、不思議の世界に迷い込んだアリスみないなもんでドキドキしていました。GRFの対面、部屋の後ろには以前のメインスピーカーが丁寧においてあります。

GRFさんは手早く使用機器とこれまでのシステムを端的に紹介してくれました。かなりプレゼンテーションはお慣れのように拝見しました。「一度入手したものはなかなか手放せない」とご謙遜されていましたが、私も同じ思いです。

ちなみに、kksの部屋にはMacのPowerBook Duo、PowerBook G3(333MHz), iBook G4(12inch800)とMacMiniがの主のように鎮座しています。classicは家内に捨てられてしまいました。中身はそっと68000・8MHzの上にこっそりと16MHzのアドオンアクセラレーターを付け、それまでのNEC9801の世界からMacの概念にsystem 6.0.7を通じて慣れたカワイイマシンでした。ついついそんなことを思い出してしまいました。

別の部屋にはBL-111やサウンドパーツのファインメットトランスを積んだパワーアンプがきれいに収められ、次の機会をまっていました。

リスニングルームの長辺の前から2/3くらいにある特等席にkksは座らせていただきました。クッションが適当にかたく、疲れません。座イスと座布団との組み合わせでとてもリラックスできます。初めてなのに図々しく気楽な姿勢をとった私。その格好のまま、SD-05の特徴についてレクチャーをいただきました。

SD-05には100Wタイプと50Wタイプとがあり、「GRFの部屋」さんは部屋の主のタンノイGRFには100Wタイプでないと良さが引き出せないとお考えでした。そのGRFの間にはマッキントッシュの大型アンプが2台鎮座しています。でも、マッキントッシュに通電されるている様子はありません。「SD-50の話をするとき、これまで使っていた機器をみてもらわないと納得しない人が多くて」と苦笑いされていました。 夢のようなCDコンサートの開始はハイティンク/コンセルトヘボウのマーラー4番の1楽章から。
GRFにこれまで持っていた幅広い低音に中域・高域がのってくるというタイプの音ではありません。サッと音全体がスピーカーから離れてきます。この1楽章の初め、あたかも室内楽のような音を重ねない作りですから、よけいに音の濁りの無さを感じました。座イスを少しあげた位置に耳がきています。GRFの同軸からすれば、耳の位置は床に近くなっています。しかし、音が頭の上を通りすぎる訳ではありません。

SD-05もSONYのCDプレーヤーもユキム(多分)のネオジウム磁石を使って浮かせたガラスボードの上置かれ床からの振動はシャットアウトされています。掛け替えるCDに合わせて丁寧なボリュームコントロールがされていきます。12時近くに上がってもそれを超えることは無かったように思います。

オケもの印象よりも、声のそれが強く残っています。GRFで人の声を扱うと通常の再生よりも厚くなる場合が多いのではないでしょうか。しかし、スッキリと自然であたかもスタジオモニター的に発音が聞きやすいことと相似しています。初めて聴くハリー・ベラフォンテのライブ・ステージでトンでもないジョークを掛け合いで含み笑いしつつ唄っている様子が見えてきます。
ヘルマン・プライ(Br)と岩城/アンサンブル金沢伴奏の「冬の旅」6,7曲目は編曲の柔らかさに加え、明るく茶目っ気のあるプライが人生という旅を振り返る思いが伝わってきます。愛する人を置いて雪の道に旅立つ一本気な若人ではありません。自分の人生に納得しているソリストとコンダクターが互いに創り上げていく聞くものすべてに勇気を与えてくれる応援歌のようです。プライの明るさはディスカウの完璧さと較べロマン派の中に含まれる暗さと深さがない=軽いと日本では評価され続けた嫌いがあります。水車小屋は許すが冬の旅は許さないみたいな伴奏を批評家はし続けてきました。でも、プライの軽妙さに惹かれちゃだめなんですか、そのように私は下宿時代からレコードを聞いていました。kksの若きころ抱いた感想が「GRFの部屋」さんから「正しいよ!!」って示していただいたかのようなCDでした。当然、初聴き。アンサンブル金沢のwebページでの販売が確認できました。

