安珍・清姫伝説@
都が平安京にありましたころ、清姫が世を去りましてから、かれこれ千年余。都では、藤原氏が勢力を握っていたころです。
人ひとりの力でどうしようもない、血の涙をながした清姫。人はみな男も女も、のっぴきならぬ己れの風土と因縁を背負って生きている。宇宙の片隅の片隅にいる人間が…
紀州女
清姫のばあい、熊野は真砂の庄司の娘に生まれた。
清姫の不運は、紀州女のエネルギーを、日々の労働や人びととの交わりに生かせなかったとこと。
それだけではなく、清姫は熊野真砂の庄司の娘として、地元の人々ぜんたいの生活にかかわる別の重荷を背負っていた。
清姫の生まれた里は、西牟婁郡中辺路町真砂。口熊野の栗栖川に沿ったちいさな村でした。
「真砂」という地名は、こまかい砂で「砂鉄」を生むところを指さしたのです。
清姫の真砂村は、富田川の上流、栗栖川と西谷川の合流するところで、古代木炭を大量に使う鉱の製錬がありました。
砂鉄や釧鉱石などをタタラ炉(高温の炉)で熔かして製錬する。木炭はその燃料として、それはそれは大量に必要とされていました。
「真砂」もそんな古い山里のひとつであり、清姫の生まれましたのはその長の家。屋敷は、「丸山」を背負い、眼下に栗栖川のせせらぎがきらめく、小高い台地でした。清姫という名も、砂鉄のとれる処を示す「洲処(すが)」にちなんだ清姫(すがひめ)が清姫(きよひめ)となる。
大昔から牟婁の山ふところを天地として、助け合いと自分たちの掟をもって自由に生きてきた山びとの採鉱民。
山々がみどりにもえたつ春から秋にかけては畑をうち、雪ちらつく冬場は、栗栖川に堆積した砂鉄をタタラに燃して、山の生活に欠かせぬ斧・矢じり・山刀・鍬などを作り、樹を伐り炭を焼いて暮らす。
おそらくはこの谷々の開拓者の末裔であり、そうして、村びとたちの生活を束ねていたのです。 その真砂の「長者」が、清姫の生まれた頃には真砂の荘園の管理者「庄司」になり下がっていたのは、世の移ろいで、都の締めつけといわれる悲しい出来ごとだったのです。
庄司とは、庄園領主である都のお公家がたや社寺の命令のままに、庄園の雑務を司る職のことです。民の住む山々は、庄園として領主のものとされていきます。いつのまにか民自身のものではなくなっていたのです。 都の支配が伸び固まるにつれ、採鉱民への締めつけは、徐々にきびしくなっていきました
つぎつぎと都の領主の社寺が建ち、採鉱民の自由にならぬ土地となって行ったのです。
天地と民を守ろうとすれば、都の支配にあまんじて領主に貢ぐ下請けとして、採鉱か、燃料用の木材を作る。
これが、清姫の父「真砂ノ庄司」らの苦肉懸命のすがたでした。 清姫の父「真砂ノ庄司」清重が、屋敷すぐ下の淵に死体となって浮かんだのは、春の夜のことでした。
都の荘園領主・藤原氏と、真砂採鉱民とのあいだで、荘園の管理者として苦慮しました。
精も根も尽き果てたものか、あるいは他の者の手にかかったのか……
清姫は、わずかに下女が二、三人残った屋敷で、女あるじとなった清姫がひそかに思いさだめしも、次のような過ぎる歳月があったのです。 安珍は修験の坊主。奥州は白河の者です。
遠方ですけれど、じつはうんと昔、熊野の採鉱民から分かれた同族であります。鉱を求める技術民は、遠くまで散らばって住んでいたのです。
奥州白河は、同族も多く、人びとも定期的に聖なるふるさと御熊野に詣で来ては、採鉱民が生きゆくにむずかしいこの頃の世の流れ、おたがいの情報を交換しあっていたのです。
安珍どのが二年に一度の熊野詣に真砂の宅を宿とされだしたのは、清姫がまだ幼女のころ。ことに近年、行にうちこみ、諸国をめぐって見聞をひろめだされてからの姿は、来られるたびごとにますます筋骨たくましく、眼もと涼やかに、頼もしさを加えていた。 熊野への御参りをおえた帰りなどは、清姫の父と夜を徹して語られることもおおかった。 その頃まだ、のちにいう熊野三山信仰は、最初は修験の方々のみだったのです。
