安珍・清姫伝説A
翌朝お二人は御熊野本宮へと発たれたのでございます。滝ノ尻にあります飯盛山は、名のとおり御飯を盛ったような姿で、またの名を神奈備山ともいわれています。
麓からとぐろのように巻き登る細みち。頭上をおおう老杉や樫の梢から、満月の光が鳴りひびくように降り注ぎます。
苔むした巨岩がほうぼう転がっており,「胎内くぐり」とよばれる大岩もあります。 そうして、清姫は山頂ちかくに大岩の洞穴に身をしづめ、その奥のちいさな穴から作法どおり外界へ抜け出す「胎内くぐり」を果たしました。
そとは再び、満天の月光の海がひろがっていました。
「胎内くぐり・・・。それは「擬死再生」の儀式です。この宇宙(神)は無限です。」
「この大地は神の胎内。わたしども生きとし生けるものはみな、そこで育まれ、地上に産み出され、
水や、山野・河海の幸々、草木、鉱など、さまざまな神の恵みで身を養われ、ふたたび神の胎内へ帰ってゆきます。死です。」
「わたしどもは「胎内くぐり」の儀式をつづけ、神の胎に見立てた巨岩の洞窟に、一度死し、その奥に小穴をくぐり抜けることで、心身きよらかに生まれ変わる。」
「人びとが飯盛山の栗栖川で身をきよめ、そうしてこの山の「胎内くぐり」をされるようになったのです」
裏切り
山の秋は歩み早く、ときおり、しぐれめいた雨も来る真砂の里でした。
「丸山中腹の屋敷から、ふもとの木々にかくれて見えぬ川沿いの路まで、幾度登り降りしたことか。滝ノ尻のほうから下ってくるお人があれば尋ねた」
「陽はとうに西谷山に没しており。人の顔も夕闇にまぎれゆくころ、北郡のほうから上ってくる旅姿のお方があり、方向は逆でも尋ねせずにいられませんでした」
「安珍さまの眼に耳にのこるその顔、その声(男の一言)。女のいのちの一代をつくるのはただ一つ、まことの男のなさけ」
その夜、この秋はじめての烈しい山おろし(西北風)。闇に吠えるその声を聴くうち、清姫は、納戸の棚へ走りました。
ああ!・・・。手箱のなかの「鉱床秘図」は失せていました。
女ごころも、鉱床秘図も……。二重の裏切りに、清姫は意識を失ったのです。
怒り
暁の光とともに清姫は昏睡から醒めた。板の間に倒れたままの姿で、足元には、空となった鉱床秘図の手箱が… 夢でなくやはり現実でした。
その思いは、いつか「安珍さま」から「安珍どの」へと変わっていた。
「ひとのまことに応じるすべ知らぬ人問の一生は、また、身にひとのまことを得ることなき、淋しい一生です」
「こころ覚めておもえば、いたわしく、いたましい安珍どのでした。ひとの世のからくりにうとい清らかなお方。女のあかき心を餌に使われたお身を、なんで責められましょう」
「一口に「女のあかきこころ」というも、その底には「妹性」も「母性」も「姉性」もあります」
「とことん抱きとるは母性。ひたすらにあなたを恋い・慕い・待っていた昨日までの清姫は妹性でありました。だが、姉性は、ときに裁くのです」
「「秘図」をうかつにお見せしたこの清姫の不明。姉性の怒りは安珍どのへより、むしろこの私自身に向かっております」
一刻を急ぎます。
山おろし猛り来る方向へひた走りに…。
先人のうめき
朝もやを払うはげしい山嵐に真向って、清姫は西谷をひた走りました。
一路、潮見峠へと。
「すでに丸一日の遅れがあります。安珍どのと老僧が朝来をへて、たぶん田辺で泊まられたのは一昨夜。海沿いの道を今朝は切目をお発ちでしょう」
「何としても今夕の道成寺入りまでに、あの「鉱床秘図」はとり返さねばなりませぬ」
「足弱い老僧らお二人が辿られる道は三角形の二辺。清姫は別の一辺を…修験者も通わぬ峰々越し一直線に追いすがるこころを固めました」
往けども往けども、樹洩れ陽すらさしこまぬ湿った森の底。数百年の落ち葉の堆積が匂うなかを、清姫の進む音だけがザワザワと響きます。
こころ急く清姫は頭が先へつんのめりながら、峰々谷々をひたすら駆け抜いたのです。
変身
果てなく起伏した尾根が切れ、はじめてひとすじの渓流が眼下に光る地点に出ましたとき、たなびく炭焼きの煙、辺りの景観から、清姫はそこが南部川の上流であることを知りました。
この先は箱尾峠ひとつを越え、樮川―印南原―和佐、とやや平坦。
南部川と高野川が合流する岸に「とどろきの瀧」のかかるのが見えました。
そうしてそこに、水面に映る自分の姿を清姫ははじめて見たのです。
「しぶく瀧壷の中、ゆらめく水鏡に映ったそれは………」
「いちめんの、ぬるめくうろこうろこを、わたくしは、はっきりとおのれの眼に……」
ながい、ながい、放心のときでした。奇妙に移ろう真空のときでした。ほんとうの孤独、身はここにありながら、この世の一切がここの世のものでないなにかが遠のく感覚。
「……でも数瞬後、わたくしはすべてを受け容れ納得しておりました。かなしみはかなしみのままありながら、はるか奥のほうで、おおいなるものとつながる異様な気持でした」
「人は忘我懸命のとき、あまりにも心が透きとおる時、本性にかえります。おのれの神(またはその神の使い)の姿にかえります。無意識にその神と合一するゆえでしょう」
「なぜ、わたくし清姫が蛇になったのか?」
熊野三千六百峰。採鉱民のうめきと怒りが、いま、一清姫のからだを使って、世にひとつの事をなそうとしているのでした。
闇です。単なる闇ではありません。目に見えぬ五感からもとらえることが出来ぬ闇です。
この闇の力が清姫を蛇に変えたのか?