三重海軍航空隊(海軍飛行予科練習生教育隊) 津市香良洲歴史資料館(旧 若桜会館)のページへ

三重海軍航空隊は、昭和17年8月に海軍飛行予科練習生教育隊(予科練)として開隊され、霞ヶ浦の後発ではあるが東の霞ヶ浦・西の三重と呼ばれた。当初は「香良洲航空隊」の名称で建設が進められたが、「カラス」を連想させるとのことで、開隊のときには「三重海軍航空隊」と改称されたとのこと?。
また、18年以降、三重航空隊は、奈良等に順次分遣隊の設置や、予科練習生の特攻基地計画地への派遣等も行われた。
三角州である香良洲町の約3分の1に当たる1.3平方キロメートルを占有した施設(下記地図)であり、最盛期には約1万5千人の若者が在隊し、終戦までに隊門をくぐった航空兵は6万5千人ほどにのぼる。
多くの航空兵が養成されたが、ある者は戦闘機や爆撃機搭乗時に撃墜され、ある者は回天、震洋搭乗などを含めた特攻などで約5千人が戦死した。

伊勢湾に面した広大な敷地内の北側に兵舎・庁舎のほか体育場・図書庫・病舎など多くの建物が建てられ、南側には練兵場(のちの飛行場)や射撃練習場が配置されていた(下記ジオラマ)。
    伊勢湾
航空隊を現在の香良洲地図緑の枠で書いて
みました

香良洲歴史資料館展示
の航空隊のジオラマ
下記3枚は
香良洲ガイド〜矢野路〜」資料より
昭和30年代の写真か?

煙突は象徴的な遺跡として
1990年代まで残っていたが
危ないとのことで取り壊されている

総会時の「香良洲ガイド〜矢野路〜」 展示資料

三重海軍航空隊の兵舎
終戦後一時 小中学校等の
校舎としても利用された
三重海軍航空隊の関連施設は、終戦後しばらく学校校舎「三重師範学校、香良洲小学校、香海中学校(昭和22年〜37年)」や住宅として利用されていたが、現在はすべて取り壊され、遺構としては香良洲歴史資料館に正門や遺品、海底から引き揚げた部品などが展示されている。
敷地は工業団地・公園および住宅地となっている。

三重海軍航空隊跡(港の近く・・・上の地図の北部分)

三重海軍航空隊の建物の基礎跡

何の建物だったのでしょうか

香良洲海岸の堤防上から(整地前)
平成21年3月撮影
雑草や木が茂っていまたが、その中に基礎の跡部分が見えていたので写真を撮りました。
26年8月すべて取り壊され、整地されました。
個人的には以前のままの景色の方が好きだったのですが!

以下の写真は三重海軍航空隊の関係者の方々により昭和55年に「若桜会館」として開館し
その後寄贈され、市香良洲歴史資料館となっている資料館の外部

右 白菊(海軍機上練習機)の主翼の一部?
中 飛行機エンジン付プロペラ
左奥
 水上特攻ボート「震洋」のエンジンとスクリュー

錨(イカリ)
上の門柱は当時のものを移設


上 若櫻の碑霊苑 全景  各期ごとに戦没者の名が刻まれた碑が立っています
左 「三重海軍航空隊隊歌」
 雲出の川瀬月染みて 太平洋の波よする 神風伊勢の香良洲浜世紀の空を翔けるべく
 雄叫びあぐる高らかに 吾等は空の少年兵