伊勢別街道地図 印刷用PDF   グーグルマップ 関ドライブイン
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関ドライブイン
名阪国道関インターに隣接し、三重県内の銘菓・名物や特産物が揃う。 レストランには松阪牛、伊勢うどん、てこねすし、とんかつ。売店には、あなご寿司、 養肝漬、伊勢海老豆腐、ちくわやてんぷら、赤福、志ら玉などが、またオリジナル賞品も豊富。 焼きたてパンの店や津ギョーザもある。年中無休8:00〜19:00


石山観音への案内板
右の方へ約1.5km行くと石山観音がある。大きな石山に磨崖仏が40体ほど刻まれている。 三重県指定文化財の3体(鎌倉時代の5mもある阿弥陀如来や室町時代の地蔵菩薩、 江戸時代の聖観音)と西国三十三所の霊場の観音像が彫られている。巡拝路があり、 1時間程でお参りが出来る。


伊勢別街道
東海道関宿東の追分から伊勢街道江戸橋の追分までの約18kmの街道。関宿から芸濃町・高野尾町 ・窪田を通り津まで南下するルートは室町以降で、それ以前は関から鈴鹿川、安濃川を渡り、安濃町 を南下していた。「参宮道」「参宮京街道」などさまざまな名称で呼ばれたが、明治10年以降は 伊勢別街道の名が定着した。街道途中の楠原・椋本・窪田に宿場が置かれ、江戸時代には、京都・ 近江方面から伊勢への参宮客で賑わった。常夜燈や古い家並みが比較的よく残っている。


庭代(にわだい)の庚申塚
多くの参宮道者の安全を祈るために庚申塚が建てられている。木造桟瓦葺き(さんがわらぶき) の小堂内に三面六臂忿怒形の青面金剛石像があり、台座には三猿が刻まれている。この塚には、 地蔵三体、浄蓮寺の僧覚順願主の馬頭観音、その他記念碑や石盥等がある。


童子谷城
南北朝初期、山田重勝が足利将軍の命を受け尾張山田郷より、この地に移転支配をした となっており、北畠国司に対する構えとして楠原に城を築き、この地に居住したという。 城の周囲は崖状地になっている。城跡は畑に開墾され遺構はない。北側の曲輪と考えられる ところには、覚順和尚の寿塔(五輪塔)と地蔵像が彫られた墓石が並んで建っている。 さらに西側山の頂上付近は覚順和尚入定の碑?がある。ここから南への山道は向市場城へ と続いている。


楠原の町並み
伊勢別街道の宿駅で、椋本宿の補助的な宿場であったが、楠原宿の方が古くからあったようだ。 江戸期には問屋場や高札場が置かれた。町並みはゆるい坂道の両側に40軒ほどの格子家が続く、 集落の中程には防火のため道が直角に2度曲げてある。 江戸期の建物は少ないが、新しい建物も景観に会わせ平入りの木造建築とし景観を守っている。


問屋場跡
問屋場は、宿場でもっとも重要な施設。馬の継立業務と書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務をする場所。 牛馬をつないだり、大八車を置くため道幅は少し広くなっている。高札も建てられていた。


焼き切りと火除け土手跡
この地方は、冬には北または北西方向からの、極めて乾燥した強い風が吹く。楠原宿や椋本宿は、この風の吹く 方向に町並みが続いている。上の地域で火事が発生すると下まで一気に火災が広がってしまう。対策として 宿場の中程で街道を直角に曲げたり(楠原・椋本)、火除土手を造ったり(楠原)、道幅を広げたり(椋本)した。 火除土手や道を曲げるなどは、火災による宿駅の機能が失われないように、いずれの側から火災が発生しても その地区だけ焼き切って、問屋か庄屋か、いずれかが焼失を免れ、宿駅の機能が失われないよう考えられたものである。 この場所を「焼き切り」と言っている。


旧旅籠「亀屋」
楠原宿に旅籠が何軒あったか記録がないが、天保8年(1837)の『浪速講道中記』に書かれており、また文政7年(1824)や 安政2年(1855)の参宮講札があり、楠原を代表する旅籠であった。また宝暦13年(1763)に『新撰伊勢道中記』には、 茶屋があり、西の入口近くに「かどや」と称する旅籠があったと記載されている。


