グーグルマップ 関ドライブイン
  関ドライブイン TEL:0595-96-1414 亀山市関町萩原39
名阪国道関インターチェンジに隣接し、三重県内の銘菓・名物や特産物が揃う。 レストランには松阪牛、伊勢うどん、てこね寿司、とんかつ。売店には、あなご寿司、 養肝漬、伊勢海老豆腐、ちくわやてんぷら、赤福、志ら玉などが、またオリジナル商品も豊富。 焼きたてパンの店や津ギョーザもある。
年中無休8:00〜20:00(冬場は19:00まで)
  「石山観音」への案内板
伊勢別街道(県道10号)から、石山観音を示す大きな案内板がある。ここから1.5kmほど。 石山観音は、高さ60mの石山に県指定文化財の「阿弥陀如来立像」「地蔵菩薩立像」 「聖観音立像」と西国三十三か所観音石像など40数体の摩崖仏が刻まれている。
  「石山観音道」石標
石山観音道と萩原・福徳への道の分岐点に「石山観音道」と刻まれた石標が建てられている。 石標には、阿弥陀如来・地蔵大菩薩・三拾三番観世音菩薩、拾二丁(1丁約109m:約1300m)。 右側面には、明治三十四年三月建立、左側面には、施主坂清内と刻まれている。
  刻観世音碑
石山観音道に入り100m、左側の今は民家の敷地内に「刻観世音碑」が建てられている。 この碑は、地元有志により、石山観音の参道等の整備清掃がおこなわれ、霊地の面目を一新し、 明治35年3月に盛大な供養会が催されたのを記念してこの碑が建てられた。 文は、天台宗真盛派本山(現:天台真盛宗本山西教寺)貫主大僧正「石橋覚湛」(覚湛は元楠原浄蓮寺住職)。 字は津の書家「市川進」の隷書で、「中島安兵衛」が刻んだ。
  楠原宿の町並み
伊勢別街道の宿場で、江戸時代は椋本宿の補助的な宿場であったが、椋本宿より古く、中世の文献にも 記されている宿場。江戸期には問屋場や高札場が置かれた。町並みはゆるい坂道の両側に連子格子の家が 40数軒ある。宿場の中程は街道を直角に2度曲げてある。 江戸期の建物は少ないが、新しい建物も旧家に会わせ平入りの木造建築とし景観を守っている。
  童子谷城
京から伊勢への伊勢別街道を見下ろす山に築かれていた。中ノ川が天然の堀。城址は畑やゴルフ場になっており、 全容は不明。築城年代は定かではないが、南北朝時代に北朝方の足利将軍の命を受けた山田重勝が南朝方の北畠氏 に対する構えとして尾張国山田村から楠原の地に入り築城したとされる。中ノ川の崖上の曲輪と思われる平地に 覚順和尚の寿塔が建てられている。
  覚順の寿塔
覚順は江戸時代後期の僧、楠原浄蓮寺の大阿闍梨覚順。嘉永6年(1853)自ら菩提を逆修し、五輪塔を建て寿塔とした。 明治2年(1872)寂、五輪塔の傍に弟子により地蔵立像の墓が建てられた。
  弘法大師の像
道端に弘法大師像と地蔵様が小さな祠に祀られている。この辺りは問屋垣内といわれる地名が残っている。 弘法大師像の頭部は欠損しているが、石山観音にある三体の大師像と大きさや形がよく似ている。
  明神社石標
楠原宿伊勢別街道から明神社参道との分岐に建てられている。途中の県道10号との交差する所に常夜燈が あり、式内志婆加支(しばがき)神社と彫られ、文化10年に建てられた。
  問屋場跡
街道の幅が、60cm程広くなったところが70mほどある。この場所に問屋場があり、高札場もあった。 現在、最後の高札3枚が残っている。問屋場は、荷物を運ぶ人足や馬の継立と飛脚業務をするところであった。 道幅が広い所は、荷物を運ぶ牛馬や大八車を停めるため。
  旧石山浄蓮寺