のちの熊野古道…あの険しくそびえる潮見峠、十丈峠、逢坂峠を越える「中辺路」などは、とうてい平野の人びとが考えつく路ではありません。修験者が踏み通った「鉱の道」だったのです。 春先の父「真砂庄司 清重」の死で、清姫の肩には村の人々の生活を束ねる重荷がふりかかったのでした。
「−真砂村の「丸山」のやしろが、都の領主・藤原さまのお達しで、春目神社に変えられたのは昨年のこと(春日明神は藤原さまの氏神でございます)。
……それ以前いつともしれぬ遠いとおい昔からわたしども採鉱民はタタラの豊作を祈って、火ノ神や龍蛇ノ神、あるいは、大和の三輪山やこの真砂丸山のように、山そのものをご神体としてあがめてきたのです。
神社などといえ、おのれの神を奪われることは、この地に住む民の魂を奪われることでございます。真砂だけではありませぬ。同じ栗栖川沿いの他の村々−芝・温川・大川・大内川のおやしろも、次々に春日神社へと・・・
すべて、銅や鉄を生む地点。それを藤原さまは押さえ、わたしども採鉱民に手の出せぬ土地とされたのです。今からおもえば、これが、都の政権が熊野にのばす布石の始まりです。
春日神社は藤原さま一私族の氏神です。藤原さまはじつに大変なはかりごとをなさる一族でございました。熊野牟婁の山々民々にたいへんな世の来る予感がしておりました。
ムロ……牟婁はわたしども採鉱民がきりひらいた天地。牟婁の天地をおおいだしたこの怪しい雲行きを・・・」
龍蛇の脊梁
草木も眠る深夜。かすかに栗栖川の川音。
そういう天地の吐く息・吸う息に心を合わせると、あたりの山々がボーッ、ボーッと白光を発する…。
「滝に打たれることは、古くからの習いでした。・・・天から落下する激しい水に身を叩かれつつ、おのれの業を一心に悔い告白していると、感覚もまた砥ぎ澄まされて、夜の底で山々の発するかすかな白光まで感受されるのです。
山によりわずかな赤みや青み、黄色みをおびている。白色白光、赤色赤光、青色青光……。光彩の微妙な色調のちがいは、その山に在る鉱の種類による。
熊野の山々は、巨人な生ける龍蛇神の背すじといわれる。タタラ(鉱の製錬)は、神の宝をいただものです。採鉱民は神の使い。私心あっては、わざは成らなかったのです。私心とは煩悩。行とは厳しい。
そうして、長者のむすめは、私意をはなれ、村びととタタラの豊作を祈りみちびく巫女であるのが、遠いとおい世からの習いでした。
いま飯盛山の奥にこもり滝行の日々、真砂村の明日への祈りと、山々の白光と一つにあやしく揺らぎ立っていたのです」
揺れる桔梗
真砂むらの丘畑が薄く光り、眼下の栗栖川を透明な風が吹き抜けていく。
「この風がやがて槇山・潮見峠から、西谷すじを烈しく吹き下ろす西北風に変わると、その風力を利して、三目三晩、川岸にあかあかと火を燃やす季節が来るのでした。
いま、月影は夜ごと明るく、満月が近づいていた。世の流れはどうあれ、月は地球の周りをゆっくりと回っているのです。
安珍どの連れは、かなり年配の、どこかずるがしこい感じのする、黒い僧衣のお方。老僧は京の鞍馬寺のお方で、そこは神佛習合の寺ゆえ、仏教の坊主も、修験の行者も、おおぜい共に修行にお励みです。
旅のお疲れをほぐすべく懸命につとめる下女たち。老僧にまずお湯を召していただいた。燃料豊富な山里の、客をもてなす最高の慣い。当時は都ですら水でのお身拭いが普通でした。」
山菜、栗飯を精一杯にこやかに勧めつつ、清姫は、心がかすかにかげってくるのをおぼえはじめておりました。
「かたわらの安珍どのが、以前と異なり黙されがちなのも、私宅に父亡きゆえ。清姫と合う眼をすぐ外されるのも、先輩のお御前ゆえ。・・・といいきかせはいたしましたものの……。」
かげる清姫の心を映すかのように、座敷の片隅の竹筒に抑した桔梗はかすかに揺れ、山里の庄司屋敷に秋の夜は更けてゆきます。