home


中条省平のCOMICS'TRIP++++++++++++++++中条省平
カフカ的夢世界を描く巧さ。日本マンガの一極限の存在・西岡兄妹

 日本マンガの水準の高さは世界にも広く知られるようになっ ているが、西岡兄妹の作品ほど独創的なスタイルは、日本のマ ンガ界にもそうそうは見つからない。兄が原作、妹が作画とい う制作方法の特異さもふくめて、彼らの作品は日本マンガの極 限を示す一例だといってよいだろう。  前作『地獄』が1992年から97年に発表された作品を主 に集めていたのにたいし、新作『心の悲しみ』の収録作は98 年以降に描かれている。  二冊をぱらぱら見比べただけで、作風の変化が分かる。 『地獄』から『心の悲しみ』へと移るにつれて、絵の黒みが減 って、ページの全体的な印象が白っぽくなり、筆致がほそく繊 細になっている。それにより、イメージがくっきりとした透明 感をまし、抽象度が高くなった。要するに、絵としての完成度 が一段、上がっているのだ。  鼻や首や腕が異常に細長く、黒目がちな若者が、いきなりカ フカ的な理不尽の世界に引きこまれ、不安なのか、やけっぱち なのかよく分らない彷徨をおこなうという物語の基本的なパタ ーンは変わっていない。 「カフカ的な理不尽」とは要するに「夢(悪夢)の世界」とい うことである。じっさい、随所に島尾敏雄の夢小説との共通性 も感じられる。これほど巧みに夢(悪夢)の非現実的なリアリ ティを描く作家としては、カフカとか島尾敏雄とか内田百けん (原文は門構えに月)といった小説家の名前をもちだすほかな いほど、それは濃密な夢のリアリティを放っている。 『心の悲しみ』に見られるもう一つの変化は、物語に絶妙なユ ーモアが加わったことだ。  この作品集のマンガの大半は、心が壊れて動かなくなったの で頭にハンドルを埋め込んでくるくる回るようにした(つげ義 春の「ねじ式」を連想させるが、つげが前近代なら、西岡は超 近代だ)といった類の恐ろしい話である。しかし、例えば、釣 り場を探す男の一日を描いた「釣り師の悩み」などは、「そし てぼくに魚が釣れることはなかった」という絶望的な結末にも かかわらず、全篇にキートンの喜劇にも似たナンセンスな味わ いが滲みでて、くすくす笑ってしまう。これは西岡兄妹の新境 地をしるす傑作であろう。  こうしたナンセンスな笑いと高度に抽象的なグラフィクスの 見事な融合は、澁澤龍彦が生きていれば絶讃したにちがいない ものだと思う。

「週刊文春」2002年3月14日号より転載
home

comic review うしろからコミック15++++++++++++++++阿部幸弘(漫画評論家)
「一見、優しく温かな寓話はやがて読み手を弄び、化かす」

 西岡兄妹のマンガを読むときは、少しだけ用心をした方がい い。もちろん、たかがマンガ、読んだからと言って実害がある はずはない。だが、あまりに安心しきっていると、意外なとこ ろで思わず足下をすくわれる。そして気がついたらあなたは、 座りの悪い、奇妙に底なしの不安の中に投げ込まれているかも しれない。  ただ、彼らのマンガはホラー作品ではないし、目を覆いたく なるような衝撃的な描写があるわけでもない。むしろその絵柄 は、フォーク・アートのように優しく、温かい手触りを感じさ せる。この、まるで丁寧に編み込まれた刺繍にも似た、規則的 な紋様を思わせる絵柄に、つい人は心を許してしまうのだ。そ して、寓話や説話を読む時のように、どこかに“教訓”と言わ れる(あるいは“物語の意味”と呼ばれる)着地点を、知らず 知らずのうちに求めてしまう。ところが、物語は気づかれぬよ うそっと、本筋からずれはじめる。いや待て、本筋って何?と つぶやいているその合間にも、物語は更に漂流しはじめ、やが て迷いと混乱と自問自答の眩暈が生じた瞬間に、手がかりもな く・・・・ふっと途切れてしまうのだ。この時の、あたかも虚 空に投げ出されたようなえも言われぬ不安が、西岡マンガを読 む時の、強いて言えば感動だ。  淡々としたリズムで刻まれるコマ割。シンプルで難解ではな いナレーション。そして、様式的な絵柄。ところがそれらの組 み合わせで語られる物語は、一体どのようなマジックを使った のか、我々の日常的な“意味” の足下をがらがらと崩してしまう。主人公には、行動する目的 や動機があるように見えて、その実本当は何の意図も持ち合わ せていない。そう、良く見れば西岡兄妹の作品は、人も街もハ リボテほどの重量感もなく、まるで立ち並ぶ記号のようだ。立 体感や距離感は失われており、未来や過去への時間の感覚もあ やふやだ。そして特に強調したいのは、時に、コマとコマとの 間の時間経過が、一瞬のようにも永遠のようにも読み取れる場 面があることだ。我々はその時、この凍り付いた時間の中に、 登場人物と一緒に縛りつけられてしまう。  もし、表題作である「地獄」がその瞬間のことならば、我々 の生きる時間の中、根源的に地獄はある。

