飛燕の体当たりをうけ墜落するB29
(アメリカ・スミソニアン博物館所蔵)
B29の破片
【コンテンツ】
1.事件の概要
2.どんな様子だったの?(目撃談)
3.平和の礎って?
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<事件の概要>
昭和20年6月26日、白山町上空で日本の「飛燕」が本土爆撃
に飛来したアメリカのB29に体当たりしました。飛燕の乗員は広
島県出身の中川裕少尉(当時24歳)。岐阜県各務原市の飛行場を空
襲するためグアムから飛来したB29に突っ込みました。
飛燕は、白山町大三地区に落下し、B29は白山町倭地区の四季
の里付近に墜落しました。中川少尉は空中で放出され、パラシュー
トによって久居市まで流されましたが、すでに亡くなっていました。
またB29は11名が搭乗しており、うち10名は墜落時に死亡
しました。助かった1名は榊原(久居市)の病院に収容されました
が、後に名古屋の東海軍司令部で処刑されました。
<どんな様子だったの?>
B29がその日も北西に向かって飛んでいた。空には銀翼がまぶしく輝き、一定の
高度を保ちながら、編隊は動じることもなく次から次へと来る。そこへ笠取山の上空付
近北方向から日本軍の単座戦闘機二機が飛来した。まるで全速力を出しているかの
如くすごい爆音を出して先頭を行く日本軍機がB29に対し真正面から差し違えるよう
に体当たりした。その時すごい衝撃音がした。高度は日本軍機もB29も同じぐらいだ
った。場所は白山町川口、大三、国道165号線上空ではなかったかと思う。日本機は
火を吐きながらキリモミしながら急速度で白山町二本木付近に落下した。もう一つの日
本軍機は伊勢湾方面へと飛び去った。体当たりした日本機は白山町二本木に落ちた。
突進する日本機に対し、B29から機関銃のものすごい射撃音がした。薬きょうがたく
さん落ちていた。B29は体当たりされたあと、まるでタコがすみを吐くように次から次へ
と黒煙を吐き、それからピカッと光のような炎を出した。機体の破片がもぎ取られキラキ
ラしながら落下した。
飛燕の中川裕少尉
B29搭乗員のパラシュートは2つ開いた。一つは惣谷の東の山林に降下、すでに死亡
していた。もうひとつは四季の里山中に降下した。住民は、鳶口、竹槍などを持ってアメ
リカ兵の降下地点にかけつけた。このアメリカ兵を警防団がはじめB29についていたワ
イヤーのようなものでしばった。しばって道を歩いて白山町倭村役場に連れていった。役
場で看護婦が手当てをした。頭は白い包帯がぐるぐる巻かれていた。それから、不通と
なった電車にたまたま乗っていた大阪の警察官が先頭になって榊原の陸軍病院まで歩い
て連れていった。この時大勢の人だかりができ、人々は「息子を返せ」、「鬼」と罵声を浴
びせた。この警察官が石を投げつけ、殴りかかる住民らを制止した。アメリカ人を見たの
はこの時が初めてだった。すらりと背が高かった。髪の毛は茶色のちぢれ毛のようだった。
長そでの服を着用し、ヘルメットはかぶっていなかった。大阪の警察官(白い制服にサー
ベル姿)は終始紳士的だった。
赤松の木にB29の搭乗員1名の死体がはさまれ、ぶらさがっていた。警防団が2名の
死体を胴体から出し、松林の地面に並べて置いた。また他に2体は頭の皮がはがれ、無惨
な姿だった。そばを流れる小さな川の水が、脳みそで真赤になっていた。凄惨を極めた。
後日久居の陸軍第三十三連隊から一個小隊ぐらいの兵が遺体を現場に埋葬した。遺体の
収容中、アメリカ軍戦闘機が上空を旋回していたが、機銃掃射はなかった。死亡した搭乗
員の中には夜光の腕時計をしていた者もいた。それを鎌でつつく住民もいた。
B29のタンク、ジュラルミンの破片が佐田・上ノ村に落下した。B29の主要部分は
近鉄東青山駅真裏の「四季の里」、三ヶ所に落下した。B29の破片の落下により近鉄の
大阪本線の架線が三ヶ所切断され不通になった。私は線路づたいにB29の墜落現場を見
に行った。現場には多くの人々が見に来ていた。主翼のエンジン部分は水田に落ち、まだ
火煙を出していた胴体、尾部は四季の里、もう一つのエンジンは四季の里の谷川付近に落
ちていた。不発爆弾が二個線路上にころがっていた。
後日、友人と墜落現場にこわごわ何度も行った。日本兵たちがB29の機銃を分解して
大八車に乗せて運んでいった。私は胴体に入り、釣りざおや積み込まれていた機上食(キ
ャンディーのようなもの)を食べた。おいしかった。ぐにゃぐにゃ曲がるパイプやモータ
ーを四〜五個をはずして持ち帰った。
終戦後、「B29の部品を持っている者は殺される」といううわさが流れ、それで全部
川へ捨てた。またガソリンタンクに巻かれていた厚いゴムでぞうりを作ったが、ゴムがと
ても固く、キリで穴をあけた。帯になった機銃弾も持ち帰った。
九月頃、十数名の米兵がジープに乗って墜落現場に来て、米兵の遺体を持ち帰った。駅
でないところに電車を止めさせ、下車したりしていた。降下した米兵を殴った者やB29
の部品を持ち去った者は殺されるという、うわさが流れていた。
8月15日の終戦日がすぎてもB29の機体はそのまま放置されていた。爆弾も長い間
そのままころがっていた。10月頃、グラマン戦闘機2機が上空を低空で旋回していた。
(郷土資料館展示パネルより)
<平和の礎って?>
白山町大三地区の白山台には、「平和の礎」と呼ばれる碑があります。
中川少尉が体当たりをしたその日、白山町大三地区の人たちは散乱した血染めの「碑燕」
の破片を拾い集め、隣保館(現在の大三公民館)に安置し、有志が通夜をされました。
その後、現場に墓標を建て献花・清掃を続けてきました。二十三回忌を迎えた昭和43年
6月に延寿寺(白山町二本木)住職の富山賢海氏がNHKに中川少尉の遺族を捜してくれ
るように依頼したところ、広島県大竹市玖波町に御母堂の中川りつ子氏がご健在であるこ
とがわかり、富山氏は中川氏に「二十三回忌を営む」旨を電話にて連絡されました。
こうして二十三回忌は中川氏ら遺族参列のもとにおこなわれ、翌年には白山台団地造成
のため、白山台南端の神社西側に「平和の礎」が建立されました。
この事件を記録し、永遠の平和を祈念する祈念碑になっています。
平和の礎(白山台)