ジャズはマンハッタン・ジャズ・クインテット(あれ、クワルテットでしたっけ ^^;)、ポピュラーなジャズナンバーを集めた聞きやすい演奏。しかし、へそ曲がりkksの表情を見てかすぐにショルティー指揮の「指輪」へ。

ワルキューレの魔の炎の音楽とフィナーレ。ホッターのボータンが神の如く高い位置に聞こえてきます。低音の量感もただ者ではありません。でも、若干の違和感がありました。コントラバスと打楽器の音が少し区別しにくいのです。「GRFの部屋」さんもちょっとソワソワ。すぐに、使っていないスピーカーのバスレフポートに布をつめ、スピーカー端子をショートし、リタ・シュトライヒのCDをかけつつGRFのセッティングを微妙に調節してくださいました。

音楽の時代が遡り、バッハ以前の音楽へ。無伴奏に近い状態で声を出す二人の姿がスピーカー中央の一歩手前に見えてきます。背の高さの違いも分かります。曲名は失念。ついついアルフレッド・デラーの「流れよ、我が涙」を自宅に戻った時に聞き較べたくなってしまいました。古楽に浸りきる気持ちはありません。でも年に数回、デビット・マンロウやアルフレッド・デラーの世界に遊んでみたくなります。春よりも秋、木の葉の色が変わり始める瞬間の空気を描いているように受け取るのは私だけなのでしょうか。

部屋の照明を落とし、再度ハンス・ホッターの登場。我が家にあるワルキューレのCDとはショルティの指揮でないと感じてしまうほど演奏自体が違って聞こえます。システムというよりも、CDのマスタリング時期の違いがその差になっているみたい。我が家のはCD1枚が4000円していた、CDの極々初期のDECCA版です。「GRFの部屋」さんのワルキューレは再度サンプリングし直したもの。CD自体の器の大きさって世の中に流布されている「常識」よりもはるかに大きいのではないか、我が家のCD専用プレーヤーにこれからも頑張ってもらわなければと再認識。
ちなみに、ホッターの声の位置は神の座から高貴な人間の高さに戻り、音楽としての安定感を増していました。ウィーンフィルってやっぱりいいですねえ。

ショルティとくれば、今年はやっぱり41年目のカイルベルト。お約束の如くジークフリートの幕開けです。ミーメのノートゥングを打つ金属音が極めて立ち上がりのよい、ドキッとするくらいなのに騒音になる一歩手前で再現されてきます。オーケストラピットの深い闇と奥に広がるバイロイト独特のステージが見えてくればって書くと欲が深すぎるかもしれません。ヴィーラント・ワーグナーが演出していたステージは照明を落とし、歌手の動きを少なくし音楽自体と神話を具象から抽象の世界へと導く画期的なものであった旨多くの本に書かれています。つまり、見えなかったのだろうか、疑問が深まります。

SD-05の50Wタイプもちょっとだけ聞くことができました。こちらの方がスッキリとしています。kksの好みは50Wの方かなあ...

実は、朝の5時から仕事をしていたのでkksの集中力が途切れそうになってきました。最後に、ブンダーリヒ, クレンペラー/POで「大地の歌」をお願いしました。輝くテノールと極限まで張りつめたオーケストラ。無常観は6曲目の「告別」の方に深さがありますが、「生は暗く、死もまた暗し Dunkel ist das Leben, ist der Tod 」の歌詞にある無常観。音楽とは別にシステムをいじるたびに、ブンダーリヒの立つ位置が分からなくオーディオの迷路...

清々しい宵闇のなか、人懐っこい通りを抜けて高円寺まで散歩をして帰りました。沢山の音楽を咀嚼しながら歩けるってとても贅沢です。「GRFの部屋」さんの大きなシステムの目指す方向とkksのスモールシステムのたどり着く先はひょっとすると重なる部分が多いのかもしれません。しかし、私としては響きの良い双三極管マッチのECC82とSiemens EL34に替わる現代のEL34を捜そうと思います。山の頂上が同じであっても、登山道は幾つもあるのではないでしょうか。

暴言多謝。