マガジンハウス「鳩よ」2001年1月号(No.201)p119より転載
home

漫画羅針盤++++++++++++++++中条省平
 とりあえず大まかな印象を伝えるために、西岡兄妹の『地獄 』は、夢のような情景と物語を描く短編マンガ集だといってお こう。作者は本当の兄と妹のコンビで、兄が文と構成を、妹が 絵を担当しているという。  独創的なグラフィズムである。マンガの1コマ1コマがその まま版画になるような、極めて高い完成度に達している。スウ ェ−デンにスワンベリという画家がいるが、あの極彩色のプリ ミティブな図像を白黒に単純化し、描線を流動化すると、案外 、西岡兄妹の絵柄に近づくかもしれない。一見して可愛いと評 する人もいるだろうが、謎と殺意を孕んで、離人症的な空虚と 暗黒を感じさせる。  登場人物は、うつろな目、紐のような髪の毛、細く長い鼻で 、首や四肢も折れそうに細い。いつも小首をかしげて、当惑し ているように見える。実際、自分の今いる場所が分からなくな って当惑しているのだろう。「地獄」というタイトルは、自分 が今いるこの分からない場所のことを意味しているといえよう 。  彼らは目のない天使に跡をつけられたり、虎のように屋根の 上を走って獲物を漁ったり、臭い自分の心臓を引っぱり出して みたり、顔のない女の顔の穴に呑みこまれたり、朝起きて家族 の待つ食卓に行き、自分の席に見知らぬ男が座っているのを見 て家出したりする。  彼らの世界では、取り返しのつかないことがすでに起こった あとで、そのカタストロフ余波のなか、時間の流れは凍りつき 、彼らはその世界をあてもなくさまよい歩くほかはない。  これらは何かの寓話なのだろうか?強いていうなら、われわ れの存在条件に関する寓話であろう。だが、この寓話には定ま った寓意がない。ちょうどカフカの夢のような寓話に意味がな く、ムンクの恐ろしい絵に教訓がないように。  真夜中の一本道のように無気味で、遠い幼児の日々のように 懐かしく、未開人の儀式のように残酷なお話の数々。日本のマ ンガのひとつの極限を印す作品集である。

「週刊文春」2000年12月14日号より転載
home

こだわりのコミック++++++++++++++++村上知彦
西岡兄妹のまんがを初めて読んだのは、ちょうど十年ほど前 のことだ。「ぼくが殺したもの」と題した連作として『モーニ ング』に掲載されたそれは、当時リアルタイムで進行中だった 埼玉の幼女連続殺人をイメージして描かれたもののようで、日 本中が「おたく狩り」に狂奔しているさなかに、自分の内側の 狂気を見つめる静かな視線が、強い印象を残したのだった。  それから十年。「ガロ」や「アックス」といった目立たない 場所に、ぽつりぽつりと発表された彼らの作品が、一冊にまと まった。自費出版や小部数の絵本を除けば、これが初の単行本 のはずだ。  いま「彼ら」と書いたが、そのペンネームのとおり西岡兄妹 の作品は、兄・智のストーリーと妹・千晶の絵による合作であ る。兄弟で合作するまんが家は他にもいるが兄と妹というコン ビネーションは、それらともまた別種の緊張感をはらんで見え る。妹の描く夢のような風景と、兄の紡ぎだす詩のような独白 で進行する彼らの作風は、つげ義春や岡田史子から連なるアヴ ァンギャルドまんがの末裔であるといえる。  西岡兄妹のまんがの登場人物は、世界と自分自身への屈託を 自らの内に抱え込んでいる。例えば表題作である「地獄」は、 主人公の「地獄に落ちていた」というつぶやきで始まる。テレ ビをつけても、表へ出ても、ごく平凡な日常が淡々と続いてい るだけなのだが、そのことへの違和感を自身の中に発見したと き、主人公は確かに地獄へ落ちたのだ。自分の中の、汚いもの や醜いものを取り出して、それを否定も肯定もせずじっと観察 する。西岡兄妹のまんがには、ありのままの自分を見つめよう とする強い意志がある。  大正から昭和初期の、モダンな童画を思わせる絵がいい。村 山知義とか初山滋とか武井武雄とか、そのへんの感じ。それは アヴァンギャルドがアヴァンギャルドでありえた時代を遠く思 い起こさせることで、作者たちの時代の孤独を伝えている。

