津市内の平家ゆかりの地

 平清盛は、元永元年(1118)、伊勢の産品(津市)で生まれた。 実母は、祇園女御とも祇園女御の妹とも言われ定かではない。 実父は白河法皇で平忠盛によって育てられたとも。  津市には、平正盛・忠盛・清盛・維盛・六代ゆかりの地がある。


  正盛の墓

   忠盛塚

 忠盛と人魚

 清盛乗船の港

 清盛参詣の地

 維盛ゆかりの寺

 平六代の墓

   平家塚
 

平正盛の墓

〒514-0076 三重県津市産品484(置染神社)
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
平正盛の墓といわれる宝篋印塔がある。桓武天皇の後裔平維衡は伊勢守に任じられその後数代にわたって 伊勢の地に居住して勢力をのばした。貞衡とその嗣は安津三郎と称し、正衡の嗣正盛は武勲に輝き その嗣忠盛は昇殿を許され、伊勢平氏の名は天下に轟き、忠盛の嗣清盛は太政大臣に任じられ平氏の全盛時代を築いた。 産品の里は貞衡・正衡等の平氏一門の故地と伝え忠盛生誕の地といわれ、式内置染神社は伊勢平氏一門の産土の社といい、 この墓塔群は、その後裔一門ゆかりのものと伝わる。
 

忠盛塚

〒514-0076 三重県津市産品(平氏発祥伝説地) 
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
平忠盛は武士の中で初めて昇殿を許される。しかし貴族にとっては、地方の武士が殿上人の仲間入りをするのは承服できず、 忠盛を怒らせて宮中で刀を抜かせて罪におとし入れようと策略を練るが、忠盛は武力、財力以外にも和歌など宮廷の教養も 身につけ、着実に宮廷における平氏の地位を高めた。「忠盛塚」には、忠盛にまつわる胞衣塚(えなづか)、 産湯池(うぶゆいけ)、館跡(やかたあと)などの伝承もある。
 

重盛と人魚

〒510-0305 三重県津市河芸町中別保2350
(海浜グラウンド駐車場)
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
中別保の地名の由来は、北に大別保、西に別保上野があり、その中間に位置することにちなみ、中世以降「別保」とも呼ばれていた。 聖武天皇の伊勢行幸に際し、天平12年(740年)に行宮が置かれたとされている。伊勢平氏と関係が深く、「古今著聞集 巻第二十 魚虫禽獣 第三十」には、平忠盛が別保へ来たとき、人魚を献上したと記されている。
 

清盛乗船の港

〒514-0803 三重県津市柳山津興371(津ヨットハーバー)
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
安濃津は、日本の古代から中世にかけて栄えた港。古代以来、日本の主要港である三津の一つ。中国の歴史書にも記されている。 清盛が安芸守であったとき、安濃津から舟を使って熊野へ参詣したときに、大きな鱸(すずき)が舟の中に踊りこんできた。 先達の修験者が「昔、周の武王の船に白魚は躍りこんだという。おそらく、これは熊野権現の御利益と思われます。召し上がりなさい」 と申したので、清盛は自ら調理して食べ、一門、侍たちにも食べさせた。以後、吉事のみが続いて、清盛自身は太政大臣にまでなり、 子孫の士官の道も、龍が雲に上るよりすみやかであった。

 

清盛参詣の地

〒515-3535 三重県津市美杉町三多気204(真福院)
Tel 059-274-0716
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
真福院は、白鳳時代(670頃)役行者がこの地へ蔵王権現を祀ったのが草創と伝えられている。 平安末期から室町末期(1180〜1570頃)までは蔵王権現の霊場として栄え、平清盛や北畠親房らも参篭した。 山門脇に清盛が成功を祈り杉を手植えしたとされ、その跡に「清盛杉跡」の説明板が建てられている。
 

維盛ゆかりの地

〒514-2207 三重県津市芸濃町河内1094(成覚寺)
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
成覚寺は、小松三位中将平維盛が開基したと伝わる。維盛は寿永3年(1184)屋島の戦いを抜け出し、 那智沖で入水したように見せかけ河内に隠れ住んだ。念持仏(釈迦三尊仏)を本尊として一宇を建立。 寺は真言宗から禅宗、真宗高田派に転派し成覚寺となった。寺号は維盛の法号(成覚院岩間浄圓)により 岩間山成覚寺となった。本堂には維盛の木造、本堂裏には維盛の墓がある。
 

六代の墓

〒515-3536 三重県津市美杉町太郎生(日神石仏群)
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
平維盛の嫡男六代君(ろくだいのきみ)は、日神に落ち延びてきたと伝わる。日神の仲善寺の西方墓地に、昭和44年(1969)に 三重県指定文化財にされた「日神石仏群」がある。石仏群は像高約70cmの阿弥陀如来像を中心に、鎌倉末期から 室町初期頃の阿弥陀、薬師、地蔵などの立像が並んでいる。この中に六代君の墓と伝えられる五輪塔2基もある。 高さ約100cmで鎌倉末期頃の優品である。
 

平家塚

〒515-2522 三重県津市一志町波瀬
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
平家没落後も、その一族が源氏の目をのがれ、各地に潜伏し、帰農した者も多かったと伝えられ、一志町波瀬にも 平維盛の嫡男六代君が住みついたという伝説がある。六代君が21歳のとき、山羽大監弘平家盛と改め、22歳の時、 上出城を築き、家盛が初代城主になったといわれている。「平家塚」といわれる場所には、第九代照盛、 第十代尚盛、第十一代盛房の墓が残されている。家盛の妻・辰御前の墓といわれるものも残されている。
 

辰御前の墓

〒515-2522 三重県津市一志町波瀬
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
家盛の妻・辰御前の墓と伝わる。
    

木造庄 平家根本領

〒514-1115 三重県津市木造町1059
Gマップ:グーグルマップでルートを確認する
久居の木造荘は、久我家の荘園として知られるが、久我家文書に、「木造庄 平家根本領」という注記のものがあり、 平正度から六ないし七代は平氏の所領だったと考えられている。田園の中に塚があり、塚の上には木造城跡の碑がたっている。
 平家ゆかりの地への地図は、
    左のボタンをクリックして下さい。

トップページへ