流れ橋
中ノ川は、川幅も狭く蛇行しているため大雨が降るとよく氾濫する。集落から中ノ川の向こう側にある田圃に行く ための人道橋で、橋桁もなく2本の丸太の上に板が置いてある簡単な橋で、大水が出た場合あえて流れに 逆らわず橋の上部を流してしまう構造である。青(避難準備情報)・黄(避難勧告)・赤(避難指示)は、 津市中小河川避難勧告発令の判断基準の標示である。


流れた橋
大水によって流れた橋が向こう岸の下流に横たわっている。以前は、流れが収まってから新しいものに 架け替えていたが、今はワイヤーで繋がれており水が引いてから再度架けている。


森薬舗(仁寿堂)
延享5年(1748)の薬帳が現存。漢方による各種薬味の調合と、その薬効を記した秘伝書。 街道を往来する参宮道者を相手に商売をし、中長寿円(強壮剤)と梅花円(毒下し)は 好評であった。毎年夏季には、家伝の食当りに特効のある、ふり出し薬「枇杷葉散」を 煎じて、店頭にて参宮道者に無料で振舞っていた。


向井市場城
中ノ川新玉橋から上流側を見ると標高65mの丘陵端部にある。現在、城跡は竹や木々に囲まれているが、 中は茶畑になっている。三方を高さ約3m程の土塁に囲まれ、 南東側には出入するため土塁が切られている。城の北側は断崖で天然の要害となっている。 ここの城主は、童子谷城主山田氏の分家で、後には瀬古氏を称した。


ミエゾウ化石発見の地
中ノ川新玉橋から下流を見ると、川が削った20mから30m程の高い崖が続いている。 450万年〜200万年前頃は大きな東海湖があったとされ、この付近は湖岸で厚さ40m程の 粘土が堆積している。その頃、生息していたミエゾウの化石が1km程下流で発見されている。


忍田みち道標
街道から右に分かれた細い道が忍田集落への道であった。現在は県道10号が造られたため途切れている。 分岐個所に道標が頭を出している。ほとんど隠れているが「忍田…」と「大正七年」と読める。 この道標は亀山の田中はるさんが建立したものである。


林の町並み
伊勢別街道は十字路を右に曲がる。建久3年(1192)の鎌倉期に神宮厨地であり、仁安年中(1165)には林村があったと記録されている。 また『民経記』の寛喜3年(1231)の九条家の文書にもあり、荘園地でもあった。江戸期は宿場ではなかったが、 伊勢別街道沿いには、蔵を持つ民家も多く、旅籠もあった。


登録有形文化財「旧明村役場庁舎」
十字路の左側にある。大正5年(1916)に役場庁舎として建設された。階下を事務室、階上が議場として使用されていた。 木造総2階建、桟瓦葺(さんかわらぶき)、東西棟の寄棟造で附属棟が付く。洋風デザインで、明治期と 大正期の様相を融合させ、伊勢別街道の角地の立地を生かして角部に玄関ポーチを張り出して玄関部分を強調した 特色ある立面構成となっている。平成18年に国登録有形文化財。土・日曜日に一般公開している。


さくらの名所普門寺
寄り道して普門寺へ、旧明村役場庁舎から250m。普門寺は、大同元年(806)に、伝教大師・最澄の開基によるものと 伝えられている。総高306センチの大日如来ほか3メートルほどの五体の仏像が小さな本堂に林立している。 天正2年(1574)に織田信長の家臣・滝川一益に焼かれ消失し、享保5年(1720)観音寺を普門寺と改めて再建。 境内は桜の名所として知られ、幽霊の片袖の伝説がある。


ションベン地蔵
伊勢別街道に戻って、暫く行くと商店がある。街道と交差する暗渠となった小川にお地蔵さま3体がある。 以前は橋であったその袂に祀られていたが、現在は道路下に祀られている。居心地がいいとのことである。 グレーチングの隙間から拝んでください。


六角石幢の部位
新しい小さな祠の中に、お地蔵様1体と六角柱の六面にお地蔵が彫られた石が祀られている。 この石は灯籠の形をした六角石幢の一部である。


林の常夜燈
県道10号との交差点に建てられている。これは道標を兼ねた神宮の常夜燈である。 竿石には、南面に「御神燈 右さんぐう道」、東面に「左り亰道」、北面に「安永五丙申歳六月(1776)」 と彫られている。この標示で南進方面を参宮道、北進を亰道と呼んだことがわかる。この常夜燈は 明治末期より5回も移動しており、道の指示から旧明村役場庁舎の十字路に設置されていたものと考えられる。


