河内渓谷の紅葉 見ごろ⇒11月中旬から12月初旬

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  紅葉の名所河内渓谷  紅葉の写真
透明な水と光が織りなす美しい渓谷美。春は桜がほころび、初夏は新緑、秋は紅葉が辺りを染める河内渓谷。 この渓谷に架かる忍田橋は、昭和11年(1936)に架橋された延長約18メートル、幅4メートル。 コンクリート造りのアーチ橋。
  長徳寺
曹洞宗の寺院で雲林院家の菩提寺として創建。古位牌に嘉吉二年(1442)とあり、 これ以前の草創と思われる。剣豪「塚原卜伝」の寿牌や、婦人像等に室町末期を下らない 特色がある涅槃像一幅がある。門前が淵に住んでいた龍が鱗と桜の種を残していった との伝説があり、堂前にある桜が県指定天然記念物の龍王桜で、 鱗はそれを持って錫杖が岳に登り雨乞いをしていた。
  龍王桜
約1.5mの株周りから細い2本の幹が盃状に広がって枝を張り、樹高は3m、 枝張りは5.5mで、樹形は比較的短歪である。この桜は室町時代から知られている古い品種で、 フゲンゾウと呼ばれ、山桜やソメイヨシノより遅れて開花する。フゲンゾウの名は「普賢象」で、 普賢菩薩の乗った白象の鼻を花にたとえ、葉化した雌しべの先に残っている2本の花柱をキバに見立てて、 鼻より先に歯が出るというこの桜の特色を表したものと言われている。
  井水跡の遊歩道
井水は、雲林院井堰から椋本の横山池に水を送るために造られた。現在、安濃ダムが完成し 必要なくなったため雨水を流す幅を残し忍田神社までを遊歩道とした。雲林院井堰は、 延宝3年(1675)津藩郡奉行柳田猪之助によって造られ、寛政2年(1790)藤堂藩元奉行所筆頭で あった増地伊左衛門等によって、高さ8尺余の松材によって長さ14間の川幅一杯に井堰が造られた。 横山池は文久2年(1862)駒越五良八翁が二万両の私財を投じて慶応二年(1866)に完成、田畑を 潤した。
  砥ぎ石
長徳寺門前の林の中に、長さ3m、高さ1.5mの巨岩がある。室町時代終わりころ、 「大和手掻(やまとてがい)」からの刀工が雲林院の城下に住んでいたと伝えられる。 この巨岩のところどころに、浅くちょうど刃物を研いだようなくぼんだ痕跡がある。 雲林院の刀工が最後の仕上げ「真砥開け(まどあけ)」という最終工程に使用した痕と いう伝承がある。また三体の仏像も彫りつけられている。
  忍田神社
寛文4年(1664)3月に大明神号を授けられており、同年9月7日付の杉板に墨書した「忍田 大明神寄進者交名断簡」が現存し、神号授与を記念し社殿を造営か修復したときのものと思われる。 社殿は一間社流れ造り桧皮葺きで、正面木階の下に浜床がある。元治元年(1864)に尾張名護屋 枇杷島の棟梁浅草屋大工清助が施工、屋根は葺屋嘉兵衛により葺かれたことが記録にある。また、 宝永5年(1708)正月の銘がある石燈籠一基もある。
  溝淵寺
創建は中世に遡ると考えられている。溝淵大明神の社務を司る宮寺で 神号をそのまま寺号とし、神仏習合の跡を残している。明治25年2月 三世鉄道恵輪尼のとき、旧坂下宿大竹本陣客室の一部を移転して仮本堂を再興。 境内東南の一角に顎が少し欠けた地蔵像を刻んだ同尼の墓石があり、 その光背には「はのいたむ人はみなたのめ なをるあごなしの地蔵」と刻まれている。 尼は歯痛のまじないをしていたらしい。 門前の石造地蔵は田から掘り出されたと伝えられている。
  美濃夜神社
古い神社で保存されている棟札は平安時代末期のものを含め32枚あり県の文化財に指定されている。 律令制度が整えられた頃、条里制といわれる水田を区画化する整備が行なわれ、ちょうど雲林院と 忍田のあたりが安濃郡の条里の最終区画にあたり、その水源の神様として美濃夜神社が祀られたようです。 古くは溝淵大明神と称したが、文化年間(1804〜1818)、美濃夜神社溝淵大明神と神号を重複、 明治になり、式内美濃夜神社と単称されるようになった。


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