天台真盛宗のお寺。元は石山にあり浄蓮坊と称し石山の磨崖仏を管理していたが、 天正年中(1573〜91)に現在地に移った。唐招提寺の観音像を模写した 石山聖観音の下絵(県指定文化財)が保管されている。本尊は阿弥陀如来で踏割蓮華座に立つ 上品下生来迎印の立像。また境内には、おさよの供養塔がある。
  岩屋不動
浄蓮寺の南、中ノ川の向こう側の山に窟が彫られ、不動明王石像三体が祀られている。中心の一体は、 ある人の夢に現れ、東の山から掘り出された不動明王で、両脇の不動明王二体は覚順和尚が刻んだもの。
  屈曲路と火除けの土手
宿場の中程に、街道が直角に二か所曲げられている。これは火事が起きても宿場の半分が火事から 逃れることを目的としたもので、西側には高さ7m程の火除けの土手も造られていた。
  旧旅籠「亀屋」
角に大きな家がある。旅籠「亀屋」である。中二階の小窓の両側に漆喰飾りがあり、亀と矢が描かれている。 玄関の戸は、今は固定されているが摺り上げ戸である。玄関土間の壁には、参宮講札が掲げられている。
  流れ橋
街道が中ノ川に近づいたところに、中ノ川の向こう側にある田に行くための木橋がある。この橋は丸太2本の上に 板が固定されている。大水がでるとこの橋は流されるがワイヤーで結ばれていて、水が引いたあとに、今は重機を使って 戻される。橋手前右側のブロックの表示は、津市の中小河川避難勧告等発令の判断基準水位表示で、赤は「避難指示」である。
  旧森薬舗 仁寿堂
楠原宿の一番東の大きな家が、森薬舗「仁寿堂」である。創業は詳らかではないが、延享5年(1748)の薬帳が 残っている。「食当り」「強壮剤」「毒下し」などがあり、津や桑名に取次所があり、戦後まで広く販売していた。 煉瓦造りの大きな煙突は「かまど」のものである。
  楠原宿案内板
楠原宿の東端の旧県道10号の道路跡に、楠原宿の名所旧跡やお地蔵さまなどの案内板が建てられている。
  地蔵像と五輪塔
細い裏道脇の石垣の一部が繰り抜かれたところに、お地蔵さまと五輪塔の部位が祀られている。
  役の行者(えんのぎょうじゃ)石像
祠の中に「役行者」の石像が祀られている。飛鳥時代の呪術者で役小角(えんのおづぬ)。日本独自の山岳信仰である 修験道の開祖とされ、役行者として大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県などで多く信仰されている。
  蓮華寺
経王山と号し、天台真盛宗の寺院。本尊は阿弥陀如来来迎印の立像。寛文13年(1673)の銘文がある 径21cmの伏鉦があり、草創もこのころと思われる。境内には薬師堂もあり、薬師如来像及び日光・月光菩薩像、 十二神将像が祀られている。
  明神社
宗国史(藤堂出雲家6代の藤堂高文(1720〜1784)編修)に天満宮とあり、俗に楠天神とも呼んだ。 現社殿は神明造りで内削ぎの千木に六支の堅魚木をあげている。社殿後方に「さよが池」がある。
  さよが池
大雨のたび池の堤が切れるため、参宮途中で迷子になった「さよ」という少女を人柱としたが、 雨も降らないのに大水が出たり、火事が続いたり、病人が出たりと災いがおこったため 手厚く供養したと伝わる。
  庭代の庚申塚
参宮道者の安全を祈るために庚申塚がつくられている。小堂内に三面六臂忿怒形の青面金剛石像があり、 台座には三猿が刻まれている。この塚には、地蔵三体、浄蓮寺の僧覚順願主の馬頭観音、その他記念碑や 石盥等が林立している。


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