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| 紀州鉱山とは紀伊熊野銅山の一部で、南牟婁郡紀和町の鉱山を昭和九年(一九三四)石原産業株式会社が大々的に開発してから「紀州鉱山」と言われるようになりました。 |
かつて紀和町の地下には金・銀・銅などの豊かな鉱脈が存在していました。その歴史は一二〇〇年以上も昔の奈良時代から始まっており、すでに楊枝川周辺では銀の採掘が行われていました。また、この時代には、銅の採掘も始まり東大寺大仏鋳造のための銅が供出されていた(七四三年)と伝えられています。
江戸時代になると、紀和町の鉱山は大きな盛り上がりを見せ、通貨等の材料として海外にも輸出されるようになりました。当時の紀和町周辺の鉱山は、記録に残るだけでも三十箇所にのぼっていたといわれています。楊枝川地区にある水車谷には江戸時代の鉱山の様子を伝える鉱山街の番所、御役所の屋敷跡や基石群などの遺跡などが残っており、当時の繁栄を推測することができます。
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| 削 岩 す る 作 業 員 |
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昭和に入り、九年に石原産業株式会社がその地下資源の開発に着手しました。戦時中においては軍需産業として重要鉱山に指定され、昭和二十年には従業員数が過去最高の三三四二人となりました。その後、合理化により昭和二十一年にはわずか五八八トンにすぎなかった産銅量も年々上昇し、昭和二十七年には二一〇〇トンにまで達し、その政策が実を結ぶことになりました。さらに合理化は進み、昭和三十八年は産銅量三〇一五トン、従業員数八六二人、わが国において六,七位を占める鉱山となりました。その反面、危険を伴う作業も多く、怪我や病人の出ることが多かったため、昭和三十一年には紀州総合病院が落成し、近隣町村からも多くの病人が診療を受けらるようになりました。
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| 現在と昔の紀和町板屋と選鉱場 |
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| 現在の選鉱場 |
昭和30年頃の選鉱場 |
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| 現在の紀和町板屋 |
昭和30年頃の紀和町板屋 |
昭和14年頃の紀和町板屋 |
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昭和四十年代後半から国際銅価の低速と採掘原価の増大によって、閉山した鉱山は全国でも多く、紀州鉱山も例には漏れず閉山の一途をたどることとなりました。そして昭和五十三年五月、板屋山神社の境内において、閉山式が挙行されました。
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| 湯ノ口温泉トロッコ駅 |
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| 現在のトロッコ駅 |
昭和30年頃のトロッコ駅 |
昭和14年頃のトロッコ駅 |
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