安濃鉄道終点「林駅」跡
安濃鉄道は、津とその西部の農村を結ぶ軽便鉄道で、林の林宗右衛門・原重次郎ら郡内の有志が中心となり、 大正3年(1914)津市八町二丁目〜椋本間が開通し、翌年には、林までの約14kmを53分ほどで結んだ。 林駅跡は一時ガソリンスタンドになっていたが、平成25年にコンビニが開業した。


松並木
伊勢別街道にも松並木があった。家並みのない街道の両側に、夏の日除けと冬の風除けのために植えられていた。


中縄の集落
街道沿いに40軒ほどの家並みが続く、ここも林の町並と同様に、街道側に玄関がなく南側に玄関がある。 この集落は芸濃町の中で一番新しく、元和元年(1615)に谷口九郎右衛門が荒地の開墾を始め、椋本や雲林院の 百姓が入り開墾し、街道の両側に屋敷割をして中縄村が出来た。


横山池
横山池は幅約700m、奥行き300mの人口の池。文久二年(1862)駒越五良八翁が二万両の私財を 投じて着工し、慶応二年(1866)に竣工。安濃川上流から4kmほど水路を造り導水し、この辺り 二百町歩の灌漑が可能になった。堤防下の仁王経碑と並び横山池・駒越翁彰功碑がある。


駒越五良八彰功碑
写真左側の大きな碑が駒越五良八(こまごえごろはち)彰功碑。昭和10年(1935)1月、当時の村民は、 駒越五良八の偉業を称え、その遺徳を偲んで、翁の彰功碑を建てた。左の碑は上の仁王経碑。


上の仁王経碑
椋本宿西の入口にある。文化2年(1805)に建立された自然石の碑。疾病流行の治除が目的で、 仁王経上巻6583字、同下巻5608字を小石に1字ずつ書写し、これを2部、都合24382個の 小石に浄書し、これを1部づつ宿の上(かみ:西)と下(しも:東)の碑の下に埋めた。 上と下の仁王経碑の文字は同筆で、上の碑は深く彫られ、下の碑は浅く輪郭線のみ刻まれている。 これは、阿吽(あうん)を表している。


椋本宿
伊勢別街道の宿場町として栄えた町。街道は防火のため何度も折れ曲がり、 道幅は広くなっている。多くの参詣客で賑わった最盛期の椋本宿には、 約20軒の旅籠と茶屋があり、問屋場が置かれていた。 街道筋に、旅籠であった建物や旧家に、その遺構を見ることができる。


野呂氏館跡の蒸し風呂遺構
野呂氏は雲林院氏(戦国時代の有力な武将)の家老。椋本神社から北西方向に250mほどにかけての広い場所に 館があった。昭和58年の発掘調査(一部)で土塁と堀・石垣・搦め手に続く道と階段・建物礎石・井戸・厠・炉など 多くの遺構が検出された。とりわけ、蒸風呂の燃商部と考えられる炉遺構は県内でも初めての発見であった。 現在は埋め戻され、見ることはできない。


椋本神社
創建は中世(平安末〜室町時代)。元は椋本明神であったが、明治41年(1908)の神社合祀令により、 村内の13社を合祀し椋本神社となった。天穂日之命、天兒屋根命、建速須佐之男命ほか9柱が祀られている。 明治3年の台風で折れた御神木のムクノキの大枝で宮司が獅子頭を造り奉納。3年ごとの正月に村内安全・ 五穀豊穣・家内安全を祈願し舞われる。


焼き切り
椋本宿には、防火のため街道が直角に4個所曲げられており、西町・中町・横町・新町が クランク状になっており、西町で出火しても、角地の民家を壊し中町には延焼しないようにと 考えられたものである。


道 幅
椋本宿の街道は、広いところで10m程ある。関宿や楠原・林・中縄などの3.6m程の道幅より 広くなっている。これも防火のためで、出火しても向い側の民家に飛び火しないようにしたものである。


東日寺
真言宗。本尊は薬師如来座像。『椋本根元記』によれば、当寺の草創は古く中世にあり、 椋本の北瓦岡の薬師山に創建されたが、元和元年(1615)、お薬師さまが二又の竹が生えて いるところに移りたいと、今の地に薬師堂を建立した。東海四十九薬師霊場第六番札所、 三重四国八十八ヶ所霊場第六十番札所でもある。