「週刊宝石」2000年12月7日号より転載
home

西岡兄妹を信用できるか++++++++++++++++足立守正
 膝を抱えた孤独マンが、一歩も部屋から出ないまま、跳んだ り跳ねたりの大妄想。そればかりを、あきれる程そればかりを 、西岡兄妹は描き続けている。そんなに自分が嫌いで、そんな に人が嫌いで、そんなに女が 嫌いで、そんなに俺が嫌いか。読者の皆さん、どうですか、西 岡兄妹のマンガに、タチの悪いものを感じやしませんか、およ び腰ではないですか、ヒいていませんか、ビビっていませんか 、いや、それ以前に読みとばしていませんか。その質問に「は い」と答えた人のみ、ここに残って、あとは解散、ごくろうさ までした。車に気をつけて、ぶつかると死にますからね。さて と、西岡兄妹の魅力がストレートに理解できる人たちと、物わ かりの良い人達がいなくなったところで、西岡兄妹のマンガを 敬遠する気持ちについて続けます。時折難解な 表現に触れる時、「感性で読む」なんて大層な言い方で、分っ たような気がする自分に満足するものだけれど、大概の難解マ ンガは本当に底が深いか、もしくは単に底が抜けてるだけかの どちらかで、それを(内容の理解とは別に)見分けられるか否 かがマンガ読者の沽券に関わるところ。しかし、西岡兄妹作品 のタチの悪さは、もし頓珍漢な解答を提出しようものなら、あん なこと言っているよと顔を見合わせてケラケラ笑う意地悪兄妹 のシルエットさえ連想させる、うっすら底の見える程度の挑戦 的な難解さ。文学系の少女マンガ的な雰囲気を持つ、初期から の作品を読む機会のあった僕はその辺が苦手で、いけすかねえ マンガだなあと思っていたものの、いつの間にか、めきめき洗 練されてゆく画面構成とテクニックにより、描こうとしている 苦くて生臭い物語りを受け止めるに相応しいシャープささえ備 えはじめる頃には、つい気を置かせる作家になっていました。 ところで『私たちの群れ』という作品があります。当時、傾倒 していた陶芸の影響が見られる作品ですが、そんなことよりこ こでの西岡兄妹のユーモアのセンスに注目。見極めきれない自 分自身を「いかりや長介以外全員志村けんのドリフ」ともいう べきとりとめのない団体として愛嬌いっぱいに描いた作品。他 にも、 『ぼく虫』や『神』など、こうした愛嬌をみせる作品は多いの に、愛嬌と受け取ることへの不安を読者に与える土台が、西岡 兄妹の作品にはあり過ぎ。読者の為にシロップを用意するよう な作家でないことは重々承知。でも、そんな西岡がマンガと平 行して創作しているポストカードを、「かわいいから」という 理由で求めるフアンが増えているのも、また事実なのに。自費 出版の戯曲本『マリーの一生』の挿画以降、明らかに絵柄がポ ップな方向に向かいつつあるのを、僕は密かに喜ばしく思って いる。昭和初期の、例えば武井武雄や山名文夫などの、モダー ンでブラックな味の挿画を彷彿とさせる、なんて褒めたいとこ ろですが、懐古趣味の嫌いな 彼等は苦笑するだけでしょう。 そうは言っても、西岡兄妹はロンリーハートな若者のもやもや を更にもやもやさせながら、ヒネた大人と騙し合いを続ける小 憎らしい小鬼の姿がお似合い。たとえば最近の『心の悲しみ』 は、静謐なムード、教訓のような含みのある話しです。が。も しかしたら「禅」的なもののフェイクなんじゃないか?今まで 散々、神聖なものへの不信を描いてきたじゃないの。油断禁物 なのは、連中が後ろの手に隠しているものがいったい何なのか なんですよ。ほら、おまえら、今後ろに何隠した! 「やだな、ムダな深読みしちゃって。もしかして、友達少ない んじゃないの?」 きーっ!そんな感じで、僕は西岡兄妹のマンガに接している。 先日、単行本の予定があると聞き、タイトルはどうするのかと 尋ねたところ、西岡兄妹が嬉しそうな顔で言うのは「うん『地 獄』がいいんだけど」 だって。読者の皆さん、どうですか。タイトルが?いや、西岡兄妹が。

アックスvol15(青林工藝舎)より転載


home