MapFan 津市芸濃総合文化センター
  芸濃総合文化センター
健康・文化・教育等の活動拠点としての核的な施設。多目的ホール・図書館・アリーナ・剣道場・研修室を配し、 市民の交流促進、文化の向上、健康づくりに、生涯教育の場として、また触れ合いの場として利用できる。
  椋本宿
伊勢別街道の宿場町として栄えた町。街道は防火のため何度も折れ曲がり、 道幅は広くなっている。多くの参詣客で賑わった最盛期の椋本宿には、 約20軒の旅籠や茶屋、問屋場が置かれていた。 街道筋に、今も現役の旅籠や旧家に、その遺構を見ることができる。
  横山池
横山池は文久二年(1862)、駒越五良八翁が二万両の私財を投じて着工し、 慶応二年(1866)に竣工。安濃川上流の雲林院井堰より導水し、この辺り 二百町歩の灌漑が可能になった。堤防下に「下の仁王経碑」と並び「駒越翁彰功碑」がある。  
  上の仁王経碑と駒越五良八彰功碑(右)
椋本宿西の入口にある。文化2年(1805)に建立された自然石の碑。 疾病流行の治除が目的で、仁王経上巻6583字、同下巻5608字を小石に1字ずつ書写し、 これを2部、都合24382個の小石に浄書し、これを1部ずつ分けて 村の西(上)と東(下)の碑の下に埋められている。 文字は上と下の仁王経碑は同筆で、上の碑は深く彫られ、 下の碑は浅く輪郭線のみ刻まれている。これは、阿吽(あうん)を表している。
  繁昌地蔵 
谷沼地蔵ともいう。地蔵像や五輪塔・五輪塔の部位が祀られている。祠に11体、祠右の外に大きめの石も地蔵と して祀られている。この地には「野呂氏館跡」伊勢記があり、この石造物はその伊勢記と関する遺物と考えられている。 近所の夫婦の夢にお地蔵様が現れ「掘り出して欲しい」と、掘ると4体のお地蔵さんが出てきた。この地蔵が「繁昌地蔵 大菩薩」だといわれ、八軒が講を作り世話をしている。
  野呂氏館跡の蒸し風呂遺構 
野呂氏は雲林院氏(戦国時代の有力な武将)の家老。椋本神社から北西方向に250mほどにかけての広い場所に 館があった。昭和58年の発掘調査(一部)で土塁と堀・石垣・搦め手に続く道と階段・建物礎石・井戸・厠・炉など 多くの遺構が検出された。とりわけ、蒸風呂の燃商部と考えられる炉遺構は県内でも初めての発見であった。 現在は埋め戻され、見ることはできない。
  椋本神社 
創建は中世(平安末〜室町時代)。元は椋本明神であったが、明治41年(1908)の神社合祀令により、 村内の13社を合祀し椋本神社となった。天穂日之命、天兒屋根命、建速須佐之男命ほか9柱が祀られている。 明治3年の台風で折れた御神木のムクノキの大枝で宮司が獅子頭を造り奉納。3年ごとの正月に村内安全・ 五穀豊穣・家内安全を祈願し舞われる。
  焼き切り 
椋本宿には、防火のため街道が直角に4個所曲げられており、西町・中町・横町・新町が クランク状になっており、一番上(かみ)の西町で出火しても、角地の民家を壊し次の 中町には延焼しないようにと考えられたものである。
  東日寺 
中世の創建と伝えられる真言宗のお寺で、室町時代の涅槃像があり、当時の雰囲気を醸しだしている。 本堂は寄棟造り、向拝は密教仏堂で中央方一間を内陣としている。山門は寛文八年(1668)の建立、令和3年改築された。 境内の地蔵堂は、文久以前(1861前)の古建築であるといわれている。 三重四国八十八ヶ所第六十番、東海四十九薬師第六番霊場。「二又の竹」「井戸に落ちた雷」の伝説がある。
  中町の道幅
椋本宿の中心で連子格子が入れられた大きな家が並ぶ。このあたりの道幅が、一番広く8mある。 これは、防火のためで、冬には西風や北風が強く吹く、道幅を広くし向い側の民家に飛び火しな いようにしたものである。
  巴屋製菓舗 TEL:059-265-2010
伊勢別街道の椋本宿に、創業して約100年をこえる老舗。
地元の名所「椋の樹」を形どったあっさりした味わいの 椋の樹もなか、羊羹や和菓子などがあります。
  椋本の大椋
高さ18m、幹回り8mのムクノキ。国指定天然記念物。 明治9年の暴風雨で折れた大枝で椋本神社の神官が獅子頭を作り奉納。 以来、3年に一度の正月にはこの獅子頭が豊穣や町の安全を願い舞う。
  駒越家墓地 
横山池を造った駒越五良八貞清家の墓地。祖先は清和源氏、 16代五良八貞邦が正保3年(1646)駿河国駒越村から椋本に写り帰農。 20代七五郎貞長の時に津藩無足人。21代五良八貞清は、 自作農を営みながら、醸造業・旅籠経営、茶園を開き紅茶を製造し海外に輸出するなど 多方面にその才能を発揮した。
  駒越家屋敷跡 
現在、新しい住宅地になっているが、駒越家の屋敷があった。広い敷地には、本屋・旅籠 ・雇人の家・横山池工事の際の飯場などがあった。明治2年の明治天皇の行幸の際には、新たに 御小休のための門・書院・風呂・便所などを造り、さらに明治13年にも明治天皇、明治20年には英照皇太后、 昭和9年に東久邇宮が宿泊された。明治7年には敷地の一角に郵便局も建てた。
  椋本の道標・里程標
椋本の中心、三叉路の角に自然石の道標と木製の標柱がある。 道標には「左さんくう道」右側面に小さく「右榊原」とある。江戸時代後期のものと思われる。 木製標柱(道路里程標)は、「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」 「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と記されている。これは、明治時代に道路の起点・終点・分岐点など、 知事の定める位置に設置されたもので、明治43年(1910)7月に建てられた。(現在の木製標柱は二代目)
  旧角屋旅館 TEL:059-265-2001 津市芸濃町椋本727
伊勢別街道講札博物館という「まちかど博物館」になっている。 江戸中期に建てられた2階建てで、伊勢講の講札を掲げた玄関は 往時の雰囲気を残す。間口5間の大きな旅篭で、庶民向けだった。 見学は予約してください。
  目無地蔵・権現さん 
旧駒越家の敷地の一角の、2つのお堂に祀られている。以前は芸濃中学校南のゴミ集積場にあったが、 新しい道路が造られた時にここに移された。右側のお堂には4体の地蔵、一番大きいのは美里の目無し地蔵、 左側のお堂には、4体の丸い自然石がお地蔵さんとして祀られている。歯の痛みにご利益がある。権現さんと いわれているが、その理由は分からない。
  芸濃郷土資料館
芸濃地域の歴史・文化を紹介している。1階のエントランスホールでは かんこ踊りの人形が皆様をお出迎えし、2階の展示室は遺跡、祭り、民間 信仰、仏像、街道などをテーマに多くの貴重な文化財や民具、農具が展示されている。 (写真:美濃夜神社棟札)

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