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安珍・清姫伝説D
神の黙示何とかなしい儀式であったことでしょう。龍蛇体と化したわが心が、鐘=炉にこもるいとしい人を焼き滅ぼさねばならなかった。
燃えさかる火焔は、刻々、鐘を、赤に、朱に、灼熱の玻璃へと、透きとおらせましたが、 きわに相抱こうにも、その中に安珍どののすがたは、熔け流れる鉱と化したか、見えなかったのでございます。
ああ、人身を受け、女と男に生まれ、たがいに愛しつつも、共に生きる時を得なかったわたしども…。
さりながら、神も、佛も、如何に慈悲垂れたまうとも、人問と共に滅んではくださりませぬこの世で、
ここ道成寺の釣鐘をまことの「胎内くぐり」として、共に滅び、共に再生する縁あたえられた、安珍と清姫でございました。
人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。
タタラの一代は三日三晩。わずか一刻におのれ一代の血潮、流しつくし、燃え尽きた清姫。
でも、人の一代はみな、血につながり・地につながる、何百何千代の先人のこころを負うて生きるもの。
人の一生は、かかる神の志に使われ、それを顕わすためにこの世に送られるもの。
……ちいさな、瞬時のいのちの燃焼も、背後は無限です。
一陣の涼風に釣鐘をつつむ火焔が鎮まったとき、わたくしは見ました。
天空たかく、五彩かがやく生ける龍蛇神が、いま、熊野三千六百峰のかなたへと帰ってゆかれるお姿を……。
そして知りました、わたくし清姫はその神のかなしみと怒りに使われ、人のこころに、一つのクサビを打ち込んだことを…
人間が、生きとし生ける一つ一つのいのちを、心の真実を、粗末に扱うとき。
神の備えたまう大地と宝(鉱)を正しく用いぬとき。
神は怒ります。わたくしの化した蛇体の巨きさ・烈しさは、神の怒りの巨きさ・烈しさでございました。
神が未来をひらく種子と用いるのは、新しい世の勢いある船にのる者ではありません。
痛み、捨てられ、鬼よ、蛇よ、人ならざる者よと、さげすまれる者を用いてでございました。
事が成就した今、わたくしに残されていたのは、いのちの殼を葬ることだけでした。
蛇体…いやしくもわが龍蛇神のお身写しでございます。心なき人々に穢されてはなりません。
おりから海に落ちる夕陽。
わたくしは、夕暮れのさざ波きらめく日高川へと、しずかに身を沈めたのです。 その水底でとこしえに‥‥
弥陀のもとに うれしさよ…
その夜、道成寺をへだたる東三士五キロ、日高川水源の山峡、紀州山岳のヘソにある「龍神」の湯の里では、
季節ならぬ雷がとどろき、北に連らなる白馬山脈の鉾尖ヶ岳から自馬ヶ岳まで、東西二十キロにおよぶ上空に、炎々ともえるタタラ色の長大な雲がひとすじ、夜半まで赤々とたなびきつづけたとか。
いらい、湯の里の人々はこれを「清姫の帯」とよび、この雲の出るときは牟婁の天地に異変が起きる予徴とし、一村男女みな瀧に禊ぎ、身をつつしんで、後世にも伝えたと申します。
大地と人で描く
遠いとおいむかし、紀州の山河につかのまの生命を燃やした女の物語でございました。
この日本列鳥の人々のこころを深みからゆさぶり生きつぐ多くの「物語」も、みなこの網目にしっかりと根を張っております。
……その胎内より生まれましたわたくしなればこそ、時代を超え、紀州という一地域をこえ、世のひとびとに語りつがれ育てつがれ、
これからも、真実をすりかえる世のはかりごとに耐え、勝者のおごりをただし、風土と人間の証しとなりつづけてゆきますことか。
入相の鐘がどこか遠くから響いております。
日高川にきょうもまた、あの日とかわらず白波が立っていることでしょう。
この物語は1000年前のことです。平安時代です。
都では天皇を頂点とする優雅な貴族や、民も、地方では豪族の姫たちもすべての人々が胎内くぐりとしてダークマターのようなはるかかなたへ消え去ったのです。すべての人々が通る道です。
地獄は一定すみかぞかし…
2種深信(機の深信・法の深信)の幸福‥‥
機の深信とは、自己がはっきりと知らされることで、人間はなにも一つの善もできない己であるとことを知らされる。地獄にしか行き場がないと…
法の深信とは、阿弥陀仏のお力です。本当の幸福になる他力の世界です。
…… … … … …… おわりに
いよいよ話は最後のほうに迫り、清姫の「道行き」…死出の旅であろうか。
つらい悲しい物語も終わりになりました。
清姫の白い帯は何であろうか?
不吉な予感であろうか、それとも紀州を守る守護神なのか?
2022年7月8日(金) 安倍元首相が凶弾に倒れられる(死出の旅)。
世の中は不穏な動き ……人の心の頼りなさよ……
南無阿弥陀仏