三重海軍航空隊(海軍飛行予科練習生教育隊) 津市香良洲歴史資料館(旧 若桜会館)のページへ
三重海軍航空隊は、昭和17年8月に海軍飛行予科練習生教育隊(予科練)として開隊され、霞ヶ浦の後発ではあるが東の霞ヶ浦・西の三重と呼ばれた。当初は「香良洲航空隊」の名称で建設が進められたが、「カラス」を連想させるとのことで、開隊のときには「三重海軍航空隊」と改称されたとのこと?。昭和14年4月より用地買収・建設が開始された。また、18年以降、三重航空隊は、奈良等に順次分遣隊の設置や、予科練習生の特攻基地計画地への派遣等も行われた。
三角州である香良洲町の約3分の1に当たる1.3平方キロメートルを占有した施設(下記地図)であり、最盛期には約1万5千人の若者が在隊し、3年間に3万8千人が入隊した。各分遣隊を含め三重航空隊の門をくぐった隊員は6万5千人ほどになる。その日課は、夏5時、冬6時起床で始まり、精神教育、体育、航海・航空術、通信術、機関術、砲術、さらに国語・漢文、歴史・地理などの訓練や教育が行われた。期間は甲・乙・丙種それぞれ異なり、2年6ケ月〜6ケ月と様々であった。
多くの航空兵が養成されたが、ある者は戦闘機や爆撃機搭乗時に撃墜され、ある者は回天、震洋搭乗などを含めた特攻などで約5千人が戦死した。
伊勢湾に面した広大な敷地内の北側に兵舎・庁舎のほか体育場・図書庫・病舎など多くの建物が建てられ、南側には練兵場(飛行場予定)や射撃練習場が配置されていた(下記ジオラマ)。
←北 南→ ![]() 香良洲歴史資料館展示 の航空隊のジオラマ |
香良洲歴史資料館 および 「香良洲ガイド〜矢野路〜」資料より ![]() 汽缶(きかん)場(ボイラー棟)と 煙突は象徴的な遺跡として 平成11年まで残っていたが危ないとの ことで取り壊されている |
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![]() 総会時の「香良洲ガイド〜矢野路〜」 展示資料 |
![]() 三重海軍航空隊の講堂 終戦後一時 小中学校等の校舎としても 利用され、昭和37年の移転後順次解体 |
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敷地は工業団地・公園および住宅地となっている。
三重海軍航空隊跡(港の近く・・・上の地図の北部分)
![]() 三重海軍航空隊の建物の基礎跡 |
![]() 何の建物だったのでしょうか |
![]() 香良洲海岸の堤防上から(整地前) |
平成21年3月撮影 雑草や木が茂っていまたが、その中に基 礎の跡部分が見えていたので写真を撮り ました。 26年8月すべて取り壊され、整地されまし た。 個人的には以前のままの景色の方が好き だったのですが! |
→東 伊勢湾