巴屋製菓舗
伊勢別街道の椋本宿に、創業して約110年の老舗。地元の名所「椋の樹」を形どった あっさりした味わいの『椋の樹もなか』、羊羹や和菓子などがある。夏には「椋の樹もなか」 にアイスクリームを挟んだ『椋の樹アイス』も美味しい。TEL:059-265-2010


霊樹「椋の樹」
巴屋製菓舗から約250m。高さ18m、幹回り8mの椋の木、1200年前にはすでに9m程 の太さがあったと伝えられ、国の天然記念物に指定されている。9世紀、坂上田村麻呂の家来 「野添大膳」親子が樹の下に庵を造って住んだ。これがこの地に村が出来た最初と伝わり、 椋本の地名の元となった。明治3年の暴風雨で折れた大枝で椋本神社の神官が獅子頭を 造り奉納、以来、3年に一度の正月にはこの獅子頭が豊穣や町の安全を願い舞われる。 (丑・辰・未・戌の年)


椋本の道標・里程標
椋本の中心、三叉路の角に自然石の道標と木製の標柱がある。 道標には「左さんくう道」右側面に小さく「右榊原」とある。江戸時代後期のものと思われる。 木製標柱(道路里程標)は、「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」 「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されている。これは、明治時代に道路の起点・終点・分岐点など、 知事の定める位置に設置されたもので、明治43年(1910)7月に建てられた。現在の木製標柱は二代目で 初代の標柱は芸濃資料館に展示されている。


旧旅籠「角屋旅館」
江戸時代から平成25年末まで旅館を営んでいた。伊勢別街道講札博物館という「まちかど博物館」に なっている。江戸中期に建てられた2階建てで、伊勢講の講札を掲げた玄関は往時の雰囲気を残す。 間口5間の大きな旅篭で、庶民向けだった。見学は予約が必要。TEL:059-265-2001


栄昇軒
自家製のお米を使った赤飯や『赤飯饅頭』、いのしし最中の名前で地元では親しまれている『野添の猪』。 職人の手で一つ一つ作られる季節の和菓子もあります。椅子席が4つあり、お菓子を食べながら一休みできます。 地元産の材料を使い、美味しくて安全なお菓子、季節ごとのお菓子を、材料にもこだわりをもって作る和菓子屋さんです。 TEL:059-265-2141 FAX:059-265-4190


安濃鉄道椋本口駅跡
伊勢別街道を少し斜めに横断している道路が「安濃鉄道の線路跡」である。北方向はほぼ直線で、南方向はゆるく右に 曲がっている。北側にある三角の空き地に「椋本口駅」があった。「椋本口駅」は安濃鉄道開業(大正3年1914)から 遅れること20年後の昭和10年(1935)7月に開業した。また、この場所には踏切があり手動の遮断機があった。


延命地蔵
正徳5年(1715)建立のお堂に祀られている延命地蔵は、舟形の石像で、幅60cm・高さ110cmほどの大きさである。 この付近に住まいする人々は短命にして死する方が多かったため、延命地蔵を建立し、息災延命を祈願した。 現在も60軒の講の人々が支えている。2月7月8月12月の24日の命日は多くの人々がお参りされる。


下の仁王経碑
この場所が椋本宿の津(伊勢)側の入口。仁王経碑は文化2年(1805)に建立された自然石の碑。疾病流行の治除が目的で、 仁王経上巻6583字、同下巻5608字を小石に1字ずつ書写し、これを2部、都合24382個の小石に浄書し、これを1部づつ 宿の西(上)と東(下)の碑の下に埋めた。上と下の仁王経碑の文字は同筆で、上の碑は深く彫られ、下の碑は浅く輪郭線 のみ刻まれている。これは、阿吽(あうん)を表している。


喫茶みつばち
伊勢別街道と県道10号との三角地帯にある。先代が養蜂家であったため、蜂蜜を使ったメニューが多くある。 カウンター席、テーブル席、ソファー席がある。営業時間9:00〜18:00、定休日日曜日、営業時間・定休日は変更となる場合あります。


三重交通「新屋敷(津方面)」バス停
新屋敷バス停の、津方面のバス停は県道10号沿いにある。津行の出発時刻は、6:13、7:03、7:53、8:53、 10:13から20時までは1本。毎時13分発。津駅までの所要時分は約30分。


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