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安珍・清姫伝説B

清姫の独白
人問が、まだ己れを知り、謙虚さを失っていなかった、遠いとおい昔のこと。 
わたくし清姫はいま、蛇体でした。
でも、もし、昔のひとと同じとらわれない心でまっすぐに物事を見る人があれば、見えたはずでございます。神の使いに変身したことが…
今わたくしには、この熊野のほんとうのすがたが見えだしておりました。
しかし、わたくしは人問のことばを発する機能を奪われているのでした。
身に、神に使わる自覚ありながら、人のことばで人に語れぬ今、まして人の姿でない今、たれが耳傾けてくれましょう。

道行き
あの口惜しやいかがせむ
この身をここに捨てはてて
いのちを思ひ切目河
なげきのなみだ深ければ

後の世に「能野比丘尼」の方々が、清姫のために語ってくだされました。
わたくしは人里つづく海沿いの道を避け、ひたすら山中を走ったのです。
  熊野比丘尼たちがわたくし清姫を歌ったあの「縁起」の詞も、道行き文でした。
「道行き」がふつうの「道中記」とちがう点は、それが“行きて帰らぬ死出の旅”であることです。
人の一生そのものがながいひとつの道行き。
「道行き」は非業の死へと一すじに歩み入る晨期の旅路。
それゆえに「道行き語り」のかなしみは、愛する人々とのつらい別れも「語り」を聴くひとびとの心をしめつけ、清い涙をさそうのです。
わたくし清姫がいま道成寺めざして急ぐのも、まさに「道行き」、死出の旅です。
ゆくて右に、真妻山(日高富士)のきれいなすがたが見えてまいりました。

宮子姫
真妻山(日高富士)が見えてきたとき、わたくしの全身は慄えました。
二重に裏切られたこころを抱き、思いもかけぬ蛇体という変身を負うて、けわしい峰や谷を駆け抜いてきたわたくし。
およそ一人のうら若い女の担うには、あまりにも過酷・孤独なこの「道行き」も、ついに最期の日高郡に突入した。
  平野部にかかり人里多いこの先は、もはや身を隠すこともできません。昼すぎの陽ざしまばゆい山麓のふもとを縫って、わたくしは祈るように眼をつぶり一路「道成寺」を走りました。
ひとりの女人の姿があざやかに浮かんでまいりました。……日高の海辺の漁師のむすめ、世にまれな長い黒髪ゆえに、都の天皇の妃として召されたという「宮子姫」。
「道成寺」を建てるよう提案した主でもあった。
宮子姫。生家はただの漁家ではありませぬ。
いかに女のいのちの黒髪とは申せ、それがめずらしい長さの美女というだけで妃に召されるほど、国政の府・朝廷は、のどかではありませぬ。
宮子姫は、紀州日高の海辺から大和の朝廷へ、塩をおさめる「塩焼長者」のむすめでした。
 これら労働力と技術、地域の人々のなりわいを束ねてこその長者です。
「塩焼き長者」も漁村に根をはる豪族でございました。
 だからこそ、都の右大臣・藤原不比等さまは、この遠いくにのむすめをわが養女に召し上げ、帝の妃にさしだされたのです。
熊野支配への足がかり第一歩として。
 政略でつかわれたおのれの運命を逆手に、都の修羅場にくい入り、姫の発願でふる里に建てられたという「道成寺」にも、
 そのはじまりと歴史のうらには、このように、政治とからみ、複雑にせめぎあう事情があったのです。

 
日高川と白馬山脈
眼のまえがひらけました。まぶしい田んぼ、そのなかを秋空を映しゆったり曲がりくねりながら流れる大河。河むこうに黒々とそびえる一すじの山脈。ふもとの一ヶ所に耀く寺のかわら。
全身を戦慄がはしり、わたくしは、しばし呼吸と這い進むことを止め、頭を地につけて、眼のまえに広がる光景をみつめました。
ああ、日高川と白馬の峰々……
それこそは、ふる里の北限に立ちはだかる政治の障壁。紀州を南北に分かつ境界でございました。
むろん、人間が住むということではいずこも同じながら、都の「政治の考え方」からすると、熊野は、隠(おに)=鬼のくにだったのです。
朝廷の支配が住民の魂にまで届く昼のくに(現世)に対する、夜のくに、よみ(あの世・夜見・闇)のくに…。 
紀州のうちでも最も早くから人間が住みついたこの目高川流域、ここが皮肉にも、先住民を南の山岳地帯「こもりく」に封じこめる境界として使われました。
日高川と白馬山脈を天然の障壁として。政治は、信仰をすら道具に使います。…いま日高川の対岸、白馬山脈のふもとに、小さな姿で目に映される「道成寺」。
それは、宮子姫のため夫・文武天皇の命令で建てられたとは申せ、熊野の山々に先住民を監視する都の出先機関、いざというときの砦です。
日高川と白馬山脈と道成寺―。ああ、ここはあの世とこの世を分かつ峠。
草叢から、白々と広い河原へ全身をあらわし、波しぶきを裂いて日高川を泳ぎ渡るわたくしを眼にした向こう岸の人々は
洪水か津波の迫るのを見るように口々に恐怖の叫びをあげ、幼な児をかかえ、家族の名を呼びあいながら、いっせいに道成寺のある舟岡山の丘へ駆けのぼってゆきます。
丘のうえの堅固な堂塔へ避難するつもりでしょうか?
そここそわたくしの目指すところです。

釣鐘−は点火された
そのとき、日高川を見おろす舟岡山の「道成寺」七堂伽藍をかこむ山林、風も絶え、陽はかげり、境内に人影ひとつ見当たりません。
しかし、わたくしには見えておりました。
かなしみ極まって心が透きとおってしまっていたわたくしには、どんな微細な物象・心象のゆらめきすら、はっきり、はっきり映っていたのです。
闇から湧いてくる力…
固く扉を閉ざして並び立つ御堂のなかへと、わたくしはしずかに進みました。鐘のある櫓へ……。
あなたは鉱床秘図を「清姫」と抱いて、このわたくしに焼かれるお覚悟。
事ここに至り、はっきりと老僧の強要をこばみ、みずからの血―採鉱民―に立ち返られたあなた。
はりからおろされ鐘楼の土の上に据えられた釣鐘は、わたくしがこれから最期の力をふりしぼってなそうとしているのは、タタラの儀式です。
「鉄杖」……太古いらい採鉱民巫女王のしるし。
思えばこの三日三晩、人問の一代にまさる心身の変化を重ねたわたくし。
身に残る血潮の最後の一滴一滴が、両眼から血の涙となって噴きでるのをかんじました。
                       血は瞬時に沸騰し、ごうごうとつむじ風にさけぶ炎と化し、みるみる鐘をつつんでゆくのです。

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